6日目①
6月5日木曜日。
いつも通り異変探しに向かおうと、校内の階段を下っていた途中で俺は後ろから突然呼び止められた。
「ちょっと待ってよ」
振り向くと鈴美がいた。
彼女は踊り場に立つ俺を、階段の上から見下ろしていた。
普段は中々見せない深刻そうな表情で。
……真剣な顔してるとこ悪いんだけど、その、なんというか。
この画角、パンツがすげー見えそうなんだけど。
「どうした?」
澄ました顔で答える。
一旦パンツのことは意識から外そう。なんかそういう雰囲気じゃない気がする。
……。
いや、でも……見えそうで見えないのが、余計に知的好奇心を――クソが。
俺は首をブンブンと振って煩悩を掻き消す。
しっかりしろ馬鹿タレ。
「え、何、どうしたの?」
鈴美の口から俺がさっき発した言葉がほぼそのまま返ってきた。
「まあ、ただのストレッチだよ。それで、俺に何か用があるんじゃないのか?」
「ああ、えっと、それなんだけど――今日も行くんだよね、秋野さんのところ」
「そりゃもちろん」
「ねぇ、今からでもいいからもうあの人に関わるのやめない?」
鈴美は一歩前に出る。
あ、待って。ホントに見えそう。
「異変探しも意味わかんないし、私だって、三国自身だって分からないことを知ってるんなんてやっぱり変だよ、おかしいよ。絶対何かあるって」
「何を今さら、っていうかまだそんなこと言ってんのか? 今まで何もなかったんだから大丈夫だって」
「でも、なんだか嫌な予感がするの」
「嫌な予感?」
「うん。このままじゃ何かが変わってしまうような、終わってしまうような……」
「なんだそりゃ」
結局何が言いたいんだろう。変わるとか終わるとか、まったくもって具体性がない。
予感って、なあ。
秋野さんのことを変とか怪しいとか言う割に、お前の言動も大概な気がするんだけど。
「とにかく、もうやめよう? ね?」
「悪いがそれは無理だ。せっかくここまで来たんだから最後までやるさ。俺はその予感とやらは別に感じてないし、あの人がそんな危険な人間だとは思わないしな」
鈴美のこういう心配性な面は前からたまに見えてたけど、最近、それもここ1週間は特に強くなっている気がする。
ていうか、何でこの件に限ってこいつはこんなに心配してくるんだ。確かに友達が不審者にのこのこついて行ったらそりゃその身を案じるだろうけど……。
でも、それにしたって、今に至るまで何度も引き留めるほどに心配するか?
かれこれ秋野さんに付き合い始めて1週間になるけど別に何も起きてないし、俺の口からは何度も大丈夫だと説得したのに。
そもそも、鈴美が秋野さんに直接会ったのって、初対面だったあの日だけだろ?
それなのになぜ、そこまでの秋野さんに対する嫌悪感と危機感を抱く?
第一印象ぐらいしか判断材料がないのに、何でこいつはここまであの人に怯えてるんだ?
ヴォルデモート?
こいつの言葉にあるのはただの心配じゃない、もっと別の――たとえば、恐怖みたいなものが滲んでいる。
「それに、ずっと友達がいない原因がワンチ分かるかもしれねぇんだぞ。もしかしてお前、俺に友達ができてほしくないのか?」
「そんなことないよ!」
「じゃあ、明日で約束の1週間も終わるんだし、もうちょっとだけ我慢してくれよ」
「……」
鈴美は唇を噛み、何か言いたそうな表情で俺を見つめていたが、しかし何も言うことはなかった。
「それじゃ、行ってくるから」
沈黙は肯定の証だとか、答えは沈黙だとか、そんな言葉を聞いたことがある。それに則る形で、俺は恐る恐る鈴美に背を向けて言った。
……。
鈴美は何も言わなかった。
許されたということでいいんだろうか。まあ、あいつに許可されずとも普通に行くんだけど。
俺はそのまま階段を折り返し、いつものように例の待ち合わせ場所に向かった。
さて、ここで全然関係ないことを言わせてほしい。
これに関してはマジでしょうもないことだし、軽蔑されるようなことかもしれない。
言わなきゃそれで終わりなんだが、なんというか、男なら一応報告しておくべきだと思ったのだ。
今日の鈴美はピンクと白の縞パンだった。
……。
鈴美さん、ちょいと子供っぽすぎやしませんか?
