悪魔の尻尾
俺は土の中で生まれた。
祝福もない。
光もない。
とにかく呼吸を欲し、もがきまくって地上へ這い出した。
世界は俺を歓迎しなかった。
手を伸ばしても、なにもつかめなかった。
神は恩寵を示さなかった。
小さな命が尽きようとするのを、救おうともしなかった。
黒々とした森の隙間から、青空と太陽が見えた。鮮烈だった。宝石のようだった。忌まわしくもあった。これらは誰か幸福なヤツを祝福するための装置であって、俺のためのものじゃないと直感した。
神は現れなかったが、たまたま悪魔が通りがかった。
俺はその尻尾に食らいついた。
生きるために……。
「夜が明けて、世界に朝が訪れるたび、私たちが歌うのは、世界を呪う歌」
俺を拾った女は、死んだような目で、しかして笑いながら、そう教えてくれた。
「はい、母さん」
俺は――俺たちは、この世界を呪う側の存在。
日の当たらない場所に棲み、幸福な人間を喰らうもの。
*
世間では、悪魔はウソつきだと思われているらしいが、それは違う。
悪魔は契約を重んじる。
ウソをつくのは、むしろ自分の利益のために悪魔を使う人間のほうだ。人間がウソをつく。そうしてすべてを悪魔のせいにしておいて、自分は悪くないフリをする。
「はい、母さん。俺は契約を守らない人間を、殺します」
母はずっと美しかった。
歳をとらない。
ただの人間である俺とはあきらかに違う存在。
ずっと薄暗い小屋の中で暮らしていた。
母は俺の世話をしてくれた。料理も作ってくれた。だが、それがまともな料理でないことは、子供の時点で気づいていた。魔法で動物を裏返し、血の海に沈めて食うのだ。味がキツい。苦いハーブと一緒に食わないと腹を壊す。
母は呪いの歌を歌う。
すると動物たちや、小鳥たちが集まってくる。
その命を喰らう。
*
「マルコ、立派に育ちましたね。これからは人里に出て、命を奪ってお金を稼ぎなさい」
「はい、母さん」
成長した俺に与えられたのは、柄の長い石斧だった。
斧というか……ほぼ鈍器だが。母がその手で作ってくれたものだ。心の底から嬉しかった。これで他者の命を奪う。動物ならすでに山ほど殺してきた。人の命を奪うのも似たような作業だろう。
「ただし人里には人里のルールがあります。ルールは守りなさい」
「はい、母さん。ルールを守って殺します」
「そうです。しかし人里のルールでは、殺人は許されません。これがなにを意味するか分かりますか?」
「はい、母さん……。えっ?」
殺人は許されない?
なのに人の命を奪えというのか?
母は目を細め、じっとこちらを見た。無表情で。これは俺にあきれているときの顔だ。
「考えなさい」
「分かりません」
「ちゃんと考えなさい」
「でも……」
人里のルールでは、人の命を奪うことは許されない。
ところが母は、そのルールを守りつつ、俺に人の命を奪えと言う。
母はまだ目を細めている。
「マルコ……。そういえば、あなたには一般常識を教えてきませんでしたね」
「一般常識?」
「人里が禁じているのは、あくまでそこに住む人間を殺す行為です。とにかく、ギルドへ向かいなさい。殺人の仕事を斡旋してくれます」
「そういう仕事があるのですか?」
「あるのです。ただし、あなたは初心者なのですから、一人で仕事を請け負ってはいけません。多人数での仕事に参加するのです。そしてあまり前へは出ず、みんながどう動くのかよく見るのですよ?」
条件が多い。
聞いているハシから、なにをすべきか忘れてしまいそうだ。
「ややこしいですね。母さんも一緒に来てくれませんか?」
「……」
目が、かなり細くなった。
本気で不快に思っているときの顔だ。
「いえ、一人で参ります。ギルドで仕事を受けて、みんなの後ろで見守ります」
「少しは戦うフリもしなさい。サボっていることがバレたら、お金がもらえませんから。慣れてきたら前に出て戦うのですよ」
「はい、母さん」
*
人里に出たいとは前々から思っていた。
母は自分で酒を作っていて、それで酔っ払うと、よく街の話をしてくれた。たいていはロクでもない内容だったが……。とにかく人間がたくさんいるらしい。そして酒場に行くと楽しいらしい。しかし魔族であることがバレると、火あぶりにされるらしい。
俺は魔族ではないから大丈夫らしいが。街で母の話をしてはいけないとキツく言われた。魔族は人から忌み嫌われるのだとか。
街には食べ物もいっぱいある。演劇もある。本もある。とにかく楽しい場所であるらしい。祝福を独占している人間たちの世界なのだろう。奪っていいならすべてを奪ってやりたいところだが。ルールがそれを禁じているのなら、俺も従うべきなのだろう。
*
森から出ようと歩いていると、獣の気配を感じた。
オオカミだろうか?
