踊る水銀 中編
何もかもが雨に濡れ、息を潜めていた。
道も、ビルも、空も。全ての物が灰色に沈み、薄絹の様な陽光がそれらを寂しそうに撫でている。足もとのアスファルトから、咽かえるほどに生臭い臭気が立ち昇る。
それは暗い湖に沈み込んだような光景だった。変わらないのは空に揺蕩うダストの翠だけ。今にビルの背後から大きな魚が顔を出すに違いない。
環状道路の脇に立つビルの屋上に、小さな人影があった。少女は黒いレインコートに身を包み、耳元で跳ねる雨音の声を聴いている。
狭い空間に閉じ込められたような。広い世界に一人取り残されたような、不思議な感覚だった。死後の世界などというものがあるのだとすれば、きっとこのような場所であるに違いない。
自分はその場所へ行けるのだろうか。いつか死ぬことはできるのだろうか。
解らない。だが、一つだけ確かな事がある。たとえ自分が死せずとも、仲間たちはいつか召される時が来る。
今日か、明日か。一年後か、百年後か。
いつであろうと同じ事だ。やがて取り残された私を包む光景は、きっとこのような景色なのだろう。
『姫さんが湖月と接触、戦闘を開始しましたぁ。緒戦はやや優勢と言った所ですー』
ざあざあと鳴く雨に混じって、萩村の声が脳内に響く。
『当然よ、あの子が負けるものですか。イエス様だって道を譲るわ』
遊ばずにさっさと決めてくれれば良いけど。と真斗は思うが、それがいかに望みの無い期待であるかも知っている。しかし、それで良い。秋織銀子は切れば必ず敵を屠るジョーカーだ。その部分だけには絶対の信頼を置いている。それ以外は危う過ぎるが。
『問題はユキさんのほうですかねぇ。ドローンの数が多すぎて手を焼いているようですー』
火蓮の操る炎のアーツは、兵器が相手では効果が薄い。雪鱗は輸送機の防御で手一杯、攻撃に裂ける力は少ない。そこへ降り注ぐ苛烈な攻撃と、想定を大きく超える数の敵。状況だけを見れば完全な負け戦だ。普通ならば即座に撤退を命じる場面である。
しかし、真斗は不敵に唇を歪めた。
『心配ないわ。絶対になんとかしてくれる』
不安が無い訳ではない。もしかしたら、と最悪の考えが脳裏を過る事もしょっちゅうだ。だが、それでも薄い胸を張って堂々と笑う。仲間を信じて存分に任せる。それこそが隊長のあるべき姿であると真斗は考えていた。
水底から魚影が浮かび上がるように、霞む道路の上に黒い影が滲む。雨音を砕いてアスファルトを砕く音が周囲を揺るがす。
「ようやく来たわね」
ナースホルンは巨体を引きずるようにして進んでいく。這いつくばるように、何かにすがり付く様に。それでも確固たる意志を持って進んでいく。
実の所、彼らの言い分も解らなくはない。
手にした異能の力を無暗に振るおうとする輩は多い。困窮した状況の中であれば尚更だ。身勝手に振るわれる力は悲劇を生み、悲劇は恨みを、恨みは新たな悲劇を生んでいく。
恐らくはセルゲイも過去に何かを奪われたのだろう。そしてアンジュを恨むようになり、撲滅を訴え、そしてまた奪われた。
絶望して当然だ。復讐を望んで当然なのだ。
しかし、それでは前に進めない。復讐は新たな復讐を生む。いつまでもそんな調子では、アンジュとノーマルの共存など望めない。
誰かが断ち切らなければならないのだ。その復讐に正当性があろうとも、成就させるわけにはいかないのだ。
伏して耐えろとは言わない。声を上げるなとも言わない。だが、暴力に訴えるべきではないのだ。自分がされたら嫌だと思う事を他人にしない。ただそれだけで、世界はもう少し優しくなれるのに。
どうしても、この世はままならない。
「さぁ、そろそろ幕引きと行きましょうか」
轟音が真斗の潜むビルの前に差し掛かる。小さな影が弾かれた様に駆け出し、躊躇なく屋上の淵から身を躍らせた。
