湖の月と銀の翼
『ナースホルンは現在環状道路を南下中。時速およそ二十キロメートル。さほど速度は出ないようだ』
並走する車中から顔を出し、黒い機体を睨むシャルムの声がバベルに響く。他の隊員たちは最寄りの詰所に武器弾薬の補給に向かっている。流石に普通の人間を丸腰でコレの前には出せない。
スピネルは巨大ポリューションを引き続き〝ナースホルン〟と呼称する事にした。暫定ランクはSからSS。僅かに残された電力を自身の粗製アゾットで無理やりに増幅し、あの巨体を動かしているようだった。
『悪いシャル、遅くなった』
シャルムの駆る軍用車に火蓮のハンヴィーが並ぶ。
「部品は全部見つかりましたか? 真斗さん」
「うー……。うん、たぶん大丈夫……」
刃の捻じれたネイルを回し、色々な方向から眺めながら真斗が幹耶へ応える。
「作戦行動中に分解清掃なんてし始めるからだ」
「故障は自然に直っても、汚れは取れないもの。お手入れは大切よ? 女の子のお肌と一緒ね!」
「痛んでも直ぐに再生しちまうお前が言うと、嫌味にしか聞こえねぇな」
鼻を鳴らし、火蓮は視線をフロントミラーから下ろす。アスファルトを巻き上げながら走る黒い巨体を横目で一瞥し、舌打をした。
「んで、どうするよ隊長様」
そうねぇと呟き、真斗は黙考する。
銀子と友樹たちの乗った輸送機のバッテリー限界まで残り三十分と少し。街の混乱は収まっていない。ナースホルンを撃破すれば事態が収まるのであればそれを優先するところだが、その確証はない。
『いや、収まると思うよ』
突然に雪鱗の言葉が響き、真斗は目を見開いて肩を跳ね上げる。どうやら通信が繋ぎっぱなしであったらしい。
『はーちゃんと私でも全く手掛かりが掴めなかった一連の機械火災。無人機の暴走。そしてたぶん、最近頻発している暴動やアンジュを狙った犯罪も〝デミ〟の仕業だと思う』
『唐突だな。根拠はあるか』
『根拠も何も、実際に目の前でポリューションが機械を操ってるじゃない。浸食型、って考えたらしっくり来るんじゃないかな』
火蓮の言葉に雪鱗が応える。
〈デミ〉。それはポリューション本体から分裂して生まれる、いわば分身である。ポリューションによる被害の殆どは、このデミによってもたらさられるのだ。
デミは多くの場合で、本体であるポリューションを同様の性質を持つ。本体が獣の姿をしていればデミも同様に。物質を取り込んで消化してしまうスライムタイプであっても、また同様だ。
ナースホルンとベイビーリップを操っていたのはポリューション本体で間違いないだろう。なれば、その分身であるデミが無人機や生体ナノマシンの集合体であるバベルを侵食して人々を操っても、なんら不思議はない。
『同様の性質を持つポリューションが二体同時に現れたってのか? そんな事……』
『初めてじゃないでしょ?』
眉を潜め、火蓮は口の中で「そういや、そんな事もあったな……」と呟く。幹耶と真斗が、獣の姿をしたポリューション〝ガルム〟タイプと戦ったショッピングモールでの一件を思い出していた。あの時は、確か同タイプと二連戦になったはずだ。
しかし、と幹耶は考える。あの時は人間を自由にポリューションに変えてしまう悪魔の手、ミュータントプログラムが絡んでいたはずだった。
雪鱗へプライベートチャンネルの接続要請を出す。雪鱗は『とりあえず、合流する』と皆に告げ、それに応じた。
『雪鱗さん、本当に今回の件には絡んでいないのですか?』
『ミュータントプログラムだね? 言っておくけど、本当に関わっていないよ。プログラムも他に漏らしていないし……』
『しかし相手のポリューションは連携をしています。とても偶発的に同じ性質を備えたとは思えません』
『だね。そうなると、私が回収する前にプログラムが漏れていたのか、誰かに磯島が渡していたのか……』
ふむ、と幹耶が唸る。
『心当たりはありませんか? たとえば磯島のご友人とか』
性質の悪い冗談を笑い飛ばすように、雪鱗が声を上げる。
『まっさかぁ。あの偏屈野郎に友達なん――、ん? 居なくもないか?』
雪鱗は記憶の糸を辿る。磯島はとあるアゾット研究者と懇意にしていたはずだ。名前は何と言ったか……。確か、ウォッカが似合う感じだったような。
敵性ポリューションの言動を思い返す。例のプログラムが関係しているならば、そこにヒントは無いだろうか。
『幹耶くん。ナースホルンの言葉に個人を特定するような発言は無かったかな?』
『――いや、特には。あ、でも一つだけ。〝オリガ〟って人の名前っぽいですよね』
