【遼 ― 現在①】
夕暮れの研究棟は、人影もまばらだ。
換気扇の低い唸りだけが廊下に残り、白い壁に薄闇が沈殿していく。
俺は研究室の机に肘をつき、開いたままのメモをじっと見つめていた。
──失踪した先輩が残した最後のメモ。
“禁香の調査は、彼らに会う前に終わらせること。”
読み返すたび、胸の奥がざわりと波打つ。
会う前に。
つまり──
“俺が、もう一度あの二人に会う”未来が、前提として書かれている。
予見というには突飛すぎる。
でも、香に携わる者が時折感じる“未来の匂い”というものがあることは、俺自身が知っている。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「……先輩、何を見たんですか」
呟いても返事はない。
メモの余白に残された走り書きは、急ぎと恐れが混ざった震えをしていた。
紙を閉じようとした瞬間だ。
──キィィィ……。
耳の奥で、金属を削るような鋭い音が鳴った。
思わず机に手をつく。
「……またか」
まるで誰かが耳元で囁くような距離感。
幻聴ではなく、香りに引き寄せられて響く音だと直感的にわかる。
原因はひとつ。
伽羅。
ただ思い出すだけで、音が走る。
あの日、三人で焚いた“あれ”の香り──
本来存在しないはずの、混ぜてはいけない香木の調合。
先輩が追っていた“禁香”の正体に近づくたび、耳の奥で金属音が鳴るようになったのは一年ほど前からだ。
「……芽衣、か?」
口にした途端、胸がきゅっと締めつけられた。
芽衣の香りは、いつも水色だった。
白檀に似た柔らかさの奥に、微かな湿り気。
でも時々、色が変わった。
遼先輩──
そう呼ばれたときのあの声の響きまで、香りになった。
「いや……違うか。じゃあ、海斗か?」
海斗の香りは、香りではなく“熱”だった。
触れた瞬間、煙が皮膚に入り込むような、あの独特の感覚。
俺は目を閉じる。
そして悟った。
──これは二人の名前を呼んだから鳴ったんじゃない。
伽羅を思い出したから鳴ったんだ。
だが、そこに二人の気配が混じって感じられたのはなぜだ。
金属音はしばらく続き、やがて細く細く途切れた。
静寂が戻る。
だが、不安は消えない。
むしろ濃くなる。
“禁香の調査は、彼らに会う前に終わらせること。”
先輩はどうして「彼ら」と複数で書き残したのか。
なぜ俺ではなく“彼ら”なのか。
脳裏に、あの蔵に沈む黒い箱が浮かんだ。
そして三人で作った“印”。
「……終わってない。やっぱり」
俺はメモを畳み、深く息をつく。
そして決めた。
調査を終えるまで、二人には絶対に会わない。
会えば、何か取り返しのつかないことが起こる。
だが──
その“未来”はすでに動き始めている気がしてならなかった。
---




