09話:処女の如く
小さな村をいくつか、大きな町を1つ抜けても走るのは止めなかった。渡り鳥のように休息を求めて留まることはあったが、疲れが取れるとすぐに旅立った。
そして彼らが去った後には静かな世界があった。
賑やかだった大通りを歩く人はおらず、昼になると主婦たちが集う共同井戸の片隅には手桶が転がっている。雑貨屋の前には路面販売用のテントが作りかけで放置され、とある家の卓上で冷めた茶が埃をかぶっているのを、持ち主をなくした人形がガラスの目でみつめていた。
荒れたところはない。血痕の一つもない。
まるで住人たちが突然すべてを放棄して出ていったような光景だった。
もう鹿路のことを勇者と呼ぶ者はいない。
否、人間自体がいない。
出会う人、すれ違った人。襲いくるモンスター。動くものすべてがスライムに飲み込まれた。スラ太君では抑えられないほど実力のある強者もいたが、勇者には敵うはずもなく無為に命を散らせていった。
老若男女問わず、スライムの餌食になっていった。その凶牙から逃れられるのは特別逃げ足の速いわずかな者たちだけだった。運よく逃れられた彼らは再びの遭遇を恐れて身を潜めるので、結局あとには静かな世界しか残らなかった。
スライムに飲み込まれない生き物はほんの一部だけ。
植物。
逃げ足の速いもの。
目につかないほど小さな生き物。
シロとクロと名付けられた二頭の馬車馬。
そして勇者、黒崎鹿路。
ああ、あとは馬車に撥ね飛ばされて崖下に落ちた黒服の少年もいた。高笑いをあげながら急に馬車の前に飛び出してきたので印象に残っていた。生死は不明だが、生きていたとしてもなかなかの重症であろう。
(スラ太君の触手の届くところに落ちてくれていたら、楽にしてあげれたのに)
そんなことを思いながら、鹿路はとある町の門をくぐる。すでに自分たちの脅威が伝わっているのか、こちらの姿を見つけた住人の一人が悲鳴をあげると、それに続いて次々と騒音が広がる。恐怖の声。あわてて逃げる足音。驚いて荷物をひっくり返した物音。泣く子供。つられて鳴きだす犬。駆けてくる兵士たちの鎧が擦れた金属音。
「煩い。五月蠅い。うるさい。ウルサイ」
町が静かになるまで一時間も掛らなかった。
***
静かな無人の町で俺は一人、足の向くままに散策していた。
ここまで強行軍で来たので疲れが溜まっているシロとクロのために、しばらく休むことにしたのだった。スラ太君は放牧させている馬たちと一緒にいる。スラ太君が見てくれているのなら、よほどのことが起きても大丈夫だろうと、任せることにした。
大荷物を運ぶのに便利だからと連れてきた二頭の馬だったが、今ではすっかりと懐いてきていて、とても可愛く思えていた。結構賢くて名前を呼ぶと反応してくれたり、棒を投げると拾ってきたりと優秀だ。掌にニンジンを乗せてあげると食べてくれて、とっても可愛い。
シロはのんびり屋で、クロは好奇心旺盛。短くはない時間を一緒にいて性格もわかってきた。謎の馬具の使い方も色々と試しているうちに使いこなせるようになってきて、だいぶ馬車旅も楽になってきた。
人影のない街は物音ひとつせず、落ち着いた。騒がしい人間なんて滅ぼして正解だ。俺にはスラ太君さえいればいい。それにあとは美味しいものとやわらかいベッド、クロとシロもいてくれたら満足だ。我ながら非常に安上がりな幸せだ。
ここの町は細工物に力をいれているようで、あちらこちらの店で凝った木彫りの飾り細工の商品が置かれている。宿屋のカウンターでまで販売している。中が空になった花の透かし彫りの玉を手にとって、傾けては隅々まで細工の細かさに惚れ々々する。尖った花弁の花のモデルは、町の手前に広がっていた森でよく見られた白い花だろうか。よく似ている。明るい森の中でしっとりと露に濡れて咲く花は、儚くも凛とした風情で目に涼しげだった。
飾り玉をポケットに入れてから、また目的もなく歩きだす。
