合流と抹茶ラテ
空港のフロアマップを前にして、千寿幹耶は困り果てていた。待ち合わせ場所はエリアD―3の出入り口と聞いていたのに何度確認してもそのような場所が存在しないのだ。
都合の悪い事に案内所も遠い。これではもはや巨大迷路のようだ。
幹耶は四月から海上実験都市アイランドの管理機構《スピネル》の清掃部隊《ピンキー》での清掃業務に従事すべく、飛行機で数時間をかけこの空港に降り立ち……そしていきなり壁にぶち当たる事となった。いわく、迷子である。
このまま頭を抱えていても仕方がない。初日から手間を掛けさせるのは気が引けるなと思いつつも、遅刻よりはましだろうと思い、待ち合わせ場所を指定してきた天白雪鱗に連絡を取ろうと携帯端末を手にした所で、背後から不意に声を掛けられた。
「失礼、もしかして迷っているのかい? 良ければ案内させてもらうが」
幹耶が振り返ると、筋肉質な大柄の男性が立っていた。良く日焼けした肌に、禿頭が印象的だ。
「ええと……」幹耶は一瞬戸惑い、身構えた。どう見ても空港の関係者には見えなかったからだ。かなり体格がよく、威圧感もある。しかし男性は丸腰であるし、その言動に悪意を感じない。危険は無さそうだと判断し、素直に助けてもらう事にした。
「実は、待ち合わせ場所が見つからなくて困っています」
「どこで待ち合わせをしているんだい」
「D―3出入り口です」
「D? 本当に?」男性が驚いたような顔をする。「それは見つからなくて当然だ。君はスピネルの関係者なのか。あまりそうは見えないが」
「はい、本日付けで清掃部隊に配属になりました」幹耶は答える。「そうおっしゃるという事は、貴方も?」
「いや、俺は既に引退した身だ、今は直接の関係はないよ」男性が答える。「しかし、清掃部隊……、ピンキーとはな。これも何かの縁か。ともかく案内をしよう、ついておいで」
そう言って歩き出した男性の後ろについて幹耶は歩く。急に飛び掛かられても対処できる程度の間隔をあけて。それにしても事情はよく解らないが、思いがけない幸運に恵まれたようだ。待ち合わせの時間に間に合いそうだと幹耶は思う。
しばらく歩くと、セキュリティの為と思われるガラス扉が見えてきた。禿頭の男性が扉の傍らに控える警備員と会話をしている。何やら親しげだ。しばしその様子を眺めていると、男性と会話をしていた警備員に手招きをされた。配属先と氏名を名乗り、承認を待って男性と共に扉をくぐる。
「そういえば、先ほどの〝ピンキー〟とはなんですか?」広くはない通路を歩きながら幹耶が男性にたずねる。
「部隊名だよ。清掃部隊は一部隊しかないが、隊長が趣味で名前を付けた」
「部隊名……」随分と物々しい事だ、と幹耶は思う。「ピンキーとはどういう意味の言葉でしょう? あまり耳慣れないですけれど」
「さてな。俺は聞いたことが無いが……あいつの事だからな。どうせ〝可愛いから〟という所だろう。深い意味はないだろうよ」男性が豪快に笑いながら答える。
そうしているうちに広い場所に出た。エントランスだろうか。人影はそう多くないが、誰もがグレーの戦闘服を着込み、小銃を担いでいる。明らかに一般人が立ち入るようなエリアではなさそうだ。先ほど男性が驚いたような表情を見せた理由はこれか。いわゆる普通の少年という見た目の幹耶とは微塵も関係性が無さそうな場所だ。
「さて、ここを右にまっすぐ進めば目的地だ」男性がそういって指で示した先に出入り口が小さく見える。
「はい、ありがとうございました。おかげで待ち合わせに遅刻せずに済みそうです」幹耶が礼を言い、お辞儀をする。
「そいつは良かった」男性が人懐こそうな笑顔を見せる。「近いうちにまた会うだろう。その時は一杯奢おごらせてもらうよ」
そう言いながら男性が立ち去る。その遠ざかる背中を眺めながら、名前を聞き忘れた事に遅まきながら気が付いた。しかし、今更どうしようもない。わざわざ追いかけるほどの事でもないだろう。
男性に言われたとおりに通路を進み、無事に空港を出るとレースをあしらった白いワンピース姿の女性が大きく手を振っているのが目に入ってきた。羽織った空色のカーディガンと、肩まで伸びた薄氷のような色をした髪が腕に合わせて揺れている。
