踊る水銀 後編
「進路を基地へ。着陸する」
「正気かよおい。滑走路の状況見えてんのか!」
友樹の言葉に、副操縦士が反射的に声を張り上げる。それを機長が手のひらを向けて制し、言葉を引き継いで呻くような声を漏らす。
「何か策があるんだろうな」
「当然だ。とびっきりの奴を用意してある」
努めて平静を装い、友樹は言葉を返す。雪鱗から作戦を聞かされたが、大雑把過ぎてイメージが湧かない。とりあえず一つ解っている事は、成功しても後始末が大変だという事だけだ。
とはいえ、他に有効な手段が思いつかないのも事実だ。遅きに失する前に、飛び込む虎穴は選ばなければならない。
機体が大きく旋回を初め、空気が伸し掛かってくるような圧力で息が詰まった。友樹は子供たちの様子を確認するために貨物室へ戻る。
子供たちは誰もが青い顔をしていた。不安がこびりついて仮面のようだ。余計な不安を掛けないようにと、子供達には詳しい状況を説明していなかったのが裏目に出ていると解った。子供は想像力の塊であり、想像は恐怖を化け物に作り替える。
友樹は名も知らぬ神に祈りを捧げ続ける女の子の頭を一撫でし、じっくりと全員を見渡した。
守らなければならない。その思いが胸の奥から込み上げて、熱となって身体を駆け巡った。
この子たちも戦っている。地上ではあいつもらも。
「俺も、少しは良い所見せないとな」
奥歯で不安と恐怖を噛み砕き、友樹は小さく息をついた。
火蓮の操るハンヴィーが滑走路を外れる。ぬかるんだ足もとに揺れる車体の上で、雪鱗は首を向けてドローンたちの様子を見遣る。
ドローンたちは攻撃の手を休めることは無いが、滑走路を越えて追ってはこない。雪鱗の予想通りであった。これならば、と雪鱗は小さく頷く。
他のドローンを押しのけるようにして突っ込んでくる影があった。ワンボックスカーほどの大きさで、その姿は尻尾の無い銀色のサソリを連想させた。
『タンクドローンだ。腕部ガトリングとワスプミサイルに注意』
『見えてるよ火蓮。ともちーが来る前にあれだけは始末する』
『焼き加減は?』
『ウェルダンでよろ!』
火蓮は車体を反転させ、タンクドローンへ向けて真っ直ぐに突っ込む。ガトリングガンから無数の銃弾が放たれ、ホワイトスケイルを削って火花が上がる。
雪鱗は網膜を焼く光の乱舞に目を細め、しかし揺るぎなく一点を見つめる。
『左!』
雪鱗の号令と共に火蓮がハンドルを切り、二つの影が高速ですれ違う。悲鳴のような金属音が鳴り響き、銀色の塊が宙を舞った。タンクドローンの右腕ガトリングであった。根元から突き壊され、抉れた断面がバチバチと喘いでいる。
タンクドローンは機体を横滑りさせながら雪鱗たちへ向き直り、背中からワスプミサイルを射出した。全弾撃ち尽くしたのではと思える数だった。
不意に地面に赤い光が走る。次の瞬間、辺り一帯が白い蒸気に包まれた。火蓮がアーツを使い、周囲の水分を一気に蒸発させたのだ。
行き場を失ったミサイルは散り散りになり、あちこちで味気のない花火となった。突然の閃光にタンクドローンのカメラは焼かれ、ほんの一瞬だけ雪鱗たちの姿を見失う。そして次にそのカメラが捉えたのは、突撃槍の鋭い切っ先であった。
いくら強化ガラスとはいえ、複合装甲よりは強度が低い。貫かれたレンズの隙間に、小さな火の粉がするりと入り込んだ。
タンクドローンの動きが止まり、やがて湯が沸騰するように震え始める。装甲の隙間からチロリと蛇の舌の様な炎が溢れ、瞬きをする間よりも短い時間で全体をすっかり飲み込んでしまった。渦を巻く炎の中で、タンクドローンはそれでも残された銃口を向けようとするが、やがて力尽きる様に崩れ落ちた。
『まる焦げじゃないか! シェフを呼べ!』
『ふざけてる場合か。ほら、来るぞ』
遠くから低い唸り声が轟く。薄暗い空から、雨の尾を引いて輸送機が向かって来る。
滑走路を埋めるドローンが弾かれるようにそちらに向き直り、滑走路に薄く散開しながら銃弾を空に向かって吐き出し始めた。
