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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

神さまにしてあげる

作者: サブロー




 これから私がここに書き記すものはすべて真実であり、虚構や妄想は一切含まれてないことを理解してください。


 立春をすぎてまだ春も浅く、しかしこの書斎の窓から見える庭の梅はほころび始めています。椋鳥のふっくらとした身体つきも、あとひと月もすれば慎ましい姿に戻ってしまうと思えば、時が流れるのが寂しく感じられます。


 私がこのような文書をしたためるのは、残される者たちの困惑を軽くしたいためです。

 人間は理由を与えられると安堵するものです。

 ですから、私がなぜこのような最期を選ぶのか、きちんと説明しておこうと思います。


 すべての原因は、桂城かつらぎ曜介ようすけにあります。


 桂城のことを知る者は、おそらく今の文芸界にはいないでしょう。

 だからこそ、ここに書き留めておかなくてはいけない。


 高等学校のころ、私は文科の仲間たちと文芸同人を作っていました。

 学生の遊びではありましたが、子どものころから文学に触れてきた私にとって、内から滲み出るものを文章にするのは、至極自然なことでありました。いつかは小説家に、という夢もありました。


 そこで発行していた同人誌のひとつ「月かがみ」が、あるとき偶然、二華にか派の小説家、樋野村ひのむら先生の目に留まりました。

 それを契機として、私は大学進学と時を同じくして、先生に師事するようになったのです。


 先生はご自宅で樋野村塾という私塾を設け、そこには私と同じく文芸の道を志す若者が集められていました。

 これは自惚れかもしれませんが、樋野村先生は私をいたく評価してくださっていました。現在の朋燈社ほうとうしゃにあたる出版社へ応募して、小さな賞をいただいたこともあります。


 そのような些細な手柄をいちいち大事に抱え、私は自分の才能を過信していました。

 来る日も来る日も原稿に向かい、ときに仲間と夢を語り合い、先生からご指導を受ける日々は大変充実していました。


 その日々を壊したのが、桂城曜介です。

 桂城は私よりもひとつ歳が下、骨ばった身体に髪をだらしなく伸ばした、見るからに陰気な男でした。

 しかしあの男は、ひとたび口を開けば高慢な言葉を吐き散らし、年長者に対しても敬意を払わない無礼者でした。

 樋野村先生の友人からの紹介だと聞いていましたが、塾へ顔を出しても原稿には向かわず、奥様が出してくださる飯を平らげるだけで立ち去るような有様です。 


 けれど、樋野村先生は桂城に夢中でした。

 桂城が気まぐれに持ち込む原稿にかじりつくように目を通し、読み終えたあとには縁側で茫然と外を眺めていました。


 そのうち先生は、私たち塾生の原稿を手に取ることはなくなりました。


 先生に失望した塾生たちは、ひとり、またひとりと去っていきました。それでも樋野村先生は意に介することもなく、桂城の原稿を読んでいました。もちろん私の小説など一枚も目を通してくださらなかった。


 やがて先生自身がペンをとることも少なくなり、私は怒りに駆られていました。樋野村先生の権威を借りて、小説家への道をひらきたいという打算もありましたから、先生は立派な先生のままでいてほしかったのです。


 当時、若い小説家志望が名を売るためには、著名な先生の推薦を受けるか、大手の新人賞を獲る必要がありました。

 もはや先生からの推挙は望めないと悟った私は、勉学に励む傍ら血の滲むような努力を重ね、幾度も幾度も原稿を破り捨てました。そうして、一年をかけてやっと満足のいく作品を書き上げました。