いや、野良犬か……。
うまいこと草むらに身を隠しているつもりかもしれないが、ガサガサ走り回るせいで台無しだ。よほど腹が減っているのか、動きも雑。
「ワンワン!」
俺は威嚇のために吠えてみた。
正直、鬱陶しかった。
これで逃げるだろうと思ったのだ。
実際、野良犬はガサガサ音を立てて遠くへいった。
木々にとまっていた鳥たちも、一斉に飛び立った。
しんと静まり返ると、一人で大声を出したのが急に恥ずかしくなってきた。
「……」
次からは別の手にしよう。
この森は鬱蒼としている。
草ぼうぼうで、まともな道がない。
俺は小さな沢を頼りに、ゆるやかにくだってゆく。そうすればいずれ街道にたどり着くらしい。
母さんは、なぜ一緒に来てくれなかったのだろう。
いくらか金を稼ぐまでは、帰ってきてはダメだという。家に入れてくれないらしい。
体が育ったら外でお金を稼ぐ。
幼いころから言われていたから、なんの疑問も抱かなかったが……。なぜそうしなければならないのかまでは分からなかった。
母はお金が欲しいのだろうか?
欲しいと言うのなら、俺はいくらでも手に入れるつもりでいるが。
俺は石斧の柄を握り、思い切り振り回した。背後から野良犬が襲い掛かってくるところだった。
「ぎゃんっ」
石ではなく柄の部分が当たった。その拍子に、石斧がバキリと音を立ててまっぷたつに折れてしまった。
「あっ」
痩せたイヌは地べたを転がり、なんとか起き上がろうと足を動かした。だが、慌てているのか、それとも負傷したのか、足は草を蹴るだけでちっとも起き上がれそうになかった。
俺は折れた棒を握りながら、しばし黙考。
本当に、俺はダメな人間だ。
世界から嫌われている。
母の作ってくれた石斧を、誰かの命を奪う前に折ってしまった。短くなった石斧の先端は、寂しそうに沢の水を浴びていた。
俺は先端を拾い、もがいている野良犬の頭部へ振り下ろした。
「ぎゃひふ」
それが命の潰える瞬間の声だった。
大事な石斧を折ったのだから、死んで当然だ。本当ならもっと苦しめて殺してやりたかった。だが、旅は長い。ここで余計なエネルギーを使うわけにはいかなかった。
*
折れた棒にイヌの死骸をくくりつけて肩に担ぎ、俺は旅を再開した。
斧が短くなってしまった。
あまりにも哀しくて泣きそうだった。
俺は母と違い、まともな魔法を使えない。火を起こすことさえできない。
あんなイヌ、母なら一瞬でバラバラにできるのに。
*
やがて森を出た。
そこは、俺がこれまで暮らしてきた世界と、まったく異なる景色だった。
まず、木々に視界を遮られない。
景色が広いのだ。
広すぎる。
どこまでも見えてしまう。
世界の果てさえ見えそうなほど。
遠くには風車も見えた。城壁も見えた。本では見たことがあるが……。
じつは街なるものが実在するかどうかさえ不安だった。俺は森での暮らししか知らない。木の生えていない場所がこんなに広がっているというのは……。
俺が頼りにしてきた沢は、いろんな水が集まっていつしか川になっていた。
たくさんの水が、どこかへ流れている。
最終的にどこへ流れてゆくのか気になるところだが……。いや、いまは街へ行かなくては。
「どけどけぇ!」
一頭のウマが、車輪のついた箱に拘束されていた。怒鳴っているのは、そのウマの支配者のように座している男。
ああ、知っている。これは馬車だ。それが街道を進んで来た。
先に立っていたのは俺のほうなのに、あとから来た方が「どけ」とは。
これも人里のルールなのか?
