3日目①
窓から入り込む風に、教室の無機質なカーテンがゆらゆらとそよぐ。
春のようで夏のような生温かな空気が、もうすぐ来るだろう梅雨を想起させるような湿気を含んだ空気が、肌を掠める。
「っくしゅん」
二つ合わせた机を挟み、俺と向かい合って座る鈴美は、鼻と口を手で覆って小さくくしゃみをした。
左右に結われた鈴美の髪の房がわずかに揺れた。
「う~、鼻がムズムズする~」
鼻をすすりながら鈴美は言った。
「なんだ、風邪でもひいたか?」
「うーん、そんなことはないと思うんだけど」
鈴美はポケットティッシュで鼻元を拭うと、席を立ち、教室の隅に置いてあるゴミ箱にそれを捨てた。
「じゃあ花粉とか?」
「流石にこの時期じゃもうほとんど飛んでないんじゃない? っていうか、私そもそも花粉症じゃないし」
「それもそうか」
鈴美は再び席に着くと、手に持ったシャーペンのノブの方を、教師が教鞭で黒板を指すみたいに、俺の机の上に置かれたテストの答案用紙に向けた。
「さてと、どこからだっけ……ああ、ここからか。えーっと、ここの問題はね――」
二人だけしかいない放課後の閑散とした教室に、鋭く朗らかな鈴美の声がよく通る。
昨日秋野さんに伝えたように、今日の異変探しはお休みである。
テストが全て返却された日の放課後は、テスト直しを兼ねて二人で軽い勉強会をする。俺たちのしきたりだ。
まあ、”勉強会”といっても、俺が一方的に教わるだけなんだけど。
鈴美の方は、「お互いに教え合おう!」っていう気概でやってるみたいだけど、実際のところ、俺がテストで分からなかった問題を中心に鈴美が解説するというサイクルの繰り返しだ。
俺が生徒で鈴美が先生。
正直俺にしてみれば、勉強会というよりも、雑談しつつ緩い気持ちでできる補習みたいなものである。
「この極限は分母と分子の両方が無限大になるやつだね。でも、普通に最高次で割るだけだとダメなんだよ」
「え、ダメなのか? 分母と分子の増え方のバランスを取るって話じゃ」
「そうなんだけど、これには指数関数とか対数みたいに増加速度が全然違うものが絡んでるの。だから、ただ割るだけじゃ挙動を見極められないんだよ」
「ほー……」
鈴美の指南に従って脳と手を動かす。
すると、テスト中にはあんなにも悩んで、その挙句間違えた問題なのにもかかわらず、一筋の光に導かれるようにしてスラスラと回答に至る道が浮かんでくる。
決して鈴美の教え方が飛び抜けて上手いというわけではないと思うのだが、鈴美の説明は妙にすんなりと頭に入ってくる。この感覚を何と表現すればいいんだろうか。彼女の言葉に対する理解を脳が一切拒むことなく、すとん、と全てが自然と染み込んでくるような――心地が良い、とでも言おうか。
「――それで、最後にそこを整理したら」
「えーっと……つまりこれでいいのか?」
癖になっている下付き二重線を引いた回答を鈴美に示す。
「うん、それでおっけー!」
シャーペンの先を俺の顔に向けて、よくできましたと言わんばかりに鈴美は微笑んだ。
「はー、これで数学のテスト直しは終わりかあ」
俺は手を伸ばし、机に突っ伏す。
「今回の数学はワンチャンあったと思ったんだけどな……」
予想よりもペケマークと三角マークが付けられた答案用紙を顎に敷き、呟く。
数学を重点的に勉強したから高得点を取る気満々だったんだけど、現実はそう上手くいかないらしい。
平均点よりは明らかに上だが、高得点かと問われれば、一間置いてから苦い顔で首を横に振るような絶妙なライン。テスト用紙に挟まっている偏差値・得点表がそう告げている。
「やっぱりお前はすげーよ。今回も数学満点だし。いや、数学だけじゃないか。全教科満点のオールパーフェクト。圧倒堂々学年1位だ。それに比べて俺ときたら……」
「別に三国だって悪い点数ってわけじゃないでしょ? むしろ断然良い方だし、そんな卑下するほどじゃないと思うけど」
「まあその通りではあるんだけど……」
一応、苦手な国語科目以外は毎度全部平均点を超えていて、それらにおいては高得点に片足を突っ込んだような、先の数学と同じようなパッとしない点数は安定して取れている。
特定の科目で目覚ましい結果を残すことはないが、その平均して安定的な点数のおかげで、総合点では割と高順位にいるのだが――
「何というか、身近なヤツがお前しかいないからさ、俺の中の一つの指標がお前基準になってるというか……それに昔の感覚が抜けないというか」
小学生の頃はテストの度にどっちが100点を落とすかで鎬を削り合っていたはずなのに。
今や俺たちの間には埋められない学力の溝がある。
それは分かってるんだけど、未だに当時と重ねてしまう自分がどこか潜んでいる。
「一体どこでこんな差がついたんだか……」
は~あ、と大きく息を吐いてから、俺は勢いよく上体を起こし、両腕を後ろに組み、指を絡めた手をそのまま天井に向けて思いっきり伸びをした。座りっぱなしと若干の猫背のダブルパンチで凝り固まった背筋に快感がはしる。