『……始まった』
暗く霞む環状道路の上に立つ幹耶の耳に、キャメロンの潜むような声が届く。
周辺に設置されたカメラの映像をバベルに映し出す。今まさに真斗がナースホルンの巨体に躍り掛かった所であった。
鋭く伸びる粘体が真斗を迎え撃つ。肩を裂かれ、脇腹を抉られ、耳が吹き飛ぶ。纏ったレインコートは千切れ、桃色の髪が露わになる。それでも真斗は怯みもせずに真っ直ぐに飛び込み、身体を盾に回転させ、全体重を掛けてナースホルンの頭部にネイルを叩き込んだ。
粘体の防御を切り裂き、ネイルの切っ先が頭部装甲を叩く。遠雷のような音が雨煙の向こうから響いて幹耶の鼓膜を揺らした。
続けざまに二発の炸裂音。ネイルから放たれたソニックショットは粘体の防御を吹き飛ばす。即座に真斗はネイルを振るうが、ナースホルンの分厚い装甲に僅かな爪痕を残すのみだ。
触手が伸びるように、粘体が四方八方から真斗に迫る。真斗は踊るような足取りで華麗にそれを躱していくが、不意にその動きが止まった。触手の一本が真斗の足首を捉えたのだ。
舌打でもしたのだろう。真斗は口元を歪めると、躊躇なくネイルの銃口を掴まれた足首に向け、ソニックショットを放つ。
「なっ!?」
幹耶の喉から思わず声が飛び出る。真斗の足首が吹き飛び、真っ赤な鮮血が噴き出した。身体は反動で弾き飛ばされ、入れ替わるように先ほどまで立っていた場所に粘体の槍が殺到した。
真斗は痛みに顔を歪める。足首の再生は既に始まっているが、回復には十秒ほどを要するだろう。
『やはり歯が立たないか』
『でもちゃんと引き付けているよ。ほら、相手の脚が鈍った』
華村とキャメロンは幹耶の更に後方。廃ビルの一つに身を潜めていた。
『まさか、ちゃんと相手をしてくれるなんてね。無視して突き進んでくるかもと思っていたけれど』
『無視なんてできないだろうさ。この街における、憎いアンジュの筆頭だからな』
そんなもんかねぇ、とキャメロンが首を傾げる。
『そもそもさ、背中の主砲はまだ生きているんでしょ? 脚を止めてアレをモノリスタワーに討てばあっちの勝ちじゃん。なんでそうしないのかね』
『娘のアウラの手でアイランドに引導を渡させたいんだろう。部隊の足止めはマザーアゾット強奪未遂事件から着想を得ているんだろうな。両親の目的は俺たちの打倒ではなく、邪魔者の足止めだ』
『非合理的だね。目的達成が最優先だろうに。ま、そのおかげでこちらにも勝ち目があるんだけど』
『命も魂もベットして、あらゆる場所から掛け金を借り出して、何もかもを巻き込んで臨んだ大舞台だ。拘るしかねぇのさ』
華村はくつくつと喉を揺らしながら、しかし油断なくスコープを覗き込んでいる。彼のアーツは相手を直接視認しなければ発動させられない。ナースホルンのコックピットは未だ霧向こうだ。
『どうします? 援護とかしたほうが良いのではないですか?』
幹耶の言葉に華村はつまらなそうに鼻を鳴らす。
『馬鹿言え、囮の意味がなくなるだろうが。俺達は隊長様を信じて待てば良いんだよ』
華村やキャメロンのそれと比べて、幹耶のアーツは射程が短い。しかし同時攻撃を仕掛けるのであれば、幹耶の間合いに合わせるしかない。一度で決めなければ反撃を受けるであろうし、最悪その場で自爆されかねない。
『考えれば考えるほど無謀ですね。うまく行くでしょうか……』
『何を不安がっているのさ。失敗すれば死ぬだけだよ。普段と変わりないでしょ』
思わず言葉を漏らす幹耶に、キャメロンがカラカラと笑い声を返す。ピンキーは女性ばかりが強い部隊だと思っていたが、男性陣も中々どうして肝が太い。
『そういえば、銀子さん……でしたっけ。一人で機動兵器の相手をするなんて、流石に無謀過ぎませんか』
堪らずと言った様子で華村が噴き出した。
