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【プロローグ:芽衣・現在①】

 ──香りは、時間の底に沈む。


 大学を出てから三年。

 **綾瀬芽衣あやせ・めい**は香道具を扱う老舗《綾瀬香房》で働きながら、

 ほとんど香道の世界から離れた生活を送っていた。


 忙しすぎる日々のせいにしていたが、本当は知っていた。

 あの頃の香りを思い出すと、胸のどこかが痛んだ。


 香を聞くときだけ感じる、“あの妙な喪失感”──

 それはいつの間にか、

 **「香りを一部だけ感じ取れなくなる」**という形に変わりつつあった。


 甘い香りが消える。

 辛い香りだけが刺すように残る。


 仕事にも影響が出かねない。

 だが誰にも相談できなかった。


 ましてや、

 あの二人には──もう会う資格すらない気がしていた。


---


 一見、普通のOLとして暮らす芽衣。

 しかし、五感の異変は彼女の将来を揺らすほど深刻だった。


 視覚。


 ある香りを聞いた瞬間だけ、

 周囲の色彩が「音のように揺らぐ」ように見える。


 視界の端に薄い煙の尾が漂い、

 その線が“何かの形”を描こうとしては消える。


 幻覚でも病でもない。

 もっと別の“過去”が呼んでいるような感覚だった。


---


梅雨の湿り気が路地に溜まる午後二時。

 《綾瀬香房》の木戸を押して入ると、わずかな床鳴りとともに

 檜の香りがふわりと立つ。


 古い町屋を改装した店だけど、

 ショーケースの一角には、今どきのカフェみたいに

 淡いミント色のポップカードが並んでいた。


 〈電子香でんしこう・香気ミストデバイス〉

  〜火を使わず、香りだけを纏う新しい習慣〜


 ポップを書いたのは私だ。

 少しでも若い人に“香り”の楽しさを届けたくて、

 街のデパートやブティックのディスプレイを見ては

 飾り付けを手帳にスケッチした。


 真面目に、必死に、だけどちょっとだけ空回りしながら。


 でも、こういう努力が好きだ。

 香りを好きな気持ちを、誰かに届けられる気がするから。


---


「すみません、これ……火を使わないんですよね?」


 入口近く。

 母親に手を引かれた若い女性が、電子香のコーナーを覗いていた。


「あ、はい! 充電式で、超音波ミストで香材を広げるタイプです」


「へぇ〜、香道って難しそうだけど、これは可愛いね」


 女性が笑う。

 その一言が嬉しくて、私は思わず丁寧に説明を続けた。


「今は“香り瞑想”が流行っていて……

 このミストタイプなら、気分に合わせて香りを変えられるんです。

 火を使わないので安全ですし、寝室にも置けますよ」


「へぇ〜いいじゃん。ね、お母さん」


 母親も頷きながら、手に取ったカートリッジの香りを確かめる。


「これ、若い子にも人気なんです。

 もしよければ、香りの体験もできます。試しに……」


 ミストを少しだけ焚くと、ほんのり甘い柑橘と白檀が混ざった香りが広がった。


「いい匂い……。あ、これ買おうかな」


「ありがとうございます! ではお包みしますね」


 笑顔を作りながら、手際よく包装紙でミストデバイスを包む。


 ──こうして誰かが嬉しそうに帰ってくれる瞬間。

 仕事っていいな、って思える。


 香道から離れてしまったけれど、

 香りを届けることだけは続けていた。


---


「芽衣ちゃん、また可愛い飾り付け考えたねえ」


 常連の奥村さんが入ってきた。

 白髪でも背筋がしゃんと伸びていて、香木に詳しい。


「こんにちは、奥村さん。

 夏に向けて、ちょっとポップな展示にしてみたんです」


「いいじゃないの。若い人が気軽に入れる雰囲気よ。

 香りって敷居が高いと思われがちだけど……あなたみたいな子がいると変わるわねぇ」


「そ、そうですか……? えへへ……」


 褒められると、どうしても照れてしまう。

 でも、嬉しい。


 奥村さんの要望どおり、沈香の欠片を見繕ってお渡しする。

 袋を渡すとき、ふと手が震えた。


 原因は……わかっている。

 さっきの小包のせいだ。


---


 お客さんの途切れた夕方、私は棚のPOPカードを整え、

 ミストデバイスを磨き、

 散乱した試香紙をまとめた。


 働きづめで、集中して、

 誰かのために心を尽くしていた。


 でも、

 いざ一人になると──


 集中がふっと途切れた。


 肩が落ちる。

 息が抜ける。


 あの香りが、指先から離れない。


---


 店の奥。

 従業員用の小さな机に置いた“それ”を、私は開け直した。


 何度目だろう。


 焦げた伽羅の香り。

 深くて、暗くて、懐かしい香り。


 そして、和紙に書かれた文字。


 “まだ終わっていない。”


 この筆跡。

 高校の時、何度も見た。


 ──遼先輩?