それから何度か身体を捻って上半身全体をほぐした後、今度は「ふう」と小さく息を吹いてから、再び鈴美の方へ向き直った。
「まあいいや。さて、次に行きますかね」
そう言って俺は数学の答案用紙を横へ除けて、テスト用紙をまとめておいたクリアファイルから新たな科目を取り出す。
「えーっと、次は……現代文かあ……」
意図せず特大のため息が漏れる。
俺の解
右も左も
バツばっか
――鼎三国(17) 自身の国語能力のなさを形容した句
「苦手なんだよなあ、国語」
一括りに国語といっても、古文・漢文の方はまだマシだ。あっちは平均点あたりをふらついているので、ギリ耐えていると言ってもいいかもしれない。
問題は現代文。
各教科の点数をレーダーチャート化したら、多分そこだけ大穴が生まれると思う。
さながら谷語。
総合点が減大分。
……なんて言ってみるテスト。
……。
「分かるー! 私も国語って苦手なんだよね。現代文は特に」
嘆息にも近い俺の呟きを拾ったのか、鈴美はそう言ってきた。
……なんだコイツ。
馬鹿にしてんのか。
「苦手って、今回もきっちり満点取ってるのにか? 俺には全くそうは見えないけど」
「いやいや、本当に苦手なんだって!」
鈴美は慌てて手を振りながら否定する。
「点数上じゃ他の科目と同じように満点だからそう見えるかもしれないけど、その中でも得意不得意はあるんだよ。一応全教科満点だけど、その全部が全部同じようなレベルっていうわけじゃないっていうか……分かるかな?」
「あー分かった分かった。つまりあれだろ。上澄みの中での苦手ってわけだ。自分が得意なことでも、さらにその中でも特出して得意な部分と、別にそこまでできるわけじゃない部分があるってことだろ?」
「うん。その通りだよ」
鈴美は頷いた。
しかし鈴美よ。お前にとって確かにそれは苦手と言えるのかもしれないけど、俺へのレスポンスとしては間違ってるんじゃないか?
俺とお前の苦手じゃ次元が違い過ぎるってのに。
いいか、本当の意味での苦手っていうのはな、今俺の肘に敷かれているこの答案用紙のことを言うんだぜ。
そんなことを思い、無駄に腕に力が入る俺であった。
「ちなみにお前は現代文のどこが苦手なんだ?」
「うーん、そうだねぇ~……現代文ってさ、評論だったらその文章における筆者の意図とか、物語だったら登場人物の心情とか問われるじゃん? そういうのが苦手なんだよね」
「奇遇だな。俺も同じだ」
まあ同じとは言っても、きっとそこの理解度には天と地ほどの差があるんだろうけど。
「三国も分かる? やっぱりそうだよね。そもそも心情とか意図とかって読み手次第で解釈がブレるものだって私は思うんだけど……なんか現代文ってふわふわしてるっていうか」
鈴美はそう言って、シャーペンをくるくると回しながら小さく首を傾げた。
「すげー分かる。理系科目と違って、現代文には公式とか定義から導きだすような確固とした答えがないんだよな。何て言うか、不透明な感じ。小説読解にでてくる登場人物の心情を問われたところで、その模範解答が本当に正しいっていう確証がどこにあるんだか」
「そうそう! そこなんだよね。誰が解いても同じ答えに帰結するわけじゃないのに、まるでその文章にはそれ以外のメッセージが含まれてないみたいに唯一の”正しい答え”が決めつけられてる。それが違和感なんだよね。それに――」
シャーペンを回す手を止め、鈴美は俺から目を逸らした。
どこか遠くを見るようなその瞳は、心なしか寂しげに見えた。
「――そもそもの話、人の心の奥なんて読めるわけがないのにね」
―――
「よう、三国少年。久しぶりだな」
月曜の放課後、約束通りにいつもの神社に行くと、秋野さんは当然の如くそこにいた。
俺は境内から鳥居を見上げる。
拝殿、灯篭ときて、今日はなんと、彼女は鳥居の上に座っていた。
手を組み足を組み、あたかもそこに座ることが自然であるかのような毅然とした態度で座っている。
「久しぶりって言ったって三日しか空いてないですよ……ていうかそんなとこどうやって登ったんですか。危ないんで早く下りてください」
「はいはい、分かった分かった」
秋野さんは嫌々といった感じで首を振った。
割と素直に応じてくれるみたいだが、一体どうやって下りるんだろうか。
高さだって3メートルはゆうに超えてるぞ。
と、そんなことを思っていると次の瞬間、
「よっ」
掛け声とともに、秋野さんはひょいと鳥居の上から飛んだ。
「うわっ」
俺は条件反射的に目を閉じた。
地面から音と振動が伝わった直後、恐る恐る目を開けてみると、目の前にはピンピンとした様子の秋野さんがいつもと変わらない姿で立っていた。
見たところ怪我の一つもしてないし、制服に砂埃もほとんどついてない。
もしかして、あの高さから着地を、それも受け身なしで決めただと?