俺からは以上。
おしまい。
―――
鈴美の元を去ってからだいたい1時間後、俺はいつも通り自転車を手で押しながら秋野さんの隣を歩いていた。
今日の異変探しの場所として示されたのはまたしても端泉の居住区域の一角で、ここ二日間は土手やら夜の中学校やらだったからか、初心に戻った気分だ。
この辺りの住宅街の道なんてのはどこも似通ったものなので、相変わらず特に言うこともない……はずなのだが、今日に限ってはただ一つ気になる点があった。
「なんでまた、こんなところを選んだんですか?」
「あぁ?」
秋野さんは唸るような声を発しながら俺を見た。
「前も言ったろ。理由なんて特にねぇ、勘で選んでるって」
「うーん……本当ですか?」
「ホントだよ、ホント」
「今日も例外なく?」
「そうだよ」
「ならいいんですけど……」
でもなあ。
この道でこの方角って、ねぇ。
明らかに作為的っていうか、この地区の数ある場所、そして道の中からピンポイントで当たるか?
それに方角まで。
偶然って言われたらそれで終わりなんだけど、とてもそうとは思えないような気がしなくもないような……。
まあ、秋野さんもああ言ってるわけだし、とりあえず今はいいか。また後で言及する時が来るかもしれないから、もしその時が来たらまた訊こう。
「にしても、本当に何も起きないですね。未だ異変とやらは見つかってないですし。いつもこんなもんなんですか?」
「ああ、まあ……こんなもんだな。これも前に言ったが、滅多に見つかるもんじゃねぇから」
異変。
それを探すという名目で秋野さんに連れ回されているはずだが、今のところ一度もその存在を確認できてないし、気配すらも感じたことがない。
うーむ、今さらだけど本当にいるんだろうか、そんなもの。
半信半疑。真偽不明。
でも、確かに信じ難い話ではあるけれども、現実的な話じゃないけれども、これまでの感じからして秋野さんが嘘を吐いてるようには思えないんだよなあ。
そもそもの話、そんな嘘を吐いて何の意味があるって話だ。
今のところ良い意味でも悪い意味でも何も起きていないわけで、俺を騙して何かしようと企んでいる風にも見えない。
まあ、ナチュラル狂人って線もワンチャンあるけど……。
いくら秋野さんに対する俺の信用度が高くなってきたからといって彼女が変人であることは紛れもない事実だからな。
多分、鈴美のねちねちした敵愾心も、そういう秋野さんの毒気に中てられた故だろう。
「そもそも異変ってこういうところにいるもんなんですか? こんな人も多い日中の住宅街なんかに」
「あー出る出る。あいつら出る時は何処にでも現れるから。一応、夜の方が出やすいってのはあるが、まあ、ほぼ誤差みたいなもんだ。結局変わらん」
「へー、そうなんですね」
秋野さん曰く、異変とは幽霊や妖怪に似た存在であり、同時に幽霊や妖怪とは非なる存在らしい。
……なんじゃそりゃ。
「何か言いたげな顔だな、三国。お前、異変を見てみたいとか思ってたりしてんじゃねーのか?」
「まあ、一度くらいは」
「願うな願うなそんなこと。せっかく今のところ平和なんだし、異変なんて出たところで碌なもんじゃないから、それなら出ないように祈っとけ。ま、どうせこの程度の調査じゃ万に一つも見つからねーだろうけど」
そりゃ何も起きない方がいいんだろうけどさ……。
やっぱり気になるじゃん。漫画で喩えるなら、俺は今、非日常へ繋がる扉のドアノブに手をかけているかもしれないんだぜ?
マニック・ピクシー・ドリーム・ガールだ。
もしかしたら、ここから少年誌的な展開になるかもしれない。BLE○CHとか、呪術○戦的な。
異変が現れて、秋野さんと異変が戦い始めて(異変がそういう存在なのかは全く知らないけど)、俺もそれに巻き込まれて何かしらの力が発現したり――みたいな。
その場合、ヒロインは秋野さんになるんだろうか。
ちらりと横目で秋野さんを見る。
見た目だけで言えば女子高生と遜色ないけど――ってかなんでこの人は未だに制服着てんだよ――内面は近頃の流行ってるヒロイン像とはほど遠いな。
最近はどちらかというと従順というか温厚というか、素直な系統のキャラクターが好まれて、我の強いヒロインは万人受けしなくなってるらしい。つまり秋野さんは昨今の環境だとヒロイン枠を獲得できそうにない。
おそらく師匠ポジションか相棒ポジションになるだろうな。現実にいる今もまさにそんな感じだし。
秋野さんが師匠ポジならこの場合、ヒロイン枠は鈴美か?
……いや、それはないな。
だって関係が友達から進展しないことが最初から分かってんだもん。
あいつは、そうだな……決してヒロインにはならないお色気枠とかが丁度いいだろ。
扱いが雑だって?