異変が起きた。ドローンの脚が突然沈み込み、地面に呑み込まれていく。一機ではない、次々と引きずり込まれていく。
それは沼だった。紫色の、鉄をも焼き溶かす猛毒の地獄である。紙へ水が浸みこむように、滑走路の始点から終点へ向けて沼が広がっていく。ドローンたちはなすすべも無く呑み込まれ、長大な滑走路に猛毒の川が走っていく。
「ドローンは消えたが、あれに突っ込めってのか……。ぞっとしねぇな」
毒沼を映しこんだように機長の顔色は青い。限界を超えて力を行使する友樹は吐き気と頭痛を抑え込みながら、それでもその肩を叩いて笑って見せる。
「心配ねぇさ。無茶なことほど失敗はしないもんだ」
輸送機を包み込んでいた半透明の蛇が姿を変える。機体の下部に集まり、厚みを増して船底になった。やがて着水し、猛毒の沼が噴水の様に吹き上がる。高く昇った猛毒は周囲に降り注ぎ、倉庫や建物は水を掛けられた角砂糖のように溶けていく。
『滅茶苦茶だ。おいユキ、基地の奴らは平気なんだろうな』
『知んなーい。通達はしたよ。あいつら、性質の悪い冗談だと思ってキレてたけれど』
雪鱗はケントゥリオの盾をかざし、厚みを持たせたホワイトスケイルで猛毒の雨を凌ぐ。目を細め、意識を集中させる。機体下部のホワイトスケイルに角度を持たせ、減速を試みる。
その額に汗が伝う。思うように減速しない。自身の体力の限界も近い。いくらサードアームを使用していても、友樹の猛毒を抑えるには相当の消耗を強いられる。
「止まれ……!!」
途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、雪鱗は祈るように呟いた。
鎖でも巻き付いているかのように身体が重い。幹耶は咄嗟に剥離白虎の刃を盾の代わりに掲げるが、この程度でナースホルンの一撃を防げるはずもない。
「みーくん!!」
甘い香りが幹耶の鼻を掠めた。駈け込んで来た真斗が横合いから幹耶を突き飛ばす。
勢い良く投げ出された幹耶の視界は暗転し、何事かと頭を振る。そして開いた瞳に映ったのは黒い粘体の槍に貫かれ、下半身を失った真斗の姿だった。零れた内臓が長く伸び、おびただしいほどの血液が溢れ出している。
「ま、真斗さ――」
真斗の息は荒く、しかし細い。幹耶は思わず手を伸ばす。怯えたように震える指先が、真斗の頬に触れた。
『呆けている場合か、真斗を抱えて下がれ!!』
華村の一喝にはっとし、真斗の上半身を抱え上げて駆けだす。真斗の身体は悲しいほどに軽かった。
「だ、大丈夫……。少し休めば、何とか……」
胸の中で真斗が囁くように声を上げる。幹耶はその声を聴くのが恐ろしくて、小さな身体を抱きしめる腕に力を込めた。
「……ごめんなさい」
疼く胸の痛みを抑え込み、やっとの思いで言葉を吐き出した。その残響を断ち切るように、小さな笑い声が上がる。
「そこは〝ありがとう〟って言うところよ」
精いっぱい冗談めかしながら真斗が言う。想像もつかないほどの気遣いと優しさに、心の疼きが少しだけ遠のく。
幹耶の背中に黒い槍が無数に迫る。しかしそれは悉く撃ち抜かれ、あるいは爆破されて霧散していく。
『メロン、やらせるなよ!』
『当たり前だよ! 撃ち漏らしたらお雪にご飯を奢るってのはどうだい』
『財布が月までが吹っ飛ぶぞ!?』
二人の援護を受けながら、幹耶はナースホルンから十分に距離を取る。逃げた獲物を惜しむように蠢く触手の群れを一瞥し、真斗の上半身を道路端の壁に寄りかからせる。
『動けるようになるまで、どれくらい掛かる』
そう問うのは華村だった。真斗の腹部には桃色の光の粒子が集まり、既に再生が始まっている事を知らせていた。とはいえ、完治までどれほどの時間を要するのかは予想のしようもない。半身欠損など、通常であれば即死でもまったく不思議ではない重傷だ。
『どう、かな。断面も、めちゃくちゃだし……。しばらく、掛かるかなぁ』
絶え絶えに真斗が答えた。これほどの傷が放っておいても治癒すると言うのは、流石は異能集団を束ねる隊長様と言うところだが、しかし華村は困ったように小さく呻く。
