5日目②
ちょっと長めです
「昨日は視覚の機能の一つについて話したからなあ――今日は視覚が誰のものかについて話すか」
「視覚が、誰のものか?」
一度考えてみる。
視覚が誰のものか――言葉上だと結構抽象的に感じるけどそれって多分、”見るという行為が、誰に属するものか”ってことだろうか。
そういうことだとすると……そんなの分かりきったことじゃないか。
いや待てよ、昨日のことを考えるとそんな単純な話じゃない気もするが……でも俺の頭には、今のところ”当たり前の答え”しか浮かんでこない。
まあ、出てこないもんは仕方ない。
「そんなの考えるまでもないんじゃないですか?」
「というと」
「視覚というか見るって行為自体が自分の目を介してるんですから、自分のもの以外に有り得ないと思いますけど」
そう言うと、秋野さんはハッと小馬鹿にするように笑った。
「お前も察しが悪いなあ。昨日の今日ときてそんな単純な話をするわけないだろ」
ああ、やっぱり。
そんな単純な話なわけないか。
「まあでも、お前の答えが間違ってるわけでもない。現代じゃそれが当たり前だからな。ただ、少なくとも歴史的に見れば、”個人が見る”っていう感覚はあくまで比較的最近に発明されたものだ」
「発明、ですか?」
「そう。もちろん、”見る”という行為自体は昔からあったが、”誰が見るのか”っていう問いがはっきりと言語化されて、その主体が個人に帰属されるようになったのは案外近代以降なんだよ。それまでは、見るっていうのはもっと世界の側にあった」
世界の側、という言い回しになんとなく引っ掛かりを覚える。
「世界の側? 自分でもなくて、世界?」
「世界、簡単に言えば神だ。ゴッド。ディオス。西洋思想だからキリストとでも。まあそんな名称はどうでもいい、とにかく神だ。近代以前は”見る”主体は人間じゃなかった。あるいは人間であっても、その視覚は個人のものじゃくて、もっと大きな存在の一部だったってわけで――ま、それについて今日は話してやるよ」
そう言って、秋野さんは皿に残った最後のポテトを当然のように摘まみ上げ、何の迷いもなく口に放り込んだ。
俺が頼んだやつなのに。結局一つも手に付けられなかった。
「さて、その前に試しに一つ訊くが、実は視野の端に見える物って実際より歪んで見えてるんだけど、知ってるか?」
「え、そうなんですか? いや、なんか、確かに端の方って、形がぼやけてるような気がしなくもなくもないような……」
「瞳の内部には入ってきた光を捉える網膜って部分があるんだが、それが球面でな。そのせいで視覚が歪むんだ。実はこの現象、驚くべきことに古代の時代から既に知られていた。古代ギリシアやローマ、昨日の話は遡ってせいぜい15世紀だったから、それよりもはるかに昔の時代だ」
「古代ギリシア……オストラコンがあった時代ですね」
「いやまあ、うん、そうだけど……昨日も出てきたが、古代ギリシア関連で出てくる言葉がまたオストラコンってやっぱり変だよな、お前……まあいいや。それで、昔の人間ってすげーよな。大した設備もねーのに馬鹿みてーな知識を持ってるし、アホみたいに長い物語を紡いだりするし。凄いってかもはや狂ってるよ、古代人。さて、そんな狂人たちは視覚についても色々と研究して結構な知識を持ってたんだ。例えば、さっきのがそうだな。ところでお前、古代ギリシアの彫刻とか見たことあるか?」
「教科書とか映像越しにならありますよ。ミロのヴィーナスとか」
「そうそう、そういうやつ。他の有名どころだとラオコーン像とか、円盤投げてるやつとかな。その時代の彫刻ってやけにリアルで上手いだろ? あれは昔の人間が視覚についてそれなりの知識を持っていたのが一つの理由なんだ。他にもパルテノン神殿の柱は、遠くから見たら錯覚で綺麗に見えるようになる仕掛けがあるんだぜ」
「へえ、なるほど。視覚の知識がある、つまり見え方が理論的に分かるから上手いってことですね……ん? 確かに彫刻は上手ですけど、でもその時代の絵画ってあんまり上手いイメージないんですけど。なんかのっぺりしてませんでしたっけ。知識があるのに絵はのっぺりっておかしくないですか?」
