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木漏れ日の降る音

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/11/20

第一部:秘密のデュエット


第一章:二つのデスク、一つのステージ


火曜日の朝。蛍光灯の光が、大阪のオフィスビルの窓から差し込む気怠い太陽光を洗い流していく。田中美桜は、自分のデスクで静かに息を吸い込んだ。空調の低い唸り、規則正しく響くキーボードの打鍵音、そして誰かが淹れたまま放置されたコーヒーの、微かに酸っぱい香り。それが彼女の世界の音であり、匂いだった。

美桜の仕事は、一般事務と呼ばれるものだ 。午前中は、各部署に届いた郵便物を仕分け、備品の在庫を確認し、足りないものをシステムに入力して発注する。指先が慣れた動きでマウスをクリックし、キーボードを叩く。彼女の作る書類はいつも完璧で、上司からも同僚からも「田中さんは仕事が丁寧で助かる」と静かに評価されていた。電話が鳴れば、三コール以内に受話器を取り、「お電話ありがとうございます。株式会社アトラス、田中でございます」と、感情の乗らない、しかし完璧に調整された声で応対する 。彼女は、この会社の円滑な運営を支える、目立たないけれど必要な歯車の一つだった。

しかし、その静かな仮面の下で、美桜の心はいつも別のメロディーを奏でていた。経費精算の数字を打ち込みながら、頭の中では言葉の断片が生まれては消える。「アスファルトを濡らす夕立の匂い、君のいない歩道」。週末に親友の咲がアコースティックギターで弾いてくれた、まだ名前のない旋律が、脳内で繰り返し再生される。そのメロディーに、どんな言葉を乗せればいいだろう。美桜の穏やかな外面と、内側で渦巻く創造の熱との間には、誰にも気づかれない深い断絶があった。この退屈で予測可能な日常は、彼女にとって息苦しい檻であると同時に、音楽という名の逃避先を、より一層かけがえのない、聖域のような場所に変えるための圧力釜でもあった。ここで表現できないすべての感情が、週末の数時間のために凝縮され、純度を高めていくのだ。

定時のチャイムが鳴り、美桜はパソコンの電源を落とす。同僚たちに軽く会釈をしてオフィスを出ると、灰色のビル群が広がる街並みが、まるで彼女の「仕事用の顔」を映しているかのように見えた。駅の改札前で、咲が手を振っているのが見える。

「美桜、おつかれー」

その声を聞いた瞬間、美桜の中で何かのスイッチが切り替わる。一日中着込んでいた重い鎧が剥がれ落ち、心が軽くなる。

「咲もおつかれ。ごめん、待った?」

「ううん、今来たとこ。ねえ、週末の新曲、歌詞できた?」

咲の目がきらきらと輝いている。その光に引かれるように、美桜の口元に自然な笑みが浮かんだ。二人が並んで歩き始めると、雑踏のノイズは遠のき、世界には新しい音楽が鳴り響き始める。彼女たちのための、秘密のステージの幕が上がるのだ。


第二章:チケット10枚の部屋


土曜日の夜。心斎橋の雑居ビルの地下へと続く、薄暗い階段を下りていく。ビールの匂いと、微かに残るタバコの煙、そして若者たちの熱気が混じり合った空気が二人を迎える。行きつけのライブハウス「Pangea」だ 。

ステージ裏の狭い楽屋で、二人は出番を待っていた。壁には無数のバンドのステッカーが貼られ、使い古されたソファが置かれている。サウンドチェックを終え、弦の感触を確かめながら、美桜は深く息を吸った。心臓が心地よい緊張感で高鳴る。

「今日のノルマ、10枚だって」

咲がライブハウスのブッキング担当者との短いやり取りを終えて戻ってきた。その声には、いつもの現実的な響きがあった。チケットは一枚2,500円。つまり、25,000円分の売り上げを保証しなければならない 。達成できなければ、差額は自分たちの持ち出しになる。この「ノルマ」というシステムは、インディーズで活動する者にとって、情熱を具体的な数字に換算する、避けられない現実だった 。