『それこそ心配ねぇさ。アイツのアーツは金属支配だって言ったろ?』
『いくら金属を自由に操れると言っても、相手は刃など受け付けないでしょう』
『良く考えろルーキー。金属なら何でも操るんだ。相手の装甲は何でできている?』
そこまで言われて幹耶はようやく思い至った。装甲に限らず、兵器のパーツは殆どが金属製。それらを操れるとあれば、彼女の前で原形を保てる兵器などありはしない。
『あれ?』
不意にキャメロンが声を上げる。目にしているのは萩村から送られた湖月の機体データだ。
『どうした。エロサイト見ててワンクリック詐欺にでも引っかかったか』
『たとえが古すぎてよく解らないよ。そうじゃなくてさ、湖月のスペック見てたんだけど……』
キャメロンが注目していたのは、湖月の重量だ。湖月は体長五メートルほどであり、ベイビーリップよりも一回り小さい。しかしそれでも、一二トンという重量は機体の大きさを考えればあまりに軽すぎた。
『こいつの装甲、金属じゃないかも……』
銀子は歓喜に胸を打ち震わせていた。
広い街のあちこちで戦火が立ち昇り、超えられてはならない防衛ラインを軽く突破され、目の前にはポリューションの操る人型機動兵器。
援軍は望めず、撤退も叶わない。敗北すればモノリスタワーは陥落し、アイランドは存在意義を消失する。
何という異常。何という極限。何という僥倖。
これほど舞台の整った状況があろうか。これほどまでに心躍る戦場が他にあろうか。
この素晴らしい闘争を用意してくれた眼前の敵には感謝の一つも述べたいところだが、それも無粋というものだ。今はただ、この戦いを存分に味わい、楽しもう。
湖月の手にする高周波ブレードが振動を止め、雨の気化と耳鳴りの様な騒音が収まる。次の瞬間、景色に溶け込むように湖月の姿が掻き消えた。
「懲りないわねぇ」
銀子は口端を歪め、再び瞳を閉じる。
意識の端に圧力を感じた。防衛部隊の装甲車両が弾き飛ばされ、銀子に向かって一直線に飛んでくる。
銀色が閃き、銀子の操る液体金属が装甲車両を飲み込んだ。たちまち車両は分解され、ゴムや樹脂製の部品が地面に散らばった。
それを待っていたかのように銀子の背後に大きな気配が現れ、脳を刺すような高周波が湧きあがる。
『貰った!!』
湖月はブレードを振り下ろす。しかし、銀子の足元から噴水の様に吹き上がった液体金属に腕を跳ね上げられて攻撃を防がれた。銀子は自身の周辺に防御用の液体金属を残していたのだ。
「発想が素人ね。もっと私を愉しませなさいな」
尖った犬歯を剥き出しにし、銀子は凶悪な笑みを浮かべる。
湖月は大きく距離を取り、銀子のか細い身体を猛獣を警戒するように睨みつける。
『くそっ!! 刃を掠らせるだけで仕留められるのに……!!』
歯軋りが聞こえてきそうなうめき声だった。
高周波ブレードの切断力も驚異的だが、たとえ刃が直撃せずとも巻き起こった風圧だけでもダメージを負う。それが解っているからこそ、銀子は腕を弾いて攻撃そのものを逸らすのだ。
湖月の攻撃はブレードのみ。ならばいくら姿が見えずとも攻撃を防ぐことは容易い。姿は隠せても、その気配や駆動音までは消せないのだから。
不意にアウラは、湖月の足元からほの暗い気配が立ち昇るのを感じた。反射的に横へ飛ぶ。その影を追うように地面からいくつもの鋭い棘が突き出した。既に銀子は地面に貯まった雨水に紛れ込ませ、あちこちに液体金属を紛れ込ませていたのだった。
『っ……!』
思わずアウラは息をのむ。その背後で別の水溜りが盛り上がり、ぐるりと閃いて湖月へ襲い掛かった。
死神の鎌の様な一撃をブレードで受け流す。そこへまた別の場所から刃が襲い掛かり、辛うじて避けた所で足元から再び銀の棘が牙を剥く。