「ああ、それはただ絵に求められるものが違ったからな。なんというか、リアルに描く必要がなかったというか、求められてなかったというか……例えるなら、ジャンプに少女漫画の絵柄持ちこむか、って話だ。それに、別に有名じゃないだけでリアルなやつもないってわけじゃねーしな」
うわ。
急に俗っぽい。けど分かりやすい。
まあ、つまり当時の彫刻はリアル指向で、逆に絵画でのリアル指向は場違いだったってことか。
描けなかったというかわざわざ描かなかった、というのが正しいんだろう。
「で、話を巻き戻すが、昔から視覚については色々と把握してたんだが――ただしそれはあくまで実践的・経験的なものによるものだった」
「実践? 経験?」
「例えば、こうすればより立体的に見えるとか、さっきの網膜の話でいうと、”なんか視界の端っこだけ歪んでね?”みたいな、日常の感覚で掴んだ気づきみたいなもんだな。厳密な理論とかじゃなくて、あくまで職人の勘に近い」
「でも網膜の話とかは知ってたんですよね?」
「それも今言った通り経験則に基づいたものに過ぎない。視覚そのものがどういう理屈で成り立ってるか、つまり理論的・解剖学的という点じゃまだ理解は及ばなかったのさ。結局、古代人は理解を超えた視覚に神性を見出した。プラトンのイデア論――”この世のものは真理の影に過ぎず、視覚はその神的真理を受け取るための器官にすぎない”――後の時代に大きな影響を及ぼした考えも提唱されたりもした。確かに眼球の所有者は人間だが、視る能力は”人間が持ってる”んじゃなくて、”神が与えた機能を一時的に預かってる”てノリだな。つまり”視る”って行為は、個人の能力じゃなく、神の代理行為だったわけだ」
そう言いながら、秋野さんは空になったポテトの皿を俺の方に押し返してくる。
からっぽの皿を見せつけて何の意味があるんだよ。
「時が進み中世になってもこの視覚と神の関係は続いていた。というより強化されていった。なんてったって、中世は宗教の時代だからな。科学が廃れ、全てが神と結びつく時代だ」
「そういえば中世の絵って確かとてつもなく下手ですよね。それはもう俺も描けるんじゃないかってレベルで。もしかしてその理由ってその視覚観が原因だったり……」
「鋭いな、その通りだよ。絵っていうのは文化の中でも特に視覚の影響を受けやすいんだ。その点で言えば、まず面白いことに当時の視覚は三つに分かれていた」
「三つ? 第三の目でもあったんですか?」
「”物体的視像”、”霊的視像”、”知性的視像”、これが三つの視覚だ。簡単に説明すると、”物体的視像”は眼で外部世界を見ること、まあ俺たちが現代人が言う”視覚”のことだ。”霊的視像”は見たことあるものを思い出すこと、”知性的視像”は見たことないものをイメージすること、となる。さて、ここで問題。この中で最も重要視されたのはなんでしょう」
「うーん……知性的視像、ですかね」
現代人的な、個人的な感覚でいけば物体的視像ってやつなんだけども。
さっきもそうだけど秋野さんがわざわざ訊いてくるとき、枠にとらわれた答えはどうせ答えにならない。
「正解だ」
ほらな。
「”見たことないもの”をイメージすることは、言い換えれば神的なものや真理を見ることを意味する。例えば、聖書に出てくる天使の姿――翼が六つあったり目がびっしり付いてたり、なんて記述――それを実際に目にしたヤツなんかいねぇだろ? だからそれをイメージして、見るんだ。そして中世は宗教の時代。ゆえに目に見える現実よりも、目に見えない神の真理を見る知性的視像が重要視されたんだ」
「やっぱり現実は下に見られてたんですね」
「現実は不完全でまやかしだって考え方は古代ギリシアから変わらなかったからな。だから眼によって知覚する物体的視像は三つの中でも最低レベルの視覚だった。逆に、神の力が強くなった結果、”見えないもの見る”ということが視覚の中でも最も力をつけたってわけだ。実に中世らしい宗教チックな考え方だぜ」
「視覚が視覚じゃなくて、なんというか心理的なものだなんておかしな話ですね」
真理だけに。
「まあ現代にも心の目とかって表現あるし、そんな感じのことなんじゃねーの?」
――知らんけど。
秋野さんはそう付け加えた。