「えっと、来てくれるの、高校の友達が3人と、会社の先輩が2人、それからいつも来てくれる…」

美桜が指を折りながら数える。咲も自分のスマートフォンを確認しながら頷く。どう計算しても、2枚足りない。5,000円の自腹。それは、二人のささやかな会社員の給料からは、決して小さくない出費だった。音楽を奏でるという純粋な喜びは、常にこの金銭的なプレッシャーと隣り合わせだった。友人やファンをライブに誘う行為は、アートの共有であると同時に、ビジネスの側面を帯びてしまう。その事実に、美桜は時々、胸がちくりと痛んだ。

「Clair de Luneクレール・ド・リュンヌさん、お願いしまーす」

スタッフの声に、二人は顔を見合わせ、頷いた。ステージに上がると、15人ほどの観客がまばらにフロアを埋めていた。でも、その一人ひとりの視線は温かい。美桜はマイクの前に立ち、咲がアコースティックギターで最初のコードを鳴らす。

彼女たちの音楽は、派手さはない。けれど、咲の作るメロディーは切なくも美しく、美桜の紡ぐ歌詞は、都会で生きる若い女性たちの、言葉にならない不安やささやかな希望を丁寧に掬い取っていた。だからこそ、彼女たちのファンは数は少なくとも、深く共感してくれる女性が多かった。

30分のステージはあっという間に終わった。演奏を終え、楽屋に戻ると、心地よい疲労感と共に、いつもの現実が待っている。終演後、事務所で精算を済ませる。財布から五千円札を出し、足りないチケット代を支払う。慣れた痛みだ。それでも、ステージの上で感じた、音楽を通して誰かと心が繋がる瞬間の輝きに比べれば、それは些細なことのように思えた。


第三章:雨の中の約束


ライブハウスを出ると、冷たい雨が降っていた。ネオンの光が濡れたアスファルトに滲み、ぼんやりとした光の川を作っている。美桜と咲は、コンビニで買った缶チューハイを片手に、傘を並べてゆっくりと歩いていた。

「今日の新曲、反応良かったね」と咲が言う。

「うん。でも、やっぱり最後のサビ、ちょっと走りすぎたかも」と美桜が返す。

こんな風に、ライブの反省をしながら帰る道は、彼女たちの儀式のようなものだった。成功も失敗も、喜びも悔しさも、二人で分かち合う。高校の軽音楽部で出会ってから十年以上、嬉しいことも、辛いことも、いつも隣には咲がいた。大学を卒業し、社会人になって、周りの友人たちが結婚したり、キャリアを追い求めたりして少しずつ変わっていく中で、二人と音楽の関係だけは変わらなかった。

「ねえ、美桜」咲がふと立ち止まる。「やっぱりさ、ちゃんとCD、作らない?」

その言葉は、これまでも何度か話題に上っては、その費用の大きさに立ち消えになっていた夢だった。咲は現実主義者だ。彼女の口からその言葉が出たということは、本気だということだった。

「この間、また調べてみたんだ。レコーディングスタジオ借りて、ミックスとマスタリングをプロに頼んで、CDプレスして… 。やっぱり、安く見積もっても数十万はかかる」

美桜は黙って咲の顔を見つめた。数十万。それは、二人がライブの赤字を埋めながら、こつこつ貯めてきた貯金をすべて吐き出しても、まだ足りないかもしれない金額だった。

「でも」と美桜が口を開いた。「作りたい。私たちの世界を、形に残したい」

デジタルで音楽が消費される時代にあって、物理的なCDを作るという行為は、二人にとって特別な意味を持っていた。それは単なる商品ではない。自分たちの友情と、費やしてきた時間と、共有してきた夢の、確かな結晶なのだ 。

「でしょ?」咲が笑った。「じゃあ、決まりだね。本気で貯金しよう。飲み会も一回我慢して、服も今シーズンは買わない。大丈夫、二人ならできるよ」

雨音が、二人の間の沈黙を優しく埋める。美桜は缶チューハイを一口飲み、頷いた。その夜、雨に濡れた大阪の片隅で交わされた約束は、二人だけの小さな世界の、次なる目標となった。そのCDは、まだ見ぬ未来への、ささやかで、しかし確かな道標だった。