転がるように逃れ、顔を上げる。湖月のカメラに映りこんだのは空中で噛みついてきた、あの銀狐の頭部だった。雨水を巻き上げて首を伸ばし、湖月を、アウラを喰らわんと、咢を大きく開いている。
『舐めるな!!』
一閃。銀狐の頭部は上下に切り分けられ、上顎が宙を舞う。そして空中でぐるりと渦巻き、無数の槍となって湖月の頭上に降り注いだ。
槍は湖月の装甲に爪痕を残すが、貫通には至らない。しかしアウラの胆を冷やすには十分な効果があった。
『切り離した金属も支配が継続するの……!?』
「そうよ。もちろん限界はあるけれど」
銀子は濡れた髪をかき上げながら、妖艶と呼ぶに相応しい微笑みを浮かべる。
間髪入れずに刃が湖月に襲い掛かる。それは剣であり、棘であり、降り注ぐ槍であり、大鎌であった。戦い慣れをしていないアウラは、息つく間もなく迫る刃を辛うじて凌ぐので精いっぱいだった。
「……すげぇ……」
一人と一機の戦いを遠巻きに眺めていた防衛隊の隊員が声を上げる。
相対するのは戦術兵器。到底、一人の人間で相手をできるような代物ではない。だというのに、銀子は今や完全に湖月を圧倒していた。
「ランクSのアンジュってのはマジの化物だな。このまま勝っちまうんじゃねぇのか!?」
「さて、どうだろうな。そうあってくれれば良いが」
興奮気味の男に、別の隊員が冷ややかな声を返す。興を削がれた男は鼻を鳴らし、どういう事だよ、と不満そうな声を上げる。
「秋織銀子の金属支配は確かに強力だけどな、金属の性質までは操れないんだ」
「日曜礼拝じゃねぇんだ。遠回しな言い方はよせ」
冷ややかな男は大げさに口端を歪めて見せる。
「機械人形の装甲を貫くには、金属の硬度が足りないって言っているんだ。振るうだけじゃ威力も足りないし、重量も頼りない」
はっ、と勝ち誇った様に笑い、興奮の冷めない男は両腕を大きく開く。
「お前知らないのか。どんな装甲も、あいつの前ではチョコレートバーと変わらねぇんだ。今にあいつもピカソの絵みたいになるさ」
「知ってるよ」
冷ややかな男は嫌そうに顔を歪め、しかし次の瞬間には難しい顔をする。
「なんであいつは普通に攻撃しているんだ。さっさと決めれば良いものを」
それは湖月の方も同じだ。入念に計画を練り、時間をかけて準備をし、事に望んでいる。当然、清掃部隊のメンバーが持つアーツに関しても調べつくしているはずだ。であれば、地上兵器と秋織銀子の持つ〈舞踏水銀〉の相性が最悪な事くらいは承知しているはずだ。そして承知しているのであれば、装甲を浸食されて機体を無力化される前に、強引にでも押し潰しに掛かるのが普通では無いか。
「ヘッ、どうでも良いね。遊んでいるんじゃねぇのか? なんにしたって心配ねぇよ」
未だ興奮している男の声にはもはや耳を貸さず、冷ややかな男は違和感に顔を歪める。
秋織銀子が遊んでいるというのは、恐らくその通りだろう。彼女の戦闘狂ぶりはアイランドの内外に轟いている。同部隊の秋織真斗や天白雪鱗も戦闘には積極的だが、銀子の〝戦闘を愛する〟という姿勢はやや常軌を逸している。だが、それにわざわざ合わせているあの機械人形はどういうわけだ。ただ圧倒されて手が出せない、といった様子にも見えないが。
やがて男は顔を上げ、小さく呟いた。
「あの機械人形、何かを待っているのか……?」
一際大きい剣戟が響き渡る。液体金属が蛇が這うように銀子の元へ集い、巨大な翼の様な形を取った。蝙蝠を思わせる翼を無意味に一つ震わせて、銀子は湖月に微笑み掛ける。
「ねぇ、質問をさせてくれないかしら」
突然の奇妙な申し出にアウラは戸惑い、湖月が顎を引く。銀子はその沈黙を了承と受け取った。
「貴方にとっての〝世界〟って何かしら」
