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5日目①

「何、その傷!」


 家の門から自転車を引いて出て来た鈴美は、俺の顔を見るや否や開口一番にそう言った。

 6月4日。

 水曜日。週の折り返し。

 人によって「もう半分」か「まだ半分」に見方が二分する曜日――の朝。

 早朝には聞くに堪える、耳を(つんざ)くような声。

 もはや叫びと形容してもいいくらいだ。

 騒音。

 ちょっとした近所迷惑である。


「まあ、昨日ちょっとな」


 言って。

 俺は左頬の傷を軽く撫でた。


「何かあったの!? まさか、ついに氏神秋野とやらに騙されて――」


「いやいや、そんなんじゃないから」


 こいつ、まだ疑ってんのか、秋野さんのこと。

 でもまあ、それも当然か。

 鈴美が秋野さんと直接会ったのは初日のあの瞬間だけだし、それにその時だって秋野さんに邪険に扱われてたからな、こいつ。

 あの日以来、秋野さんの情報は俺伝手でしか聞いてないわけだし、あの人に対する価値判断があの日のままアップデートされないのは言うまでもない。

 ファーストコンタクトの時のまま。

 烏、蛇、狐……そういった怪しく、また不吉なものとして表象されるものを詰め込んだような印象をまき散らす人間、それが鈴美の中の秋野さん像なんだろう。

 危険視するのも致し方なし。

 退路なし。


 しかし、俺も全く疑ってないと言えば嘘になる。

 やっぱり退魔師とか非現実的だし。異変なんか一つも見つからないし。

 一応それっぽいことをやったのは見たけど、目に見える証拠を確認できたわけでもないし。不信感云々以前に、事実としてあの人は未だ結局不審者の域を出ていないわけだし。

 まあ、不信感はあれど警戒心は薄れてきたと言ったところか。

 もし秋野さんの目的がカツアゲとか美人局とかだったら、俺は既に痛い目に遭ってることだろうしな。現に今のところ良い意味でも悪い意味でも何も起きてないわけで。

 それに見た目とは裏腹に喋ると外見の印象がいかに当てにならないか分かるような人だし、まあ、多分大丈夫だろう。


 つーか鈴美のやつ、「ついに」って言ったよな。

 俺が危害を加えられる前提で考えてるのか、こいつは。

 全く。

 心配してくれてんだかくれてないんだか。


「じゃあ何があったの?」


 鈴美が傷を触ろうとしてきたので流れるように手を振り払った。

 うーん、言いたくねー。

 原因が原因だし大爆笑とまではいかないだろうけど。

 でも、


「教えてくれないと、今日の、異変探しだっけ? それには行かせないからね」


 なんて言い始めたし。

 ……。

 仕方ねぇ。


「チャリでコケただけだよ」


「へ? 何て」


「だから、昨日チャリでコケたんだって」


「あはは、コケたって」


 やっぱり笑われた。

 だから言いたくなかったのに。

 その笑いが別にそこまで馬鹿にしてるってわけじゃないのも知ってるけど。幼馴染間のコミュニケーション、緩衝材としての大して意味を持たないリアクション。だけど、笑われたというその事実が、ただただ屈辱的。


 まさか高校三年生にもなって自転車でコケるとは。

 恥ずかしい。


「なーんだ、それならよかった。なんか事件に巻き込まれたとかじゃなくて」

 

 良くないが。

 事件には巻き込まれてないけど、怪我したのは事実だし。

 触るとちょっと痛いよ。


「笑った手前アレだけど、よかったよ、大事にならなくて」


 ――結構危ないんだよ? 自転車って。

 鈴美は諭すように言う。

 そんなこと、言われなくても知ってるさ。

 自転車通学してるんだから、自転車の危険性くらい熟知してるつもりだ。というか毎朝毎夕(現在は別行動だが)お前と一緒に自転車で登下校してるんだから、俺が普段気を付けてることぐらいお前は知ってるだろうがよ。

 とにもかくにも私は、毎日毎日細心の注意を払って自転車を漕いでいるつもりです。

 特に注意すべきは縁石、そして歩道と車道の段差。こいつはらはヤバイ。少しでもタイヤが擦れた瞬間死を意識する。

 虎と狼が如く、左道に段差、右道に車である。

 