第二部:偶然のスポットライト


第四章:一本の電話


金曜日の午後、美桜のオフィスは週末前の慌ただしさに包まれていた。彼女は来週の会議で使う資料の準備に追われ、数字と睨めっこをしていた。その時、ポケットに入れていた私用のスマートフォンが静かに震えた。ディスプレイには「Pangea サイトウさん」の文字。ライブハウスのブッキング担当者だ。

こんな時間に、どうしたんだろう。胸騒ぎを覚えながら、美桜は上司の視線を盗むように席を立ち、給湯室へと向かった。

「もしもし、田中です」

「あ、美桜ちゃん? サイトウだけど! ごめん、今大丈夫?」

電話の向こうのサイトウの声は、明らかに焦っていた。

「実は、今夜のトリのバンドが、メンバー全員食中毒で出られなくなっちゃって! もう、最悪なんだよ。で、本当に申し訳ないんだけど…今夜9時の枠、Clair de Luneで埋めてもらうことって、できないかな?」

美桜の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。夜9時。それは、ライブハウスで最も客が入る、最高の時間帯だ。いつも彼女たちが立つのは、もっと早い、まだフロアが温まりきっていない時間だった。

「えっ、今夜ですか?」

「そう、今夜! 急な話で本当にごめん! でも、君たちしか頼める人がいなくて…!」

絶好の機会。しかし、あまりにも突然すぎる。美桜は頭が真っ白になりながら、咲に電話をかけるために非常階段の踊り場へと駆け込んだ。

「もしもし、咲? ごめん、今大丈夫?」

事情を話すと、咲も絶句した。「今夜!? 無理だよ、準備も何もしてないし、私、今日友達とご飯の約束が…」

「でも、こんなチャンス、もう二度とないかもしれないよ」

美桜の声は、自分でも驚くほど必死だった。いつもは慎重な自分が、この偶然の誘いに強く惹かれている。それは、ただ流されるのではなく、自ら掴み取りたいという、心の奥底からの叫びだった。二人の人生の舵が、今、この瞬間に大きく切られようとしている。その予感があった。

数秒の沈黙の後、咲が溜息混じりに言った。「…わかった。やるしかないか。友達には謝ってくる」

「ありがとう、咲!」

電話を切り、美桜は高鳴る胸を押さえた。オフィスに戻ると、アドレナリンで頭がぼうっとしていた。そのせいで、会議資料の重要な数字を一つ、見間違えてしまった。それに気づいたのは定時間際。結局、彼女は一人オフィスに残り、修正作業に追われることになった。秘密の生活が、初めて現実の生活に、小さな、しかし確かな爪痕を残した瞬間だった。


第五章:後ろ姿の男


ライブハウス「Pangea」は、金曜の夜ということもあり、いつもよりずっと多くの客で賑わっていた。急遽決まった出演だったが、二人の演奏は、その緊張感が逆に作用して、いつも以上に生々しく、熱を帯びていた。

演奏の途中、美桜は客席に目を向けた。いつもの顔ぶれの中に、見慣れない一人の男がいることに気づいた。四十代後半だろうか。ライブハウスの雰囲気には少し不釣り合いな、仕立ての良いジャケットを着ている。彼はフロアの後方、音響ブースの近くの壁に寄りかかり、腕を組んで静かにステージを見つめていた。酒を飲むでもなく、誰かと話すでもなく、ただひたすらに、聴いている。その表情は読み取れない。しかし、その強烈な集中力は、ステージ上の美桜にもひしひしと伝わってきた。

咲も彼に気づいたようだった。一瞬、視線が男の方へと向く。二人は無言のまま、その神経質なエネルギーを演奏に注ぎ込んだ。セットリストの最後は、彼女たちのオリジナル曲の中でも、美桜が最も個人的な想いを込めて書いた「真夜中の天体図」。美桜は、まるでその男一人に向けて歌うかのように、目を閉じて、心の奥底から言葉を紡いだ。