オリガ。それはロシア人女性に比較的多くみられる名だ。それとアンジュ、特にピンキーに対する強烈な悪意……。
『セルゲイ……? セルゲイ・ヴォルチェノフか!』
思わず声を張り上げる。アゾット強奪未遂事件の直後からアンジュの危険性を世に訴え、突然姿を消したロシア人アゾット研究者の名だ。オリガと言うのはその妻の名であったはず。彼女またアゾット研究者の一人であり、雪鱗も直接話したことがある。
そしてセルゲイは数少ない磯島の理解者であり、友人である。逃亡直前にミュータントプログラムを託す可能性はあるのかもしれない。
だが仮にセルゲイがそのプログラムを手に入れたとして、それでどうしたと言うのだ? まさか他人に使いはすまい。
雪鱗の脳裏にある予感が走る。
『ねぇはーちゃん。セルゲイの妻子が殺害された事件だけど、遺体ってどうなったのかな』
『はいはーい。ちょっと待ってくださいねぇ』
最初から聞いていたと言った調子で萩村が応じる。幹耶は「プライベートチャンネルじゃないんかい」と突っ込みかけたが、直ぐに諦めた。この人の前ではあらゆるセキュリティが障子紙と変わらない。
『……あれ。遺体の受け入れ記録がありませんねぇ? お墓の下に直行したわけでもなさそうですし』
『遺体搬送担当者の名前と、検死した医師の名前は?』
『搬送担当者はリチャード・ロウ。医師はアラン・スミシ―ですぅ』
雪鱗は小さく呻き、首筋を強張らせる。その二つの名はどちらも身元不明を表す符丁に使われるものだ。そんな物を堂々と使うとは、こちらを馬鹿にしているとしか思えない。
検死もされず、どこにも行き着いていない遺体。そしてオリガと呼ばれた、おそらくはポリューションであるベイビーリップの搭乗者。そこから一つの予測を立てる。
現場の血痕は本物だった。それは雪鱗も自分の目と鼻で確認している。セルゲイの妻子を襲った事件は実際にあったのだ。だが、直ぐに死に至った訳ではないのだろう。
血の海に沈む妻と娘を目の当たりにしたセルゲイは、既に手遅れである事を悟ったはずだ。そこでセルゲイは妻子にミュータントプログラムを使い、二人をポリューションに変異させた。そして自身にもプログラムを使用し、ポリョーションへと変じた。
アンジュに復讐するために。
流石に突飛過ぎるだろうか。しかし実際に起きている事実を前提にすると、それが一番しっくり来る仮定ではある。計画は元より練り上げていたものだろう。実行する気も手立ても無かったのかも知れないが、それが根底に存在していた為にあのような特性になったのではなかろうか。
ピンキーを特に敵視しているのは、たぶん私のせいだろうなぁと雪鱗は苦笑を漏らす。友人である磯島も、復讐対象であるアンジュも雪鱗が殺害してしまったからだ。
『しかし、浸食型ですか。そんなポリューションがありうるなんて』
ため息を付くように幹耶が言葉を吐き出す。
『あり得ない、なんて言いだしたらアンジュも大概だからね。このアイランドでは何でも起こりうるのさ』
そうは言いつつも、雪鱗もまた驚愕していた。
まさか、ポリューションにあれほど明確な知性があるとは。
今までポリューションには獣程度の知性しか残されていないと考えられてきたし、雪鱗もそう思っていた。しかし、奴らはどうだ。
雪鱗は思う。私が知らないだけで、磯島とセルゲイはそれを知っていたのだろうか。つまり、ポリューションに変じても人間としての意識と知性は残るのだと。恐らくはそうだろう。でなければ自らポリューション化など望むまい。
幹耶の耳に電気モーターの鋭い駆動音が響いてきた。下道を走ってきた雪鱗の白いバイクと、華村とキャメロンが乗り込んだ黒いスポーツカーが合流してきたのだ。それを確認した真斗は「来たわね」と微笑む。
『私、みーくん、ハナ、メロンでナースホルンを止める。お雪と火蓮はともちー達の所へ向かって万一に備えて』
ナースホルンを倒せない、あるいは倒しても無人兵器が止まらなかった場合を想定しているのだろう。つまり、輸送機を雪鱗のホワイトスケイルで守りつつ、強制着陸させろと言っているのだ。
『きっつい事言うねぇ。サードアームでもあれば成功する可能性もあるけど』
肩を竦める雪鱗へ、萩村の言葉が飛ぶ。
『ユキさんの〈ケントゥリオ〉なら、火蓮さんの車に積んでありますよー』
『だからこの車は妙に重いのか!?』
準備が良いにも程がある。萩村にもシャルムと似たような未来視の能力でもあるのではないかと火蓮は疑った。
雪鱗はバイクを放置し、火蓮のハンヴィーへ乗り込み輸送機が着陸予定の航空基地へ。幹耶と真斗はシャルムの軍用車、ハナとメロンは引き続きスポーツカーでナースホルンを追う。