 中学の時、友人がタイヤを例の段差に引っかけて派手に転倒したことがあった。あの時は運よく左側に倒れたからよかったものの、右側に倒れていたら多分死んでいた。結構交通量も多い道だったし、車に頭を持ってかれて即おじゃんだ。

 2分の1で死ぬ。報酬はなし。あまりにも分が悪いギャンブルに俺たちは日々曝されている。

 どう考えても危険なのに、どうも法律は自転車に車道を走れというらしい。

 自転車ユーザーとしてはたまったもんである。

 せめて道を整備してくれと思う今日この頃。

 あ、ちなみにこの自転車の(くだり)は、当然ながら左側通行を前提として語っております。

 そういう世の中なので。


 加えて俺は自転車の加害性という面においてもその危険性を意識して行動してるつもりだ。

 そのおかげで、そしてその証拠に、生まれてこのかた切符を切られた経験ゼロ。模範的自転車乗りだと言えよう。

 え? 

 最近二人乗りしてるだろって?

 ……。

 それについてはコメントを差し控えさせていただきます。

 強いて何か言うなら、この国では起訴されなければ犯罪は罰されない、とだけ。

 バレなきゃ犯罪じゃないと、どこかの邪神も言ってたはずだ。

 ……自分で言っといてなんだけど、酷い詭弁だぜ。


「傷のことはもういいだろ。ほら、さっさと行くぞ、遅刻する。ただでさえ俺たちいつも学校着くのギリギリなんだから、こんなとこで話してる場合じゃねぇだろ」


「それもそうだね」


 そんなこんなで俺たちは自転車を漕ぎ始める。

 鈴美が前で俺が後ろ。俺が鈴美のペースに合わせてやって、いつも通りに進む。

 すると、俺たちが出発した直後、すぐそばの曲がり角から現れたスーツ姿の男と、ふとすれ違った。

 なんだろう、あの人。

 皺ひとつないパリッとしたスーツで、額を避けるように、そして過剰にも思えるほどに固くセットされた短髪、明らかに体育会系であることが分かる体格を持った男だった。

 勝手な思い込みでしかないけど、ベンチャー企業とかにいそうなタイプ。

 街の方に行けば似たような恰好の人はよく見かける。しかし、ただ、この落ち着いた住宅街には似合わない。少なくともこの周辺であんなエネルギッシュな人を見かけたことはほとんどない。

 明らかに場違いなのだ。


 気になったので、後ろを振り返ってみた。

 するとその男は、さっきまで俺たちが談笑していたところで立ち止まり、今や珍しいデジカメを鈴美宅の方へ向けていた。

 おいおいおいおい、何やってんだあいつ。

 人ん家の写真撮るとかやっぱり直感通りに怪しいヤツじゃねーか。

 

「おい鈴美、お前ん家の前に変なヤツいるけど」


「変な人?」


 鈴美は少しスピードを緩めて振り返った。

 しかし特に何の反応を示すことなく、


「誰もいないよ?」


 と言ってすぐに前を向いてしまった。


 誰もいない? 

 そんなわけ。

 そう思ってもう一度振り向いてみたが、信じられないことに、そこに男はいなかった。


 ……は?

 どういうことだ。

 確かにそこにいたはずなのに……あの男、どこへ行った?

 いや、どこに行くもなにも、この一瞬で人が痕跡も残さず消えるなんてありえない……つまり、考えられる筋としては――。

 ……もしかして、昨日は寝るの遅かったし、まだ寝ぼけてんのかな、俺。

 ……。

 よし。

 学校に着いたらコーヒーでも買おう。

 俺は気つけ代わりに片手で頬をぴしゃりと叩いた。


 ―――


 ファミレスにはあまりいい思い出がない。

 確か最後に行ったのは、友達がいなくなって少し後のことだったか。正確な時期は覚えてないが、鈴美と二人で学校の帰りに寄ったことは覚えている。

 あの時に初めて思い知ったんだっけな。俺はクラスや学校の人間だけじゃなくて、もはや社会から孤立してるんだって。

 鈴美と喋りながら軽食を取ってただけなのに周りから向けられた冷たく、そして奇異なものを見るような目を今でも鮮明に思い出せる。

 嫌な記憶だ。

 それ以来、俺は一度もファミレスには行っていない。

 本当は今日もできれば行きたくないんだけど、まあ、来いと言われちゃ仕方がない。

 俺は左頬を撫でながら、片手で自転車のハンドルを握った。


 指定されたファミレスに着いた時、外から窓ガラス越しに見える席に、秋野さんが一人慎ましく座っているのが見えた。神社でやっていたような非常識な振る舞いは見せず、借りてきた猫のように、テーブル席の隅にちょこんと腰かけている。

