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大きく揺れる甲板の上に、巨大な生物が蹲っている。
人間に比べ、一回りほど大きい体躯には硬質な鱗がびっしりとこびりつき、丘のように隆起した背中には、蝙蝠を思わせる巨大な翼が映えていた。
竜。
しかし、怪異ではない。大きな金色の目には、明らかな知性の光が差している。
竜騎兵と呼ばれる……人間だ。
「こっちだ、こより。早く!」
甲板へと続く階段を駆け上がり、いまだに息の整わないこよりを呼ぶのは、旋の弟である由弦だ。
激しく揺れる甲板の上、足下をふらつかせながら、こよりは竜へと駆け寄った。ごつごつとした肌に倒れ込むようにして両手を触れると、暖かな体温が伝わってくる。
「あなた、馨ちゃんね」
大きな目が、頷くように揺れた。
皮膚が硬化し、怪異へと転身してゆく奇病――竜化症。怪異の出現と共に人類を襲った災厄を、人類は天敵に対抗するための手段として転用した。
竜化症を制御する方法を生み出し、怪異を倒すための最強の兵器へと作り上げたのだ。
日本では、彼らを竜騎兵と呼んでいる。
「待っていて、すぐに元に戻してあげるから」
銃弾をはじくほどに硬化した竜騎兵の皮膚を剥離させ、人の姿に戻す方法はただひとつ。
病の因子を持ち、かつ未発症者の声帯から放たれる特殊な振動が、硬く結合した皮膚をほぐすことができる。
治まらない胸騒ぎを振り払い、こよりは音を紡ぐ。
美しいソプラノが馨の体を包むと、琥珀色の鱗がはらりはらりと崩れていった。海風に乗ってふわりと舞い上がる琥珀の欠片は、春に散る花びらを思わせる。
ほどなく露わになった半裸の少女の姿に、こよりは息をのむ。酷い怪我をしていた。
「ねえ、由弦。どうして、竜騎兵が戦っているの? 撤退作戦でしょ?」
苦しげに身じろぐ馨にこよりは自分の上着を被せ、由弦を振り返った。
「聞いていないのか?」由弦は、旋によく似た顔をしかめる。
「昨日、作戦開始の前にお前に会いに行ったはずだ。兄貴は、何も言わなかったのか?」
だんだんと声に怒りを滲ませてゆく由弦に、こよりは体から血の気が引いてゆくのを感じていた。
漠然としていた不安が形になってゆく気持ちの悪さに、どうしようもない嘔吐感がこみ上げてくる。
「……冗談じゃ、なかったの?」
「掃討作戦です、風早一等歌師殿」
叩きつけるような、鋭い声。
よろめきながらも上体を起こした薫は、薄い唇をぎゅっと噛みしめてこよりを睨んだ。
「我が竜騎兵団は、結界を侵食する能力を持った新種を全滅させるため、横濱の街へと出撃したのです」
今にも倒れそうな薫を支えようと、こよりは手を伸ばす。
「決死の、作戦? 旋くんは……横濱にいるの?」
薫はこよりの助けを拒み、立ち上がった。
「結界を越えられる新種を、一匹たりとも逃してはならない。帝都に向かわれるあなたの未来を守るため、波切中尉は竜騎兵団を率い、横濱へと戻られました。私には、残れと。自分の代わりに、帝都を守れと言い残して」
言葉を切った薫は、朝日に照らされて輝く海原へと顔を向けた。遠くを見る視線、別れ際に見た旋の姿が重なる。
「そんな、旋くんはなにも、言ってくれなかった」
「言われなくとも、貴女はわかっていたのでは? 貴女だって、軍人でしょう?」
薫の言葉が、容赦なく胸に刺さってくる。
そう、分かっていた。
感じていたはずなのに、知らない振りをしていた。
認めなければ、怖れていた結末を回避できそうな……そんな、気がして。
しびれの抜けない右手で、こよりは口元を覆った。
どんなに否定しても、現実は目の前にある。旋は今、横濱の空へ向かって飛んでいるのだ。
「由弦、旋くんと話せないかな」
こよりは目尻を強くこすり、立ち上がった。
「通信は禁止されている、分かっているだろ? 怪異に艦の位置を知られたら、俺達は終わりだ。残っている竜騎兵で、戦える奴は馨だけ。戦闘機は、役に立たない」
今の状況で怪異に襲撃されたら、すべてが水の泡だ。
命を賭して、次代の若者に未来を託した兵士達の命も、失われつつある旋の思いも無駄になる。
……でも。
「お願い、それでも旋くんと話したい。ほんの、少しだけでいい。お願いよ、由弦」
爪が食い込むほどに右手を握りしめ、こよりは由弦をまっすぐに見つめた。
「私の、最後の我が儘にするから」