「それでまあ、中世の絵が下手なのは、当時の視覚観に影響を受けた結果、リアルに描くことよりも、神が全てを見てる視点や神の真理を象徴的に分かりやすく表すほうが優先されたからってわけだ。目を通して行われる実際の知覚ではなく、神の視点や真理に対する知覚――それが、当時の”見る”ってことだった。つまり、視覚の主体は限りなく神に近かったのさ」
そう言って、秋野さんは何も告げず、突然席を立った。
十中八九お手洗いだろう。
俺はその間に今一度さっきの話について考えることにした。
考えるといっても、話の内容についてというわけじゃない。今のところ理解はできてる。ただ一つ気になることがあって、果たして本当に秋野さんは視覚の蘊蓄にハマってるからって理由でこんな話をしているんだろうか。これはもう何の根拠も理由もない、言ってしまえば俺の妄想や勘の類に過ぎないが、何か裏にある気がしてならない。
秋野さんの話を聞いていて何か、こう、引っかかるものがあるというかなんというか。
僅かだが、胸が落ち着かないのを感じる。
そんなことを考えているうちに、秋野さんはお手洗いから戻って来て、
「さあ、話もクライマックスだ」
と言って、どっしりと(あくまで比喩的表現だ。実際秋野さんは華奢なので、座ってもそんな効果音は出ない)、生意気な雰囲気で足を組み、ソファに腰かけた。
「さて、ルネサンスが興って中世が終わり、次に近世がくるわけだが――ところでお前、線遠近法って知ってるか?」
「遠近法は分かりますけど、細かい種類までは……」
「じゃあ流石に消失点は分かるよな。線遠近法はそれだよ、消失点使う一番オーソドックスなやつ」
「ああ、あれですか」
紙の上に点を決めて、例えば道とか建物といった物がその点に収斂されるように配置して描くやつか。
そんな名前なんだ、あれ。
線というより点では?
まあ、消失点と物が線で結ばれてるって考えれば線でもあるのか。
「今では当たり前の線遠近法はな、ちょうどルネサンス期に開発されたんだ。だから、それも相まってルネサンス以降の絵はそれまでと比べてすげー上手く見えるんだ」
「発明? 遠近法ってそれより昔はなかったんですか?」
「完全になかった、とは言い切れねぇな。一応、紀元前に線遠近法を用いて描かれた絵が存在してる。ただ、体系的にその手法を確立して、誰でも真似できるようになったのはその発明以降になってからだ。まあ、そんな細かいことは置いといて――」
秋野さんは一度コーヒーを啜り、そして本日二度目の嫌な顔をした。
そりゃあんだけ喋って、途中トイレも挟めば冷めてるでしょうよ。
「さて、話を戻す。ルネサンス期にはこの線遠近法が普及し、そしてすげー重視されたんだが、その理由が分かるか?」
秋野さんは口元に苦笑を浮かべながら、冷めたコーヒーのカップをテーブルに戻した。
「それこそリアルに描けるからじゃないんですか?」
「それが線遠近法はリアルじゃないんだな。古代の話のときに言ったろ、人間の網膜は球形だから実際の視覚は歪んでるって。本当にリアルに描こうとしたら線遠近法を使った絵みたいにはならねーんだ。中世の過度な宗教的鎖から脱したルネサンス期の人間は本当にリアルを追求した絵を描くこともできた。にもかかわらず、当時の画家たちは線遠近法を使い続けた。わざわざ他の技法を併用してまでしてその限界を誤魔化し続けた。なぜだか分かるか?」
「……いえ」
「それは線遠近法を用いて描かれた視覚表現が、神の視点を写していたからだ」
「遠近法が神の視点を、写す?」
「まずルネサンス期の人間は神の視点をこう考えていた。世界のあらゆるものを一つの整合的な関係のもとに把握する、全知的で秩序的な視点。つまり、物の位置、距離感、形、前後や上下といった物の関係性が客観的、全体的に一望できるような視点。一方、線遠近法ってのは空間の構造を明確に定めることができる技法だった」
そう言って、秋野さんは手元のカップを優しく指で弾いた。
乾いた音が小さく響く。
「線遠近法は、ある特定の”視点”を中心に空間が構築される。つまり、全てがその点に従属する構造になってる。画面の中のあらゆる物体が、その点と結ばれるように描かれる」
「……消失点、ですか」
