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【海斗 ― 現在②】


 旧蔵の中は、時間が止まっていた。

 解体途中のはずなのに、奥へ進むほど、空気は動かなくなる。

 梁に絡んだ埃が、落ちもせず、舞いもせず、ただ“溜まっている”。

 海斗は足を止めた。

 安全靴の裏越しに、床の感触が伝わってくる。

 乾いているはずの土間が、なぜか湿って感じられた。

 ——いや。

 湿っているのは、床じゃない。

 (……空気だ)

 皮膚が、そう告げている。

 ヘルメットの内側で、汗がにじんだ。

 作業着の袖の中、右手のひらだけが、はっきりと熱を持っている。

 「……来るなってことかよ」

 誰にともなく呟く。

 だが、右手は答えない。

 ただ、一定のリズムで脈打つ。

 まるで警報だ。

 旧蔵の奥、ブルーシートで簡易的に囲われた区画。

 その中央に、例の箱があった。

 木製。

 古いが、保存状態は異様に良い。

 虫食いも、割れもない。

 ——触るな。

 はっきりと、感覚が言葉になる。

 海斗は一歩、距離を詰めただけで、息を詰まらせた。

 「……っ」

 触れていない。

 手袋越しですらない。

 それでも、右手が灼ける。

 皮膚の下を、何かが流れていく。

 熱だけじゃない。

 圧だ。

 かつて、香炉のそばに立ったときと同じ。

 火を使っていないのに、熱を感じた、あの感覚。

 高校時代の部室が、一瞬、重なった。

 香炉。

 遼の手。

 芽衣の視線。

 (……やっぱり、あれと同じだ)

 箱の蓋は、すでに少しだけずれている。

 中を覗けば、見えるだろう。

 だが、右手が拒絶した。

 ——ここまでだ。

 これ以上近づけば、

 “何かが戻ってくる”。

 理由はわからない。

 理屈も立たない。

 けれど、触覚は嘘をつかない。

 海斗は、ゆっくりと後ずさった。

 その瞬間、箱の中から——

 ごく微かに、空気が動いた。

 香り。

 焚いていない。

 存在するはずがない。

 それなのに、確かにそこにあった。

 焦げた伽羅。

 甘さの奥に、金属の冷たさ。

 右手が、痛みに近い熱を発する。

 「……警告、ってやつか」

 笑おうとして、失敗した。

 これは恐怖じゃない。

 本能でもない。

 責任だ。

 あの夜、止めきれなかったこと。

 見ないふりをしたこと。

 遼を、芽衣を、そのままにしたこと。

 それ全部が、右手に残っている。

 「……芽衣」

 名前を呼ぶと、熱が一段、和らいだ。

 「……遼」

 今度は、少しだけ強まる。

 ——答え合わせみたいだな。

 三人で関わったもの。

 三人の感覚が、違う形で刻まれた香。

 それが、今になって“箱”という形で現れた。

 海斗は、スマホを取り出す。

 連絡先の一覧に、二つの名前。

 一度、指が止まる。

 触覚が、また脈を打つ。

 ——逃げるな。

 そう言われている気がした。

 「……わかったよ」

 誰に向けた言葉かわからないまま、呟く。

 箱を、旧蔵を、もう一度振り返る。

 これはまだ、開いてはいけない。

 だが、無かったことにもできない。

 三人が揃わなければ、

 この警告の意味は解けない。

 海斗は、現場を後にした。

 右手の熱は、消えていない。

 けれど——

 それはもう、痛みだけじゃなかった。

 進め、という合図だった。

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