湖月に表情を浮かべる機能でもあれば、きっとこれ以上ないと言うほどに顔を歪めただろう。それほどまでに、銀子の質問は唐突で意味の不明な代物だった。
『……何? 世界? 変な薬でもキメてきたのかしら。興味ないわ』
「誰もが軽々しく口にするわよね。世界は終わった。世界を救う。世界は腐っている。世界は美しい。でもさ、世界って何よ?」
『会話ができないの? どうでも良いわ、そんな事』
吐き捨てるようにアウラは言う。しかし銀子は少しも気にする様子も無く肩を揺らす。
「どうでも良いって事は無いでしょう。貴方は今、世界を相手にしている」
『私はただ、アンジュを根絶やしにしたいだけよ。世界がどうとかなんて』
「世界ってのはね、〝目に見える範囲〟だけの狭っ苦しい物よ。貴方がどんな目にあって、どうしてアンジュを恨んでいるかは知っている。でもね、正直私にはどうでも良い。それこそ興味が無いわ」
『どうでも……良い、だと』
地の底から響くような声だった。それは暗く、熱く。触れる者全てを焼き尽くす怨毒であった。
『どうでも良いだと! 良くも言えた物ね!? あの苦しみ、屈辱、恐怖。決して忘れる物か! 貴様らアンジュの一人一人にこの恨みを――』
「別に珍しくも無いわね」
気勢を削がれ、湖月から吹き上がる憤怒の炎が霧散していく。
『な、なん……』
「残虐の限りを尽くして犯し殺す。〝外〟では日常的に行われているわ。アンジュに対して……ね。知らないとは言わせないわよ」
アンジュは人類を滅ぼす害虫であり、これを地球上から駆除するべきである。それが反アンジュ派の掲げる正義だ。つまり、アンジュは人では無く、何をしても許される存在なのだと。
アイランド内での活動は大人しいが、外での彼らの迫害行為は苛烈を極める。日常的な搾取や集団暴行などは当たり前。考え付く限りの残虐さをもって彼らを〝駆除〟する事も厭わない。中にはそれを好んで行う輩まで居る始末だ。
アンジュの多くは普通の人間と大して変わらない。他人に害を及ぼせるほどの能力を持つ者などは一握りだ。しかし彼らは容赦しない。彼らの〝世界〟には害あるアンジュしか居ないのだから。
「貴方はただ意趣返しをされただけよ。目には目を、歯には歯を。残虐には残虐を」
アウラは返す言葉を必死に探す。仮に彼女がまだ肉体を持っていれば、喉を激しく上下させていた事だろう。しかし銀子はそれを許さず、追い討ちをかける。
「貴方の悲劇は取るに足らない。どこにでも転がっている、犬も食わないような代物よ。くだらない悲劇。くだらない復讐。恥をアイランド中に叫んで回る様な物よ、貴方のしたことは」
『……だまれ』
「結局貴方の世界は一人分でしかないのね。舞台は最高、道具は極上。でも役者がこれではね」
『だまれ』
「貴方たちを殺したアンジュは既に居ない。果たされないこの復讐には、なんの意味も無い」
『だまれ!』
「拍子抜けね、アウラ・ヴォルチェノフ。剣に宿る理想は無く、思想も無い。守る物も無く、他を理解もせずに自身の利益を求めるばかり。敵としては最低よ」
『だまれ黙れダマレだまれ!!』
湖月の機体から黒い炎が吹き上がる。白い装甲にヒビが走るように黒い根が走り、たちまちに噴き出した黒い粘体が機体を包み込んでいく。
『父も、母も、アンジュに家族を奪われた。怨みを抱えて必死に逃げ延びたアイランドではアンジュが我が物顔で街を歩いている。あげく〝アンジュも人間だ。アンジュの人権を認めろ〟とのたまう始末。こんな事が許せるわけないでしょう! 更には上から目線で説教か!? 人の皮をかぶった化物風情が何を偉そうに!!』
「今の貴方に言われたくは無いわね」
肩を竦めて銀子は呟く。
『奪われたから奪った! 殺されたから殺すんだ! 何が悪い!? 何が間違っている!!』
「いや、良いんじゃない? そういうの」
