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パチパチと小さく弾ける音でイサベラは目を覚ました。
変わらず体中が重く、僅かな身動きだけでも鈍痛が走る。ここはどこかと首だけを動かすと慣れた声が耳朶を打った。
「イサベラっ!!」
ラウルが駆け寄ってくる。
イサベラの顔の横に両手をついて、縋るように見下ろしていた。
「……ここはどこ?」
掠れてはいたが声は出た。どうやら二人とも命だけは助かったようだ。
ラウルは恐るおそるイサベラの手を握り、安堵の息を漏らす。
「クロワーナ領側の森です」
イサベラは何度も確認した地図を思い浮かべる。
駆け込んだ樅の森は大きく、王都とクロワーナ領に跨っている。二つを分けるのはクロワーナ領の山々から伸びる川で、馬車を落としたあの橋のところだ。逆に逃げていたようで王都からは随分離れてしまっていた。この体で歩いて迎えるとは思えない。
僅かに身を起こしてラウルを見れば、同じようにひどい有様だった。ずぶ濡れなのはもちろんのこと、中途半端に袖が引きちぎれている左手はだらりと身に添って揺れていて、もしかしたら折れているのかもしれない。顔や首筋についた数え切れない傷が痛々しい。
「無理やり担いで走ってしまいました。吐き気とかはありませんか?」
「大丈夫よ、体中が痛いけれど気分は良いわ」
安心させるように微笑でみてもラウルは顔を歪ませたまま。イサベラは何とか上半身を起こして座ってみる。変装用の綿のパンツが際どいところまで裂かれていた。捲ってみれば太ももの下辺りに布が巻かれ薄っすらと血が透けている。
「枝が刺さったようです。意識のないうちに抜きましたが……」
ラウルが申し訳なさそうに傷が残るだろうと告げた。
「仕方ないわ。命があっただけで驚きだもの」
イサベラはしみじみ思っていた。数ほど窮地に追い込まれたが、今回も本当に危なかった。二人とも満身創痍で今刺客が来たらとてもじゃないが相手などできない。
ラウルが汲んできた水を一口啜る。ほっと息をついたイサベラにラウルは低く告げた。
「王城へは向かいません」
「え?」
「このままクロワーナ領を抜け船で隣国へ渡ります」
隣国は広大なクロワーナ領を超えて更に大きな湖を隔てた先にある。
「随分と大変な道のりになりそうね」
そっと笑ったイサベラを冗談と思ったのか、ラウルは声を荒げた。
「私は本気です!貴女をあの腰抜けになど渡すものかっ」
腰抜け、とは殿下のことだろうか。ラウルは会ったことはないはずだ。随分な言いようだが幸い他に聞く人はいないのだから咎めずとも良いだろう。
「アイツは貴女がどれだけ命を狙われても何もしてくれなかったじゃないか……
助けにだって来なかった!そもそもアイツが子供のころに結婚なんて言い出さなかったらこんなことにはならなかったっ!!」
激昂し段々口調が崩れてくる。
「なのに……貴女は、それでも、行くって言うんです……か」
胸が詰まるほど切羽詰った声音。
イサベラはそっとラウルの髪を撫でた。今は無残に泥で汚れて固まっているけれど、綺麗な髪だと知っている。陽があたると紅茶のように光る琥珀色。
(私の大好きな色)
ラウルはゆっくりと動く白い手を掴み、力任せに引き寄せた。掻き抱いて激しく頭を振る。
「嫌です。嫌だ。嫌だいやだいやだいやだ!
俺が守ったんだ。ずっと傍で俺が守ってきたんだっ
王子じゃない。俺が、俺が守ったんだ……」
駄々をこねる幼子のように縋って繰り返した。
「ねえ、ラウル」
優しく名を呼ぶ。
イサベラが何か言うのを恐れて、ラウルは頭を振ってますます腕に力を込める。
「だってそうでしょ、俺がいなければ貴女は死んでたんだ。何度も。何度もっ!
……だったら、俺のものでいいじゃないか!」
叫ぶように言って、ラウルの腕がくたりと落ちる。
まるで叱られているみたいに首を落とし、肩を震わせている。パタパタと音を立てて涙が流れていく。
「……好きなんです。ずっと、貴女を……アンタだけを。
だから守ったんだ。好きだったから。他の男の者になると知ってたけど……それでも。
お願いします……俺と逃げてください……頼むから」
「ラウル、泣かないで」
「俺は貴族じゃないけど、絶対苦労はさせないから……何でも働くし、家の事も全部する。変わらずずっと守ってみせる……から」
だからお願いと弱々しく繰り返した。
感情のままに口にしているようで、時折裏返って、湿った声でひたすらに願う。
イサベラは少しだけ笑って、握り締めたラウルの手に触れた。
細いけれど、節のある硬い指。剣ダコだってペンダコだってある大きな手。
「ねえ、聞いて。ラウル」
イサベラはゆっくりと語りかけた。
どこか母親のような慈愛を含む音はラウルと同じく震えている。
「私の名前は、ヴィエラ。だだのヴィエラよ」