派手さは無いが結構な美人だ。すらりとしたモデル体型に快活そうな吊り上り気味の瞳。身に纏う空気はいたずら好きの猫のような、あるいは人懐こそうな犬のような印象を同時に相手に感じさせる、不思議な雰囲気を持つ女性だった。
軽くあたりを見渡すがほかに人影はない。となればあれは自分に向けられたものだろうと解釈し、幹耶は歩み寄る。
「やあやあ、君が千寿幹耶くんかな?」そう女性が訪ねる。
「はい。よろしくお願いします」少し緊張した面持ちで幹耶が答える。「天白さんですか?」
「そうそう、私は天白雪鱗。こちらこそよろしくね。気軽にお雪様って呼んでいいよ!」
バチッという効果音が聞こえてきそうな勢いで雪鱗がウィンクをする。流れについていけず、幹耶は「はぁ……」と曖昧に返すので精一杯だった。
「ふーむ、幹耶くんは真面目系の人なんだねぇ。そうかそうか」雪鱗がなぜか納得顔でうなずいている。「まぁそんなことよりも、一つ謝らないとね。ごめん! そこの出入り口って、フロアマップに載ってなかったでしょう? よく辿りつけたね」
「ああ、それは、運よく案内をしてくれる人に出会えましたので」
「へぇ、案内?」雪鱗が形の良い顎に指を当てて首をかしげる。「空港の施設警備隊なんて、気難しい人たちの集まりなのに珍しいなぁ」
先ほど出会った禿頭の男性には気難しさなど微塵も感じなかった。引退した身だと言っていたし、普段はあの場にいないような人なのだろうと幹耶は思った。
幹耶が黙ってそんな事を考えていると、その沈黙をどう勘違いしたのか「あ! 大丈夫だよ、ピンキーのメンバーは優しい人達ばかりだからね! もちろん私が一番優しくて常識人なんだけども」と雪鱗がまくしたててきた。どうやら幹耶が今後の人間関係に不安を感じているようだと思ったらしい。とりあえず、どうやら悪い人ではなさそうだと幹耶は判断した。少しズレている印象を受けるが。
「さて、早速だけど移動しようかね。別に急ぐ必要なんかも無いけれど、のんびりしていたって何かが始まる訳じゃないからね」そう言いながら雪鱗が歩き出した。しかしすぐに立ち止まり、こちらを振り返る。「と、その前に飲み物でも買ってこようか。幹耶君はハイオクとレギュラーはどちらが良いかな」
急にキラーパスが飛んできた。出会ったばかりではあるが、先ほどのやり取りから雪鱗がどのような返しを期待しているのかはうっすらと理解できていた。幹耶は逡巡したのち、少しだけ頑張ってみる事にする。
「……レギュラーでお願いします」意識して雪鱗の眼を見つめながら幹耶が言う。「もちろん、コーヒーの事ですよ? 私はこれでも人間ですので」
間。
雪鱗はこれ以上ないと言うほどにきょとんとしている。いや自分で振っておいてその反応はなんだ。そう幹耶は思うが、時すでに遅し。
まずい、これはやってしまったか、と幹耶が冷や汗をかきかけたところで雪鱗がほどけるようにくすくすと笑いだした。
「良いね、君。いやー、まさか乗ってくれるとはね。最近は誰もフリに乗ってくれなくて寂しかったんだよー? 最近ちょっと忙しくて、みんな余裕なくてね」雪鱗が嬉しそうに言う。「そうだ、このまま右に真っ直ぐ行くと、モスグリーンの車が停まっているから中で待っていてね。あっ! それと、ピンキーではお互いを下の名前か愛称で呼び合う決まりになんとなくなっているから、そのようによろしくね~!」
そう言いながら雪鱗が小走りで遠ざかっていく。その背中を見送って幹耶は大きなため息をついた。巨大迷路のような空港内を彷徨っていた時の数倍も疲れたような気がする。人付き合いの経験が浅い幹耶にとっては荷が勝ちすぎる相手だ。
それとも、狙ってあのような冗談を言ったのだろうか。ともあれ、おかげで幾分か緊張が解れた気がする。
「しかし、よろしくと言われても……。初対面でそれは厳しいってものですよ、天白さん……」
そうひとり呟き雪鱗に言われたとおりに歩いて行くと、ほどなく一台の自動車が見えてきた。しかしそれは幹耶が想像していたようないわゆる自家用車などではなく、軍用の高機動装甲車であった。武装の類は見受けられないが、それでも近寄り難い異質な雰囲気を十分に放っている。
ドアのガラス越しに装甲車の中を伺うが誰も乗って居ないようだった。まさか雪鱗がこれを運転していくと言うのだろうか。幹耶は、あの少女が重厚な装甲車を駆る姿を想像してみたが、それは違和感と言う言葉だけでは到底表しきれないものだった。
