三
少女は発言した。「こんにちは」と。男は驚いて耳を押さえる。少女はその様子を見て、「言葉分からないの?」と呟いた。男はなにも答えない。どうやら本当に言葉を理解できないらしい。
少女は白いワンピースを着こなしている。左耳の上で、白い花の髪留めが添えられている。黒い髪は長く、背中まで真っ直ぐに下ろされている。十代半ばあたりの容姿だ。
「みんな動かなくなっちゃったから、あたしが最後の一人なんじゃないのかと思ってたけど。なんだ、いるじゃん」
少女はそう言い放って、白い足を水池から出した。また波紋が広がって、水面が波打っていく。男は棒立ちになってその光景を眺める。動くヒトを見たのは、この男にとって初めてのことなのだ。
「あたし、六。あなたの名前は?」
少女が言う。だが男は、なにも答えずに不器用に口を動かしていた。少女、六はそれを見て、さほど顔色も変えないで「まーいっか」と呟いた。
六は裸足のまま地面を歩き、灰色との境界の手前で足を止めた。ちょうど男の正面である。背はずいぶん低い。頭の天辺は、男の肩にも届いていない。
男はじっと六を見つめた。緩やかなワンピースから、白い肌が晒されている。辺りが灰色であることに相反して、その容姿は輝いて見えた。
「なんであなたは止まってないの?」
六は堂々とした口調でそう言った。眉ひとつ動かさずに。目を逸らすことなく。男はその顔に、少々ではあるものの狼狽した。近くにまで詰め寄られ、さらに意味の分からない言葉を投げかけられたためだろう。
男はなにを考えたのか、自分の首にかけていたものを外した。ドングリで出来た首飾りである。それを両手で扱って、そのまま六へと伸ばす。六は特に抵抗を示さず、六の胸でドングリが艶めいた。
六は男からドングリへ視線を移す。クヌギの木から男が摘み取ったドングリだ。比較的大きくて、丸い形をしている。
「そっか。そうだったんだね」
六はまた男を向いて、笑顔を強めた。
「あなたが十だったんだね」
六の言葉のどれかに知っている言葉があったのか、男はせわしなく頷いた。男の名は、十というのだ。
「ホントにいたんだ。あたしはてっきり、ただの言い伝えだと思ってた。……だったらホントに、色の世界は存在するの? あなたはそこから来たの?」
六は捲くし立てるように質問を積もらせる。しかし十はそのどの言葉も理解できないようで、ただ困った顔をするだけだった。
六は大きな溜息をついて、地面を向く。灰色の地面と六の足指が向かい合っている。
……しかし実際には、それは灰色ではなかったのだ。この世界において、色の存在しない世界において、それは唯一の無色なのであった。
ある日、唐突に世界に色が生まれた。それは九人のヒトだった。もとよりその世界に住んでいたヒトたちは、その出現にざわめいた。ヒトにとって、色は理解できるものではなかった。眼球が、視神経で繋がる脳が、色という不可解な存在を認められなかったのである。
可視光線によって物体は目視することができる。しかし物体と色は、可視光線では分離できない。しかし、この世界の住人にとって、色はそもそも認識されていなかったものなのだ。
唐突に出現した色は、到底ヒトたちが受け入れられるものではなかった。ゆえにヒトたちはそれを拒絶した。
すると、地球は止まったのである。色を拒絶したことにより、それと分離することのできない物体も自動的に拒絶されることとなったのだ。ヒトは完全に盲目になった。それは概念上の盲目である。物体が見えないのではなく、概念として、物体が遮断されたのだ。
この世界が灰色だけだったのは、最初からの当然のことだったのだ。色の存在が地球を止めたのである。