演奏が終わると、割れんばかりの拍手が湧き起こった。美桜が目を開けて客席を見渡した時、あの男の姿はもうどこにもなかった。

「今の、見た?」

楽屋に戻るなり、咲が言った。

「うん。なんだったんだろう、あの人」

「業界の人、とか?」

「まさか」

美桜は笑ってごまかしたが、あの静かな眼差しが脳裏に焼き付いて離れなかった。それは、まるで自分たちの音楽の価値を、静かに、そして厳しく鑑定されているような感覚だった。二人は知らない。その男、音楽プロデューサーの武田が、ただ偶然そこに居合わせたわけではないことを。そして、この夜の演奏が、彼女たちの人生で最も重要な、知られざるオーディションだったということを 。


第六章:CDプロジェクト


あの夜の、熱気に満ちたステージは、二人の心に確かな火を灯した。彼女たちは、貯金を切り崩し、すべての情熱をCD制作プロジェクトに注ぎ込むことを決意した。

その後の数週間は、創造の喜びに満ちていた。週末になると、二人は時間貸しの小さなレコーディングスタジオに籠った。咲がリードギターのフレーズを何度も録り直し、美桜がコーラスパートを重ねていく。平日の夜、咲は無料の音楽制作ソフトと格闘し、ヘッドフォンの中で音のバランスをミリ単位で調整していた 。美桜は、自分のノートパソコンでCDのブックレットをデザインした。夜明けの空を自分で撮った写真を使い、シンプルで、けれど彼女たちの世界観が伝わるようなデザインを心掛けた 。

もちろん、すべてが順調だったわけではない。咲が「このギターソロ、どうしても納得いかない」と苛立ち、美桜が「この歌詞、もっと良い表現があるはずなのに」と頭を抱える夜もあった。小さな意見の食い違いが、口論に発展することもあった。しかし、その度に二人は立ち止まり、話し合った。彼女たちの友情は、この共同作業の圧力の中で試され、そして、より強固なものになっていった。

そしてある日、美桜のアパートに、段ボール箱が一つ届いた。中には、プロの業者によってプレスされた100枚のCDが、整然と並んでいた。二人は、完成したCDを一枚、手に取った。プラスチックケースのひんやりとした感触。自分たちでデザインしたジャケット。それは、彼女たちの共有してきた夢が、初めて手で触れられる「モノ」になった瞬間だった。このCDは、まだ名声などとは無縁だった頃の、二人だけの世界の、純粋な記録だった。


第三部:業界からのアプローチ


第七章:追跡者


完成したCDをライブで販売し始めてから、数週間が経った。あの男、武田が再び姿を現した。

最初のライブでは、彼は若い男性を一人連れていた。前回と同じように、フロアの後方で静かに聴いていた。そして次のライブでは、彼は一人で来て、終演後、物販のテーブルにやってきた。

「CD、一枚いただけますか」

咲が応対する。武田は財布から千円札を出すと、にこりともせずに言った。

「武田と言います。あなたたちの音楽、気に入りました」

それだけ言うと、彼は軽く会釈をして去っていった。その素っ気ない態度が、逆に二人の心を掻き乱した。

「『気に入りました』って…それだけ?」

「どういう意味なんだろう…」

美桜と咲は、その夜、ファミレスで深夜まで彼の言葉の意味を分析した。本気なのか、それとも社交辞令なのか。彼の繰り返しの来訪は、二人の間に期待と不安の入り混じった、奇妙な緊張感を生み出していた。それは、プロのスカウトが原石を見極めるために行う、冷静な観察のプロセスだった 。武田は、彼女たちの実力、安定性、そして観客の反応を、静かに、しかし確実に見定めていたのだ。その沈黙の審査は、美桜と咲にとって、自分たちの音楽が本当に価値あるものなのかを問う、心理的な圧力となっていた。


第八章:提案


ある日の午後、咲のスマートフォンに一通のメールが届いた。差出人は、武田だった。内容は、一度ゆっくり話がしたいので、梅田のホテルのラウンジで会えないか、というものだった。

