はじまり:そうだ、天の川を見に行こう
天の川を見に行こう。
その年の七夕は快晴だった。その日はちょうど牛飼鈴之介の仕事が休みだった。その上、例年曇りが多い七夕が晴れとあって、これはまたとない機会だと、鈴之介の妻である姫香はそんな提案をしたのだった。鈴之介としても、生まれてから二十数年、天の川を生で見たことはなかったし、最近の忙しさで妻との時間が減っていたため、この提案は渡りに船だった。何よりも、ひさかたぶりのデートなのだ。
七夕まではあっという間だった。
天の川を見るために二人が向かったのは、結婚式を挙げた星見八幡神社だった。山中にあり、明かりも少なく見やすいだろうということと、思い出の場所だからだ。
星見八幡神社は二人が住む日星市郊外にある小高い山、星見山の山頂付近にあった。ここは、正月や八月に開かれる星見祭などの行事があるときは人であふれかえりとてもにぎやかだが、平時では基本的に閑散としている神社だった。神社脇の駐車場に車を止め、鈴之介と姫香は手をつなぎ神社正面の大鳥居くぐって、石灯籠が淡く灯る玉砂利の参道を進んだ。石灯籠の幻想的な明かりとちらほら存在を主張する外灯で明かり自体はあったが、明るいのはそこだけで、全体としては想像以上に暗いものとなっていた。思った以上の暗さに、知らず握る手の力が強くなり、暗い中、いつも以上に強く手から感じ取ることのできる相手の存在感に、二人の口元は自然と緩んでいった。
参道を抜けて、広い境内に出ると、その向こう側には、暗闇の中で浮かぶように神社の本殿がたたずんでいた。鈴之介は、神社ということもあって、なかなか不気味な印象を受けたのだがそれでもやっぱりここにくると思い出すのは一つだった。
「もう、二年くらいになるのか」
あの場所で式を挙げてからそれなりに時間が経っていたことに鈴之介はしみじみと思い、つぶやいた。姫香は「そうだね」と笑って同意し、
「でも、もう二年かー。んっふふ、今年の結婚記念日、期待してるよっ」
と、いたずらっぽく言った。
「まいったな」
困ったように後頭部をかく鈴之介だったが、その表情はどこかうれしそうだった。
参道を出てすぐ左手に東屋があり、その奥には小道があった。小道の入り口は雑木が生い茂っているせいで入りづらく、道も雑草が生い茂り歩みを邪魔した。それに少々難儀しながらも二人はその先にある広場へと来た。広場の中央には寝そべることのできそうな大きく平たい岩が鎮座し、古ぼけた丸太のベンチがいくつかあった。市外に向けた部分は雑木がまばらで、日星市街を一望することができた。また、この広場には外灯がなく、夜の十時が過ぎていたために街の明かりもほとんどなかった。
二人はベンチには腰かけず、岩の上に上るとそのまま並んで仰向けに寝そべった。
「うわっ……」
「――すごい」
二人は息をのんで空を見上げた。
夜空一面の星明り。雲一つなかった。青や白、黄色や赤と色とりどりの宝石が入った宝石箱を、黒いビロードの上に思いっきりぶちまけたような星空だった。その中には、特に星が集まった一条の帯があった。色も大きさも明るさも、十人十色に違う星が集まり、まるで川のように見えた。これが内側から見える銀河の姿だった。
二人はそこに、何か神秘的なものを感じることができた。はじめて見た天の川に鈴之介はただただ見上げ、姫香は『これを神様の乳にたとえるなんてセンスないよね』なんてことを考えながらも確かに感動していた。
しばらく、そうして無言で二人は天の川に見とれていた。感動からようやく戻ってきたころ、姫香はおもむろに明るい夜空を指差した。
「デネブ。……アルタイル、そ、れ、と、…………ベガ! と。夏の大三角見っけ」
「ああ、そっか七夕だ」
すっかり天の川にのまれていた鈴之介は今日が七夕であったことを忘れてしまっていた。
「あはは、なにそれ」
そんな鈴之介に姫香は思わず笑ってしまった。
「いや、生の天の川が凄すぎてさ」
恥ずかしそう鈴之介はほおをかいた。二人は目を合わせ、ふき出すと、仕方ないね、と一緒になって笑った。
姫香は、こと座のベガとわし座のアルタイルを指して、線を結ぶように指を動かすと、
「あたしさ、織姫と彦星の話、好きなんだよね。どんな内容だったか覚えてる?」
そう鈴之介に尋ねた。鈴之介はうーん、と唸り、一つ一つ思い出すように答えた。
「確か……あー、織姫と彦星が天の川をはさんで暮らしてて、一年に一度、七夕の日にしか会えない、だっけ?」
案外覚えてない気もしたが、どうだ、と尋ねると姫香は、手でバツ字を作ると、
「全然足りないからバツ!」
そう鈴之介に見せ付けた。ふふん、と威張るように胸を張ると、姫香は楽しげに、
「あたしがこの話を好きなところはね、鈴くんがわからなかったとこにあるんだ」