『しっかし、このデカブツは何がしたいのかしらねぇ』
ただ走るだけのナースホルンを見つめて真斗が呟く。そこへヨハンからの通信が入る。
『自爆攻撃を仕掛けようとしている可能性がある』
『じ、自爆?』
『ナースホルンの巨体は動力部と無人兵器の整備区画があるが、大部分は弾薬庫で占められている。今記録を追ってみたんだけど、どうやら反応弾頭も積んでいるらしい』
聞きなれない言葉に真斗は首を傾げる。
『反応弾頭? それが爆発するとどうなるのかしら』
『アイランドの地形が変わる。中央区で炸裂すればドーナツ型に、外周区でもクロワッサンだ』
『それは、流石に洒落にならないですね……』
顔に青味が差した真斗と同様に、幹耶も表情を曇らせる。
『じゃあさっさと履帯を壊して止めちゃおうよ!』
そうキャメロンは言うが、華村は否定するように首を横に振る。
『半端な真似をすればその場で自爆されるぞ。コックピットを破壊するしかなさそうだな』
『しかしだ、アレの硬さは俺と火蓮で嫌というほど立証しちまった。今は更に粘体の防御付きだ、どうやって破壊する?』
シャルムの声に華村は小さく唸る。
『真斗が気を引いて、メロンが粘体を除去。俺とルーキーでコックピットを貫く。それしかないだろうよ』
しばし言葉を失っていた真斗が小さく頷く。
『……そうね。迎撃ポイントを設定する。シャルルンは隊員たちを率いて周辺防御をお願い。無人兵器の横やりを防いで』
『了解だ』
『お昼ごはん前の大仕事よ、総員死力を尽くせ。ピンキーGO!!』
「反応弾と来たか。思いっきり協定違反の代物だな」
「そうねぇ……」
面倒そうな火蓮の言葉に、雪鱗は今にも泣き出しそうな空を見つめながら気の無い返事を返す。
「なんだ、流石に疲れたか。それともあっちに混ざりたかったか?」
「いや、ちょっと考え事」
先ほどから強烈な違和感が消えない。何か根本的な事を見逃しているような気がしてならない。
雪鱗はこめかみを指先でつつきながら考える。
セルゲイがナースホルン、妻のオリガがベイビーリップ。ここまでは良いだろう。だが妙だ。これほど入念に準備をしておいて、最後は真っ向勝負とは。
それほどまでにこちらを過小評価していたのだろうか。まぁそれもあるだろう。しかし自分ならもう一手を別に用意するが……。
「……娘?」
そうだ。二人には娘がおり、同時に行方不明になっているはずだ。両親と同じくポリューションに変じているとすれば、この状況でどこで何をしているのだ。
『はーちゃん。例の機体だけどさ、ヨハンさんの話では独・米・日の共同開発だったわよね』
『そうですねぇ』
『日本は機体開発していないの?』
雪鱗は自分の言葉に違和感を覚えた。ロボット技術に長けている日本が開発を行っていない訳がない。
『問い合わせはしていますが、知らぬ存ぜぬですねぇ。開発計画書は頂いてきちゃいましたけどぉ。あると解っていれば、探すのは簡単ですー』
やはりあったか、と雪鱗は送られてきたファイルを展開する。完全自立型の人型二足歩行兵器だ。大変細身で、装甲やオプションパーツは目的に応じての着脱式。武装も基本は近接用高周波ブレード一本というシンプルさ。実に日本らしい機体デザインである。
『局地戦仕様……ね。こいつは今どこに?』
『それがぁ、サッパリ見つからないんですよねぇ』
突然アラームが鳴る。雪鱗たちのバベルにとある映像が映し出された。
映像は中央区にある交差点の一つだ。アイランド・ワンの交差点は有事の際には四枚の特殊鋼板の防壁が地面からせり上がり、防衛拠点の役割を担う事ができるようになっている。
「防壁が――!?」
雪鱗が声を上げ、火蓮が眉を顰める。分厚い特殊鋼板には大穴が開いていた。しかし破壊されたというよりは〝切り取られた〟という表現が正しいように思えた。それほどに真っ直ぐで綺麗な切り口であった。
装甲車が燃えている。車体は大小の塊に切り分けられ、煌々と炎を上げている。
不意に光が閃いた。瞬間、別の装甲車が二つに割れ、爆散した。その炎が何かの表面を舐める。何もない空間を避けるように炎の煌めきが不可思議な歪み方をした。
その歪みへ銃弾が殺到する。防衛に当たっている警備部隊による反撃だ。空を切るだけであるはずの軌跡は、しかし何かに弾かれて火花を散らしている。
『何あれ。何が起きているのかしら』
『戦闘中……かな?』
同じ映像を見ていたのだろう。届いた真斗の言葉に雪鱗は呻きを返す。彼らは一体何と戦っているのだ。そもそも、敵はどこだ?