 あの秋野さんでも、さすがに人の目のあるところじゃ変なことはしないか。

 ふむ。

 周りの目が人を規定する。

 ああ、これぞ昨日言っていた「視覚」と「支配」の関係か。


 自転車を停め、中に入って秋野さんと合流した時、彼女はテーブルに置かれたコーヒーを前にただひたすらどこか宙を見つめていた。本を読んだり、他に何かするわけでもなく、秋野さんは頬杖をついてただただボーっと。

 この時代、スマホが使えなきゃ暇つぶしもできやしないな、と思いつつ。


「お待たせしました」


「おお、来たか」


 俺が秋野さんの正面に座ると、彼女は頬杖をやめ、背筋を伸ばして俺を見た。

 それから俺の左頬を指差して、言った。


「どうだ、傷の具合は」


「まあ、特に何ともないですよ。所詮は擦っただけですし」


 昨日の帰り際。自転車の荷台に乗った秋野さんが、俺の意思に反して地面を蹴って進もうとしたせいで、俺は自転車ごと勢いよく転倒した。その際、手の付きどころが悪く、俺は顔を少しやったというわけだ。といっても、擦り傷程度の怪我なので、大したものじゃないけど。

 まあつまり、この怪我の原因の全ては、今目の前でとぼけてるような表情をしてるその人である。

 

 ちなみに、秋野さんの方は全く怪我をしなかったみたいだ。というか怪我をするどころか、秋野さんは倒れてすらしなかった。

 同じく自転車に乗っていたはずなのに。俺が倒れたときには、彼女は背後から俺を見下ろしていた。何事もなかったかのように。

 そういえばこの人、平気で鳥居に登ったり飛び降りたりするし、見た目に寄らず結構な身体能力してるよな。

 その華奢な身体のどこにそんなパワーがあるんだか。


「それ、何コーヒーですか?」


「ブラックのホットだ。まあ、冷めちまったせいでもう飲めるもんじゃねーけどな。お前飲むか?」


「要りませんよ。自分が飲まないからって処理させないでください」


「つれねぇなあ」


 秋野さんはそう言うと、豪快にカップの中身を一息に飲み干した。

 そして、「ぬりぃ」と一言感想を呟いて、カップをテーブルに置いた。


「ほら、お前もなんか頼めよ。今日はお前の奢りだ」


「はい、ありがとうございます」


「うむ」


 とりあえずメニュー表を開いて眺めてみる。

 そういえば、最近はどこのファミレスも値段が上がってるらしいんだよな。一応配慮するべきか……うーん、どうすっか――って、ん?

 おい、ちょっと待て。


「秋野さん、さっきなんて言いました?」


「今日はお前の奢りだ」


「んん? ()()って俺のことですか?」


 秋野さんは頷いた。

 お前以外に誰もいねーだろ、とでも言いたげな顔で。


「秋野さんじゃなくて――俺?」


 再び頷く秋野さん。

 至極真面目な表情。

 

「え、今日の会計俺持ちってことですか?」


「そうだが?」


「……」


 そうだがって。えぇ……。

 こういう場って、どちらかといえば年長者が奢ってくれるもんじゃ……。

 ていうか何でこの人は最初から奢られる気でいるんだ。「今日はお前の奢りだ」ってなんなんだよ、なんでそっちから提案してくるんだよ。意味分かんねぇよ。

 せめて奢られたいとしても自分から言うなよ……いや、奢る気はないよ?

 デートじゃあるまいし。


「いや、普通に自分の分は自分で払ってくださいよ」


「ちぇっ、ダメか」


 ダメだよ。

 そもそも高校生相手に奢られようとしないでください。

 プライドとかないのかな。


「というかもう集合したわけですし、行きましょうよ、異変探し」

 

「いや、まだだ。しばらくここで時間をつぶしてから始める。そうだな、ざっと21時くらいまではここにいるつもりだ」

 

「21時!?」


「わりぃな、昨日の内に言っとけばよかった。家の都合もあるだろうし、無理なら別日に回すが」


「いや、まあ、いいですよ。うち、結構な放任主義なんで。大抵のことは許してくれますから」


 スマホを開いてメッセージを送る。

 