『とりあえずは三人でやるしかねぇな。幹耶、もう一回だ』
『はい。いや、しかし――』
「斬りなさい」
声を詰まらせる幹耶に向けて、凛とした声が投げられる。
「たった一回の失敗が何よ。何度も失敗して、数えきれないくらい死んじゃってる私に失礼ってもんじゃないの?」
真斗は血に濡れた頬を歪ませて、微笑みを浮かべる。赤黒く汚れたその笑顔は、だからこそ、とても美しかった。
「もう、みーくんは一人じゃないわ。そのアーツは、もう〝どうしようも無い現実〟を切り裂くための物じゃない。みーくんの、皆の、アイランドの未来を切り開くための力よ」
後、ついでに私の未来もね。と真斗は付け加えて、おどけた様に肩を竦める。
真斗は幹耶の右手に手を添え、そのまま剥離白虎の刃を撫でた。紅く熱い血液が刃を濡らし、目覚めるように剥離白虎が仄かに光る。
「私の想いも連れて行きなさい」
真斗の表情に不安の影は一片もない。全てを幹耶に託し、天使のように微笑む。
「ありがとう、ございます」
透けていた背中に力が漲るのを感じた。
そうだ。失敗がなんだ。斬れなければ、斬れるまで刃を振るい続ければ良いだけの話だ。たとえ失敗しても、支えてくれる人達が居る。転んでも、腕を掴んで引き上げてくれる仲間が居る。
今、ようやく自覚した。この力はもう理不尽に立ち向かうための〈断剣〉では無い。
未来を切り開くための力。世界に対する回答者。〈神剣〉だ。
巨大な刃が唸りを上げて眼前に迫る。必殺の威力を孕んだ一撃を前にして、それでも銀子の口元からは楽しむような微笑が剥がれない。
銀子は両手の指を蠢かせ、腕を交差させる。そして何かを払うかのように振り下ろす。
『くっ!?』
刃の勢いが大きく削がれ、速度を失う。突然の出来事にアウラは困惑した声を上げた。
湖月の腕には無数の糸が絡みついていた。細く強靭で、銀色に輝いている。だが、それだけでは湖月の突撃は止まらない。次いで地面から噴き出した液体金属が湖月の腕を跳ねあげる。
「うわっと!」
直撃こそは免れたが、それでも銀子を襲った剣風は凄まじい物だった。銀子はあえてそれを背に銀の翼を展開して受け止め、追撃を警戒して大きく飛び退る。この戦いで初めて銀子が退いた瞬間だった。空中でくるりと一回転し、銀子が水しぶきを上げて地面に降り立つ。
「ふっ、ふふふ。――あっはははは!!」
胸の前で手を組み、それを抱える様に身体を折って銀子が笑い声を上げる。相対するアウラは苦々しげにブレードを振るい、その様を睨みつけた。
『姫さん! だ、大丈夫ですかぁ!?』
『大丈夫なものですか。前言撤回よ、アレは最高の敵だわ!』
突然のプレゼントに興奮する子供のように銀子が笑う。その瞳に映るバベルへ、萩村から送られてきた情報が映し出された。
『湖月の装甲は硬質セラミック、強化ガラス繊維、衝撃吸収に優れた軟質ゴムに硬質ゴムなどを組み合わせて造られた非金属複合装甲のようですぅ。すみません、てっきり金属であるとばかり……』
『問題ないわ。おかげで私、今すっごく楽しいもの!!』
ひらりと閃いて、水銀が踊る。
雨を切り裂いて無数の刃が湖月へ迫る。しかしアウラも防戦に徹し、銀子の油断を誘う必要はもはや無い、襲い来る刃を払いながら銀子へ肉迫する。
ブレードを銀子に向けて振り下ろそうとした瞬間、凄まじい衝撃で機体が吹き飛ばされた。戦鎚の形をとった液体金属が横合いから湖月を殴打したのだ。
『おのれ……!!』
「斬れない、操れない。ならば叩き潰すだけよ」
にたりと顔を歪める銀子の表情は、正しく魔女のそれだった。
『でもぉ、叩き潰すって言っても金属が足りませんよぉ?』
萩村の疑問に、しかし銀子は「ふっふっふ」と不敵に笑う。
『問題ないわ。さぁ、二度目の地獄を見せてあげましょう』
落雷を思わせる轟音が重く響き渡る。放たれた黒い彗星がナースホルンのコックピットを捉え、黒く眩い光をまき散らす。
反撃とばかりにいくつもの黒い粘体の槍が鋭く伸び、幹耶を貫こうと迫る。それらの大半は幹耶へ到達する前に爆散し、届いた数本も幹耶に切り払われ、霧散していく。