 それとも……誰?


 胸が締めつけられる。

 息が浅くなる。


---


 机に手をつくと、視界の端がにじんだ。


 色彩が波のように揺れる。

 光の線がするすると立ち上り、

 煙のように揺らめきながら形を作ろうとする。


 それは──


 笑っている横顔。


 高校の香道部の部室で、

 香炉の火を静かに見つめていた彼の横顔。


「……っ……」


 思わず目をつむる。

 涙じゃない。

 ただ、胸が痛む。


 幻だ。

 ただの疲れ。

 そう言い聞かせても、心は信じてくれない。


 私の心は、まだあの頃のまま止まっている。


 止まったまま、

 誰にも触れられず、

 時々こうして過去の香りを引き戻してしまう。


 店の外で、風鈴が鳴った。


 その音が現実に引き戻す。


 ……でも、わかっている。

 あの小包が届いた時点で、

 “止まっていた時間”はもう動き始めてしまったんだ。


---


【芽衣 ― 回想(高校時代)】


 薄い夕暮れの光が、香道部室の畳に淡く伸びていた。

 窓の向こうで吹奏楽部の音が風に運ばれてきて、線香の煙と混ざり合う。文化祭前の放課後は、どの部活もいつもより賑やかだった。


 私は、黒い香炉の蓋をそっと開け、緩やかに立ち昇る煙に鼻を近づける。

 伽羅でも白檀でもない──もっと複雑で、名前のついていない香り。


 その香りの中心に、遼先輩の気配だけがくっきりと浮かんだ。


 「芽衣、その香り……君の癖で当てちゃうんだと思うよ」


 不意に横から声がして、私はハッとして振り返る。

 遼先輩は、今日も飄々とした表情で、でもどこか疲れたような目をしていた。

 文化祭実行委員で忙しいのに、こうして部室に顔を出すのはいつものことだ。


 「癖……ですか?」

 言葉が震えるのを隠せない。


 遼先輩は、私の手の甲にそっと指先で触れた。


 その瞬間──鼓動が跳ね、全身が熱くなる。

 まるで、香炉の煙が一気に色を変えたような錯覚すら覚えた。


 「君はさ、香りじゃなくて“感情”を嗅いでるんだよ。そういう人なんだと思う」


 淡い笑顔。

 優しく言ったのに、どこか寂しさが滲んでいた。


 私は、きっと勘違いしたのだ。

 香りでもなく、言葉でもなく、その表情の意味を。


 ──恋。

 それしかないと、あの頃の私は思い込んだ。


 「先輩は……私の、何が見えるんですか?」


 尋ねると、遼先輩は少しだけ目を伏せた。


 「芽衣の中にある、まだ名前のない部分。俺には、それが……羨ましい時がある」


 部室の奥で、風が障子をわずかに揺らした。

 煙がふわりと形を変えて、先輩の横顔を曖昧にした。


 私は、胸の奥でずっと続いていた違和感──色の揺らぎが、そのときだけ鮮やかに見えた。


 “私が感じた香りと、先輩の表情が、違っている。”