 ”今日、遅くなる

  多分夕飯いらない”

 

 親にはこの二文だけ送っとけば十分だろう。

 うちの親はあまり子供に干渉してこない。良い意味でも悪い意味でも。

 昨日、顔に傷を拵えて帰ったときも、傷に関しては母さんに”ブッサイクな傷”と笑われただけだった。

 心配の仕方で言えば、いつも鈴美の方が俺の親よりも心配してくれている気がする。ま、俺からしてみれば、うちの両親くらいの距離感の方が楽だし心地いいんだけど。

 別に冷たい家族ってわけじゃない。本気で困ったときには助けてくれるし、言うなれば自主性というか自由を重んじる家系ってだけの話だ。

 アメリカ人みたいに。


 母さんがさっきのメッセージを見たら、友達と勉強でもしてくるとでも解釈するんだろうか。

 両親は学校、そして社会での俺の状況を知らない。俺が孤立していることを知らない。

 下手に干渉してこないおかげでまだバレていない。

 でも、もし実情を知ったら、息子が世界から嫌われてることを知ったら。

 ――そうなったら、どうするんだろうな。

 そうなったらきっと、あの非干渉的な両親でさえもさすがに心配するんだろうか。

 頭の中に浮かんだのは母さんの真剣な顔。普段はあまり見せない、眉間に皺を寄せた表情。父さんは……多分、動揺は表に出さないと思うけど、妙に真面目な声で何か聞いてくるかもしれない。

 ……想像するだけで、何だか気まずくなってくる。いつもドライだから真面目な雰囲気は苦手なんだ。

 それを避けるためにも、俺は秋野さんから孤立の原因を聞き出さなきゃいけない。

 俺のためにも。

 家族のためにも。

 

「というわけでほら、遅くなるから何か頼んどけよ」


「そうですね、そうします」


 俺は再びメニュー表に目を通して、てきとうに注文した。

 こんなことを言うと子供っぽく思われてしまうだろうが、嫌な思い出があるとはいえ久しぶりのファミレスに少しテンションが上がってしまい、メインになりそうな一皿と、それとは別に軽めの料理もいくつか頼んでしまった。

 食べ盛りの男子学生だからね。

 仕方ない。

 一方で秋野さんは、何も頼まず、多分俺が来る前に頼んだであろうドリンクバーのコーヒーを注ぎに行った。

 もしかして金欠なのか、この人。

 大人なのに。

 

 これは少し後の話だが、注文した料理を俺が食べていたとき、ただひたすらにコーヒーだけを啜る憐れな人間を前に一人で食事することの罪悪感に耐え切れず、結局”シェア”という体で秋野さんに一品奢ってしまった。

 だって、この人、俺が食べてる様子をすっげー羨ましそうな顔で見てくるんだぜ?

 瞳を潤ませる犬みたいに!

 ちなみに追加注文するとすぐに秋野さんはケロッとしたいつもの様子に戻っていた。

 まあ、つまりはしてやられたというわけだ。犬ではなく狐だったというオチ。まんまと化かされる俺だった。


「それで、何で21時まで待つ必要があるんです? もしかして今日は異変探しじゃなくてあの日みたいな例外とかですか?」


 俺はコーヒーを注いで戻って来た秋野さんに尋ねた。


「いーや、今日も普通に異変探しだ。ただ、場所が場所でな、夜じゃねーと人がいて都合が悪いのさ」


「人がいて都合が悪い……? どこなんですか、今日の目的地」


「中学校だよ。なんつったっけ、確か端泉中学校とかなんとか」


 秋野さんはそう言ってコーヒーを啜った。

 思ったよりも熱かったのか、舌を出しながら背筋を伸ばした。

 何やってんだこの人。クールな雰囲気出してるのに全部台無しだよ。

 萌えか?

 ギャップ萌えでも狙ってんのか?