身体に力が漲るのを幹耶は感じていた。攻撃に失敗し、真斗に重傷を負わせたのは自分の責任だ。当然それは重く受け止めている。だが、ただ首を垂れて思い悩む事を桃髪の隊長様は許さない。
真斗の「斬ってこい」という一言が、まるで女神から与えられた天啓のように輝き、幹耶の身体に力を与えていた。
『胴体の粘体を焼き払え!』
『ほいよ!』
大人の身体程はあろうかという大きさのメロン爆弾が空中にいくつも現れ、次の瞬間、激しい閃光と爆炎を巻き起こす。剥き出しになったナースホルンの機体へ再び黒い彗星が放たれる。
『無駄だ、貴様ら如きにこの装甲は貫けん!』
『なら貫けるまで繰り返すだけだ! ルーキー!』
華村の声と共に剥離白虎を振り抜き、蒼い斬撃が奔る。黒と蒼の光が混ざり合い、ナースホルンの巨体を包み込む。
『無駄だと言っているだろうがぁ! 貴様らは虫みたいにぶっ潰されるしかねぇんだよ!!』
コックピットの表面に走る傷は確実に深まっている、しかし決定打には至らず、光の衣を置き去りにしながらナースホルンは進み続ける。
『くっ――!! ハナさん、一旦退きますか!?』
『いや、必要ねぇな』
弾倉を交換し終えた華村が、再びデア・ドゥンケル・リッターの引き金を引く。そして着弾を確認するより早く、再び引き金を引き絞る。放たれたAP強化弾はアンサラーで付けられた傷を捉えた。衝撃で足が鈍ったナースホルンへ二発目の銃弾が迫り、一ミリのズレも無く一つ目の銃弾と同じ位置に着弾した。
『ぐっ……!?』
コックピット内に赤い光と共に警告を促すブザーが鳴り響く。装甲の破損が許容値を超えつつあった。そこへ更に黒い彗星が渦を巻いて襲い掛かる。セルゲイは咄嗟に機体を右に逸らすが、しかし弾丸はまたも寸分違わず、同じ位置に着弾した。
「ワンホールショット……!」
思わず幹耶は呻いた。この悪天候の中で遠距離から、移動する目標に対して少しのズレも無く一点に弾丸を集中させる。華村の必中必殺のアーツ、黒輝魔弾をもってしても神業と言うほか無い。
どれほどの硬度を持つ装甲でも、度重なる攻撃の前に無傷ではいられない。では、一点に攻撃を集中されればどうなるか。
幹耶の攻撃は決して無駄などでは無かった。その爪痕を、華村が少しづつ広げていく。
『こっの、クソがぁぁぁぁ!!』
身の危険を感じたのだろう。セルゲイは声を荒げ、背中の巨砲を水平にして華村へ向ける。
『おっと、あれはマズいな。任せた』
『ほいよー』
緊張感の欠片も無い声であったが、それは信頼の現れである。砲身の下で巨大なメロン爆弾が炸裂し、照準を狂わせた。爆炎の隙間を刺し貫くように一筋の彗星が駆け抜ける。そしてセルゲイを守る鉄壁の城壁に開いた僅かな亀裂に入り込み、特殊鉄鋼榴弾が爆炎を上げる。
『ぐっ、がぁあぁぁ!?』
『開いた!!』
分厚い装甲の向こう、僅かに開いた隙間から暗い輝きが漏れ出している。ナースホルンのコアであった。
『今だ! やれ!!』
華村が鋭く叫ぶ。幹耶は剥離白虎を構え、僅かに見えるコアを睨みつける。
いつものようにイメージを重ねる必要は無かった。〝斬れる〟と、強くそう確信していた。
何も迷う事は無い。この刀を振り抜き、立ちはだかる全ての障害を切り払う。
セルゲイたちは、彼らなりにこの世に蔓延る悪夢を根絶しようとしたのだ。それは解る。だが、一方を虐げるだけの解決など間違っている。決して成就させるわけにはいかないのだ。
「せぇぇぇぇあぁぁぁ!!」
神剣(アンサラ―)の蒼い光が駆け、ついにナースホルンのコアを捉えた。
『目障りな銀色め……!!』
「ふふ。目端にチラチラと絡み付いて、綺麗でしょう?」
鋭い刃があらゆる方向から湖月へ迫る。掠めた刃が火花を上げ、その陰に隠れた鎚に打たれながらもアウラは真っ直ぐに銀子へ向かう。しかしそのたびに銀子はふわりと翼をはためかせ、あるいは伸ばした液体金属に身体を引かせ、のらりくらりと追撃を躱していく。