やむをえず道を譲ってやると、そいつは礼の言葉もなく通り過ぎてしまった。
母さん、人里の人間はクソですよ。
ルールなんてどうでもいいので、とにかく殺した方がいいと思います。
ああ、でも母さんは言っていた。
人里には貴族とかいうのがいて、とにかく偉そうなのだとか。偉くていいというルールなので、そいつに怒ってはダメなのだと。
間違っているのは俺のほうかもしれない。
俺は最底辺の人間なのだ。誰かに怒鳴られても、反論してはいけない。命を奪っていいのは、ルールを守っているときだけ。
街を目指さなくては。
*
「おい止まれぇ!」
せっかく街に近づいたと思ったら、棒立ちしていた男たちに止められてしまった。
金属の防具をつけている。
手には長い槍。
おそらく門番というものだろう。こいつらとトラブルを起こすと面倒なことになるらしい。
「止まります」
「見るからに怪しいヤツだな。そのイヌはなんだ?」
「食べ物です」
「猟師か?」
「旅の者です」
そう言えと母から教えられた。
旅の者なら、たしょう怪しくてもごまかせるらしい。たぶん。母が言っていたのだから、大丈夫に決まっている。
男たちはこちらを睨みつけている。
「街へ来た目的を言え」
「ギルドで仕事を受けようと思って」
「仕事……? 猟師が?」
「猟師じゃないです」
すると門番の一人がふんと鼻を鳴らした。
「どこからどう見ても猟師だろうが。だいたい、その粗末な石斧はなんだ? まさか、そんなのがお前の武器だってのか?」
「はい?」
いま、この石斧を粗末と言ったのか?
母からの大事な贈り物を?
なんなんだこいつらは……。野良犬みたいに脳天をカチ割られたいのか?
すると後ろから来た男が溜め息をついた。
「こんな無害そうなヤツ、ほっといたって平気ですよ。それより、こっちは急いでるんですけどね。さっさと通しちゃくれませんか?」
彼は凄まじい高さの荷物を背負っていた。身長の倍はあるだろうか。
行商人かもしれない。いや、配達屋か。
門番は舌打ちした。
「いいだろう、行け。だが問題は起こすなよ」
「はい」
いったい俺のなにが怪しかったのだろうか?
イヌの死骸か?
途中で食べておけばよかった。
街に入ると、行商人が近づいてきた。
「兄ちゃん、街は初めてか? ああ、気を悪くしないでくれ。ちょっと前に、街で事件が起きたばかりなんだ。みんなピリピリしててな」
「事件?」
「領主の娘が殺されたんだ。それも、普通の方法じゃねぇ。見るも無残な姿だったらしくてな。異教徒か魔族の仕業って言われてる」
「へえ」
人が死ぬのは哀しい。
動物が死ぬのも哀しい。
そういう感覚は、俺にだってある。
だけど、むしょうに殺したくなる瞬間もあるのだ。たとえば相手が襲ってきた場合。命を奪うのに躊躇がなくなる。
俺はダメな人間だ。そうやって好きとか嫌いとかを勝手に決める。
「ところで兄ちゃん、ギルドで仕事を探してるんだって? ならこの道をまっすぐ進んで、広場に行くといい。俺はペテロ。この街で雑貨屋をやってる。なんか必要になったらうちに来てくれ。質はよかねぇが、値段は安いぜ」
「はい、分かりました」
「じゃ、頑張れよ」
「はい、頑張ります。ありがとうございます」
人里にもいい人はいるようだ。
もしなにかあったとして、この人だけは殺さないでおこう。
さて、では広場とやらを目指すか。
この街では、人間たちが自由に歩いている。
話には聞いていたが、これほどたくさんの人がいるとは……。今日は人に会いすぎて疲れてしまった。これからまたギルドで人と話すのかと思うと、やや億劫な気もする。
許されるならもう帰りたい。
(続く)