「ああ、なるほど」


 端泉中学校、略して端中、端泉地区唯一の公立中学校。

 そして俺の母校。

 最近校舎が老朽化してきて改修工事をするとかしないとかの話が出ている、全国どこにでもあるような極めて普通の中学校だ。


「中学校の敷地に入るとなれば、普通に不法侵入ですもんね。そりゃ人がいたら都合が悪いわけで、だから21時まで待つと」


「そうだ。今から行ったとして、闖入したのが見つかったら普通に警察呼ばれるからな、教師も全員帰った後に悠々と入り込むって寸法だ。そっちの方が異変探しも堂々できて楽だしな」


「でも、秋野さんってそういうの気にするんですね。てっきり気にしないのかと」


「そういうのって、何がだ?」


「不法侵入で警察がどうのこうのみたいなことですよ。てっきり法とかあんまり気にしない人なのかと思ってました」


「いや気にするだろ。お前はボクをなんだと思ってるんだ」


 不審者。無法者。不埒者。

 そんな数々の、罵倒とも言えるレベルの言葉が次々と頭に浮かんできた。

 いやだってしょうがないじゃん。

 一応どれも程度の多寡はあれど事実なんだし、依然として怪しいのには変わりないし。

 秋野さんのことを段々まともな人に感じてきているとは言ったけど、それはあくまでもこれまで喋ってきた中で培われた、言ってみれば心的レベルの話で、現実としての氏神秋野という人そのものに対する信頼、つまり社会的信頼という点についてはその程度ということだ。

 その評価は秋野さんと出会った初日から変わってない。

 だって退魔師ってこと以外には未だに何も知らないし、その退魔師だって自称で、本当に退魔師なのかも分からない。

 ていうか本当に何なんだよ。

 普通に考えてやっぱり怪しすぎるわ!


「でも秋野さん、俺の高校のときはそういうの全然気にせず白昼堂々不法侵入したじゃないですか」

 

「それとこれとは状況がちげーよ。高校の場合は制服あるし、在学生のお前もいた、別に誰かに見つかったとて誤魔化せただろうからそうしたってだけだ」


 そういえば秋野さんは今でもうちの高校の制服を着ている。

 いつまで着てるつもりなんだろ。

 

「ま、そういうわけで今日は21時頃までここで待機だ」


 そう言って。

 秋野さんは再び席を立った。

 カップを持っていかなかったのでおそらくお花でも摘みにいったんだろう。

ちなみにこの日、秋野さんは6回も花摘みに行った。

 まあ、コーヒーばっか飲んでたらそらそうなるよな。

 6回も行ったらでっかい花束でもできそうだ。


 そして秋野さんが化粧室から帰ってくると同時に、というか秋野さんと並んで、店員が注文した料理のうち軽いものをいくつか運んできた。

 俺は早速、一人でそれを彼女の眼前で食べ始めるわけだが――その後結局どうなったかについては既に話した通りだ。


「そうだな、今日も視覚について話すか」


 シェアするはずだったフライドポテトを机上の自らの領域に取り込み、我が物顔でつまんでいた秋野さんは不意に言った。


「また視覚ですか?」


 そう言いながら、既に空になった皿を跨いで俺もポテトに手を伸ばす。


「ああそうだ」


 会話の下で繰り広げられるポテトを巡った攻防戦。

 ポテトを取られまいと秋野さんは俺の手を弾き、ポテトの皿をさらに自陣に引き込む。

 食い意地のはった彼女が皿に載った黄金色の延べ棒を死守するその様は、まるで財宝を守るドラゴンのようで。

 黄金を抱くファーヴニル。

 まあ財宝っていうかただのポテトなんだけど。

 ましてや一応俺が頼んだやつなんだけど。


「なんでまた視覚の話を?」


 きっと彼女からポテトを奪う(元々俺が頼んだのに奪うというのも変な話だが)ことは無理だと半ば諦めて、俺は渋々手を引っ込めながら訊いた。


「なんだよ、不満か?」


「いえ、ただ気になって」


「そんなのボクが視覚についての話がしたいからってだけだが。別に雑談てのは決まってゲームとか映画とか、駅の近くにできたスイーツショップのこととか、俗っぽいことを話さなきゃいけないわけじゃねーんだぞ。まあ、ただ理由をつけるってならそうだな、ボクが最近、ただただ視覚についての雑学にハマってる、それだけだ」


 秋野さんの返答はそれ以上となく簡素で単純な理由だった。

 まあ、人間生きてれば視覚についてハマることもあるか。


 秋野さんは一つ勘違いをしてるのかもしれないが、俺は元々そんな風な蘊蓄や講釈を聞かされるのは別に嫌いじゃない。

 家でも全く知らない分野の解説動画を意味もなく見たりしてるし。

 というわけで俺は今日も、半ば強制の視覚についての講義に、いやいやではなく自ら進んで耳を傾けることにした。

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