 その矛盾に気づいたのに、気づかないふりをしてしまった。

 きっと怖かったのだ。踏み込めば、戻れなくなる気がして。


 遼先輩は、触れていた指をそっと離す。


 「文化祭、頑張ろうな。香道展示の準備、また手伝うよ」


 そう言って立ち去る背中が、なぜか遠く見えた。


 その時の私はまだ知らない。

 このずれの始まりが、やがて三人の関係全体を歪ませていくのだと。



---


【海斗 ― 現在】


 朝のプロジェクト会議が終わった直後、ホワイトボードに残る数字をぼんやり眺めていた。

 営業部のフロアは慌ただしく、人が行き交い、電話が鳴り、誰かが笑い、また誰かが怒鳴っている。


 そんな喧騒の中で、俺のスマホが震えた。


 ──解体現場責任者・黒瀬

 件名【旧蔵の地下から出てきたもの】


 胸の奥がざわつく。

 開いたら、もう戻れない気がする。それでも指は勝手に動いた。


 送られてきた写真を見た瞬間、呼吸が止まった。


 土にまみれた古い木箱。

 蓋の中央に、黒ずんだ焼印のようなものが残っている。


 三つの三角が重なり、中心に小さな渦。


 ──三人だけの印。


 高校時代、香道部の秘密の儀式ごっこみたいに作った、子どもじみた“紋”。

 あれを刻んだのは、確か……俺だ。


 なのに、胸が冷たくなっていく。


 「……何で、こんなとこから出てくんだよ」


 掠れた声が喉から漏れた。

 スマホを握る指が震える。


 すると突然、右手のひらが熱を帯びた。


 焼けるような、いや、内側から押し広げられるような疼き。


 ──あの日と同じ。


 建物の影で、遼と芽衣と三人で“香占こうせん”を真似した夜。

 遼が作った即席の香を焚いて、俺が箱に印を押したあの瞬間。

 煙が右手にまとわりつき、熱が皮膚に沈んだ感覚。


 「また、呼んでんのか……? 俺を」


 思わずつぶやく。

 冗談ではなく、本当に“呼ばれている”気がした。


 証拠も根拠も何ひとつないのに、胸の内側がざわざわとうるさい。

 右手の熱が脈となり、心臓と同じリズムで打っている。


 海斗、どうした?


 同僚が声をかけてきたが、返事ができなかった。


 目がスマホに釘付けになっていた。

 写真の箱が、そのまま画面越しに俺をじっと見ているように思えた。


 ──旧蔵。

 遼の実家が所有していた、例の“蔵”。


 高校の終わり頃から人を寄せつけず、内輪でも触れてはいけない空気があった。

 遼自身も、あの蔵のことになると口数が減った。


 「まさか……本当に、あの時の“続き”ってわけじゃねぇよな」


 そんなはずはない。

 でも否定しきれない。

 胸騒ぎは強まるばかりだ。


 右手のひらをぎゅっと握る。


 熱が……引かない。

 まるで、何かを掴み損ねた手が、再び“合図”を求めているみたいだ。


 解体現場に行かなきゃ──そんな衝動が体を突き動かす。


 仕事なんてどうでもいい、と思えてしまうほどに。


 俺はスーツの上着を掴み、会議室を飛び出した。

 誰かが呼び止めたが、耳には入らなかった。


 ただひとつだけ、胸の中で繰り返されていた。


 ──また、あれが呼んでる。


 あの日の続きは、まだ終わっていない。


---


【海斗 ― 回想(高校時代)】


 放課後の香道部室は、夕暮れの橙色がゆっくり満ちていく心地よい場所だった。

 遼先輩が香木を削り、芽衣が香炉の準備をして、俺はその横で道具を並べる係。

 役割分担なんて決めていなかったはずなのに、自然とそういう形になっていた。


 芽衣が香炉の蓋を開けた瞬間、ふわっと甘い香りが立ちのぼる。


 「白檀……だよな?」

 俺の問いに、芽衣は小さくうなずく。


 「でも、ちょっとだけ違うんだ。遼先輩が調合したから」


 その名前を出した途端、芽衣の頬がほんのわずかに赤くなる。

 その変化が、香りよりもはっきりと“色”のように見えた気がした。


 俺は胸の奥がざわつくのを隠すため、わざと軽い声を出した。


 「ほんと、遼先輩がいると芽衣って香りまで変わるよな」


 からかうつもりなんて、本当はなかった。

 ただ──言わずにいられなかった。


 芽衣は驚いたように目を瞬き、すぐに柔らかく微笑んだ。


 「変わってる? 私、そんなつもりないんだけどな」


 その笑顔が、どうしようもなく胸を痛めた。

 好きだなんて言えなかった。

 言ってしまえば三人の形が壊れることくらい、わかっていたから。


 遼先輩は、そんな俺たちの空気に気づいていないようでいて──

 でもたぶん全部、気づいていた。


 「海斗、香炉の位置ちょっと前。ほら、煙が流れにくい」


 そう言って屈んできた遼先輩の手が、ふいに俺の右手に触れた。


 たった一瞬。

 ただ、指先が触れただけ。


 なのに——灼けるように熱かった。


 「っ……!」


 反射的に手を引くと、遼先輩は不思議そうに眉を寄せた。


 「どうした? 火はつけてないぞ」


 違う。

 火じゃない。


 でも説明できなかった。

 言葉にしたら、嘘になる気がして。


 芽衣が心配そうに覗き込んできた。


 「海斗、手……赤くなってるよ?」


 見ると、右手のひらがうっすらと紅く染まっていた。

 まるで熱を帯びた煙が、皮膚の下に入り込んでいるみたいに。


 その時、遼先輩がぽつりとつぶやいた。


 「……海斗は、触覚の人なんだな」


 「触覚……?」


 「ああ。香りより早く、熱や流れを感じる。

  俺とは違うし、芽衣とも違う。面白いよ」


 面白い、なんて軽く言われても、俺にはよくわからなかった。

 ただ確かだったのは──


 あの瞬間の熱は、今日まで一度も消えていない。


 遼先輩が触れた場所。

 あの日、三人で刻んだ“印”に手を置いた瞬間のあの痛み。


 “熱”は、記憶になり、呪いみたいに右手に残り続けた。


 そして今──


 その熱が、また疼き始めている。


---


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