指定された日、二人は緊張しながらラウンジへ向かった。武田はすでに席に着いて、静かにコーヒーを飲んでいた。

彼は単刀直入だった。レコード契約の話ではなかった。

「実は今、関西テレビの深夜ドキュメンタリー番組の音楽を担当しているんです」と武田は切り出した。「夜通し働く職人たちを追う、静かな番組でしてね。その番組のエンディングテーマに、あなたたちの『真夜中の天体図』を使わせていただけないかと考えています」

彼は続けた。あの曲が持つ、物悲しさの中に光る希望のような感覚が、番組のテーマに完璧に合致するのだと 。彼は、メジャーデビューというような派手な話ではないこと、そして、使用料として決して高額ではないが、ライセンス料を支払うことを提示した。

「これは、スターへの道というより、あなたたちの音楽を、ライブハウスに来ないような人たちにも届けるための一つの方法です」

武田の提案は、二人が漠然と抱いていた「スカウト」のイメージとは全く違っていた。それは、業界が大きな投資をする前に、アーティストの市場での反応を確かめるための、計算された、低リスクの「テスト」だった 。この提案は、彼女たちに夢の形を調整することを迫る、現実的な第一歩だった。


第九章:契約


その夜、美桜と咲は、武田から渡された契約書を前に、美桜の部屋で話し込んでいた。

「すごいことだよ、テレビだよ!」咲は興奮を隠せない様子で言った。「契約内容も、特に私たちに不利なことは書いてないみたいだし」

しかし、美桜は浮かない顔をしていた。

「でも…私たちの知らないところで、私たちの曲が使われるんだよ。もし、番組の内容が、私たちの思っているものと違ったら? 私が書いた歌詞の意味が、全然違うふうに受け取られてしまったら?」

それは、彼女たちの音楽の方向性を巡る、初めての真剣な意見の対立だった。咲は機会を掴むことを重視する現実主義者。美桜は、自分たちの世界の純粋さを守りたい理想主義者。二人の価値観の違いが、初めてビジネスという鏡に映し出されたのだ 。

「美桜の気持ちもわかるよ」咲は、少し冷静になって言った。「でもさ、私たちがCDを作ったのは、何のためだった? 二人だけで聴くため? 違うでしょ。私たちの世界を、誰かに届けたかったからじゃないの?」

咲の言葉に、美桜ははっとした。そうだ。原点はそこにあった。閉じた世界で満足するのではなく、誰かと分かち合いたいという、ささやかな願い。

「…うん、そうだね」

二人の間に、再び合意が生まれた。この衝突と和解は、彼女たちの友情が、ただ心地よいだけでなく、変化にも耐えうる強さを持っていることの証明だった。数日後、二人は契約書にサインし、武田に送付した。自分たちの秘密の世界の、小さな、しかし大切な一片を、外の世界へと手放したような、不思議な気持ちだった。


第四部:拡散のカスケード


第十章:夜に落ちた音の雫


契約から一ヶ月が経った。番組の放送日、美桜と咲は、美桜の小さなアパートで、テレビの前に並んで座っていた。

番組は、伝統的な提灯を作る老職人の一日を追った、静かで美しいドキュメンタリーだった。そして、エンドロールが流れ始めた瞬間、聴き慣れたアコースティックギターのイントロが響き渡った。テレビから流れてくる自分たちの声と演奏。それは、信じられないほど非現実的な光景だった。

「…流れてる」

「うん、流れてるね」

二人は顔を見合わせて笑った。放送が終わるとすぐに、SNSを確認した。数件のツイートが番組に言及していた。「エンディングの曲、良かったな」という感想が一つ、二つ。そして…それだけだった。

翌日、世界は何も変わっていなかった。会社に行けば、美桜は「田中さん」であり、咲は「山本さん」だった。あの夜の興奮が、まるで夢だったかのように感じられた。二人は、少しだけ期待しすぎていた自分たちが、少しだけ馬鹿らしく思えた。メディアでの露出が、必ずしも即座の反響に繋がるわけではない。巨大な情報の大海に投げ込まれた彼女たちの歌は、ただ静かに沈んでいったかのように見えた。