『…………は?』
再び気勢を削がれたアウラがとぼけた声を上げる。
「殺したいから殺す。うん。果たせもしない理想と復讐を掲げるより、よっぽど解りやすくて良いわね。私の相手をするのだもの、それくらいの勢いがなくては」
アウラは唐突に理解した。この女は、秋織銀子はあらゆるものに、心から興味が無いのだと。
戦場があり、闘争があり、刃を交える相手が居る。それが強敵であればなお良い。理想を持ち、信念を掲げ、折れぬ相手であれば僥倖だ。この女にはそれしかないのだ。アンジュもノーマルも関係ない。ましてや他人の身に降りかかった災厄になど、砂粒ほどの関心も無い。
ただ闘争のみを求め、戦場をさ迷い歩く。
真っ直ぐな異常。純粋な狂気。そのシンプルさこそが秋織銀子を最高峰のアンジュ足らしめているのだと。
『……ふざけるな』
アウラは認めるわけにはいかなかった。自分の身に降りかかったあらゆる悲劇が、ありふれた些事であるなどと言う事は。しかし、銀子のいう事もまた事実だ。
だからこそ許せなかった。踏みにじられたと感じた。そう思わなければ、心が揺らいでしまいそうだった。
『この気狂いが! 人を馬鹿にするのも大概にしろ!!』
湖月が高周波ブレードを地面に突き立てた。そして刀身を跳ね上げ、銀子に向けて地面の瓦礫を放り投げる。
「芸が無いわね。及第点にも遠いわ」
銀の翼が壁となって瓦礫を防ぐ。建物や岩などを使った質量攻撃など、飽きるほど凌いでいる。
しかし、この状況はアウラにとっては狙い通りであった。
銀子は一歩も動いて居ない。完全に湖月を、いや、アウラを舐めきっている。アクティブ・ステルスは二度見せた。質量攻撃もこれで二度目だ。どちらも銀子は動かず、迎撃の姿勢を取っている。その余裕は金属を支配するアーツがあってこそだ。
だが、もしもそのアーツが通用しなかったら、どうする。
銀子の正面から耳を劈く高周波が響く。それとほぼ同時に銀の壁を貫いてブレードの切っ先が迫ってきた。湖月は最速の攻撃である突きを放ったのだ。
瓦礫に紛れての速攻。ありふれた手段だ。銀子は退屈そうに指を動かし、湖月のブレードや装甲に食い込んだ金属を操る。装甲を侵食してこちらの武器とし、動きを止めて勝負を決めるつもりだった。
「……んんん?」
銀子は眉根を寄せる。浸食が進まない。なぜだ。まさか何か対策でもされているのか。
「意外とやるじゃない」
唸りを上げて迫る刃を見つめ、小さく呟く。
『死ね……!!』
その頬に、冷たい一筋の汗が伝った。
いくら最小スペースの仮設基地とはいえ、輸送機クラスの航空機が離着陸できる規模の航空基地だ。雪鱗たちの駆け回る滑走路はそれなりの長大さを誇っている。だと言うのに、そのいたる所に戦闘用ドローンの姿があった。見れば微妙に武装や塗装に違いがある。米国製に限らず、周辺の基地からも集まっているようだった。
大きな影がフェンスを突き破って乱入して来る。通常のドローンより何倍も巨大だ。
『ドイツ製のタンクドローンか。ハナがやりあったやつだな。こりゃますますキリがねぇや』
『学校の時みたいに、まとめて閉じ込めて蒸し焼きにする?』
『こんなに広く散開されてちゃ無理だ。ちまちまやっても、こっちが先に干からびる』
雪鱗は小さく息をつく。滑走路上の敵を排除するのは不可能。しかし、どうにかして輸送機を着陸させなければいずれ削り殺されるのは明白。
こういう時は視点を変えるべきだ。自力で無理なら、他の何かを利用する。地形、気候。あるいは、どこかに余剰戦力はないか。
『そうだ、良い事を思いついた。これなら一石二鳥だね』
『おい、お前――』
どうせロクな代物じゃねぇだろう、と続く火蓮の言葉を無視して雪鱗は空を振り仰ぎ、バベルを介して遠くの輸送機へ向けて声を飛ばす。