ただ一撃を入れれば終わる。そう解って居るからこそ、アウラの心中に焦りが広がっていく。これ以上長引かせれば負ける、そんな確信めいた予感が渦巻く。
甲高い音を上げて迫る巨大な刃を、銀子は舞うようにたっぷりと余裕をもって躱していく。その合間にも攻撃の手を緩めることは無く、落ちる雨粒に銀色が反射して周囲に光の粒が踊っている。
『ぐぅ!』
地面から鋭く銀の棘が伸び、湖月の顎を掠めた。跳ね上げられ、雨空を見上げる湖月の動きが一瞬凍り付く。そのレンズに映っていたのは、暗雲を切り裂く一筋の蒼い光だった。天へ続く階段のように真っ直ぐに伸び、空を貫いている。
『……お父さん――!!』
何か尊い〝繋がり〟が途切れてしまったのを、アウラは感じた。理屈ではない。ただ、はっきりと解るのだ。
アウラは胸の真ん中を撃ち抜かれたような気分だった。再び親を失った、その大きな喪失感に膝が折れかける。
背後に巨大な気配を感じ、アウラは打たれた様に振り向く。そして、目を疑った。
それは銀色の津波であった。疑いようも無く銀子の操る液体金属だ。しかし、信じがたい程の質量を備えている。
『どうして、何が――』
視界の端に違和感を覚えた。つい先ほどまであったはずのものが、無い。
『特殊鋼板の防壁!?』
「その通り。アイランドの全体が私の武器よ」
十メートルは越えるであろう高さの銀色の津波が、覆いかぶさるように湖月に迫る。銀子は攻撃の合間に防壁への浸食を進め、湖月が動きを止めた瞬間を逃さずに、一気に展開させた。
アウラたちの敗因は清掃部隊の実力を測り損ねた事。そして、家族の絆に足を引っ張られた事である。彼女たちは、戦士には成りきれていなかったのだ。
「銀の海に沈め――。アウラ・ヴォルチェノフ」
■
あれほど激しく降っていた雨は、いつの間にかぱたりと止んでいた。割れた雨雲の隙間から、幾つもの光の柱が伸びている。その光をすり抜ける様に、どこかで雨宿りをしていた鳥たちが嬉しそうに飛んでいく。
雪鱗はハンヴィーのタイヤに背中を預け、大地に帰還した輸送機をぼんやりと見つめていた。
輸送機は斜めに傾き、柔らかい土に機体が半分ほどめり込んで不格好なオブジェのような有様だ。無事とは言い難いが、まぁそれはどうでも良い。頭を抱えるのはお偉方の役目だ。
友樹がアーツを解除したので、毒の沼はもう存在しない。輸送機は様々な緊急車両に取り囲まれて、赤々と飾り付けられている。
「んむっ」
「寝起きみてぇな顔してんじゃねぇよ」
眉間に皺を寄せる火蓮が雪鱗の口に何かを突っ込んできた。棒付きキャンディーであった。
「チェリー味だ」
嬉しそうに呟く雪鱗に、火蓮は鼻を鳴らす。
「補給もせずに無茶するから、そんなに消耗するんだよ」
「いやぁ。たまには真面目に、と思ってね」
「ガラじゃねぇな」
「ま、流石に死なせる訳には行かなかったからねぇ」
目を細める雪鱗の視線の先には友樹と子供達の姿があった。流石に子供達の顔色は優れないが、自分の脚でしっかりと立っている。中には救急車で搬送される子供も居るが、大事に至る事は無さそうだ。
「それは友樹の事か? それとも子供達か」
「……さぁ、ね」
薄く笑ってキャンディーを空にかざす。半透明の飴玉がまるで太陽のようだった。
「お帰り。そしてようこそ。この地獄が、どうか君たちにとっての楽園でありますように」
ナースホルンはうなだれ、静かに佇んでいる。動く気配などは微塵も無く、まるで千年も前からそうであったような荘厳さまで感じさせた。
全てを掛け、全てを出し切り、全てを巻き込んで挑み、そして敗れた。
それは一つの答えである。認めるわけにはいかない。納得もできない。しかし、忘れてはいけない。
否定だけでは何も生まれない。彼らの道は、一つ違えば自分が歩んでいたのかも知れないのだから。
幹耶は静かに剥離白虎の刀身を掲げる。
それは、幹耶なりの弔いであった。
「おっつかれー!!」
弾むような声に振り向くと、桃髪の隊長様が駆け込んできた。その輝くような笑顔に、幹耶の表情も自然とほころぶ。