いいんだよ、そういう仲だから。
まあ、こんだけ長々と妄想したところで、未だ異変が何かすら分かってないわけで、その兆しは今のところ全く見えないのだが。
さて、妄想を経て一つ気になることができた。
というか何で今までスルーしてきたんだろ。
「秋野さんって今も普段からうちの高校に張り付いたり、周辺をうろついたりしてるんですか?」
「いや、もうしてねーよ。既にお前んとこの高校での用事は済んだし、お前とも無事出会えてるからな。今はせいぜいあの神社でお前を待つくらいのもんだな」
「じゃあなんでまだ制服を着続けてるんです? 確か、不審者だと思われないためのカモフラージュで着てるって言ってましたよね。不自然に学校に近づかないなら別に着なくていいと思うんですけど」
秋野さんはいつだかのバザーで買ったらしい制服を未だに着続けている。
彼女の私服姿を見たことはまだ一度たりともない。
「やー、何も考えなくていいから楽なんだよ、制服は」
「それはそうですけど……でも、秋野さんは大人じゃないですか。いくら理由があろうとコスプレ変質者には変わりないですよ」
「別にいいじゃねぇか。誰にバレるわけでも咎められるわけでもねーんだから。それに聞いたぞ、最近は成人女性が学生の格好するのに需要があるって」
「いきなり性癖の話をされても……それにそういうのって、別に一部の層にしかウケないですからね」
少なくとも俺にはその嗜好はない。
てか、どっちみち秋野さんはその対象にはならんだろ。
秋野さんが言うそれは多分、大人な女性が年齢不相応な格好をしてることに対する恥辱やキツさに需要があるって話で。
”この年でこんな格好……”ってやつだ。
「まあ正直なところ、これ以外にまともな服がねぇってのが理由だよ。ある意味ボクはここに出張で来てるからな。そもそも大して服を持ってきてないし、いちいち洗濯すんのも馬鹿らしい。その点、制服はずっと着回せるから楽なんだよ」
「ああ……なるほど?」
その理屈なら下着はどうなるんだ?
まさか、それも続けて……いや実は履いてないとか――んなわけねぇだろ、流石に。
俺の馬鹿がよ。
これ以上考えるのはやめよう。
このご時世、こういう思考をするだけでもセクハラに抵触する可能性がある。
そんなこんなで。
連日同様、他愛ない会話を交えつつ歩いていると、不意に秋野さんは足を止めた。
住宅街の一角。
一軒の家の前。
止まってほしくなかった場所で、止まった。
「お?」
秋野さんは玄関に取りつけられた「鼎」と書かれた表札を指差して言った。
「もしかしてここ、お前の家か?」
「……そうですけど」
俺たちが足を止めたのはまさしく俺の家の前だった。
「もう一度訊きますけど、この道を選んだ理由って本当にないんですか?」
最初から分かっていた。今日の異変探しに選ばれた場所は、俺の家へと繋がる道だということを。それが気がかりだったから、さっきも似たような質問をしたのだ。
作為的だと思った。もしかしたら何か目的があるんじゃないかと思った。
しかし――
「だからねぇって言っただろ」
「俺の家を通りかかったのも偶然ですか?」
「ああ、偶然だ。そもそもボクはお前ん家の住所なんて今になるまで知らなかった」
「本当に?」
「本当だ」
秋野さんはそう言った。
偶然、か……。
そう言われてしまえば、それで終わりだ。
まあ、そういう時もある、か?
「これがお前の家ってことは、つまりこっちが鈴美の家かなのか?」
「そうですよ」
「うーん……本当に?」
「わざわざそんな嘘つきませんよ」
なんか似たような問答をさっきもやったな。
立場は逆転してるけど。
「ほら、あそこに”雁”ってあるじゃないですか」
「んー……ああ、本当だ。なら……そうか」
秋野さんは眉を顰めて鈴美宅を見つめる。
やっぱりそうなるか。
「雁」しかり、俺の家の「鼎」もそうだけど、漢字が複雑だから遠目からだと表札の字が潰れてるように見えるんだよ。
視認性が悪い。
ったく、珍しい名字っていうステータスは気に入ってるけど、漢字まで珍奇だと碌なことがない。
「しかし立派だな、お前の家。周りと比べて若干大きいというか。まさか金持ちか?」
「いやいや、そんなことないですよ。普通の中流階級家庭です。ただ、将来のために家はでかい方がいいとかなんとかで父が奮発したらしくて。まあ、ここら辺ってあまり地価が高くないですからね。実際見かけほどの金額はかかってないというか。とはいえ、借金もといローンは下手したら俺に回ってくる可能性があるくらいには残ってるらしいですけど」
「そんでこっちの鈴美宅は……うん、まあ普通だな」
「俺の家よりあいつの両親の方が稼いでるはずなんですけどね。正直逆ですよ、規模」
秋野さんは鈴美の家をじっと見つめたまま、不思議そうな表情を浮かべた。
「おい、それより玄関の手前に立ってるあの板はなんだ?」
「板?」
何のことだ?
