弐 妖怪
この世のモノではない、妖怪という存在はまさにそういったものだ。
彼女はそう語りだす、確かに俺が見たアレは妖怪や化け物と表現するのが正しい、だがそんなものの存在、この現代日本でやすやすと信じられるだろうか。
「あら、胡散臭いって思ってるのかしら?」
「胡散臭いも何も、そんなの常識的に信じられないですよ」
「それは人間の暮らす世界の常識よね?ここがそうじゃないとしたら?」
「......どういう意味ですか?」
「簡単な話よ、人間が暮らす世界とは別の世界がこの世にあるってだけのすっごく簡単な話」
伏木さんは引き出しからノートを取り出し大きな四角形を描いた。
「世界っていうのは、何もない空間にピンと張られた一枚の布のような存在なの」
「待ってください、地球は丸いんですよ? 天動説なんていつの時代の話ですか」
「最後まで聞いて、それは地球の話でしょ? 今しているのは地球なんかじゃなくて世界の話なの、地球はもちろん、太陽系、その外の宇宙まで、人の暮らす世界の全ての話よ」
そう言って伏木さんは先ほどの四角形に重なるようにもう一つの四角形を描き足す。
「そしてその世界とは別にもう一つ同じようにピンと張られた布のような世界があるの、これがよく言われる『あの世』ってやつね、こういった世界の呼び名はその世界を支える神の名をそのまま使うのが常だからこの世界の正しい名前は『ヨミ』なんだけどね」
「じゃあここは?」
「ここはあなたの知ってる人の世界……ちゃんとした名前は『ウツシヨ』ね、ここはウツシヨじゃないのよ、見たでしょ? あの怪物のような生き物を」
そう語る伏木さんの背後を見て背筋がゾワリとした、見たこともないサイズの百足が壁をすり抜けて通過していった、しかも宙をフワフワと漂いながらだ。
青い顔をする俺を見て察したのか、伏木さんがふと後ろを見た。
「見えたようね、アレがこの世界の住民よ」
伏木さんが四角形と四角形の間に波線を引いた。
「二つの世界は決して交わることはないけど、その間にあるこの世界は固定されていないからどちらとも交わるのよ」
ガラガラと引き戸を開ける音がする、いらっしゃーいと先ほどの男の声が響いた。
「ここは『ハザマ』よ、人ではないモノが棲むウツシヨとヨミの狭間の世界、あなたが見た怪物も元はここの住人なの」
* * * * *
目が覚める、見える景色はいつもの自分の部屋だ。
「夢か......」
誰が応えるワケでもないが、ボソリと呟く。
にしても鮮明な夢だったな、というか昨日はどうやって帰ったんだっけ。
必死に記憶を絞り出すが、どうしてもあの夢の光景が浮かんでくる。
たしか「この後もあのアヤカシに付け狙われるかもしれないから念のため持っておいて」とか言われて札を持たされたりしたな。
普段見る夢ならすぐに忘れてしまうのに今回の夢は言われた台詞まで一字一句違わずに覚えている、不思議なこともあったもんだ。
しかし昨日はどれだけ疲れていたんだろうか、服も着替えずに寝てしまったようだ。
シャワーを浴びるために立ち上がる、するとポケットに妙な者が入っている感覚がした。
「ん? なんだこの紙切れ」
レシートサイズのようなサイズの紙切れが二つ折りになっている、広げて見ると何やら不思議な図形が並べられた模様が描かれている。
「お札......?」
夢で見た物と全く同じだ、なんでこんなものを持っているのだろうか。
もしかして、夢なんかじゃなく本当に俺は昨日あの不思議な世界に行ったのだろうか。
玄関でチャイムが鳴り、友人の声がした、そういえば今日は友人と出掛ける予定があったのだった。
* * * * *
「あ、それ聞いた事あるよ、ただの都市伝説かと思ってたけど本当にあったんだね」
用事を済ませ、帰路に着いた時にあの化け物や妖怪絡みの話だけは省いて友人に昨日の事を話して見ると友人がそう言った。
「都市伝説?」
「そう、都市伝説、お前も聞いた事ぐらいはあるだろ? 幽霊や妖怪なんかの類で困った時に尋ねるとそれを解決してくれる現代の祓い屋、伏木骨董店、またの名を不思議屋ってね」
不思議屋か、名前が似てるからそう言われてるのだろうか。
「にしても羨ましいな、今度連れて行ってくれよ、その不思議屋に」
「悪いが俺もどうやって行ったかなんて覚えていないんだ」
「ふーん、あー俺も行ってみてえなぁ、そこの店主さん、美人だった?」
コイツ......目当てはそれだったか......そう呆れていた時の事だった。
「見つけた......」
どこかで聞いたような声が頭に響くように聞こえてきた。
辺りを見回す、すると夕闇に染まる街灯にあの異形が絡みつくように登ってこちらを見ていた。
思わず立ち止まり、硬直してしまう。
友人が何事かとこちらを見た。
「お、おい、アレ......」
「ん?何も見えないが......?」
キョトンとしてこちらを見る友人、そんなのもお構いなしにアイツがこちらめがけて飛びかかってきた、思わず身構えるが、アイツは見えない壁に阻まれてこちらに近付けないようだ。
友人は突然吹き飛んだコンクリとブロック塀に驚き腰を抜かしている。
「悪い、先帰っててくれ! 用事思い出した!」
友人を助け起こす時にこっそり札を友人のポケットに忍ばせながら言う、そうしてる間にもアイツはこちらを攻撃しようと躍起になっていた。
助走をつけるべくアイツが一旦引き下がる、その隙を見て俺は友人の家とは逆方向に走り出した。
「護りを自ら捨てるとは......愚かよ......」
ひび割れた声が頭に響いた、あの鋭い爪を携えた足で塀や地面を這う音がジワジワと後ろから近付く気配を感じながら、俺は全力で走った。