「お疲れ様です。お怪我はもうよろしいのですか」
「完璧よー。ああでも、お腹は空いたかな。ほら、内臓ごと空っぽになっちゃったし」
「凄いです。これほど笑えない冗談は初めて聞きました」
「でしょー?」
二人は声を上げて笑いあう。その度に濡れた髪から水滴が弾け、宝石の様に輝いた。
『よう。楽しそうだなお二人とも』
それは華村の声だった。顔は見えないが、きっと映画俳優のような苦笑いを浮かべているに違いなかった。
『なぁに、妬いてるの? こっちに来て混ざっても良いのよ』
『それは魅力的なお誘いだが、しばらく動けそうにねぇや。慣れないサードアームで無茶したからな』
華村は精も根も尽き果てた、と言った様子で呻く。少なくとも、向こう三日間くらいは冷えたバドワイザーを傾けむけながら休養したい気分であった。この部隊、有給は使えるんだろうか。
『ま、そんな訳だよ。おいらもハナに付いて少し休憩させて貰うかな』
キャメロンが言い終わると同時に、幹耶のバベルに通信が入る。雪鱗からのプライベートチャンネルであった。
『おいっす。生き延びたみたいだね』
『えぇ、おかげさまで』
『うっわ、相変わらず冷たいね。あんまり素っ気なくされると、そのうち快感になっちゃうかも』
カラカラと声を上げる雪鱗。いつもなら舌打ちの一つも返すところだが、今回ばかりはいつもと変わらぬその様子に心強さを感じた。
『本当にお疲れ様でした。敵の殲滅と輸送機の着陸を同時に実現するその手腕、お見事です』
幹耶の素直な賛辞に、雪鱗は「うっわ」と嫌そうな声を上げる。
『なんか素直に褒められると気持ち悪いわね。ま、まぁ、ありがと』
次いで雪鱗が「あー、でも」と呟く。
『基地、一つ駄目にしちゃった。始末書で済むのかなぁ、これ』
『必要経費じゃないですか? お金で解決できることが命に優先して良いはずがありません』
『……ふーん? 少し吹っ切れたのかな』
『そうですね。何も解らないし、何も決められていないのは変わりないですけれど……、それでも良いんだって思いました』
『へぇ?』
『私はもう、一人じゃないのだと教えて貰いました。私はこの清掃部隊と、ピンキーと共にある。それだけで良い。ならば、迷いはありません』
しばしの沈黙。やがて雪鱗は納得したように「ふむ」と一つ呟いた。
『てっきり私は、幹耶くんは〝真斗の剣〟になるのだと思っていたけれど……。君は〝部隊の剣〟になろうって言うのね』
部隊の剣、と幹耶は小さく繰り返す。そして、少し照れくさそうに言葉を返した。
『そういう事になりますかね』
『ふぅん。ま、自分の輪郭を他人に委ねるのも良いけどさ。〝自分は最終的にどうしたいのか〟って事だけは、常に考えておきなさいね』
そこへ別の通信が入る。銀子からのオープンチャンネルだった。『それじゃ』と一言添えて雪鱗が通信を切り替え、幹耶もそれに倣う。
『おつかれー。ともちーは無事に降り立ったみたいね』
『大きいのも片付いたわよ』
『あんたは大して役にも立ってないでしょ、真斗』
意地悪な声を上げる銀子に、真斗が不満そうに唸る。
『姫は流石ね、湖月を単独撃破なんて。今回はちょっときつかったんじゃない?』
『いいえ? 全然?』
『そ、そう? ですよねー……』
本気で解らないと言ったような声を上げる銀子に対し、雪鱗は珍しく困ったような声を上げる。いつも余裕ぶっている雪鱗を見ている幹耶には、それが少し面白かった。
『ところでさ、紹介しなさいよ真斗。初心な男子が切っ掛けを掴めないでモジモジしているわよ』
『ああ、ごめんごめん。千寿幹耶、みーくんね。先日、色々あって入隊したわ。ともちーと銀子が遠征に行って直ぐくらいかしら』
『初めまして、千寿幹耶です』
視線で促され、短い挨拶をする。テロ組織に居た頃は名乗る事など無かったので、未だに少しぎこちない。
『はいどうもー、秋織銀子です。よろしくね。真斗の彼氏なんて大変だろうけど、頑張ってね』
『はい、よろし……って。か、彼氏!?』
『はん? 違うの?』
『ち、違いますよ! 私は別にそんなんじゃ……』
