第1話 理不尽な追放と傲慢なる勇者
薄暗く湿った空気が肌にまとわりつく。鼻を突くのは、血と内臓、そして魔物特有の酷い獣臭さだった。壁面を覆う不気味な青白い発光苔だけが、この地下深くの空間を辛うじて照らし出している。
ここは大陸でも有数の難易度を誇るAランクダンジョン『奈落の顎』の第三十階層。
「はっはー! 見たか! 俺の『覇王の一撃』の威力を! どんな硬い鱗を持っていようが、俺の聖剣の前では紙切れ同然だな!」
耳をつんざくような高笑いを響かせているのは、金糸のように輝く髪を揺らす美青年、勇者ガイルだ。彼の足元には、数分前までこの階層の主として君臨していた巨大な魔物、バジリスク・ロードが首を切り落とされて横たわっている。
「さすがはガイル様です! あの巨大な魔物をたったの一撃で……! 素晴らしい力、見惚れてしまいましたわ」
「ああ、まったくその通りだ。ガイルがいれば、このダンジョンを踏破するのも時間の問題だろうな。俺の盾の出番すらないくらいだぜ」
ガイルを取り囲むようにして称賛の言葉を浴びせているのは、魔導士の女エレンと、重戦士の男ゴードンだ。彼らは大陸でも名を馳せるトップクラスの冒険者パーティ『光の軌跡』のメンバーである。そして、ガイルはそのリーダーであり、国から正式に『勇者』の称号を授与された選ばれし存在だった。
俺、レオンはその輪から少し離れた場所で、魔物の死骸から飛び散った毒の血を避けるように立っていた。俺の職業は『鑑定士』。戦闘能力は皆無に等しく、荷物持ちとドロップアイテムの鑑定、そして罠の解除だけがパーティでの役割だ。
彼らが勝利の余韻に浸っている間も、俺にはやらなければならない仕事がある。俺は油断なく周囲を見渡し、バジリスク・ロードの巨体の奥に隠されるように鎮座しているものを見つけた。
「おい、レオン! 何を突っ立っている! ボス部屋の奥に宝箱があるはずだ。早く探せ!」
「……もう見つけている。今から鑑定するから、少し離れていてくれ」
俺が指差した先には、金と銀の装飾が施された、大人二人がかりでも抱えきれないほど巨大な宝箱があった。いかにも『伝説級のアイテムが眠っています』と言わんばかりの豪奢な作りだ。ガイルたちの目が強欲な光を帯びて輝き始める。
「おおっ! でかい! これは間違いなく超レアアイテムが入っているぞ!」
「ガイル様、きっと神話級の武具ですわ! ガイル様の圧倒的な幸運値が引き寄せたに違いありません!」
「早く開けろ、レオン! 俺の新しい武器が待っているんだ!」
興奮して宝箱に群がろうとする三人を取り手で制止し、俺は宝箱の前に跪いた。
そして、小さく息を吐き出し、己の固有スキルを発動させる。
『——【真理の神眼】』
俺の右目に熱が宿り、視界が世界そのものの真理を映し出す色彩へと変化する。普通の鑑定士が持つスキルは、対象の名前や価値、簡単な効果しか見抜くことができない。しかし、俺が生まれつき持っているこの【真理の神眼】は違う。アイテムの隠された効果はもちろんのこと、仕掛けられた罠の構造、作動条件、そして『呪いの致死性』に至るまで、確率や構造を百パーセントの精度で見抜くことができるのだ。
俺の目には、豪華な宝箱を取り巻くようにして、どす黒い瘴気のようなオーラが立ち上っているのが見えた。視界の隅に、神眼が読み取った情報が文字となって羅列される。
【対象】暴食のミミック・エンペラー(擬態状態)
【危険度】極大(致死率99.9%)
【罠機構】接触反応型・連鎖爆破トラップ
【呪い】精神崩壊、回復魔法阻害