第十一章:批評家のツイート


番組の放送から三日後の昼休み。美桜は自分のデスクで、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。その時、友人がリツイートした投稿が、タイムラインに流れてきた。

そのツイートの発信者は、五十代の女性文芸評論家だった。鋭い批評で知られ、滅多にSNSを更新しないことで有名な、文壇の大御所だ。その彼女が、こう呟いていた。

「眠れぬ夜に、ふとテレビをつけたら、この歌が流れてきた。今、書き終えたばかりの小説の、心臓の音がする。Clair de Luneとは、誰だろう?」

そのツイートには、すでに数万の「いいね」とリツイートがついていた。美桜は、血の気が引くのを感じた。リプライ欄をクリックすると、人々が必死に情報を探しているのがわかった。「誰か知らない?」「音源どこにあるの?」という書き込みに混じって、誰かが彼女たちの手作り感満載の公式サイトへのリンクを貼り、別の誰かが、ライブでファンが撮った不鮮明な動画を投稿していた。

美桜は、めまいがした。自分がこれまで必死に守ってきた、仕事の自分と音楽の自分とを隔てる厚い壁に、巨大な亀裂が入り、粉々に砕け散っていくような感覚だった。このたった一つの、予期せぬツイートが、彼女たちの運命を決定づける触媒となったのだ 。


第十二章:洪水


その日を境に、すべてが変わった。批評家のツイートは、知的で感度の高い層に火をつけた。音楽ブロガーたちがこぞって「謎の新人、Clair de Luneを聴け」という記事を書き、彼女たちのCDはネット通販で瞬く間に売り切れた。

しかし、本当の爆発は、TikTokで起こった。

ある人気の「book-tok」インフルエンサーが、例の批評家の最新小説の最終ページを読み終え、静かに涙を流す自分の顔の映像に、「真夜中の天体図」のサビを乗せて投稿した。その動画が、爆発的に拡散したのだ 。

その日から、「真夜中の天体図」は、美桜が込めた個人的な意味合いから完全に切り離され、無数の人々の感情を代弁するBGMへと姿を変えた。ペットの愛らしい動画、失恋に泣く若者、雨の日の都会の風景、美しい手料理 。彼女の心の奥底から生まれた言葉とメロディーが、ミームとして消費されていく。その光景を、美桜と咲は、畏怖と、少しの恐怖をもって眺めていた。自分たちの秘密の言葉が、今や公共の財産になってしまったのだ。

ある日、オフィスで、隣の部署の若い女性社員が「真夜中の天体図」のメロディーを鼻歌で歌っているのを耳にした。もちろん、彼女は、その曲を作った張本人が、すぐ近くのデスクで事務作業をしていることなど知る由もない。秘密は、もはや秘密のままではいられなくなっていた。


第五部:新しい世界の入り口


第十三章:ソールドアウトの衝撃


批評家のツイートから、二週間。その日は、以前から決まっていた「Pangea」でのライブの日だった。

会場に着いた二人は、目の前の光景に言葉を失った。ライブハウスの入り口から、通りまで、長蛇の列ができている。サイトウが、興奮と疲労の入り混じった顔で二人を迎えた。

「すごいよ、君たち! ソールドアウトだ!」

会場の中は、熱気でむせ返るようだった。そこには、いつもの見慣れた顔はほとんどない。スマートフォンを掲げ、ざわめきながら開演を待つ、無数の知らない顔、顔、顔。彼らは「Clair de Lune」を聴きに来たのではない。「話題のClair de Lune」を、見に来たのだ。