服はまだ大丈夫そうだし、装備にも不満はないし、保存食はまだあるし、特に必要なものはなく、本当にただぶらぶらとするだけの散歩だった。屋台に並んでいた串焼きをつまみ、広場の噴水にコインを投げて、誰のか知らないおっさんの銅像に笑って、ぶらぶらと歩く。スラ太君がいないのがさみしかったが、それなりに漫ろ歩きは楽しかった。
橋から足の下を流れる川を眺める。時折、銀色に光ってみえるのは小魚だろうか。欄干にまで彫り細工がしてあるのは感心した。波を浮き立たせた彫りは大勢に触られ擦り減っていて、触るとすべすべして気持ちいい。魚が跳ねたところを狙って硬貨を投げ込む。キラキラと光って水面に消えた金貨はこの世界で平民一か月分の生活費になる。投げたのは金色に光っていて綺麗だったから。別に意味なんてない。さらに何枚か戯れに投げてから、ギシギシと軋む木製の橋を渡っていく。
橋の正面には大きな屋敷がそびえたっていた。町の入口から多少は寄り道をしたが、大通りをまっすぐに来て、川を越えた向こうにたった一軒だけ立つ家の後ろには山があり、ここが町の端なのだろう。
人のいない気易さで館の扉を開けて勝手に入って行く。大の字で寝られる広い廊下には毛の長い絨毯が敷かれていて足に絡んできて歩きにくかった。
かなりこの家の住人は金を持っているようだ。高そうな絵画や壺が飾られている。美術品の価値はわからんが、金とか使ってるしきっと高いんだろう。広々とした立派な寝室をみつけたので、今日はここに泊まることに決めた。天蓋付きのベッドで寝たら、なんかすごいゴージャスな夢とか見そうだ。ここはバスローブとか羽織って、暖炉の前でワインを燻らせるべきか。白いペルシャ猫が欲しい。葉巻は体に悪いので吸いません。え、酒はいいのか? お酒は別枠だから。あれだよ、心のアルコール消毒のために必要なんだよ。
中庭で遊んでいたスライムと昼ごはんを食べたり、他人んちでごろごろと自宅のようにくつろいだりとまったりと昼下がりを気だるげに過ごした。スラ太君から分離したのだろうスライムは小さめで、腕に抱えるのにちょうどいいサイズだった。枕にしてもジャストサイズ! スラ太君も出会った時にはこれくらい小さかったな。懐かしい。今では町全体を覆えるサイズだから、立派に成長したものだ。
おやつを求めて再び台所に向かう途中、ポケットに入れていた飾り玉が転がり落ちた。廊下を転がって壁にかけられている絵の下で止まった。
それを拾おうとして、伸ばした指先に風の冷たさを感じた。不信感を覚えて辺りを探ってみると、どうやら壁と床の間の切れ目から吹いてきているようだ。立ち上がり絵を眺める。金細工の額に入ったテンペラ画にはこの世界で主流になっている神が描かれていた。箔置きされた輝かしい絵なのに雰囲気が暗い。額に手を当てると、簡単に動いた。そのまま動く方向に回していく。
絵が逆さまになり、神が上下反対になった時、カチリ、小さな音がした。続けて地を鳴らす重低音が響き、壁が動く。そこには地下へと続く階段があった。
隠された階段。暗い地下。邪神を祀っていたあの祭壇を思い出す。
『ありがとう』
抗えない運命に押し殺された少女が自分とダブる。
辺りをみても、先ほどまでいたスライムの姿はない。また中庭で遊んでいるのだろう。連れてこようかとしばらく悩んだが、結局は一人でいくことにした。
暗くて長い階段を、魔法石の灯りを頼りに下りていく。どこまでもデジャビュが付き纏う。
だからと言って、ここまで同じでなくてもいいのではないか。無性にスラ太君に会いたくなった。どうして俺は一人で来てしまったんだろうな。忘れてきたと思っていた怒りや悲しみに胸が痛くなってきた。気を抜くと涙が出そうだった。
黒い祭壇のある部屋の片隅、屈まなければ入れない小さな檻の中には銀髪の少女が座りこんでいた。
その眼は固く閉ざされている。
その足は腱が切られた上に鎖で繋がれている。
その腕は注射の跡で青黒く欝血していた。
歳の頃は10にも満たない少女は冷たい床に座りこんで、潰された眼で闇を見ていた。
祭壇の辺りには大量の本といくつかの刃物や怪しげな器具が転がっている。