と、言った。笑い話なんだ、と姫香はおかしそうに言うと、わざとらしく神妙な様子を作って語りだした。
「あるところに、機織が仕事で神様の娘、織姫がいました。年頃で美しい織姫に、神様はある日娘にふさわしい婿を探してやろうと決めました。そこで選ばれたのが働き者の牛飼である若者、彦星でした。出会った二人はお互いに一目ぼれし、すぐに結婚しました。
二人の夫婦生活が始まりました。楽しい楽しい結婚生活です。
二人は楽しく暮らします。
日がな一日イチャイチャ、いちゃいちゃ。
だんだんと、機織の仕事も牛飼の仕事も手につかないようになり、いつしか仕事そのものをすっぽかすようになってしまいました。
仕事もせずにいちゃつく二人。
織姫と彦星の楽しい楽しいストロベリーな、ばら色の結婚生活です。
しかし、事件は起こります。二人が仕事をしなくなったせいで、みんなの服はボロボロ、牛も病気になってしまったのです。
ここにきて、神様も怒り心頭。仕事をやれ、と。
怒った神様は、罰として二人を天の川で隔てた東と西に住まわせました。そして、仕事するように言い聞かせたのです。
強制的に別居させられた二人。彦星に会えなくなった織姫は、それはもう悲しみました。
悲しむ織姫の姿に、罪悪感でも抱いてしまったのか、神様は一年に一度、七夕の日だけ彦星と会って良いことにしたのでした。
――と、まあこんな感じの話なんだよ」
厳しいわりにかなり甘い親馬鹿な神様に、鈴之介はなんだか脱力してしまったのだった。ロマンチックとは程遠い。
「なんというバカップル――もといバカ夫婦」
この話に、ふと自分は、なんて考えてしまった鈴之介は、自分を振り返ろうとしてすぐにやめた。違う違う、と頭を振った。
「あたしたちみたいだよねー」
そう姫香は笑った。
鈴之介は苦虫を潰してしまったような顔だった。
大爆笑だった。
鈴之介は、会社で散々惚気て気もそぞろになり、その上で会社よりも嫁を優先し続けた。それが次第にエスカレートしていって、ついには苦情が発生し、あげく、現在離婚調停中の上司の悲しみあふれる心の琴線に触れてしまったのだ。そうして始まってしまった毎日の残業と休日出勤だった。だいたいが自分のせい、自業自得でしかなかったため、同僚からも嫁からも同情もされなかった。
むくれる鈴之介を、姫香はなだめすかした。
「それで?」
少しだけ語気を強めて鈴之介は尋ねた。
(あーもう、かわいいんだー)
そんなことを思い、思わずにやけてしまいそうになるのをこらえながら姫香は答えた。
「ま、バカ夫婦って言ってしまえばそれまでなんだけどね。
大事なことは、織姫と彦星は離れ離れになっても、お互いを愛し続けたってこと。
あたしは、神様が会うことを許可しなくても、そのうち何とかして会いに行ったんじゃないかなあ、って思うんだ。仕事を完全に放棄するくらいに愛し合った二人だよ? まあ、あたしの妄想ではあるんだけど……。
ただ、二人の愛の大きさ、っていうのかな、それが、なんだか素敵だなあ、って。だから」
姫香は、星を見上げた。釣られて鈴之介も見上げた。
「そっか……なら、さ。そうなろうよ。織姫と彦星みたいにさ。それで、たとえ離れ離れになっても、離れないでいよう。その上で、絶対に会うんだ」
自分の言葉に、少々恥ずかしくなりながらも鈴之介はそう言った。姫香は、その言葉にほおを染めるとおどけたように言った。
「うふふ、それなら来世でも一緒になれるね」
「もちろん」
天の川の下で、二人の影は重なった。
そして、帰り道。二人は――。
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少女は跳ね起きた。寝汗がひどく、べたべたと不快感を煽った。車窓の外では景色が次々と流れていく。
「ちょっと、大丈夫?」
前の助手席に座る少女の母親が心配そうに少女に問いかけた。バックミラー越しに父親も心配そうにしているのが見て取れた。どうも、うなされていたらしい。
「大丈夫、大丈夫」
安心させるように笑った。
そう、大丈夫なのだ。別に、少女が見ていた夢は悪夢なんかではなかった。少なくとも、少女にとっては。幸せで悲しい夢だった。確かにあったはずの夢だ。大事な大事な、少女の思い出だった。
本当に大丈夫かと聞く両親に、もちろんとうなずき、少女は身を乗り出して両親に尋ねた。
「ねえ、あとどれくらい?」
もうじき十六になるだろう娘の、子どもっぽいしぐさに父親は笑い、母親は、もう、と娘をたしなめた。
「もうすぐだぞ、ほら」
そう言って、父親は道路の案内標識を指差した。そこに書かれた文字を、少女は眩しそうに見つめた。
そこには『日星市』と書かれていた。
七夕に、上げたかった……(遠い目