漆 契約の糸
目の前で女性が腕を押さえてうずくまっている、箱の式神はたった今自分にかけられた言葉と目の前で起きていることに戸惑いを隠せないでいた。
「し、シキシマ様、やはり奴の呪いが......」
「カザミ、あんたにはもう関係ないのよ......早く……」
言葉を絞り出そうとするが、あまりもの激痛にその続きが出てこないようだ。
「辺りが暗くなってきて呪いの力が強くなってきたようね、呪詛の影は一旦遠くに逃げたようだけどあれはあくまでも影だから呪いの進行度に関してはあまり関係がないのよね、あれは呪った対象を怖がらせるためだけのものってこと、ずいぶんとタチの悪い奴に呪われてしまったようね」
辺りを確認していた伏木さんが女性の方に近寄りながら持ってきた荷物から中に液体が詰まった瓶を取り出し開封して、いきなり女性の右腕へと中身をブチ撒けだした。
「ここらでは有名な霊峰の地下水よ、呪いを祓うことは難しいけど、呪いによる痛みを抑えるくらいの力はあるはず」
瓶の蓋を閉め、荷物の中へと放り込んだ、彼女の視線は箱の式神の主人である女性の方へと鋭く注がれている。
「あなた、この子との契約をもう解除したつもりになってない?」
痛みから解放された女性が伏木さんの方を見上げる、どうやら図星のようだった。
「縁切り池なんていうのはただの都市伝説なのよ、それにその縁切り池の噂が本当だったとしても、式神とその主人の関係はそんなものでは切れないわ」
「じゃあどうやれば......」
神社の境内に沈黙が訪れる、伏木さんは女性をじっと睨みつけたまま仁王立ちしている。
「お前さん、やたらと強力な結界を使ったりそこの式神ちゃんを作り出すほどの実力はあるのに、契約の解きかたは知らないのか」
カイが呆れたように言った。
「だって、蔵の本を全部読んでもどこにも書いてないし......」
「蔵の本......あなたもしかして、そんな調子で半端な知識のままその子を造ったり、その呪いの主の恨みを買うようなことをしたんじゃないでしょうね?」
伏木さんが指差した地下水でぐっしょり濡れた包帯の隙間からアザのようなものが見える、しかしそれはアザと呼ぶにはなんとも禍々しく蠢いていた。
「……道路工事でたまたま封印が解かれたっていう厄災の神様が友達に付きまとってたの、どう見ても悪意を持ってその子に憑いてるから、何かある前に封じようとしただけよ」
「思ってたより厄介な奴の呪いみたいね、神クラスのアヤカシの呪いとなると私にはどうにもできないわ」
「貴様らにどうにかしてもらおうなどと思っていない!私がシキシマ様の呪いを肩代わりすると決めているからだ!」
堪えきれなくなった箱の式神がその場で叫んだ。
「式神として生まれた以上、式神としての職務を全うする、それが道理だからだ!」
式神は女性の腕をとり、自らの手を翳すが、女性はそれを強く振り払った。
「カザミはもう充分私の身勝手に付き合ってきたわ、もうそんな身勝手に付き合う必要はないの、私はもう私に縁のある人が死んでいくのは見たくないのよ!」
女性は目に涙を浮かべる、しかし俺はその言葉になんとも言えないモヤモヤを感じた。
「それも結局、あなたの身勝手なんじゃないですか?」
思わず思ったままのことを口に出してしまう、今まで式神と女性に注がれていた視線がこちらに集まるのを感じた。
「人のために式神が呪いを肩代わりして死ぬことを肯定してるわけじゃないんですけど、あなたが見たくない「自分に縁のある人が死んでいく」のを、あなたはそこの式神に肩代わりさせようとしてるわけですよね?それに、式神として生まれたその子はあなたがいなくなったらどうなるんですか?なんでそんな無責任なこと言えるんですか?」
伏木さんがそれを聞いて思い出したように言った。
「あなたがその式神と交わした契約だとね、あなたの死と共にその子も消滅しちゃうのよ」
女性の顔が一気に絶望に染まる、やはりそのことは知らなかったようだ。
「契約を切りたいのねぇ、よほどその式神の子が大切だと見たわ」
池婆が鳥居の方からこちらに歩いて来ながら言う、伏木さんが地面に刺したボウガンの矢でできた結界をいとも簡単にすり抜けて女性の前に立った。