「違うの……?」
鼓膜を震わせる声に視線を下げると、真斗が上目づかいでこちらを見上げていた。首を傾げ、少し寂しそうに問うてくる。
それがわざとだと解っていても、可愛いと思わざるを得なかった。
『……ぷっ。くっ、くふふふふ』
しばしの沈黙。雪鱗が堪えきれずに吹き出し、顔を真っ赤にしていた幹耶が我に返る。図に乗ってニヤつき始めた真斗の顔を押しのけて咳払いをする。
『馬鹿な事を言っていないで、この後はどうするんですか? 隊長様』
『そうねぇ』
潰された鼻を抑えながら真斗が呟く。
『とりあえず、みんなでお昼ご飯でも食べましょうか』
■
それから一週間ほどの時が流れた。街は意外なほどに混乱も少なく、日常はすぐに帰ってきた。民間人への被害が少なかったのが理由の一つだろう。我が身に降りかからなかった火の粉の事など、この街の住人は一晩で忘れてしまうのだ。
バベルを侵食され、その行動を操られていた人々にも目立った後遺症は見られなかった。彼らの多くは元々アンジュに対して悪感情を抱いており、セルゲイたちの思想と近かった事が負荷を軽減したのだと思われた。
そして幹耶たちはと言うと、それなりに平和な日々を過ごしている。
ナースホルンたちとの戦闘は彼の言葉通りに全世界に向けて配信されていた。それらを見た者たちの間では〝アイランド・ワンで犯罪を犯すと、奴らが直接断罪にやってくる〟などとまことしやかに囁かれ、混乱に乗じた略奪行為などが極端に少なかったのだ。
正しい形とは言えないが、清掃部隊の存在が抑止力になっていた。真斗や幹耶としては複雑な心境だが、恐らく雪鱗辺りはニヤリとほくそ笑んでいる事であろう。
「ぅあーっつい……」
流れる汗を拭いながら、モノリスタワー内部の清掃部隊の専用居住区にあるコミュニティルームにやってくる影があった。千寿幹耶である。
汗を拭いながらソファーに座り込む。梅雨が明けてからというもの、アイランドはまるで蒸し風呂だ。それと、とにかく臭気が気になる。恐らくは周囲をぐるりと海に囲まれているのが原因だろう。どこから風が吹いても湿った空気が運ばれてくる。そして母なる海は、数多の生命を孕んでとても生臭い。
モノリスタワー内部は基本的に節電仕様である。思いきりクーラーが使えるのは一部の部屋だけだ。エコと言う名のケチである。まぁこのご時世にアイランドの象徴が電気を無駄使いしていては示しがつかないので、仕方がないと言えばその通りではあるが。
「お茶ヲどうゾ」
「ああ。ありがとうございます」
ソファーの背もたれに深く寄りかかったまま、天井に視線を向けたままグラスを受け取る。氷とグラスが奏でる涼やかな音色を聞きながら、冷えた麦茶を喉に流し込んだ。
身体に染みわたる感触を楽しみ、深く一息つく。もう一回グラスに口をつける。
ふと、違和感を覚えて視線を下げた。
「ぶふ――!?」
幹耶は噴水の様に麦茶を噴き出す。グラスを差し出してくれたのは、みょうちくりんな機械人形であった。一メートルほどの大きさで、ゴミ箱にボールを乗せた様な単純な見た目をしている。一応目鼻や口と思わせる部品が取り付けられ、それが返って安っぽさを演出していた。
「なっ、なん……!? ど、ドローン?」
「お雪だヨ。ホンモノ、だヨ」
「そんな訳ないでしょう!?」
思わず突っ込んでしまった。人形の方はと言えば、とぼける様に顔を傾けている。首が無いので身体ごと、だ。
「おゆきロボー。こっちおいでー」
「はーイ」
不意に飛んできた雪鱗の声に向かって、短い手足を器用に動かして人形が駆けていく。あのボールのような手でどうやってグラスを持っていたのだろう。
「あの人、また何か変な事を始めたんじゃ……」
幹耶の眉間には、誰かさんのせいで深い皺が刻みこまれつつあった。
「あっはははは! 上手く行ったじゃない」
「あぁ緊張した。まったく、何で私がロボットの真似なんか」
その場所には正体不明の機械類が雑然と積み重ねられていた。天白雪鱗の私室だ。とにかく物が多いが、一応は整理されているので生活には事欠かない。