【詳細】宝箱に触れた瞬間、周囲十メートルを吹き飛ばす爆破魔法が発動。同時に致死性の呪毒ガスを散布し、対象を動けなくした上で捕食する。内部に宝物は存在しない。
……背筋に冷たい汗が伝った。
宝箱でもなんでもない。これは、ただの巨大な殺人トラップだ。もしこのままガイルが触れれば、爆発に巻き込まれて四肢を吹き飛ばされるか、毒ガスを吸って発狂しながらこの化け物に食い殺されるかのどちらかだ。Aランクダンジョンの深層ともなれば、ドロップする宝箱の九割がこうした凶悪な罠や呪いの武具ばかりになる。
俺は気づかれないように深く溜息をつき、手持ちのアイテム袋から、市販の『低級ポーション』と『ただの魔石』を取り出した。
「どうだ、レオン! 何が入っている! 聖剣か? それとも伝説の防具か!?」
背後から急かすガイルの声に、俺は手元のポーションを隠し持ちながら、宝箱の留め金に手を伸ばす。神眼で罠の作動条件を完璧に把握している俺は、爆発のトリガーとなる魔力線をミリ単位で避けながら、擬態しているミミックの口元をわずかに開けさせた。
当然、中には牙が並んでいるだけで宝などない。俺はあらかじめ用意していたポーションと魔石を素早く取り出し、ミミックの口を静かに閉じた。そして、さも中から取り出したかのように、それらをガイルの前に差し出した。
「……ハズレだ。中に入っていたのは、低級ポーションと、小さな魔石だけだった」
その瞬間、ダンジョンの冷たい空気がさらに数度下がったような気がした。
ガイルの顔から笑みが消え去り、エレンとゴードンも信じられないといった表情で俺の手元を見つめている。
「……は? 嘘を吐くな。こんなに豪華な宝箱なんだぞ!? 中にそんなゴミしか入っていないわけがないだろう!」
「嘘じゃない。俺の鑑定結果だ。……ただの装飾が派手なだけの、ハズレ箱だった」
俺は淡々と事実を告げる。本当のことを言えばいいと思うかもしれない。だが、過去に一度だけ「これは凶悪な呪いの罠だから開けてはいけない」と忠告したことがあった。その時、傲慢なガイルは「俺の幸運値があれば呪いなど弾き返せる! お前は俺の成果を独り占めする気か!」と激怒し、無理やり箱を開けようとしたのだ。
あわや全滅という事態になりかけ、俺が身を呈して罠を解除したのだが、ガイルは「お前が余計なことをするから中身が消えたんだ」と責任を俺に押し付けた。それ以来、俺は彼らに罠の存在を教えるのをやめた。彼らの命を守るためには、俺が密かに罠を処理し、安全なアイテムとすり替えて「ハズレだった」と報告するしかなかったのだ。
「またか……! 昨日も、一昨日もそうだ! ここのところ、手に入るのは石ころやゴミみたいなポーションばかりじゃないか!」
ガイルの怒声がダンジョンに響き渡る。彼の端正な顔は怒りで真っ赤に染まり、額には青筋が浮かんでいた。
「俺の圧倒的幸運値なら、常にレアアイテムが確定するはずなんだ! なのに、どうしてお前が宝箱に触れると、いつもゴミばかりに変わるんだ!?」
「それは……俺が触れたからじゃない。元々、深層のドロップ率なんてそんなものだ。安全なものが手に入るだけでも運がいい方なんだぞ」
「言い訳をするな!!」
ガイルが怒りに任せて、俺の胸ぐらを掴み上げた。息が詰まり、足が地面から浮く。
「わかっているんだぞ、レオン。お前のその『鑑定』とかいう底辺のゴミスキルのせいで、俺の幸運値が打ち消されているんだ! お前のような不運を呼ぶ無能がパーティにいるせいで、俺の偉大な功績が台無しになっているんだよ!」