楽屋で、美桜は過呼吸になりかけていた。パニックだった。こんな大勢の、期待に満ちた視線の中で、歌えるわけがない。

「大丈夫」

咲が、震える美桜の手を強く握った。「大丈夫だよ、美桜。いつも通りやればいい。私たちがやることは、いつもと同じ。私たちの歌を、歌うだけ」

咲も怖いはずだった。でも、彼女は美桜を支えるために、必死に平静を装っていた。その友情だけが、美桜を繋ぎとめる最後の錨だった。観客は、もはや親密なコミュニティではなく、評価を下す巨大な群衆へと変わってしまった。その変化の恐怖に、二人は立ち向かわなければならなかった。


第十四章:千の心の音


ステージに足を踏み出した瞬間、地鳴りのような歓声が二人を包んだ。スポットライトが眩しい。一曲目は、手が震え、声が上ずった。

まずい。このままじゃ、呑まれる。

美桜がパニックに陥りかけたその時、隣に立つ咲と視線が合った。そこには、いつもの、高校時代から何も変わらない、悪戯っぽい光があった。大丈夫だよ、と目が語っていた。

その瞬間、何かが吹っ切れた。

二人は、観客のために演奏するのをやめた。ただ、お互いのために演奏し始めた。いつもの練習スタジオのように、美桜の部屋のように。自分たちの恐怖も、戸惑いも、信じられないような喜びも、すべてを音に乗せた。

演奏は、次第に熱を帯びていった。それは、彼女たちの人生で、最も力強く、最も魂のこもったパフォーマンスだった。

そして、最後の曲、「真夜中の天体図」のイントロを咲が弾き始めた時、奇跡が起こった。

美桜が歌い出すと、会場全体が、一緒に歌い始めたのだ。美桜が書いた、彼女だけの秘密の言葉を、何百人もの人々が、まるで自分の言葉のように歌っている。それは、圧倒的な、そしてどうしようもなく感動的な、繋がりの瞬間だった。

彼女たちはもはや、ただの美桜と咲ではなかった。彼らは「Clair de Lune」であり、この会場にいるすべての人々の心は、今、確かに彼女たちのものだった。


第十五章:扉が開く


演奏を終え、楽屋に戻ると、そこは混沌としていた。サイトウが駆け寄ってきて二人の肩を叩き、対バン相手が興奮した様子で祝福の言葉をかけてくれる。その喧騒の真ん中に、武田が、嵐の中の灯台のように静かに立っていた。

彼は、無駄な言葉は一切口にしなかった。

「準備はできたようですね」

そう言うと、彼は持っていたファイルから、数枚の書類を取り出した。それは、大手レコード会社からの、正式な契約のオファーだった。複数枚のアルバム契約、潤沢な制作予算、そして全国ツアー。二人が、心のどこかで夢見ながらも、本気で口にすることさえ憚られた、すべてがそこにあった。

「時間はあります。焦らず、弁護士にも相談してください」

武田はそう言って書類をテーブルに置くと、静かに楽屋を出ていった。

後に残されたのは、美桜と咲、そして一枚の契約書だけだった。壁の向こうからは、まだ鳴りやまないアンコールの歓声が、地響きのように伝わってくる。

二人は、契約書に目を落とし、そして、お互いの顔を見つめた。

この扉を開ければ、もう後戻りはできない。会社のデスクも、秘密の週末も、すべてを過去に置いていくことになる。二人だけで大切に築き上げてきた小さな世界が、今、大きく開かれようとしている。

彼女たちの心に浮かんでいた問いは、「これが欲しいか?」ではなかった。

「私たち二人で、この先へ、行けるだろうか?」

答えのない問いが、熱気を帯びた沈黙の中に、静かに溶けていった。


エピローグ:一年後の不協和音


メジャーデビューから、一年が経った。

東京の、窓の大きなレコーディングスタジオ。ミキシングボードの無数のツマミとフェーダーが、宇宙船のコックピットのように鈍い光を放っている。美桜は、防音ガラスの向こう側でヘッドフォンをつけた咲の姿を、ぼんやりと眺めていた。

