二
全ての物体が動いていない。今、男の視界に映るのは止まった空間なのである。物体を目視するには、その物体からの可視光線が眼球に届かねばならない。しかし今、光は止まっている。ゆえに本来は物体は見えないはずだ。しかし、この止まった空間には、止まったその瞬間の光が存在する。それらは動くことこそなけれ、存在しているがゆえに眼球に映ることは可能なのである。
ただしこれは、灰色に見えることの説明にはならない。色も可視光線によって認識するものなので、本来、物体と色は切り離すことはできないはずである。
男は衣服を身に纏うことに成功した。初めての違和感に苛まれながらも、男は店を後にした。金は払っていない。払う金など持ち合わせていなかった。あったとしても、固まった店主がどうやって勘定できようか。
男はいちいち、路上のヒトそれぞれの顔を覗きこみながら歩く。どれも人形のように動かない。されど無表情というわけではない。あるヒトは頬を持ち上げ、あるヒトは眉を歪め、あるヒトは口を大きく開けていた。男はそれらの表情を、ひとつひとつ真似して歩く。
刃物は先ほどの店に置き忘れていた。男はそれを思い出すも、構うことなく歩を進めていく。どこへ向かっているのかは本人でも分からなかった。なにも考えずに、灰色の空間を散策する。
男はしゃがんで、地面を指でなぞった。細かな刺激が、これが土ではないことを語る。男は試しに穴を掘ろうとしたが、ヒトの指では到底無理なことであった。
進んでいくと、大きな橋が男の視界に入った。そこへ向かうと、これまた大きな川が地を区切っている。だがやはり、水の流れは皆無であるようだ。灰色の桶が、水に浮かんでいる。それは氷の溝に嵌められたように動かない。
男は自分が住んでいたところのことを思い浮かべる。そこはここと同じく、川は流れることを知らず、クヌギの木からドングリが落ちることはなかった。しかし灰色に染まってなどはいなかった。可視光線では物体と色を分離できない。
橋を渡りきる。橋から水面までは距離があった。止まった桶を触ることは諦め、そのまま川から離れる。
ヒトはどこにでもいた。探すまでもなく、男の思う同類はいたのである。イノシシの洞穴の先に、こうやって広がっていたのである。しかしいずれも動かない。足を進めることも、手を振ることも、まばたきさえしない。
男はそのうちの一人に触れてみた。頬の皮は柔らかい。顎はすらりと滑らかで、滞るということを知らない。男はすぐに、その顎に鬚がないことに気付いた。そして自分の顎と触り比べてみる。
男は自分の鬚を掴んで、思いきり引っ張ってみた。数本抜ける。だがあまりの痛みに男は叫び声を上げてしまった。音は空気を震わせて広がる。空間は止まっているというのに、動いている男の作用には準じるようである。ただし、男の声が通り過ぎれば、空気はすぐに硬直した。あくまでも作用している間だけのようだ。
それからいくつかの方法を試し、男は鬚を剃ることに成功した。少々剃り残しが残っていて、手を滑らせてみると芝生を撫でるような感覚が尾を曳いた。
男はまた歩き続ける。灰色の世界は、慣れればさほど関係はなかった。リンゴが赤かろうが青かろうが、それが木に生ることに変わりはないのである。
いくら歩いても、依然として植物は見当たらなかった。人造の石が地を覆い、人形のようなヒトが佇む。
しかしそんな光景にも、ついに変化が訪れた。いや、光景が変化したわけではない。もとからその空間だけ、隔離されたように色彩豊かになっていたのだ。
少女が水池に足を踏み入れた。水は音をたてることなく波紋を広げる。水が止まっていないのだ。水池だから流れこそ滞っているものの、波紋は広がり、そしてついえる。そして色があった。透明色、水特有の色が。
少女が男を向く。そしてにこりと、なんの抵抗もなく目を細めた。男を目で確認してから笑ったのだ。動いたのだ。
水池の真上だけは、灰色ではなく青色だった。