4日目
ちょっと長めです
「この時代にしちゃあ珍しい良い景色じゃないか」
軽い足取りで少し前を歩く秋野さんが言った。
「どこがです?」
「一面緑の草地に道の脇には連なる花壇。そして目線を横にずらせば陽を受けて煌めく川」
キョロキョロと周りを見渡す秋野さんは、「まあ――」と言って言葉を続けた。
「なんてったって、ガキどもがのびのび遊んでるのが特にいいな。きょうびこんな場所も、外で遊ぶガキも珍しい。長閑で、そしてゆったりした良い景色じゃないか」
秋野さんはそう言って、土手の天端を走る道から河川敷にある公園、というよりもただのだだっ広い広場、はたまた原っぱの方を顎で指した。
ガキって。
相変わらずこの人は口が悪いなあ。
「う~ん。そうですかねえ」
正直、俺にはこの景色の良さが分からない。
だって俺にとっては自然も人も全て見慣れたいつもの光景だし。
子供が遊んでるのがいいって言われても、よく分からない。
確かに、最近じゃ外で遊ぶ子供が少ないって話が全国にあるらしいけど、昔のことなんて知らないし、第一に3泊4日以上にこの土地から離れたことがない俺には、他と比べてこの光景が珍しいのかなんて分かりやしない。
とにかくこの場所は俺にとってごく普通の光景なので、特段感じることもないのである。
「お前も大人になればこういう景色の良さが分かるさ」
秋野さんは鼻で笑った。
「そんなこと言って、結局秋野さんはいくつなんですか」
「んなことレディに訊くなよ馬鹿タレ」
「いてっ」
歩みを止めて待ち構えていた秋野さんに足を踏みつけられた。
「レディって……」
アウトローでしょ、あなたの態度は。
して、現在時刻は……子供たちが遊んでるし、なによりチャイムがまだ鳴ってないから17時前なのは確定だろう。
今日は火曜日。
学校が早く終わったので、俺たちはいつもより少し早い時間から異変探しをしていた。
「なんで今日はここなんです?」
俺の右隣を歩きながら、花壇を見たり、少し先に流れる川を見たりと忙しなく首を動かしている秋野さんに訊いた。
「別に理由なんかねぇよ。昨日も言ったろ? 勘だよ、勘。まあ強いて言うなら、連日住宅街ばっか調査してたら偏るからな。たまには他の場所も調査しねーと」
「なるほど」
俺が返事をすると同時に、既に背後となった子供たちの叫び声が聞こえてきた。何事かと振り返ってみると、子供たちが元気よく走り回っている様子が目に入った。
あれは、多分……鬼ごっこが始まったみたいだな。
異変探しも今日で四日目、いや学校での一件を除けば正確には三日目。
俺たちは端泉地区の端にある土手を駄弁りながら歩いていた。
左手には甍が波打ち、右手には大抵のスポーツはできるくらいに広い河川敷が、さらにその先には幅50メートルほどの穏やかな川が今にも陰りそうな日を受けてキラキラと輝き、流れている。
あーあ。
勢いでそのまま来ちゃったけど、家の近くを通ったんだし、やっぱり家に自転車を置いてくればよかった。
結構煩わしいんだよなあ、自転車押して歩くの。
まあでも、どうせ最後に秋野さんを近くのバス停かなんかまで送り届けることになるわけだし、置いてきたら置いてきたで面倒か。
俺はそんなことを思いつつ秋野さんの方を意味もなく向いた。
すると彼女の後頭部が目に入った。
秋野さんはまだ飽きずに川を眺めてるみたいだ。
もう完全に異変探しとは名ばかりのただの散歩にしか思えないなあ、これ。
俺も同じように川を眺めてみる。
……うん。
昔と何も変わらない、いつもの川だ。
境界を決めてる以外にこれといった印象がないただの川。
ここは端泉地区の端。
そこの川を境に地区が分かれている。
「そういえば秋野さん」
俺は言った。
そういや訊きたいことがあるんだった。
「ん? なんだよ」
秋野さんはようやく西の方を眺めるのをやめてこっちを向いた。
「何で異変探しに俺が必要なんですか?」
「んなこととっくのとうに説明しただろうがよ」
呆れた顔をして秋野さんは言った。
「そうなんですけど……でも、よくよく考えれば俺って別に要らなくないですか? だって、俺の役割の大部分って異変探しの場所への案内なんですよね?」
「まあ、それが一番だが……それがどうしたんだよ」
「いや、それならスマホ使えば万事解決だと思うんですけど。マップ見れば目的地なんてすぐ分かるのに、わざわざ俺に案内頼む必要性って、あります?」
昨日、風呂に入っているときにふと気が付いた。
異変探しの手伝いを頼まれて以来、俺は秋野さんの指示通りに動いてきたけど――冷静に考えれば、俺がいなくても何も支障はなかったんじゃないだろうか。
だって、案内役が欲しいならスマホの地図を見ればそれで済む話だし。
「いや、ボクは持ってねぇんだよ、スマホ」
秋野さんはさも当然のように言った。
「え? その持ってないってのは、どこかに置いてきて持ってないってことじゃなく――」
「所有してない方の持ってないだよ」
嘘ぉ!
このご時世にスマホ未保有だって?
そんなことある?
今じゃほとんどの人が持ってるこの時代に?