 その日、私は藁にもすがる思いで、樋野村先生のもとを訪ねました。

 しかしちょうど先生は不在で、玄関には雑に束ねられた原稿が投げ捨てられていました。


 表紙には、桂城曜介、とだけ書いてありました。

 桂城の書いた原稿です。中に声を掛けましたが、物音はするものの、誰も出てきません。


 魔が差しました。

 私は桂城の原稿を抱えて、当時住んでいた下宿へと帰りました。樋野村先生が異常なほどに傾倒する桂城という男の実力がどれほどのものか、確かめてやろうと思ったのです。

 そのときの私にはまだ、自分への信頼がありました。


 桂城の原稿を読み終えたとき、辺りは暗くなり、私の手は震えていました。樋野村先生が塾生への興味を失った理由も理解しました。


 桂城の作品は、私がこれまで読んできたどんな小説よりも優れていました。いいえ、優れている、などと優劣を付けられる代物ではなかった。


 文章の技術、構成の妙、展開の鮮やかさ。どこを取っても非の打ち所がない。

 事実、私は時を忘れて桂城の原稿を読み耽っていました。読み終えたとき、現実と物語の境目を見出すのに時間がかかるくらい、夢中でした。


 桂城曜介は本物の天才でした。

 行間に朝露が宿りきらめいているような、繊細で美しい文章がそこにありました。


 私はひどく打ちのめされました。

 私が何百、何千と原稿用紙を重ねたところで、この男の紡ぐ一文には決して敵わない。人が一生をかけて手繰り寄せるであろう文章を、いとも容易に生み出してしまう男。

 それまで信じていたものがあっけなく崩れていく絶望、そして激しい嫉妬が私を襲いました。脇に置いた自分の原稿の未熟さが、ただただ恥ずかしかった。自分のしてきたことは全くの無意味だったと思い知ったのです。


 桂城は、この原稿を新人賞に出すのだろうか。


 私はおそろしかった。同年代にこんな莫大な才能を持つ人間がいるということが。

 絶対に勝てない。勝てるはずがない。

 いくら私がペンを握り続けたところで、比較の対象が桂城である限り、惨めな作家人生になることは目に見えていました。私は小手先で文字を操ってきたにすぎない。


 翌日、千々に乱れた心を抱えて樋野村先生のご自宅へ向かうと、桂城が三和土に立っていました。そして私が原稿を抱えているのを見て、見下すような笑みを向けてきたのです。


 屈辱を覚えながら、私は桂城に「これを新人賞に出すのか」と訊ねました。

 違うと言ってほしかった。

 こんなものと比べられたくないと思いました。


 私の望みは叶いました。

 桂城は「そんなくだらないものに出すわけがない」と言い放ち、私から原稿を取り上げ、何のためらいもなくそれらを三和土に投げ捨てました。


 拾えよ。


 桂城は私にそう言いました。耳の奥が痺れ、顔が熱くなりました。そんな辱めを受けたことがなかった。

 憎くて憎くてたまりませんでした。

 私の夢を簡単に踏みにじっておきながら、さらに跪かせようとしている。私に才能がないことを見抜いて嘲笑っている。


 その原稿が欲しいんだろう。欲しければ拾え。

 君の好きにしたらいい。


 どこまでも傲慢で、人を侮る男です。

 けれど私は、それ以上に卑しく強欲な男だった。


 この作品が、私のものだったら。

 私の作品として、世に出すことができたら。


 そう願ってしまった。

 どうしても、小説家になりたかったのです。


 膝が汚れるのもかまわず原稿を拾いました。

 それが、過ちの始まりです。


 私はその原稿を新人賞に送りました。作品は高く評価され、私は才能に溢れた新人作家として文壇へ迎え入れられました。

 もうおわかりでしょう。

 これまで私が「中恵なかえ太一(たいち)」として発表した作品は、すべて桂城曜介が書いたものです。


 私は偽物です。何の才能もない、惨めな男です。

 桂城は名声や権威といったものに、とんと興味のない男でした。その代わり、私が不正をしたのを面白がり「中恵先生」と頻繁に揶揄いました。

 いつも粗末でだらしない格好をしているのに、金の無心はされたことがない。どこに住んでいるのか訊いてもはぐらかされました。言葉を交わすのも不快でしたが、桂城はそんな私の反応を楽しんでいるようでした。


 桂城はまがいものの新人作家になった私の下宿に入り浸るようになり、次々と原稿を寄越してきました。しかしどれも未完でした。


 あの男は飽き性でした。けれど数枚でも読めば、悔しいほどにのめり込んでしまう。


 続きを読みたい。

 そう口にするのは恥でした。


 しかし、私はどうしても桂城の物語のその先を見たかった。小説家を志す矜持よりも、読者としての欲が勝りました。自分の頭では思いつかない、桂城だけが導くことができる結末を読みたかった。