無茶苦茶な理屈だった。幸運値でアイテムの中身が変わるなどというおとぎ話は、子供向けの絵本の中だけの話だ。現実は、この狂ったダンジョンが冒険者を殺すために用意した悪意の塊でしかない。俺がどれだけ身を削って即死の罠を排除し、彼らの命を繋ぎ止めてきたか、こいつらは少しも理解していない。
「ガイル様の仰る通りですわ! あなたのような汚らしい荷物持ちがガイル様の足を引っ張っているせいで、私たちまで貧乏くじを引かされているんです!」
「まったくだ。前衛で命を懸けて戦っている俺たちの身にもなれってんだ。後ろでコソコソ隠れてるだけの寄生虫が、偉そうに口答えするんじゃねえよ」
エレンとゴードンまでもが、冷酷な嘲笑を浮かべて俺を罵倒し始める。俺は必死に息を整えながら、ガイルの目を真っ直ぐに見返した。
「……寄生虫、か。俺がこれまで、どれだけのお前たちの見落とした罠を解除してきたと思っている。俺がいなければ、お前たちはとっくに死んでいるんだぞ。頼む、冷静になってくれ。この先の階層はもっと危険だ。俺の【真理の神眼】がなければ——」
「黙れッ!!」
ドゴォッ!! という鈍い衝撃音が響いた。
ガイルの鉄板の入ったブーツが、俺の顔面に容赦なく叩き込まれたのだ。視界が激しく揺れ、鼻の奥で骨が砕けるような嫌な音がした。口の中に鉄の味が広がり、俺は地面に無様に転がった。
「ぐ、ふっ……!」
「神眼だと? 笑わせるな! ただの薄汚い鑑定士の分際で、俺に説教をする気か!」
痛みで視界が霞む中、俺は自分の血で咽せながら顔を上げた。ガイルは汚物でも見るような冷たい目で俺を見下ろしている。
「レオン、お前は今日でパーティを追放だ。俺たち『光の軌跡』に、不運を呼ぶゴミは必要ない」
「……ガイル、本気で言っているのか。俺がいないと、本当にお前らは——」
「まだ口答えする気か! おい、ゴードン、エレン! こいつの装備をひん剥け! どうせ俺たちが稼いだ金で買ったものだ。こいつに持たせておくのは勿体ない!」
ガイルの命令に、二人はニヤニヤと笑いながら俺に近づいてきた。
抵抗する間もなかった。ゴードンが俺の腕を強引に押さえつけ、エレンが俺の腰からマジックバッグを乱暴にむしり取る。さらに、防弾の魔力が込められた革鎧、寒さを防ぐマント、果ては予備の回復薬や水筒に至るまで、生きるために必要なすべてが奪われていった。
「あははっ! 見なさいよ、この無様な姿! ボロ布一枚で震えちゃって、惨めねえ」
「これで少しは身の程を知るだろうぜ。俺たちに寄生して甘い汁を吸ってきた罰だ」
彼らの手には、俺が彼らの命を守るために綿密に準備してきたアイテムの数々が握られている。俺の手元に残されたのは、擦り切れた麻の服と、一振りの錆びた護身用の短剣だけだった。
「……返してくれ。それがないと、こんな深層で生きて地上に戻ることはできない。頼む、命だけは……」
プライドを捨てて懇願する俺の顔を、ガイルは再び靴の裏で踏みつけた。顔面が冷たい石畳に押し付けられ、激しい痛みが走る。
「生きて戻る? はっ、何を勘違いしているんだ。お前みたいなゴミは、ここで魔物の餌にでもなって、俺の足元を飾る肥やしになるのがお似合いだ」
ガイルが顎でしゃくると、ゴードンが俺の襟首を掴み、引きずり始めた。向かう先は、ボス部屋の奥にある、さらに下層へと続く巨大な縦穴だ。底が見えないほどの漆黒の闇が口を開けており、底の方からは腹を空かせた未知の魔物たちの悍ましい咆哮が響いてくる。