『ともちー、そのまま強制着陸だよ。頭から突っ込みな』
『はっ!? ゆっきー正気かよ』
不安そうな声を上げる友樹に、しかし雪鱗は不敵に口元を歪める。
『大丈夫、ちゃんと考えがあるよ。ともちーにも少しは仕事をして貰おうかな』
華村の覗くスコープに、ナースホルンの巨体がくっきりと映り込む。射程内だ。はやる気持ちを抑える様に、華村は大きく深呼吸をする。仕掛けるにはまだ早い。
ナースホルンは前進を続け、やがて幹耶の射程に近づく。
『セット』
華村が号令をかける。幹耶は剥離白虎を構え、イメージを重ねていく。手元にぼんやりと蒼い光が集まる。
通用しない。自分は何者でもない。出撃前に雪鱗から向けられた言葉が、根を張ったように脳裏にこびりついている。何度削ぎ落そうとしても、消えてくれない。
果たしてこの剣は、あの規格外の敵を切り裂けるのか。そんな不安が足もとに絡みつき、膝が浮つく。
緩く頭を振り、細く息を吐き出す。その様子を見咎めたキャメロンが声を掛けてきた。
『気負わなくていい。フォローとバックアップは任せてよ。そのためのフォーマンセルなんだから』
『……ありがとうございます』
幹耶は意識して大きく息を吸い込む。梅雨の生臭さに咽そうになった。しかし、それが返って意識に輪郭を取り戻させた。
ナースホルンのコックピットが射程に入ると同時に剥離白虎を振り抜き、一息に切り裂く。粘体の除去は他のメンバーがやってくれる。自分はそのイメージを現実に上書きさえすれば良いのだ。
薄霧の向こうから刺すような視線を感じた。気付かれたか。いや、最初から待ち伏せは想定していたのだろう。真斗に伸びていた触手の数本が幹耶に向かう。一瞬肝を冷やしたが、しかし幹耶に到達する手前で弾けた。キャメロンがファニーボムで防いだのだ。
『邪魔をするな、アンジュ共!!』
真斗と幹耶に攻撃を加えながら、なおもナースホルンは前進を続ける。
『へっ、邪魔するに決まってんだろ。メロン!』
『あいよー。真斗、熱かったらごめんね』
『え、ちょ』
黒い巨体の周りに、緑色の球体が無数に姿を現した。次々に炸裂し、ナースホルンの粘体を吹き飛ばしていく。
『ぐっ……! この程度で――』
『うわっちゃちゃちゃ!? メロン! 私まだ避難してな、あちゃちゃちゃ!』
魂の込められた歌声を聞きながら、華村は三十二㎜重装弾狙撃銃、〈デア・ドゥンケル・リッター〉の引き金を引く。放たれた黒い彗星は真っ直ぐにナースホルンのコックピットを目指し、着弾と同時に強烈な爆炎を上げた。撃ち込まれたのは通常の銃弾では無く、粗製アゾットを使用した高性能炸薬を弾頭に用いる特殊徹甲榴弾、APHEだ。
『ぐぉっ――!?』
彗星の爆発でコックピットを防護していた粘体が吹き飛び、さしものナースホルンも足が鈍る。幹耶はその隙を見逃さず、剥離白虎を抜き放つ。
「シッ――――!!」
鋭く息を吐き、身体も魂も、全てを一つの刃として放つ。蒼い斬撃が一直線に鋭く伸び、剥き出しになったコックピットと捉える。
空が割れたかと思うような、暴力的な金属音が鳴り響く。やがて光が静かに霧散し、その向こうが露わになった。
コックピットには大きな傷が走っていた。だが、それだけだ。装甲の破断には至らず、当然その向こうにあるコアにもダメージを与えられていない。
『……この程度か、アンジュ』
怒りの様な、侮蔑のような、あるいは憐みの様な声が黒い巨体から響く。
『目標健在!! 幹耶さん、逃げ――』
悲鳴のような萩村の声より早く、幹耶へ黒い触手が槍の様に鋭く伸びる。しかし、全身全霊の一撃を放った直後の幹耶にはそれを躱す事は叶わない。どこか遠い気持ちでその切っ先を見つめる幹耶の喉から、言葉が漏れる。
「失敗……した……?」