「そうだ。消失点という基準に全てが帰する。そこには”全体”を見渡す一つの意思、一つの特権的な眼差しが前提としてあった。つまり、空間における全ての物の位置関係を、唯一の視点から論理的かつ秩序的に整理できたんだ。そしてそれが神の視点と重なった。ゆえに線遠近法は重視されたわけだが、これはつまるところ、当時の視覚の主体も神に近かったということを意味しているのさ」
「それって結局、ルネサンス期になっても人は視覚を神的なものと思ってたってことですか?」
「そういうこと。近世になっても人々は視覚は神を基準にしていた。ルネサンスってのは宗教的価値観から脱した時代だなんて言われることもあるが、視覚の面では依然として視覚と神の関係を別の形で継承してた時代なんだ。一見中世と比べると視覚が人間主体になったように思えるが、実際絵画に現れたのは、表現方法が違うだけの神の視点だった。つまりルネサンス期も近世も、中世と細部は違えど結局視覚は神の側に属していたのさ」
……なるほど?
一応理解してるつもりではあるけど、内容が少し難しいから合ってるか不安だ。
今の話ってつまり――簡単に整理すればアレだろ?
ルネサンス期では線遠近法が生まれ、重視された。線遠近法が重視されたのはリアルに描けるからじゃなくて、それが当時の神の視点を表現できたから。それはつまり、中世と同じように人々が視覚が神に関係しているという価値観を持っていたから。
――ってことでいんだよな?
多分……。
「当時の人間がいかに神の視覚に拘っていたかっていうエピソードは結構あってな、例えば、1545年から始まるトリエント公会議で――公会議ってのはキリスト教のでけぇ集会みたいなもんだ――カトリックは複数の消失点を持つ遠近法を禁じた。神の視点は唯一であるべきだからな、複数の見方ができるような描き方は許されなかったのさ。ま、制度的にも視覚が神に統合されることになったわけだ」
宗教に統制はつきものだってことは分かるけど、絵の描き方をまでも制限するって。
スケールでかいなあ。
さすが天下のイエス様々といったところか。
「あと、ガリレオの宗教裁判とか」
「それってあれですよね。”それでも地球は回ってる”って言ったとか言ってないとかで有名な地動説についての裁判」
「そう、それだ。ちなみにそのセリフ、実際は言ってないらしいぞ」
「マジすか」
嘘だろ。
あんな名言みたいに言われてんのに。
「ていうか、あれって地動説を巡る異端審問ですよね? 視覚と何の関係が」
「地動説ってのは神の視点を自動的に否定する考え方だったのさ」
「どういうことです?」
「従来信じられてきた天動説では地球は宇宙の中心にある。それはつまり宇宙は地球を基準に整理されてることを意味する。宇宙はどこから見ても、全ての天体が地球という点に収斂する秩序ある空間というわけだ」
「なんか、さっきの遠近法と神の視点の話と似てますね」
「そう、まさに同じ話だ。絶対的な焦点――地球があって、全てがそこに向かって秩序づけられる空間。天動説のモデルは、消失点が一つしかない遠近法と同じ構造ってことだ。つまり天動説は神の視点そのものであり、同時に神の存在を証明する考え方だったのさ」
「おお……なるほど」
「地動説はその逆だ。宇宙の中心、つまり絵画でいう消失点が無くなるわけだがら、唯一の見方がなくなって、宇宙には神の視点が存在しないことになってしまう。つまり地動説は視覚の面からも神を否定する考えだったってことだ」
へぇー。
そんな裏話があったとは。
さすが視覚の歴史は文化の歴史だなんて言っただけある。
「まあ、そんな感じでルネサンス期から近世にかけても人間の視覚と神の視覚は密接に結びついていたわけで、これまでの話と合わせれば、紀元前から近世末期までの長い間、人類の視覚の主体は神にあった。つまりまとめるとだな、ほんの数世紀前までは視覚は”個人の感覚”なんかじゃなくて、神のもとで客観的で公正なものだった。見えるものは誰にとっても同じ、共有されるべき理想の視覚が一つある――そんなものだった」
視覚の主体は神にあった、ねぇ……。
その理屈は大体分かったけど、表面部分は理解できたと思うけれども、やっぱりその感覚自体は理解できないや。
だって、見る主体が自分じゃないだとか、他者のもひっくるめて唯一の視点があるだとか、ねぇ?