『邪神王』などとふざけたことが書いてある本を破き捨てる。ここの照明器具がたいまつだったら燃やせたのに。
びりびりと紙が裂ける音が聞こえたのか、少女はこちらのほうに顔を向けた。
「だれか、いるの?」
かすれた声はまるで老婆のようだった。だけど口調はたどたどしくて見た目と同じく幼かった。
碌なものを食べていないのだろう、皮が貼り付いた枝のような腕は軽く力をいれたら折れてしまいそうだ。
檻の前までくると、膝をついて目線を彼女に合わせる。
「俺は勇者の黒崎鹿路だ」
「勇者さま?」
「ああ、そうだ」
勇者と聞いた途端、少女は嬉しそうに微笑んだ。長いこと笑っていないのか、歪な笑い方だったが、それでも心から嬉しいと伝えてくる胸が温かくなる笑いだった。
「なら、お母さんのことを知ってる?」
「君のお母さん?」
「うん、お母さんね、勇者さまを召喚するから、王さまに呼ばれてお城に行ったの」
休み休み、少女は語りだした。
畑にいる父に姉と一緒にお弁当を届けにいくところを、無理矢理に攫われて気が付くと姉と別れてここにいたという。
彼女は『門の巫女』と呼ばれる一族の末裔で、世界と世界をつなぐ門を開いてこちらにあるものを送ったり、向こうから呼び出したりする能力を持っている。その異能を使うには非常に体力と魔力を消費し、命を落とすこともあった。様々な権力者たちに利用された過去の巫女たちは、時に力の代償に命を落とし、時に秘密ごとの召喚の後に口封じに殺され、その数を減らしていった。
今や、門の巫女は母と3つ年上の姉、彼女自身の3人だけだった。
だが、あの王家のことだから、おそらく少女の母親は生きてはいないだろう。
そしてこの前の町で見たよく似た銀髪の少女はきっと……。
「私、まだ小さいから魔力があんまりないの。だからお薬を注射して強くするんだって。痛いの本当は嫌いだけど、門を開けたらお家に帰してくれるから我慢してるの」
どんな薬を与えられているのか、目の下にクマが残り、鱗状に荒れた肌の顔で未来を物語る。素人目にも未来がないのがわかる、ギリギリ生かされている酷い状態で。
「お母さんの料理すごく美味しいんだよ。勇者さまも一緒に食べようね」
「……楽しみにしているよ」
涙で声が震えないようにするのはとても大変なことだった。
お母さんという言葉に、優しげな名前を知らない女性が瞼の裏に浮かび出る。彼女のことをおふくろと呼んでいた記憶がある。土曜の昼にはヤキソバかラーメンで、カレーには唐揚げがついてきて、コロッケを丸めるのが下手で、夏になると麦茶を山ほど作って、
旅をしていろんな美食を味わってきた。あまりのウマさに気持ち悪くなるぐらい腹いっぱいまで食べた料理もある。だけど、そんなものより、おふくろのハンバーグの方が百万倍おいしかった。
「帰ろうか」
「私、帰ってもいいの?」
「うん、お母さんのところに連れていってあげる」
「ありがとう、勇者さま」
鉄格子をこじ開けて、足に絡む鎖を外す。
リッカと名乗った少女を抱き上げると、不安になるくらい軽かった。これなら先ほど抱いていたスライムのほうがよほど重い。
ここにくるまでの道のりを逆にたどって、町の入口へと向かう。途中、前にもよった屋台の串焼きをとってリッカと分け合って食べた。冷えていたが、噛めば焦げた表面の奥から肉汁が溢れだして、振られた塩コショウと絡む。
美味しいけれど、やっぱりおふくろの作る料理の方が美味しい。リッカにとってもそうだろう。
疲れがすっかりととれたクロとシロを馬車につなぐと、スラ太君をクッションにリッカを荷台へと乗せる。
「お姉ちゃんにも会えるかな。お父さん心配してるかな」
「疲れたら寝ててもいいから」
スラ太君の力で、形を残す価値がない町は溶けてなくなった。かろうじて町の形をした土台を後に馬車が走りだす。ここから王都まで馬車で2週間ほど。
ゆっくりと勇者と少女の、さいごの旅が始まった。
10年後しか勇者召喚できないって2話で言ってたのは、姉もリッカも魔力が低くて門が開けなかったから。ちなみに姉は11歳。リッカ8歳。鹿路召喚時は6歳と3歳。




