穴
綺麗な穴がぽっかりと空いていました。
その穴はトイレに空いてました。一人で入るトイレにぽっかりと空いてました。
覗き込むと、下が見えないぐらい深く暗く淀んでいました。
私は怖くなり二三歩後ろに下がります。
あれ?
そんな感覚が不思議に感じました。
そもそも「私」とは誰の事なのでしょうか。
足が床についている。その床に付いているのは靴。革靴です。動かすときゅっきゅっと良い音がします。着ている服はカジュアルな服。これまた「私」とは程遠い服装です。
なぜ「私」と感じるかと言いますと、と考えても言葉にならないので、感じるとしか言えないのです。「私」とは程遠い服装、と感じているのに、「私」が分からないのです。
そうやって、考えていると目の前の穴がまた一つ大きくなった気がします。その穴は大きな獣の大きな口のように開いていました。
赤ずきんがお婆さんに「どうしてそんなに大きな口をしているの?」と問いかけるほど大きな穴でした。
淵に立っている私ならよく分かります。
穴からはひゅーひゅーと風が吐き出される音が聞こえています。匂いはどこか血みどろで、それでいて無機質な匂いが香ってきます。
血みどろで、無機質とは、何だか分からないものですが、香ってくるので仕方ありません。そう言うしかないのです。
私はその穴に興味を持ってしまいました。
その穴はぽっかりと、本当にぽっかりと空間が切り裂かれたように空いているのです。それは、この世を隅々まで探しても、旅をしてもない、この世でたった一つの穴に思えました。
もしかしたら鍾乳洞にはあるかもしれませんが。
しかし、この穴はトイレのたった一つの個室に、私が入ってきた時に出来たものなのです。それは、この世にたった一つと言ってもまかり通るでしょう。
はて、どうしてそう感じているのでしょう。この穴はどうして、私が入ってきた時に空いたのだと分かったのでしょうか。
本来あるべきトイレの便器はそこにはなく穴がある。なんの穴だか分からない。
普通はいつから空いているのだろうか、と考えるものなのに一欠片も考えていません。それどころか、そこにあるのだから、何が不思議であろうかと考えてしまいます。
どちらかと言えば、ここに「私」がある方が不思議でした。
ふと、その穴に全てを吸い取られているように感じました。
「私」を吸い取られているように感じました。
何故そう思ったのでしょうか。感じているのです。思ったかどうかなんて感じてしまえば分かりません。そこに感じているのだから、感じているのでしょう。
穴からは風が吐き出されています。いえ、吹いています。いえ、靡いています。私に向かい、冷たい風が靡いています。風は私の前髪を上げ、その眼にある雫を払います。
私は「私」のものを感じるのをやめます。
いやいや、それではいけません。この穴に全てを吸い取られる訳にはいきません。私は諦めるわけにはいきません。
ふと感じた穴の存在感に私は圧倒されているのでしょう。この穴さえあれば私は「私」を感じなくなる。私は「私」を感じなくなれば、この今の穴による興味も、本来大切だった記憶も、私の頑張ってきた意志もなくなります。
そんな決断を遮ってはいけません。私はまだ頑張らなければなりません。
穴に向かい大声で叫んでみます。
私は頑張ってるんだぞぉ。
私は真面目なんだぞぉ。
周りよりも、危機感を持ってやってるんだぞぉ。
私は「私」の意志があるんだぞぉ。
なんとかここまでそうして生きてきたんだぞぉ。
この意思を取られてたまるものかぁ。
この今までの頑張りを取られてたまるものかぁ。
私は、私は、私は……
そこで私の声は途切れてしまいました。その声はもはや「私」であり、私ではありません。叫んでしまいたいほどの欲求を私は「私」に任せてしまってました。
本来の「私」とはどういう人物なのでしょうか。
おそらく気を張り詰め一気に瓦解するのを待つ愚かな子なのでしょうね。
