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撤退戦の最中で多くの兵士が死に、艦に残った者は新兵同然の少年達ばかりだ。
いつまでも緊張を保ってはいられず、監視の目は薄い。
由弦に案内されるまま、たどり着いた脱出艇の冬のような肌寒さにこよりは震えた。吐き出す息が、僅かに白く煙っている。
「私ね、本当は分かっていたの。旋くんがお別れに来たんだって。そういう顔を、していたんだよ」
隣で膝を着き、周波数を弄る由弦は何も言わない。計器が発する光源に照らされる顔が、少しだけ強ばっているのが分かるくらいだ。
こよりは旋とよく似た由弦の顔に、懺悔するよう続けた。
「旋くんね、私の歌を録音したいって、言ったの。死んでいった、先輩達と同じように」
気付けば、血の気が引くほどに右手を握りしめていた。
「別れる時が来たら、笑顔でって決めていたのに、怖くて、信じたくなくて。私って、馬鹿だよね。もっと、ちゃんとやれるって思っていたのになぁ。ほっぺたを叩くなんて、最低だよね」
旋との思い出は、悲しいものばかりじゃない。
終わりが早く訪れると知っていたからこそ、辛くても必死になって笑いあった。
なのに今、思い出そうとしても浮かんでくるのは、別れ際に見たひたすらに辛そうな顔ばかりだ。旋もまた、同じ気持ちだったらと思うと、やるせなくなる。
目頭が燃えるように、熱い。
止めどもなくあふれ出す涙に、皮膚が溶けてしまいそうだ。
「いいか、こより。長くは持たない、すぐに勘づかれて……俺達は独房に放り込まれる。ヘマするなよ? いいな、絶対だぞ」
赤く明滅するボタンが、鮮やかな青に変わる。
ノイズ。
耳障りな砂嵐が徐々に小さくなり、スピーカーを震わせたのは『こよりか?』と問う、落ち着いた低い声だった。
『通信は禁止されているっていうのに、困った子だな』
はやく、何か言わなくては。
声を必死になって絞りだそうとしても、喉から漏れてくるのは嗚咽ばかりでまともな形にならない。
焦りはつのり、舌は痺れ、縺れる。
思いが、言葉が喉に詰まって苦しかった。
「困っているのはこっちだよ、兄貴。こよりにちゃんと言ってやらないから、軍規を破るはめになったんだ。……最後まで、かっこつけんなよ。馬鹿野郎」
『……ごめん。こよりを心配させたくなかったんだけど、失敗だったみたいだね。返って、不安にさせたようだ。ごめん』
「ちがう、ちがうよ。旋くんが、悪いわけじゃないっ」
血管が白く浮いた右手を、由弦の大きな手が包み込んだ。強ばって冷えた体温を戻すよう染みこんでくる暖かさに、こよりはすっと息をつく。
「ねえ、旋くん。録音機、まだ持っている?」
『持っているよ』と返す声に、再びノイズが混じる。遠くから聞こえてくる咆吼は怪異のものだろう。すでに、戦闘域に入っているのか?
施錠した扉が、激しく打ち据えられる。由弦は顔を強ばらせ、「早く」とこよりに耳打ちした。
与えられた時間は、僅かだ。
こよりは、目を閉じた。溢れ出る悲しみのすべてを、愛しさへ変えてゆく。
愛している。
ただ、伝えたい。
今まで歌ってきたように、これからも歌えるように。
築いてきた思い出を、辛いものにしないように。いつまでも、悲しみに暮れないように。
「旋くん、私……歌うよ。旋くんのためだけに、歌う」
聞いて。
冷たい外気を、胸一杯に吸い込む。
喉の奥から思いと共に飛び出す、ソプラノ。
溢れる甘い音が、扉の向こうの騒音を一気に押し出し、艦内ドックには神聖な空気が満ちてゆく。
庭師の子であった、旋。
仕事の手伝いに連れてこられた彼の気を引こうと、こよりははじめて歌を紡いだ。全ては、彼のためだった。
能力を認められ、竜騎兵を癒やす歌師として、多くの人の前で歌ってきけれど、歌に込めた思いはいつも、ただ一人だけに向けられていた。今も、そうだ。
伸びる声の余韻を、戦闘の轟音がかき消す。旋と共にいる竜騎兵達の喧噪と悲鳴が、ノイズと共にスピーカーを揺さぶった。
見えなくとも、激戦を繰り広げているのだと分かる。こよりはたまらずに、マイクにすがりついた。
「旋くん……お願い、お願い……」
死なないで。
行かないで。
戻ってきて……一緒に、生きよう。
胸の奥からせり上がっている言葉のすべては、決して口にしてはいけないものだ。弱い言葉は、旋の決心を鈍らせてしまうだろう。
声を殺し、泣くしかないのだろうか。
『ありがとう、こより。君の歌がある限り、僕はもう――何も怖くはない。君のために戦って、死ねる』
風を切って飛ぶ、翼のはばたき。その力強さは、泣くばかりのこより奮い立たせようと、力強く唸った。
(やめて、もう、やめて!)
