思い出は春の日差しの中に
あの時はな、と爺さんは新聞から顔をあげて言った。
昼下がりの縁側は春の日差しを受けて暖かかった。僕は爺さんの横で寝ころびながらその話を聞いた。
東京で空襲があったのは知っていた。新聞にも載っていた。しかしその規模はというと、てんで分からなかった。新聞には大したことがないかのように書いてはあったが、近所の噂で東京一帯焼け野原になったというのだ。
当時の爺さんは十五歳で、一つ上には兄貴がいた。兄貴は早いうちから家を出て東京の雑貨店で働いていた。その兄貴と連絡が取れなかった。
父親(僕のひい爺さん)は二日待った。待ったがなんの連絡もない。これは一大事だぞ、と隣の家からリヤカーを借りると、兄貴を迎えに爺さんとともに出かけた。
その日もよく晴れていた。まだ春先だというのに、後ろからリヤカーを押す爺さんは汗ばむほどだった。腕をまくり、頬につたう汗を肩で拭った。
時折吹く風が、街道沿いの民家に植えられた梅の花の香りを運んできた。甘い匂いを胸いっぱい吸い込み、今にも咲きだしそうな菜の花畑の中を行った。
父親は黙々と歩いた。普段であれば軽口の一つでも叩きそうなものなのに、今日はその背中から焦りしか感じられない。心ここにあらず、今の父親には兄貴のことしかないようだった。
爺さんにもその気持ちは伝播した。無心でリヤカーを押して父親の背中を追った。
利根川を渡り、栗橋に入った。往来も多くなり、中にはリヤカーを押す人の姿もあった。考えることはみな同じのようだ。
そこで一休みすることにした。爺さんは道端に腰を下ろし水筒の水を飲んだ。父親は行きずりの人に東京の様子を聞いていた。ボソボソと喋っているのでうまく聞き取れなかったが、その様子から芳しくはなさそうだった。
日が暮れるまで歩くと茣蓙にくるまってリヤカーの上で寝た。昼間の暖かさはどこへやら、夜は冷えた。こんな寒空の下に兄貴がいるかと思うと爺さんも気が気ではなかった。
なかなか寝付けずに寝返りをうった。闇夜の中で父親と目が合った。
「明日も歩くことになるんだ。早く寝ろ」
父親が言った。
翌日、人の群れに交じって歩き、多摩川を渡った。そうしてしばらく行くと、強烈な悪臭が鼻をついた。
何の臭いだ、と爺さんがあたりを見ると、足元のどぶ川に何かが浮いていた。
うっ、と爺さんは口を押えた。
人の死体だった。
幸い兄貴の勤め先は爆撃地から外れていた。再会を喜び合い、爺さんたちと一緒に田舎に帰った。
短い昔話を終えると爺さんは何かを思い出すように窓の外を眺めた。向かいの畑に植えられた梅は満開だった。
「あの臭いだけは今でも忘れられないよ」
そう言って爺さんは苦笑いをした。
僕はその後、知識として東京大空襲を知った。学校でも習ったし、戦後派の小説を読めば何度もその様子が出てきた。だけど、それには体験が欠けていた。恥ずかしながら、向こう三軒両隣がちょろっと焼けた程度だと勝手に思っていた。
それがどうであろう、インターネットで画像を検索するとまさに焼野原なのだ。
別に誰かを責めたいわけではない。子供の僕にあの頃のことを語ってくれた爺さんは鬼籍に入った。B―29の操縦かんを握っていた当事者だってすでに亡くなっているであろう。
しかし、確かにあの時、十万人以上の命が一夜にして奪われた。人々が築き、大事に守ってきた生活が、一夜にして焼かれた。その悲劇を僕は忘れたくない。
その事実が、遠く彼方に霞ながら、確かに存在している。