「誰だ。何をしている」
背後からの声に幹耶が振り向くと、一人の女性が絹糸のような灰色の髪を風に靡かせながらこちらに歩み寄って来るのが見えた。
雪鱗とはまた違ったタイプの美人だ。動きやすそうなパンツスタイルに、獣じみた鋭い雰囲気と腰まで伸びた灰色の髪が相まって、まるでハイイロキツネのようだなと幹耶は思った。
「ああ、あれか。噂のルーキーか」
「はい、千寿幹耶といいます。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく……と、ユキのやつはどうした? 迎えに行かせたはずなんだが」
面倒くさそうに灰髪の女性が言う。
「天白……いや、雪鱗さんの事でしたら、飲み物を買いに行かれましたよ」
灰髪の女性が眉根を寄せ、両手に持った筒状の物を困ったように見つめた。全部で三つある。どうやら缶コーヒーのようだ。
「うーん、そうなのか。やっぱり、私が気を使って見せるとろくな事にならんな。どうも裏目に出る」
「いえ、そんな事はないです。お気遣いありがとうございます。」
「……律儀というか、真面目な奴だな。アンジュには珍しいタイプだ。あぁ、悪い意味ではないよ」女性が器用に片手で三本の缶コーヒーを持ち、もう一方の手をポッケットに入れると、幹耶の後ろでガチャリと車のドアが開錠される音が聞こえた。
「さ、中でユキの奴を待とうか。三月に入ったとはいえ、まだ外は肌寒い。……と、そうだ。あたしは穂積火蓮だ。周りは下の名前で呼ぶが、まぁ好きなようにしてくれ。お互い気楽に行こう」
男勝りと言うか男っぽいと言うか、とにかくサバサバした人だった。女性が憧れる女性と言えばこの様な感じであろうか。
火蓮に連れ立って幹耶は後部座席に乗り込んだ。車内はかなり改装されているようで、思いのほか快適だった。シーツも柔らかい。これなら長時間の移動でも尻や腰の痛みは軽微であろう。幹耶がイメージしていた軍用車とはかけ離れていた。
「何と言うか、良い車ですね」幹耶が素直に感想を言う。「外見からはもっと無骨な印象でしたけれど」
「おお、解ってくれるか。ルーキーは良い奴だな」火蓮が缶コーヒーを運転席の下にある浅いトレーにしまう。「周りの奴らは皆、車なんて消耗品だ、そんな物に金と時間を掛ける意味が解らないって言うんだ。あたしから言わせれば解ってないのは奴らのほうさ。車は人生のパートナーだろうが。なぁ?」
「は、はぁ……。そうですね……」途端に饒舌になった火蓮に幹耶は少々たじろいだ。火蓮の口ぶりからすると、この高機動装甲車は火蓮の個人所有という事になる。その事実にも驚いた。個人の趣味と言ってしまえばそれまでだが、少々常軌を逸しているのではなかろうか。
「こーら、話を聞いてくれそうだからって、新人に詰め寄ってるんじゃないよー」いつの間にか戻って来た雪鱗が肘でガラスを叩いている。「火蓮。ドアを開けるか、飲み物を受け取ってくれない? 見ての通り手が塞がっていてね」
火蓮が身体を伸ばして助手席のドアを開けると、三月の涼風と共に雪鱗が車内に滑り込んできた。はい、と言ってカップを幹耶と火蓮に手渡す。
「お、なんだこれ。美味いな」手渡されたドリンクを早速一口飲んで火蓮が言う。「この寒いのにミント系とはある意味で洒落ているが」
「ミントジュレップだよ。じゃじゃ馬のドライブには最適でしょう?」雪鱗がくすくすと笑いながら言う。
「カクテルかよ! いつからここはチャーチルダウンズになったんだ? バラのレイでも飾れってか」火蓮がカップをホルダーにしまう。「ユキは何を飲んでいるんだ? 凄く甘ったるい匂いだな」
「んー? 黒糖ミルクハニーエスプレッソの生クリームトッピングだよ」
「……。お前の血はきっと歯が溶けるほど甘いんだろうな」
「褒めてもあげないよ?」
「褒めてないし、いらんよ」
火蓮がキーを回し、エンジンに火が入る。とは言っても電気自動車のようで大変静かなものだった。
深緑の高機動装甲車が滑るように走り出す。果てしなく巨大だと感じていた空港が見る間に小さくなっていく。
ちなみに、幹耶のカップに入っていたのは、なぜか抹茶ラテだった。
それも、極端に甘くされた。