現代人の感覚とはあまりにかけ離れている。
なんというか、気持ち悪い。
「だが、そんな視覚観も近代に入ると一変する。コペルニクス的転回だ。個人の時代がやってくる」
「個人の時代……それってつまりようやく現代と同じようになるってことですか?」
「その通り。まあ、ここからは簡単な話だ。18世紀末から視覚研究が進み、視覚のメカニズムが科学的に解明された。その結果、視覚は神のもとを離れ、個人的なものになった」
「やっぱり最終的には科学なんですね」
「そうだな。神は死んだってやつだ。生理学的に理解されたことで、視覚の謎や神秘性は消え去り、客観的で公正なものから主観的な知覚、つまり今みたいに見る人間の数だけ存在する個人的なものとして見なされるようになった。今まで通り、文化的な側面と合わせて言えば、例えば、19世紀になって絵画の世界で印象派なんかが出て来たのもこういう背景があったりするんだぜ?」
「印象派?」
「ああ、印象派ってのは、”自分にはこう見えた”っていう、その瞬間の主観的な感覚を描こうとした連中のことだ。モネとかルノワールとか、聞いたことあるだろ? 連中は空気の揺らぎとか、光の移ろいとか、そういう捉えどころのない印象、個人的な感覚をそのままキャンバスに乗せようとしたんだよ。それが印象派で19世紀に流行った。流行った理由は、まあ、もう詳しく言わなくても分かるだろ」
秋野さんは冷めきったコーヒーを睨みつけるように見た。
飲むか迷って、結局一気に飲み干した。
「さて、長くなったが今までの話をまとめるとつまりこうだ。今でこそ視覚は個人のものだが、同時に、かつては神のものでもあった。これに尽きる」
「人類は長い時間をかけて視覚を神の手から取り返したんですね」
「取り返したっていう言い方はちょっと違うが……まあ、超ざっくり言えばそういうことだな。神から人へ、視覚の主体はそう移り変わってきたっつー話だな」
言って。
秋野さんはテーブルに両肘をついて両手の指を絡めた上に顎を載せ、不敵な笑みを浮かべた。
「――けど、果たしてそれは良いことだったんだろうか」
「え?」
どういうことだ?
視点が変わったってだけなのに良いも悪いもあるのか?
それに今までの感じ、神の視点の方が宗教に縛られてる感じがして息苦しい気がするけど……。
「視覚が個人のものになったってのは、裏を返せば、視覚は決して他者と共有できないものになったってことだ。見る主体が神だった頃は少なくとも皆が同じものを見てると思えた。同じ神の視点を共有してると思っていたからな。だが、個人のものになったことで世界の見え方は人の数だけ存在するようになった。神というフィルターが消えた今、自分の見てるものと他人が見てるものが同じかなんてのは決して分からなくなった。今やもう、自分の見る世界が正しいかなんて誰も保証してくれないのさ」
秋野さんはそう言うと、コーヒーカップを手に取って立ち上がった。
そして彼女は去り際に、言った。
「もしかしたら、お前の見てる世界だって本当は狂ってるのかもしれないぜ?」
―――
例の視覚の話を終えてから、そうこうしてるうちに21時になった。
まあ、そうこうとはいっても、半分くらいは受験勉強してただけなんだけど。俺が受験勉強をするということはその間秋野さんをほったらかしにするわけで……いや、悪いとは思ったよ。けど、モチベがないとはいえ俺も一応受験生だし。
秋野さんもそれは理解してくれてるのか、勉強をしたいと伝えても特に文句は言ってこなかった。
俺が勉強を始めてから、秋野さんはムスッとした顔でただひたすらに窓の外を眺めていた。
スマホの類も何も持ってないみたいなので、それくらいしかすることがなかったんだろう。
途中、あまりにも暇そうにしてたので、ちょうど持っていた国語の教科書を貸してやった。