「おばあさん、確か縁切り池によく居る......」
「あなたが箱を池に置いて行ってからたまに私の池に様子を見に来ていたのは知ってたわ」
池婆がそう言って女性の額に手を翳すと、彼女と箱の式神の周囲に光り輝やく無数の糸が現れた、よく見ると女性の方には黒く太い糸が右手を中心に複雑に絡みあっている。
「これがあなたたちの契約を表す思念の糸と、あなたを苦しめる呪いの糸よ」
「おばあさん、あなた一体......」
「池婆は三上ヶ池の土地神様だ」
後ろからカイが説明する、なぜか顔を逸らしている。
「呪いの糸は太すぎるから切れないけど、あなたたち二人ともが望むのなら、ちょっと大変になるかもしれないけど契約の糸を解いてあげることはできるわ」
女性はそれを聞くとうなだれて黙り込んだ、完全に代わりに死ぬつもりである式神が契約を解くことになど了承するはずがない。
「確かにこの子が呪いを肩代わりすることはできなくはないわ、それにこの子はあなたのために生まれてあなたのために生きてきた、最後まであなたのために生きさせてあげるのも優しさなんじゃないかしらねぇ」
「......それでも、私はこの子を死なせたくありません......カザミ、契約を解くことを了承しなさい、あなたの主としての最後の命令よ」
二人を繋ぐ糸が一瞬だけ強く光る、名前を呼ばれた式神は震える手で口を押さえた、口から出ようとしている言葉を必死に抑えようとしているようだ。
「......わかりました......私とシキシマ様の契約を......解いて......ください......」
池婆はそれを聞くと無言で頷き、宙に浮いた糸に触れた。
「これじゃあ本当は双方の了解を得たことにはならないんだけどねぇ」
宙に浮く糸の池婆が触れた箇所が強く輝き、お互いを結んでいた糸が一本ずつ解れていく、すっかり暗くなった周囲を照らす糸の光は幻想的で、それが一種の絆を絶っていっている光景だというのを忘れそうになるほどだった。
二人の間から糸が全て離れた時、支えを失ったかのように式神の仮面がその場に落ちる、仮面は端の方から光の粒となって消えていった。
「これで契約は解けたわ、この子はあなたの望み通り自由になったわ」
池婆が静かに言って二人の間から離れた。
「シキシマ様……」
「カザミ、あなたは自由よ、4年もあなたの時間を貰っちゃって悪かったわね……」
アザが痛み出したのか、腕を押さえながら立ち上がり、女性は式神に背を向けて歩き出した。
「シキシマ様、お待ちください!」
そう言って式神は女性へと駆け寄る、手には例の箱が握られていた。
「私を置いていくのならば、せめてこれを持って行ってください」
「これはカザミの依り代よ?私が持って行くべきものではないわ」
「先ほどの解約の儀の際に、この箱と私をつないでいた糸が解けるのを見ました、つまり私は今依り代を持たないアヤカシとなってしまったのです、しかし私の魂はまだこの箱にあると思っています、どうか呪いに一人で立ち向かわないでください、魂だけでも側に居させてください」
式神の必死な訴えに、女性はその場に泣き崩れるしかなかった。
* * * * *
「私はそろそろ帰りたいのだけど、その子がまだあなたに言いたいことがあるようだねぇ」
伏木さんと一緒に辺りの結界の札を回収している時に池婆に声をかけられた。
池婆が指し示す方には、先ほど自由を手にいれた式神が立っている。
「そういえば、えーっと……カザミ、だっけ?君はこれからどうするつもりなの?」
「私は式神として以外の生き方を知らない、私の主はシキシマ様だけとしたいところだが、シキシマ様に生きて欲しいと願われた以上はそうするしかない、だから仮の主を探したい」
式神はそう言うと鈴と紐がついた小さな木の札を俺に差し出してきた。
「あのナナセという女に「また誰かの式神になるつもりならこれを使うといい」と言われた」
風が吹き、式神の螺鈿の模様をした着物が綺麗にはためいた。
「確か逢沢といったな、アイザワ、私の主になってくれ」
思わぬ申し出に、俺は言葉を失った。