 桂城は目を見開き、それからまた見下すような笑みで言いました。


 中恵、君を神さまにしてやるよ。

 小説界の神さまだ。

 これから先、僕が君の代わりに作品を書いてやる。


 なぜ桂城がそんなことを言い出したのか、今でもわかりません。

 桂城は権威に興味はなくても、自身の才能については十二分に理解していました。むしろ、その才能の大きさを持て余しているように見えました。


 私は桂城の話に乗りました。乗るしかなかった。逆立ちしても、桂城を越えることはできないのですから。 


 「中恵太一」の本は飛ぶように売れました。

 父親ほどの年齢の偉い方々から「先生」と呼ばれるようになり、ひっきりなしに原稿と取材の依頼が舞い込み、ついでに顔も見たことのない親戚が随分と増えました。後ろめたさに押しつぶされ、実家には顔を見せることができませんでした。


 中恵、僕が憎いか。

 僕たちの縁は長く続くぞ。

 愛や恋なんぞと違って、憎しみは簡単には消えないからな。


 桂城は私から離れようとしませんでした。

 私もそうです。

 私が夢見た名声や権威などというものはまやかしでした。

 そんなもの、手に入れたところでむなしいだけだと学びました。


 けれどもう遅かった。私は私の知らないうちに稀代の天才作家になっていた。もはや引き返せませんでした。


 喧騒に疲れ、私は郊外に庭付きの小さな家を買いました。

 桂城が当然のように居候を始めたのには閉口しましたが、表向きは彼を書生として雇うことにしました。「中恵太一」は桂城なしには成り立たないのです。


 うるさい男でした。

 こいつは喋っていなければ死ぬのか、と幾度も思いました。


 形ばかりでも書生という立場でありながら、何ひとつ家のことをやらない桂城を数えきれないほど叱りつけました。あの男は大食らいの飲んだくれでした。

 もちろんあの男が私の言うことを聞くはずがない。私の毎日は怒りで満ちていました。


 桂城は物語を口頭で私に与えました。

 今私がこの文書を書いているこの書斎で、机に向かう私の脇で。彼はだらしなく胡座をかいてずらずらと言葉を並べました。私はそれを書き留めるだけです。


 ペンを走らせながら、紙の上に生まれる物語に心を打たれました。神が与えた祝福としか思えない。桂城の才能は衰えるところを知らなかった。


 桂城が憎かった。

 彼がいなければ私という存在は成立しないにもかかわらず、あの男への劣等感と嫉妬は育つばかりでした。


 私にその才能があれば。私が本物だったなら。


 私は卑怯者の奴隷でした。

 物語を紡ぐのは、奇跡を目の当たりにしているようでもあり、錆びた刃物で心を端から削るような行為でもありました。


 ある雨の日です。

 私の寝床に、桂城が忍び込んできました。

 私は次々と持ち込まれる執筆依頼と無茶な縁談のせいで、すっかり人間不信になっていましたから、女っ気もない生活を送っていました。

 桂城は後ろから私に抱きつき、身体に触れました。

 中恵。


 桂城と出会って、五年が経っていました。

 私に男色の気はありませんでしたが、桂城の慣れた手つきに翻弄され、結果として私は彼を抱きました。欲というよりも、仕返しのような意味合いが強かったかもしれません。


 なぜか、原稿を拾ったときを思い出しました。組み敷いているのは私なのに、すべてを支配されているような心地でした。


 なぜこんなことをするのかわかりませんでした。

 おそらく、桂城もわかっていなかったように思います。

 今思えば、私はあの男から何かひとつでも奪いたかったのかもしれません。

 才能のひとかけらでも、彼の尊厳の切れ端でもいい。爪の先ほどでもかまわないから、あの男が私の力で損なわれるところを見たかったのです。


 けれど、桂城は桂城であり続けました。

 私の力などで、彼が揺らいでくれるはずがなかった。


 一度、「お前は男が好きなのか」と訊いたことがあります。随分と行為に慣れていて、その慣れ方が、人を寄せ付けない彼の印象と重ならなかったからです。

 彼はしばし黙ったあとに「はじめての相手は親父だった」とだけ口にしました。

 それ以上は、聞いていません。


 毎日毎日、机に向かいました。

 桂城の言葉を、ひたすら書き留めていく。

 文学賞と名のつくものはあらかた獲り尽くし、私の地位は盤石なものとなっていました。


 けれど心というのは厄介なものです。

 さっさと麻痺してくれればいいものを、桂城の傀儡であり続ける屈辱は、いつまで経っても私の心を傷つけました。


 それでも桂城は容赦がありません。