そんなミニスラムの様な場所で雪鱗が笑い声を上げ、それを受ける機械人形は不満げな、しかし流暢な言葉を零す。
「仕方ないじゃない。自分が大手を振って歩けない立場なのは解っているでしょう? 〝アウラ〟」
「まぁ、ね」
そう声を掛けたのは秋織銀子だ。艶めく銀髪を乱雑に纏め、馬の尻尾のように垂らしている。声を上げるたびに踊る毛先に視線を向けながら、アウラは短い手足を器用に竦めて見せた。
「もう少し何とかならなかったの? このボディ」
「最高に可愛いじゃん? おゆきロボ」
「自分のロボットを作るセンスがどうかしているって言っているのよ」
「そこが重要なんだよ」
雪鱗は教師を気取って指を立ててみせる。
「また私が気まぐれに変なおもちゃを作った。それが大切なの。変に勘ぐられないし、妙な機能を持っていても、なんとなく納得されるわ」
「あんた、部隊内でどんな立場なのよ……」
アウラが眉毛に当たるパーツを〝八〟の字にして呆れた様な表情を作る。なるほど、確かに妙な機能だ。
「でも意外ね。もっと抵抗するかと思ってた」
分厚い窓ガラスの外に視線を向けたまま銀子が呟く。
「選びようのない選択肢を突き付けた本人がよく言うわ」
それは「もう一度死ぬか、雪鱗と銀子達に従うか」というものだった。
「両親を死に直させたことについては?」
「ま、思う所が何もないと言えば嘘になるけどさ。結局、戦って負けた。それだけでしょ? やりたい事は全てやったし、言いたいことも全部ぶちまけた。そしたら、〝もう良いかな〟って」
「意外とさっぱりしているのね」
「抜け落ちたのよ、色々と。それに興味もあったし」
その言葉に雪鱗が「うん?」と首を傾げる。
「あんた達の事は大っ嫌いだけどさ、その行く末には興味がある。それだけよ。退屈だったらいつでもその首を掻き切ってやるから、覚悟しておきなさい」
言葉だけは堂々としたものだが、おもちゃのような寸胴なボディでは冗談の類にしか聞こえない。
「再戦ならいつでも歓迎よ」
「……しばらくは控えるわ。また潰されるのは遠慮願いたいもの」
アウラの心には、銀色の津波がトラウマの様に刻み込まれていた。
「姫もほどほどにね。一度支配下に置いた金属は元通りにはできないんだから。防壁、再建までかなり掛るってさ」
銀子はわざと聞こえないふりをする。他人の迷惑など、心の底からどうでも良い。
「それにしても、この部隊は女が多いわね」
「あら、私も数に入れてくれているの?」
銀子の言葉にアウラがおどけるような声を返す。
「もちろん。キワモノって枕詞は外せないけどね。アンジュだという事に目を瞑れば、普通と言えそうなのは火蓮と真斗くらいかしら」
「はぁ? 穂積火蓮は良く知らないけれど、秋織真斗はやばいでしょ」
当然と言わんばかりな様子のアウラに、雪鱗と銀子が視線を注ぐ。
「あんた達ですらその程度の認識なのね。内側に居ると見えにくいのかな」
「よく解らないわね」
銀子が腕を組みながら言う。
「確かに秋織真斗本人の戦闘能力はさほど高くない。埋めるなり沈めるなり、無力化する方法ならいくらでもある。でも、仮にそうなったらどうする?」
「助けるね。他の何を差し置いても」
アウラに水を向けられた雪鱗が答え、銀子もまた頷いた。
「そう。彼女は死なない。無力化しても他の隊員が必ず助ける。更に問題なのが、彼女の周りを固める隊員が、どれをとっても一騎当千という事よ」
なるほど、と雪鱗が頷く。真斗は部隊の中心であり、要だ。自分ならば一番に狙う。しかし真斗は不死であり、無力化したところで一騎当千の強者共が必ず助ける。敵としては最悪だ。
「死なないし、殺せない。周りを固めるのは常識外れの化け物ばかり。しかもそれが自然と集まってくる。今はこんな街に閉じこもっているけれど、彼女が本気で何かを求め始めたら、もう最悪よ」
アウラは声のトーンを落とし、まるで予言でもするかのように言葉を零す。
「こんな腐りかけの浮ついた世界なんて、あっという間にひっくり返るわ」