それから彼女はしかめっ面で教科書を読んだ。
うーん……。
似合わねぇなぁ。
教科書を読む秋野さんは、なんというか、不自然だった。不良が勉強してるみたいな感じ。
雰囲気や内面、そして外見をひっくるめて狐と形容したこともあったけど、外見だけに関して言えばそれこそ狐のようでもあるが狼のようでもある。
肉食系ならなぬ肉食獣系(イヌ科)である。
まあギザ歯だしね。
……。
ていうかギザ歯ってなんだよ。
なんで現実にいるんだよ。
うん。
やっぱ変だわ、この人。
だいぶ慣れたけど、やっぱりどこかおかしいわ。
「よし、そろそろ行くか」
21時を示す時計を見て、秋野さんは立ち上がった。
「了解です」
結局、秋野さんが最初に頼んだだろうドリンクバー以外の注文を支払って俺は店を後にした。
ちなみにこの日は変な目で見られなかった。
……店員、おそらくバイトではなく社員さんには嫌な顔されたけど。
まあ4時間も居座ってたら当然か。
さて、突然だがここから先はダイジェストでお送りしようと思う。
あの後、俺たちは無事に夜の中学校に潜入して異変探しを行ったのだが、まず結論から言うと、特筆すべきことは何もなかった。
つまりはまあ、この日も異変は見つからなかったってことだ。
いつも通りの成果ナシである。
ダイジェストなのもそういうことだ。
秋野さんのピッキング技術を駆使して校舎内を探したりもしたけど、秋野さんが言うような異変はおろか人体模型が動いたり、階段の数が増えたり、音楽室から独りでにピアノがなったりなんてことも起こらず、結局22時を回る頃に、時間の都合で秋野さんをバス停ではなく駅の方まで送り届けてこの日の異変探しは終了した。
めでたしめでたし。
ああでも、そういえば。
ファミレスから中学校に向かう途中、秋野さんが変なことを言ってたな。
「数年前、お前の中学校でも自殺事件が起こったらしいな」
自転車の荷台に座る秋野さんは不意にそう言った。
今日は彼女にしては珍しく、ちゃんと荷台を跨いで前を向いて座っている。
「えぇ? うちの中学で自殺が起きたなんて話聞いたことないですけど……」
「あれ? おかしいな。この街の市営図書館でローカル新聞を見漁ってたとき、確かにそう書いてある記事を見たはずなんだが。いじめで生徒が死んだとか」
「いやぁ、少なくとも俺の記憶にはないですよ。ちなみに数年前って具体的にいつなんですか?」
「確か五年前だったはずだ」
「てことはちょうど俺が中一のときですか……」
そんな大事あったっけかなあ。
記憶を手繰ってみる。
うーん、やっぱり何もないはずなんだけど。
在学中の三年間ですらうちの学校で自殺が起きただなんて話は一度として聞いたことがない。
「やっぱりそんな話聞いたことないですね。学校名とかそこら辺を見間違えたんじゃないですか?」
「そんなことはねぇと思うんだけどなあ。また確認してみるか」
秋野さんのその言葉を最後にこの不吉な話題はあっけなく終わった。
まあ、続けたとしても、起きた、起きてないの水掛け論にしかならなかっただろうが。
とまあ、今回の異変探しで起こったことといえばこのくらいである。
自殺という不吉な話題が出たことと、もうナチュラルに不法侵入をしたこと以外はいつもの平和な異変探しとなんら変わりなかった。
これは最後の余談だが、一応その自殺とやらについて家に帰って自分で調べてみた。けれど、やはりと言うべきか、うちの中学で自殺が起きただなんて話は全く見つからなかった。この目でしかと見たのだから間違いないだろう。
しかし……秋野さんは一体何と勘違いしたんだろうか。
思い違いか、誰かの作り話か。
まあ十中八九、俺の高校での出来事と混同したんだろうけど。
いずれにせよ、自殺の話なんて高校の件だけでもう十分だ。
自殺の話を聞くと頭が痛くなる。