【芽衣 ― 現在②】
午後四時。
《綾瀬香房》の店内に差し込む光が、低い位置から棚を舐めるように伸びていた。
築年数の経った町家を改装した店は、天井が高く、梁がそのまま残されている。
煤の色が染みついた木目に、白いスポットライトを当てると、不思議と古さよりも“静けさ”が前に出た。
芽衣はカウンターの内側で、小さなトレイに並べた電子香のサンプルを拭いていた。
薄い生成り色のブラウスに、墨色のロングスカート。
作務衣ほど堅くなく、街着よりは落ち着いた、香房のために選び続けてきた服装。
——香を扱う人間は、香より前に目に入る。
かつて遼に言われた言葉が、今も胸に残っている。
午前中に来た母娘は、電子香の説明を熱心に聞いてくれた。
スマートフォンと連動するその製品は、香木の薫りを再現しつつも、火を使わない。
「これなら、部屋でも安心ですね」
そう言って笑った娘の声が、まだ店内に残っている気がした。
芽衣はその余韻を振り払うように、店の奥へ目を向ける。
展示棚には、香炉と香木が並ぶ。
伽羅、沈香、白檀。
それぞれに小さな説明札をつけ、初心者向けの言葉を選び抜いた。
百貨店の展示を何度も見て回った。
ブティックの照明の角度、視線の流れ。
“伝統”を前に出しすぎれば、人は身構える。
だから芽衣は、あえて少しだけ“軽さ”を残した。
それでも——
客足は決して多くない。
静かすぎる午後。
集中力が、ふと切れた。
芽衣は椅子に腰を下ろし、視線を宙に漂わせる。
その瞬間だった。
視界の端で、色が揺れた。
——香煙。
いや、煙ではない。
線のような光。
細く、淡く、ゆらゆらと。
(また……)
芽衣は目を閉じ、深呼吸をする。
最近、こういうことが増えていた。
香を焚いていないのに、色が見える。
薫りが“形”を持って迫ってくる。
焦げた伽羅の香りが、指先から離れない。
そのとき、表の戸が鳴った。
——コトン。
郵便受けに何かが落ちる、鈍い音。
芽衣は立ち上がり、戸口へ向かった。
そこにあったのは、見慣れた茶色の小包。
差出人の欄は、空白。
心臓が、一拍遅れて脈打つ。
(……二つ目)
昨日届いた箱と、同じ大きさ。
同じ紙質。
同じ、無言の圧。
店の戸を閉め、芽衣は香房の奥へ戻る。
梁の影が濃く落ちる作業机に、小包を置いた。
指が震える。
包み紙を解いた瞬間、香りが立った。
——伽羅。
それも、ただの伽羅じゃない。
焦げた甘さ。
わずかな金属臭。
胸の奥を締めつける、あの薫り。
箱の中には、薄い布に包まれた小さな香木と、一枚の紙。
芽衣は、紙を開く。
そこにあったのは、短い一文。
「二度目は、見るな。」
息が止まる。
見るな——
それは、芽衣にとって一番残酷な言葉だった。
視覚に宿る違和感。
香を“色”として捉えてしまう、この感覚。
机に手をついた瞬間、再び視界が歪んだ。
香煙が立ちのぼる。
線が絡まり、色が重なり——
その奥に、少年の横顔が浮かぶ。
遼。
高校時代と変わらない、少し困ったような笑み。
「……幻よ」
芽衣は自分に言い聞かせる。
でも、幻にしては香りが生々しすぎた。
胸の奥で、何かが“合図”を打った。
——二人も、きっと同じものを受け取っている。
そう確信した瞬間、芽衣は悟った。
これは偶然じゃない。
誰かが、三人をもう一度、香の場に引き戻そうとしている。
そして——
その中心にあるのは、決して焚いてはいけない“あの香”だ。
芽衣は香木をそっと布に戻し、箱を閉じた。
視界の色は、まだ消えない。
でも、逃げるつもりはなかった。
「……今度は、見ないで終われない」
そう呟いた声は、香房の静けさに吸い込まれていった。