「あの、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、大丈夫だぜ。別に、このくらいどうってことねーからな」
「ええ……」
いやいや、どんな身体能力してんだよ。
男の俺でもあの高さは多分結構キツいのに。
「さて、三日空いたわけだが、どうだ、充実した休みは過ごせたか?」
そう言って、秋野さんは軽く制服の裾を払う。
まるでさっきの跳躍なんて大したことじゃないとでも言いたげな余裕の態度だ。
「充実してるかしてないかで言ったら断然後者ですね」
「おいおい、若者のくせに悲しいことを言うなあ」
なんかすごい年長者目線の物言いだけど、この人と俺、多分そこまで歳離れてないだろ。
俺が最初会ったときなんて、後輩と勘違いしたくらいなんだし。
「して、具体的にはどんな休日を?」
「どんなって言われても……まあ、寝て起きて飯食って、後はだいたい勉強したり、ネット見たり、たまに気分転換にてきとうに出かけて――そしていつものように鈴美にストーキングされたついでに、あいつとちょっと街を巡っただけの、何もない休日でしたよ」
「本当にナチュラルにストーカーされてんだな、お前。まあ後半部分は置いとくとして、大体が勉強とネットって……なんか趣味とかねーのか?」
「えーと……強いて言えばその勉強とネットサーフィンとか、ですかね」
秋野さんは項垂れると同時に、はあ、と大きなため息を吐いた。
「つまんねーヤツだな。他にねーのかよ、もっとこう、アクティブなやつは」
「そんなこと言われてもないもんはないですよ。あ、でも、一応昔はそれなりに色々な趣味があったんですよ。まあ、友達がいなくなったショックで無気力気味になってそれっきりなんですけど」
「ふーん。友達と同時に趣味も消えるとは、可哀想なヤツ」
「そう思うんなら早く俺に人が寄り付かない理由を教えてくださいよ」
「残念ながらそいつは無理だ。ボクの仕事を全て手伝ってから教える、そういう約束だからな」
「人がこんなにも困っているというのに、ケチですね」
すぐに冗談だと分かるように、過剰に抑揚をつけて言い放つ。
「そういうこと言うんなら、この話、なしにしてもいいんだぜ?」
秋野さんはニヤリとした笑みを浮かべながら、わざとらしく俺を睨んだ。
「いやいや、それは困るので続行でお願いします。わたくしめが悪うございました」
俺が即座に手の平を返すと、秋野さんは腕を胸の前で組み、「分かればよろしい」とばかりに得意気な顔で鼻を鳴らした。
秋野さんって案外ノリがいいのかもな。段々付き合い方も分かってきた気がする。
もう俺の中じゃミステリアス秋野は死んだも同然だ。
「さて――」
秋野さんは組んでいた腕を解いて、言った。
「こんなところで立ち話なんかしてないで、そろそろ行くか、異変探し」
そう言って、秋野さんは身を翻し、神社を下る階段の方を向いた。
あれ?
秋野さんの後ろ姿に、何か違和感がある。
なんだろう。
明らかに何かおかしいんだけど……。
あ、分かった。
全く似合ってなかったポニーテールがなくなって、ただのショートになってるんだ。というか、今気づいたけど、よく見たら髪の毛全体の毛先も切り揃えられていて、若干おかっぱみたいになってるじゃないか。
「あの、秋野さん、髪切りました?」
「ん? ああ、まあそうだ。よく分かったな」
秋野さんはそう言って、かつて尻尾が伸びていた場所をさすった。
そして、少し振り向いて、
「そうやって相手の小さな変化に気付ける男はモテるぜ」
と、まるで決め台詞かのように言い放ち、いつものようにさっさと先に階段を下っていった。
小さな変化って……。
流石にあんなクソダサい尾っぽが消えてれば誰でも気づくと思うけどな。うん。
幼児向けの間違い探しといい勝負の難易度だろ。
まあいいや。
少なくとも本人はそう思ってるみたいだし、黙っておこう。特に言う必要もないし、何かの拍子に秋野さんの自尊心的なものを傷付けてしまうかもしれないしな。
俺はそんなことを考えながら、秋野さんの後を追って階段を下りた。