かわいそうに。かわいそうに。
誰にも褒められず、そうして頑張ってきたのでしょうね。
かわいそうに。かわいそうに。
しかし、この「私」にもかわいそうとは言えない部分もきっとあるのです。
「私」はあまりにも真面目すぎて、しんどくなって壊れてしまいそうになって、こうして叫んでしまっているのでしょうね。
それはもう真面目でも何でもありません。諦めるのを待っているのです。
待ちましょう。
あなたが自身に向かう怒りが、虚無感が、悲しみが、寂しさが、孤独が、静まるまで。
待ちましょう。
そうしなければ、あなたはこれから生きていけないのです。これぐらいで社会の荒波を耐えていけるはずがありません。あなたは若いのです。あなたはこの私を作り出してしまうほど若いのです。
若さは痛みであり、愚かなことなのです。
若さに諦念はありません。
虚無感はありません。
苦しみはありません。
全て大人になるための階段なのです。
穴は広がり続けます。
虫が淵を食い続けているように広がっていきます。
きっとこの現世がさぞ美味しかったのでしょう。むしゃむしゃとかぶりつき、「私」の足場を奪い続けます。何でも食べる青虫くんがかわいらしく食べていれば行幸なのですが、この穴を広げる虫はとても意地汚く醜い容姿をしています。とても行幸とは言い難いです。
「私」が傍で歯を食いしばって、穴の淵で穴を見ていました。
穴は穴らしく、暗く湿った空気を彼女に送り込みました。
彼女は「私」です。
私は私です。
穴が広がり続けるので、それを後ろに避けつつ穴の淵に立ちます。
これが「私」であり私であります。
恐怖はあります。
身のうちからぞわぞわと何かが躍り出しそうです。
頬がひきつり、ぴくぴくと痙攣し出しています。
ちりちりと傷んだ頬は悲鳴をあげています。
腹が煮えくりくり返り、食道へ何かが駆け上がってきます。
「私」はその駆け上がってきたものを、口で止め、なんとか意識を保ちます。
それほどの恐怖があります。
「私」はそれを今度は背後から這い寄ってくるを感じました。ずっと後ろから這い寄ってくるのです。
「私」は怖くてたまりません。しかし、それを見ずにはいられません。感じずにはいられません。
どうしてそんなふうに穴は育ってしまったのか、背後にはぽっかりと穴が空いていました。彼女の前にも穴があります。
二つ目の穴が出来ていたのです。
彼女の後ろからも前からも穴が空いています。もうこれで逃げ場はありません。
ぶんぶんと頭をふり、長くなった前髪を揺らします。整った後ろの長髪はサラリと揺れ、穴の香りを引き立たせます。
穴は正直です。
どこまでも彼女を追ってきます。彼女がどこへ行っても彼女を見つけます。彼女はそれをいつもじっと見つめます。じっと見つめて、目を伏せます。そうすると穴はいつも見えなくなるのです。
今日は伏せても穴が見えました。
穴、穴、穴。
穴を見ると、感じます。暖かな人間関係を。
穴を見ると、感じます。冷たい人間の眼差しを。
穴を見ると、感じます。悲しいあの瞬間を。
穴を見ると、感じます。憤った心のどす黒い中身を。
感じます。感じます。いえ、感じるのではなく、見えるのです。
穴は、私に見せてきます。あの瞬間の痛みを克明に。
何故穴は映し出すのでしょうか。
穴は正直です。穴は隅々まで正直です。
「私」は逃げられなくなったので仕方なく、その穴に恐る恐る手を伸ばします。淵に立っていたその場から、なんとなく手を伸ばします。
すると、ばちんっという大きな音をたてて、穴は瞬間に縮みました。
そして、次の瞬間に瞳からぼとぼとと涙がこぼれ落ち、「私」は私に帰り、私は穴となり、穴は涙となったのです。
心の隙間は涙となり、ぽつりと落ちていきました。
泣いてもいいんだよ。
辛いなら泣いてもいいんだよ。
誰も褒めてくれなくたって涙は見ているんだよ。
「私」は私としてそう思い、考え、私しかいないトイレで一人うずくまっていました。