玄関の前にそんなものはないんだけど。
あるとしても板っぽいものなんて表札くらいだ。
「あれ、なんか看板みたいなのがあったような気がしたんだが」
秋野さんは自分の視力を疑うように瞬きをして、
「気のせいか。もうじき逢魔が時だし、幻覚くらい見るか」
と言った。
やけにスピリチュアルなとこになすりつけたな。
いや、秋野さん一応退魔師だし、むしろぴったり、か?
「でもやっぱりなんか変な感じがするんだよな」
「変な感じ?」
「そうだ。お前は何も思わないのか?」
秋野さんと同じ角度で鈴美宅を眺めてみる。
うん。
普通だな。
いつもと同じ、ただの隣家だ。
「特に何も」
「あ、そう。まあ、それならそれでいいか」
考え事をするかのように自分の顎を摘まみながらそう呟く秋野さん。
一体何のことだろう。専門家にしか分からない何かがあるんだろうか。
だとして、秋野さんが何の専門家なのかはいまいちよく分からないので、いずれにせよ俺にはさっぱりだ。
でも、そういえば。変な感じ、というわけではないが、変なことだったら――
「そうだ、聞いてくださいよ」
「藪から棒にどうした」
秋野さんは驚いた様子で、身体は鈴美宅に向けながら、首だけをこっちに向けた。
「実は最近、鈴美の家に関連して変なことがあったんです」
「ほう?」
「昨日の朝、変な人がいたんですよ。こう、スーツ姿のいかにも営業職みたいなエネルギッシュな感じの男の人で、登校する俺たちとそこの十字路ですれ違った後、鈴美の家の前に立ち止まって急に家の写真を撮り始めたんです」
「その不審者情報が、変なことなのか?」
「いえ、妙なことが起きたのはその後です。その人、俺が目を離したほんのちょっとの隙に消えたんですよ。痕跡もなく、完全にそこからいなくなってたんです」
「でも、そんなにおかしいか? 別にありえないことでもないと思うが」
「俺が目を離したのなんてほんの数十秒なんで、その間に消えるなんてありえないんですよ。第一、この道ってしばらく一直線で抜け道の類とかないですし、家と家の間には通り抜けられるような隙間もないんです。だからそんな短時間でこの場を去るなんて、突然狂ったように全力疾走でもして、もと来た十字路を戻るぐらいしか方法がないんですよ」
「じゃあしたんじゃないか? 全力疾走」
「成人男性が全力疾走してたら音とか気配で百パーセント気づきますよ」
「それもそうか」
ふむ、と秋野さんは頷く。
「確かに、妙な話では――あるか」
歯切れが異様に悪いような気がする。
でも結果として秋野さんも同意してくれたみたいだ。
「一応、自分的にはその日は少し寝不足だったんで、寝ぼけて見間違いでもしたのかなー、なんて思ってるんですけど、でもそんな現実と見間違えるほどの鮮明な幻覚があるのかっていう」
「なるほど、見間違いの可能性か……」
秋野さんは腕を組み、一度目を閉じると。
「それは大いにありえる話だな」
そう言って、目をカッと開けた。
あれ。
なんか秋野さん……テンション高くなってね?
口角も若干上がってるし。
「人間の視覚ってのは不安定なんだ。”見えるもの”が必ずしも現実、そして真実であるとは限らないんだぜ?」
ああ。
そういうことか。
そこから視覚の話に繋げられるからちょっと楽しそうにしてるんだ。
一昨日、昨日、今日ときて、どんだけ視覚の話をしたいんだよ。
マジでハマりすぎだろ。
「また視覚に関連するんですか?」
「そうだ。隙を与えたお前が悪い」
「別に嫌ではないですけど」
普通に興味深くはあるし。
ただ、元の話に戻ってくるのはだいぶ先になりそうだなあ、とだけ。
「さて、話の前にそろそろ進むか。こんなところ立ち止まってて鈴美と鉢合わせたら面倒だからな。ほら、行くぞ」
「あ、はい」
そう言って秋野さんは再び歩き出し、俺もそれに並んだ。
一度自転車を置いていこうか悩んだが、どうせまた後で使うので、そのまま引っ張っていくことにした。