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 一年が終わるのも早いもので、今年もあと三日になってしまった。僕は石神井公園のほとりに居を構え、会社員兼ネット小説家という新たな肩書きを持って一年を終えようとしている。仕事の傍らに執筆を続け、お陰様で一冊の本を出すことが出来た。だからツイッターや投稿サイトのプロフィール欄には『書籍化』という三文字を入れることが出来た。大きな視点から見れば僕のプロフィールと収入が少し増え、社会的な肩書きが一つ増え書店に僕のペンネームが書かれた本が並ぶことだ。社会において小さな存在である僕にとっては大きな出来事かもしれないが。大きな視点から見れば小さな事だ。考えてみれば、その小さな変化が集積する事によって大きな変化が生まれるのだろう。だとしたら大きなものと小さなもののどちらかが主導権を握っているのか、それはとても興味深い研究対象だ。ジョン・ロックとジャン・ジャック・ルソーの時代から続く議論に僕も加われるかもしれない。

 そんな事を考えながら、僕はリビングダイニングのソファーに寝転がり、オーディオ機器から流れるヘンデルのバイオリンソナタを聴いていた。昨日は勤め先の仕事納めで、業務自体は半日で終わったのだが、家に戻ると書かなければならない原稿と推敲しなければならない文章があったので、それを日付が変わるまでに仕上げて眠りに着いたのだった。だから身体が風邪を引いた時のように重く、頭脳も頭蓋骨の内側が結露したように曇っている。今年一年の疲労が全部出て来たと形容すれば簡単なのだろうが、そうやってありきたりな表現を用いると自分の感性が鈍るような気がした。

 そうしていると、部屋の玄関の扉が開く音がした。外の冷たい空気と共に、同居している早苗が帰宅したのだ。

「ただいま」

 リビングに入って来た早苗は僕にそう言った。

「お帰り」

 僕はそう答えて、ソファーから起き上がった。早苗は着ていたコートを脱ぎ、隣の寝室にあるクローゼットへと向かった。

「寒かっただろう。温かい飲み物でも飲む?」

「ありがとう。ノンアルコールならお茶でもコーヒーでも何でもいいわ」

 早苗はそう承諾してくれた。僕はソファーから立ち上がってマグカップのある食器棚に向かい、カップとスティックパックのココアを二つ手に取った。

「ココアでいいかい?」

「いいわ」

 早苗はそう快諾した。僕はスティックパックのココアを開けて二つのカップに顆粒をいれて、その後電気ポットのお湯を注いだ。インスタントココアが簡単に出来上がると、カカオ独特の甘い香りが湯気と共に僕の鼻先に漂ってくる。

「入ったよ」

 僕は二つのカップを持ち、クローゼットに服を仕舞った早苗に片方のカップを手渡した。

「ありがとう」

 早苗はそう答えてくれた。そして僕達はリビングに移り、さっきまで僕が寝転がっていたソファーに腰掛けた。

「今日は仕事納めだったんだろ?一年間お疲れ様」

 僕は早苗に言った。

「まあね。でも三日から仕事」

 早苗は自嘲気味に言ったが、その言葉には仕事があって帰る場所がある事に対する幸福が滲んでいた。

「あなたは、もう仕事がは無いんでしょ?」

「会社員としての仕事は無いよ。小説家としての仕事はあるけれど」

 僕はそう答えて、カップのココアを一口飲んだ。意図的に整えられた甘さとカカオの風味が僕の味覚に突き刺さる。

「そう。大変だね」

 不器用そうな言い方で早苗は答えた。半年前は着の身着のままで僕の元にやって来て、明日を生き延びる事すら困難な精神状態だった。だが僕と同居を初めて、彼女の荒んだ心は平静を取り戻してゆき、大泉学園近くのバイク店でアルバイト店員と言う形での仕事も得る事が出来た。波乱の時期を乗り越え、早苗は普通の環境を整えつつあった。

 僕はカップを持ったまま、窓の外を見た。窓の外に広がるくすんだ晴れ空の下には石神井公園の池が広がっていた。

「なあ、もしよければ、後で石神井公園を散策しないか?」

 僕は早苗にそう提案する。

「いいよ」

 早苗は快く承諾してくれた。



 それから僕達は部屋を出て、昼下がりの石神井公園を散策する事にした。池の側の豪華な屋敷の前には立派な門松と正月飾りが置かれ、険しい山々が連なるような威厳を湛えている。対照的に細い道路一つを挟んだ石神井公園の池は、冬休みや年末の時期をゆっくり過ごそうとする釣り人が目立った。池の水面から突き出た杭の上には黒い姿のカワウが止まり、年末という時期に追い立てられる人間たちを不思議そうな感じで時折見ている。

「石神井公園のほとりには、もう慣れた?」

 僕は池の近くの歩道を歩きながら早苗に訊く。水面は濁っていたが太陽の光を反射して、ふさぎ込みがちな冬の人間の表情を明るくする手助けをしてくれていた。

「慣れたわ。近くに緑とか池とか自然のものが近くにあるのは大切なんだなって」

 早苗はそう答えた。そして僕達は池の島にかかる辺りまで進むと、空いていたベンチに腰掛けた。そして僕達は水面の方を向いて、休むカワウや周囲の釣り人、後ろの歩道を行き交う家族連れの声に耳を傾けた。

「ありがとうね。行き場の無い私を拾ってくれて」

 早苗が二人だけの沈黙を破るようにして呟く。

「高校時代に愛した相手を助けるのは、構わないだろ」

 僕はそう答えた。愛情に失敗してしまった人間を助けるのは、結局は誰かの愛情なのだ。

「今年は私を助けたけれど、来年のあなたはどうするの?」

 僕は濁った水面に映る太陽の光を見た。冷たく濁った冬の池に灯った温もりに向かって、僕は当たり前の言葉のようにこう漏らす。

「君を伴侶にしたいって言うのが目標なのは駄目かな。出来るなら、君とこの池の水みたいに穏やかな関係であり続けたい」

 その言葉を聞いて早苗は驚いたようだった。そして暫くすると僕の腕を掴んで、絞り出すようにしてこう囁く。

「私みたいな女で良いの?」

 僕は少し待って、こう答える。

「嫌ならいいんだ。俺が君に見合わない人間だっていう事だから。悪いのは君じゃないよ」

 その言葉に早苗はこう答えた。

「うれしい。私があなたに見合う人間だったって言う事が分かったから」

「ささやかな関係で良ければ、俺はこのままでありたいし、それで君が側に居て欲しいんだ。それでも構わないかな」

 また少し間を置いて、早苗はこう答えた。

「ええ、お構いなく」

 その言葉を聞いて、僕は心の中に熱が生まれるのを感じた。


                                      (了)

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