 私が小説から離れようとすれば、引きずってでも机の前に座らせました。そして隣で物語を紡ぐ。私は慌ててそれを書き留める。


 あの男を憎んではいましたが、彼が生み出す言葉はどこまでも魅力的で、私を惹きつけましたから。


 十年が経ち、さらに五年が経った春のことです。

 桂城が突然、花見に行きたいと言い出しました。

 いつもの気まぐれかと思い「そんなだらしない格好の奴を連れて歩く趣味はない」と返すと、あの男は突然床屋へ行き、どこから調達したのか立派な外套を羽織ってきました。

 身なりを整えればそれなりに男前であることに、驚いたのをよく覚えています。


 花見といっても、わざわざ混んでいる場所に行く気にはなれません。

 私たちは近くの川沿いにある、桜並木の下を歩きました。私の後ろを、桂城が歩いていました。

 半分散りかけた桜はそれでもはっきりと美しく、私はしばらく外の景色に目を向けていなかったと気づきました。


 中恵、と桂城に呼ばれて振り向くと、突然強い風が私たちに吹きつけてきました。

 桜の白い花びらが舞い散り、地面に落ちていたものも渦を巻いて踊っていました。空に雲はなく、混じり気のない青と桜の白が春の空気を作り上げていました。


 僕は、桜が好きなんだ。


 そのなかで、桂城は私を見つめていた。見下した笑みも、揶揄うような眼差しもなく、ただ真っ直ぐに、私を見ていました。彼の好きなものを初めて知りました。


 わからなくなりました。


 私は桂城を憎み続けなければいけなかった。

 そうして自分を守ってきました。

 桂城もそれを望んできたはずです。

 だから彼に対して、憎しみをぶつける以外、どうすればいいのかわからなかった。


 だが本当に、私は彼を憎んでいるのだろうか。


 混乱と動揺に襲われた私は、よろめいた挙句、足をすべらせて土手を転げ落ちました。大きな怪我をしなかったのは幸運でした。

 桂城は子どものように腹を抱えて笑い、腰をさすって呻く私を見下ろしました。


 君は本当に恥ずかしいやつだな。


 それから春が訪れるたび、桂城は、花見に行こう、と言いました。

 けれど私は応じませんでした。あの美しい光景のなかで、また真っ直ぐ見つめられたら、自分が信じてきたものが崩れてしまいそうでおそろしかったのです。

 私は臆病な男です。


 桂城が亡くなったのは三年前です。

 風邪ひとつひかなかったくせに、私が国の賞をいただいたお祝いだといって強い酒を買ってきて、酔っ払った末に頭を箪笥の角にぶつけ、そのまま逝きました。


 冗談のような死に様です。

 冗談だと思いました。

 冗談ではなかった、と理解したのは、桂城が骨壷に入ってからです。

 骨と骨がぶつかるときの軽い音など、知りたくなかった。


 当然、私は新作を書けなくなりました。

 金銭的な蓄えはもう十分ありましたし、書く必要も感じていませんでした。


 先月、ペンをとったのは気まぐれでした。

 あまりにも退屈で、数十年ぶりに自分で物語を生み出せるかどうか試してみようと思ったのです。

 けれどやはり、私ひとりの力では何も書けませんでした。


 桂城が邪魔をしてくるのです。

 もう小さくなってしまったくせに、何の恨みがあるのか、私の耳の奥で絶えず言葉を紡いできました。私は仕方なくその物語を書き留めました。

 本当に、困った男です。


 編集の須藤くん。君には最後まで苦労をかけます。

 私たちの最後の原稿は、北の間の金庫にあります。開けるための番号は、君が気になっているであろうあの女将さんの誕生日にしておきました。最後の老婆心です。話すきっかけにでもしてください。うまくいくことを祈っています。

 その原稿は、煮るなり焼くなり好きにしてください。

 もしも世に出すならば、いつものとおり作品名は須藤くんが付けるとよろしい。


 私は、私の心臓を取りに行かなければなりません。

 ようやく憎しみから解き放たれたというのに、愚かなことです。

 けれど心臓がなければ、私はもう指先ひとつ動かすことができません。


 遺していくお金の処遇は、青山先生に任せてあります。


 やっと真実をお話しできて、今、とても穏やかな気持ちです。


 それでは皆さん、お元気で。









 追伸


 いちばん大事なことを書き忘れました。

 遺書に追伸だなんて、私は最後まで間抜けな男です。

 私たちの骨は、隣町の青井嶺霊園の墓に入れてください。

 昨年のうちに、適当な石を見繕って、別荘として買っておきました。


 桜がよく見える、静かなところです。


 二月二十日 中恵太一





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