スピーカーからの、爆発音。
一拍遅れ、軍艦が大きく揺らぐ。飛び散る瓦礫の派手な音に、こよりは旋の名を叫んでいた。
「嫌だ! 嫌だよ、旋くん。私、まだなにも伝えていない! 行っちゃいやだよ!」
「格納庫にいるのは、誰だ!」
遠目からでもわかるほど、扉がたわんだ。
由弦の緊張しきった顔に、そう長く持ちこたえられないだろうと知る。
『由弦、軍服の内ポケットを見てくれ』
打ち付けられる扉を睨んでいた由弦は、旋に言われるまま、上着をまさぐった。「なんだよ、これ」と取り出したのは、小さな封筒だった。
こよりは封筒を受け取って、中身を掌にこぼす。
ごろごろと落ちてきたのは、乾燥した球根だった。先が、鋭く尖っている。
『アネモネだよ。風早のお屋敷で咲いていたのを、覚えているかな?』
酷くなるノイズは、まるで嗚咽のようで。旋の声を、悲しく響かせた。
「うん、覚えている。覚えているよ、旋くん」
透けるように薄く、可憐な花びら。
華やかな色合いなのに、どこか寂しげな雰囲気を持つアネモネの花に囲まれ、こよりは旋への思いを歌声に乗せて響かせていた。
「花言葉は、君を愛する。……だよね?」
「そうだよ」優しく囁かれる声に、こよりは深く息をついた。
『言わないつもりだった。僕は君に、何も残してあげられないから。思いを伝えてしまったら、ずっと、ずっと苦しませるだけだと、そう思ったんだ。でも――駄目だ。駄目だったよ、こより。君に伝えたくて、たまらない!』
冷たく沈んだ空気に、熱いひといきれが混じる。
「通信は禁止されている、何のつもりだ!」
扉の向こうから聞こえてくる怒声に、すっと、由弦が立ち上がった。
鋭い視線の向こう、破られた扉を踏み越えて、たくさんの靴音が怒声と共に荒々しく進入してくる。
殺気立った空気に怯えるこよりの肩に、由弦の手がそっと添えられた。
「大丈夫だ、俺が時間を稼いでやる。じゃあな、さよならだ……兄貴」
旋に向かって悪態を残し、由弦は「ちゃんと、やるんだぞ」とこよりの額を小突いて脱出艇から飛び降りた。
(ありがとう、由弦)
こよりは、ノイズに声が消されてしまわないよう、マイクに唇を押し当てた。
機械の冷たい感触は無機質すぎて、いま、ここに旋がいないのを強く感じさせた。
たまらずに、涙がこぼれる。
嗚咽だけは堪えようと、ぎゅっと拳を握った。
「歌師は、竜騎兵が結界となった後も、歌で癒やす役目がある。私、旋くんに言ったよね。いつかその時がきたら、私は毎日、旋くんを思って歌を送るって。私、歌うよ。ずっと、旋くんのために歌う。旋くんが残してくれる未来を思って、歌うからっ」
『こより、聞いて』
目に見えていなくても分かる、怪異の放つ咆吼。遠く離れたこよりをかみ砕こうと、雄々しく吠えている。
『僕を忘れないでほしい。駄目だと何度思っても、僕は願わずにはいられなかった。ごめんね、こより。僕は君を――』
「旋く――」
『愛してる、こより。僕を、忘れないで』
艦が大きく揺さぶられ、こよりはシートから投げ出された。
ぐるりと回る視界、激しい痛みが全身を襲う。
何が起きたのか。
必死になってこじ開けた目は、小さな窓を真っ白に埋め尽くすほどの強い光を捉えた。
「待て、こより!」
気づけば、駆けだしていた。
由弦の声を振り払い、行く手をふさぐ大人達を押しのけ、こよりはひたすらに階段を駆け上る。
「だめだよ、旋くん! 私、まだ……まだ、たくさん言いたいことがあったんだよ!」
行かないで。
あなたがいない世界なんて、なんの意味も無い。
階段で何度も躓きながら、こよりは少しでも近くにいたいと、上を目指した。
「いらないんだよ、旋くん! 私だけの世界だなんて、本当は欲しくないの。返ってきて、どうか、返ってきて! 旋くんがいないと、私、駄目なんだよ!」
巨大な艦を揺さぶったのは、衝撃波だ。
竜騎兵と怪異がぶつかり合った、確かな証拠である。
旋の、最後の戦いが始まってしまったのだ。
甲板に飛び出したこよりは、暗雲を裂いて輝く鋭い光にくずおれた。紫色に揺らぐオーロラが、華奢な体に降り注ぐ。
「あなたと一緒に、生きたかった」
幼子のようにしゃくり上げても、抱きしめてくれる手は何処にもない。
横濱の空を埋め尽くす虹色の輝きは、命のくすぶりだ。旋はその身を焦がし、こよりを守ろうと遠い空の下で戦っている。
「ずっと、あなただけを愛してる」
頬からこぼれた涙は球根に吸いとられ、消えてゆく。旋の指にぬぐわれているような錯覚を覚え、口の端が緩む。
降り注ぐ光の中に、こよりは触れあった旋の手の温かさを思い出す。
目を閉じれば、思い出の中にある旋は、穏やかな微笑みを返してくれる。今は、それだけでいい。悲しい顔でなければ、まだ立つこともできるだろう。
いずれゆくだろう彼岸の先、また会えると信じられたら、それでいい。
まばゆい光の中で翻る影に、こよりは葬送の歌を紡ぎ始めた。
世界はきっと、平和になる。旋や、死んでいった人々の願いは実を結び、いずれはきれいな花を咲かさなければならないのだ。
次の世に、再び巡りあうために。