指で板を叩くような音が雪鱗の耳に届く。映像の中でもついに泣き出した空の涙が乾いた地面を濡らし始めた。
見る間に勢いを増す雨脚にある輪郭が浮かび上がる。それは巨大な人の形に見えた。透明な巨人である。細く長い棒状の物を握っており、そこからは降り注いだ雨が水蒸気となって立ち昇っている。
透明な巨人が掻き消えた。移動したのだと理解する前に、新たに二つの火の手が上がる。敵の正体も解らぬまま、配備されたばかりの戦闘車両がスクラップに変わり果てていく。
『はーちゃん、あれって』
『アクティブステルスですかぁ。実用化まで漕ぎ着けていたんですねぇ』
感心したように萩村が熱っぽい呟きを漏らす。
『まぁ他に無いですよねぇ。恐らくはあの透明な巨人が、日本の開発した局地戦仕様二足歩行兵器〝湖月〟で間違いないと思いますー』
湖月は急速にモノリスタワーに迫る。アイランド・ワンの防衛機構も想定外の脅威にまるで歯が立たないようだ。長くは持つまい。
セルゲイたちは最初からまともにこちらとやりあう気など無かったのだ。過剰な演出でこちらの気を引き、戦力が分散したところで本丸を狙う。それがこのタイミングになったのは、ナースホルンやベイビーリップの敗北という事態は想定していなかったからだろう。
雪鱗は大きく舌打ちをする。
『食い込まれた! 真斗! どうする!?』
裏をかくのは大好きだが、やり返されるのは大嫌いだ。雪鱗は苛立ちを隠さずに叫ぶが、対する真斗はのんびりと首を捻る。
『うーん。ま、大丈夫でしょ』
『い、いやいや。モノリスタワーが陥落したらお終いだよ!?』
『あら。珍しく冷静さを欠いているわね、お雪。一人忘れているんじゃない?』
雪鱗は顎を引き、眉間のしわを伸ばしながら考える。とある人物の名前と姿が脳裏に浮かんできた。
『あぁ。この状況で大人しくしているわけないもんね』
『でしょー?』
二人は笑いながら灰色の空を見上げた。その視線の先には、鋼鉄の鳥がゆったりとした様子で旋回している。
銀色の髪がさらりと流れ、三日月のように歪んだ口元から鋭い犬歯が覗く。
「後は任せたわよ、ともちー」
バベルのウィンドウを指で払い、秋織銀子は身を翻す。
「はっ!? ちょ、ちょっと待てよ。何をする気だ」
「何って、決まってるじゃん。適当に金属貰っていくわね」
背中に掛かる柴野友樹の声を受け流し、銀子は貨物室に向かう。薄く開いたカーゴドアから吹き込む風に目を細め、待ちきれないと言った様子で微笑む。
「これだから大好きなのよ。アイランドは」
銀子は身体を大空へと躍らせる。しかし、パラシュートなどは身に着けていない。
次の瞬間、ガラス細工のように美しく繊細なその背に金属が集まり、ある形を作り出す。
それは悪魔か蝙蝠を連想させる様な、美しく穢れた銀の翼だった。