「や、やめろ……! 頼む、待ってくれ!!」
「せいぜい俺たちの役に立てよ、ゴミ引き野郎。魔物どもはお前の肉で腹を満たせば、少しは大人しくなるだろうからな!」
ゴードンの太い腕が俺の体を軽々と持ち上げ、容赦なくその真っ暗な奈落へと放り投げた。
「——っ!!」
声にならない叫びが喉の奥で引きつる。
重力が俺の体を下へ下へと引っ張り込み、視界の上のほうで、ガイルたちが俺を見下ろしてゲラゲラと笑っているのが見えた。
「あいつが消えた今、これからの宝箱はレア確定だぜ!」というガイルの歓喜の声が、遠く離れていく。
風を切る音だけが耳元で轟き、俺の体は果てしない暗闇の中を落下し続けた。
走馬灯のように、これまでの記憶が脳裏を駆け巡る。
孤児だった俺を拾ってくれたギルドへの恩返しのために、必死に冒険者をサポートしてきた日々。
ガイルたちの傲慢な態度に耐え、彼らが死なないように、己の手を汚してまで呪いの品を排除し続けた夜。
時には自らの生命力を削ってまで罠を解体し、彼らが無事に地上へ帰れるように祈ったこと。
そのすべてが、無駄だった。
俺の献身は、彼らにとっては『不運を呼ぶゴミの所業』でしかなかったのだ。
(ああ……俺は、なんて馬鹿だったんだ)
彼らを守りたいという善意。仲間だという錯覚。
そんなものは、この狂った迷宮の中では何の価値もない、ただの自己満足に過ぎなかった。
どれだけ尽くしても、理解されない。どれだけ犠牲になっても、感謝されない。
裏切られ、奪われ、顔を踏みつけられ、死の淵へと突き落された。
ドゴォォォンッ!!
凄まじい衝撃が全身を貫き、俺は硬い地面に叩きつけられた。全身の骨が悲鳴を上げ、内臓が破裂しそうな激痛に襲われる。落下の途中で壁面のツタやキノコの群生に何度もぶつかり、奇跡的に即死だけは免れたようだった。しかし、体は全く動かず、口からはとめどなく血が溢れ出ている。
「ガァァァァ……」
「グルルルル……」
暗闇の奥から、幾つもの赤い眼光が浮かび上がった。
血の匂いに引き寄せられた下層の魔物たちが、涎を垂らしながら俺を取り囲み始めている。鋭い爪が石畳を引っ掻く音が、ジリジリと距離を詰めてくる。
俺の命は、あと数分で終わるだろう。
だが。
(……ふざけるな)
心の奥底で、小さく、しかし決して消えない真っ黒な炎が灯るのを感じた。
悲しみはない。絶望もない。
あるのはただ、あの愚か者たちに対する底なしの憎悪と、自分自身の甘さに対する冷徹な見切りだった。
(俺は、こんなところで死ぬわけにはいかない……!)
俺の【真理の神眼】は、彼らを守るためにあるのではない。
彼らが俺の忠告を無視し、俺を切り捨てたというのなら、もう遠慮する必要はない。俺の力を隠す必要もない。
あいつらは知らないのだ。
俺が弾いていたのは『ハズレ』などではない。あいつらを確実に殺す『絶望』そのものだったということを。
警告者を失ったあの傲慢な勇者が、この先、欲望のままに凶悪なミミックや呪いの武具に手を伸ばした時、果たしてどうなるのか。
想像するだけで、血反吐を吐きながらも、俺の口角は自然と吊り上がっていた。
「……見ていろ、ガイル。お前らが地獄に落ちる様を、俺は必ず特等席で見届けてやる」
俺は最後の力を振り絞り、震える手で地面を掴んだ。
右目に宿る【真理の神眼】が、かつてないほどの激しい熱を放ち始める。生存本能と復讐の渇望が、俺の中で眠っていた本当の力を、今、完全に覚醒させようとしていた。
ここからが、底辺に突き落とされた俺の、本当の『始まり』だ。