「咲さん、今のテイク、もう一回だけいいですか? 少しだけ、ほんの少しだけ走り気味だったんで」

コントロールルームに、プロデューサーの武田の落ち着いた声が響く。咲はガラスの向こうで、何も言わずに頷き、再びギターを構えた。もう、これで10回目のテイクだった。

会社を辞め、二人で上京し、音楽だけに没頭できる日々。それは、夢にまで見た生活のはずだった 。朝から晩まで音楽のことだけを考え、最高の環境で音を鳴らす 。しかし、現実はきらびやかな夢とは少し違っていた。インディーズ時代、自分たちのペースで、自分たちの「好き」だけを詰め込んでいた音楽制作は、今や締め切りと予算、そして「売れる」という目に見えない巨大な圧力に支配されていた 。

「美桜さん」

武田が、美桜の方を向いた。

「Bメロの歌詞、もう少しだけ希望が見える言葉にならないかな。今のままだと、少し暗すぎる。リスナーが共感しづらい」

美桜は、唇を噛んだ。その歌詞は、この一年で感じてきた、華やかな世界の裏側にある孤独や焦燥を、やっとの思いで絞り出した言葉だった。それを「暗い」の一言で片付けられてしまう。音楽は、いつから聴き手の顔色を窺う「商品」になってしまったのだろう 。

「…考えてみます」

そう答えるのが精一杯だった。隣に座るレコード会社の若いA&R担当者が、気まずそうに視線を逸らす。このスタジオにいる全員が、Clair de Luneというプロジェクトを成功させるためのチームだ。しかし、美桜には時々、自分が巨大な機械の部品になったような、息苦しい感覚を覚えることがあった 。

その夜、二人が借りた都内のマンションに帰ると、重い沈黙が部屋を満たした。先に口を開いたのは咲だった。

「ごめんね、今日。時間かかっちゃって」

「ううん」美桜は力なく首を振る。「武田さんの言う通りだよ。プロなんだから、要求に応えないと」

「……美桜は、本当にそう思ってる?」

咲のまっすぐな視線に、美桜は言葉に詰まる。咲は、美桜が無理をしていることにも、歌詞に込めた本当の想いにも、気づいている。でも、彼女は現実を見なければならない立場だった。スケジュール管理、メディア対応、そして何より、理想と現実の間で揺れる美桜を支えるという、新しい役割。友情とビジネスパートナーという二つの関係性が、複雑に絡み合い、時々二人をぎこちなくさせた 。

「わからない」美桜は本音を漏らした。「何が正解なのか、わからなくなった。昔みたいに、ただ二人で楽しいってだけで、音楽を作れなくなっちゃった」

その言葉は、咲の胸にも突き刺さった。成功は、二人から何かを奪っていったのだろうか。

咲は何も言わず、部屋の隅に立てかけてあった、上京するときに持ってきた使い古しのアコースティックギターを手に取った。そして、ソファに座る美桜の隣に腰を下ろし、ぽつり、ぽつりとコードを鳴らし始めた。それは、まだ名前のなかった頃の、二人が初めて一緒に作った曲のメロディーだった。

下手くそで、荒削りで、でも、確かな衝動と喜びに満ちていた音。

美桜は、その音に導かれるように、小さな声で歌い始めた。

「…覚えてる?」

「忘れるわけないよ」

咲が笑う。その笑顔は、高校の軽音楽部の部室で見た顔と、何も変わっていなかった。

世界は変わった。生活も、環境も、周りの人間も。でも、たった一つ変わらないものがある。隣でギターを弾く咲の指の動き。それに合わせて言葉を紡ごうとする自分の心。それだけが、Clair de Luneの、揺るぎない真実だった。

「ねえ、咲」

美桜は、咲のギターの音に、新しい言葉を乗せてみる。

「次の曲、こんな歌詞はどうかな」

その言葉は、武田に言われた「希望」とは少し違うかもしれない。でも、それは紛れもなく、今の美桜と咲の、ありのままの音だった。

咲は、美桜の言葉に耳を傾け、少しだけコードを変えて応える。不協和音だらけだった一日の終わりに、二人の間には、新しい、小さなハーモニーが生まれていた。扉の向こうにどんな未来が待っていようと、二人でいれば、きっと大丈夫。美桜は、久しぶりに心からそう思えた。


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