「それホントですか? なんか裏があって俺を騙してるとかじゃないですよね?」
「んなことしてねーよ。ただボクはデジタルが苦手なんだ。スマホもパソコンも、あんなの理解できねーよ」
「何ですかその老人みたいな発言」
なんなら今どきそんなことを言う老人も中々少ないだろ。
駆使できなくとも、それなりにスマホやPCを使ってる高齢者も今じゃ結構多いってのに。
「悪かったな、前時代的な老人みてーで」
「別に悪いってわけじゃ……」
「とにかく、アナログしか使えねぇ人間にとっては人に頼むのが一番なんだよ。分かったか」
「まあ、はい……」
なんてこった。
この何もかもが情報化する現代社会でスマホも、ましてやパソコンも使ってないとは。
生粋の現代人の俺には想像もできないや。
いつぞや名刺をもらったときに、電話番号もメールアドレスも、連絡先が何も書かれてなかったのも多分そういうことなんだろうな。故意に書いていないのではなく、きっと書くものがないんだ。
まあ、だとしても所属まで何も書いてなかったのは今考えても意味わかんないけど。
そんなことを考えていた矢先、川沿いのベンチに腰かけている人の姿が目に入った。
俺の高校とは違う制服(おそらく近くの私立高のだ)を着た男女二人組が恭しく肩を寄せ合っている。
カップルだろうか。
なんとなく、そして若干の羨望がこもった眼差しで彼らに視線を向けていると、藪から棒に秋野さんが言った。
「ところで三国」
「なんでしょう」
「お前、前に鈴美に恋愛感情が湧かねぇっつったよな」
「……言いましたけど」
思いもよらない秋野さんの発言に身構える。
さっきまでデジタル機器の話をしてたのに、急になんだ。
「それってなんか理由があんのか?」
「理由、ですか――それが正直、よく分からないんです。何であいつに好意を1ミリも抱かないのか俺自身も不思議なくらいで……って、急になんですか」
「いや、前から気になってて、訊こう訊こうとは思って忘れてたのを、ちょうど今思い出してな」
秋野さんはベンチに座るカップルから、目線を俺の方に戻して言った。
「んで、分からないってどういうことだよ。何も理由がないってこたねーだろ。だって年頃の男女二人。それにお前にとっちゃ気の置けない唯一の相手だろ? そんな状況で一切好意を抱かねーなんて、何か明確な理由がなきゃおかしいだろ。例えば、顔が好みじゃない、とか」
「いや、全く。俺はだいぶ可愛い方だと思ってますよ」
さらっと言ったけど結構恥ずかしいことを言ったかもしれない。
「じゃあ身体つきとか」
「ああいうのが好きじゃない男はいませんよ」
「性格とか振る舞いは?」
「別に嫌いじゃないですよ。まあ慣れてるってのもありますけど」
「じゃああれだ、鈴美がお前のストーカーだからだろ。これ以上とない理由だぞ」
「うーん……それも多分違いますね。というか、そんな簡単な理由ならとっくにこの疑問ともおさらばしてますって」
確かにストーカーなのは嫌な要素だけど、別にそれほど気にしてないしなあ。
もしあいつがストーカーを辞めたとしても、恋愛対象として好きになることはないような気がする。
「つまり、顔も、身体も、内面も、全部好意的に捉えてるにもかかわらず、恋愛感情には昇華してないってことか?」
「まあ、そうなりますね」
「……」
秋野さんは渋い顔をして、口をへの字に曲げていた。
何かを考えている様子。きっと困惑しているんだろう。
鈴美を異性の個人として好きになれない理由。
その明確な答えは分からない。
でも俺にはある見当、というか心当たりのようなものがある。
しかしそれは間接的、もしくは一歩手前の要因とでも言おうか。それ自体は何ら答えにはならないのだ。
俺は――恋愛感情の代わりに、罪悪感を抱いた。
「ただ、明確な理由は分かんないですけど、一つだけ分かることがあるんです」
「なんだよ?」
秋野さんはしかめっ面でこっちを見た。
「何というか、感じたんですよ、罪悪感を」
「罪悪感? 何のことだよ」
「さっき言ったように、俺って鈴美のことを結構に好意的に思ってるんですよ、恋愛感情が一切湧いてこないのが不思議なくらいには。それで、いつだったかそのことを疑問に思って、試しに無理やりにでもあいつに恋愛感情を抱こうとしてみたんですよ。そしたら突然、巨大な罪悪感に呑み込まれたんです。何か禁忌を破ったかのような、そんな感覚が恋愛感情の代わりに湧いて出てきたんです」
「ふぅん?」
眉を吊り上げ、秋野さんは興味深そうに首を傾げた。
「これはあんまり言いたくないんですけど――まあこの際だから言いますけど、俺、あいつに劣情を抱くことがあるんです」
「まあ、恋愛感情と性的感情は別物だしな」
秋野さんは割かし真面目な口調で言った。
あれ。
絶対茶化されると思ったけど。予想外。
「でも、それはあいつの外面、言ってしまえば身体に対してだけなんです。あいつの内面込みで見ようとすると、やっぱりその、罪悪感に苛まれるんです」
本能は正常だが、理性のレベルで何か異常なストッパーがかかっているようなそんな感じ。
鈴美個人を”そういう目”で見ようとすると、恋愛的感情を抱くどころか、いつの間にか屹立する罪悪感にぶち当たるのだ。
「あいつに対してどこか抱えてる謎の罪悪感。多分それが、あいつに対して恋愛感情が抱けない原因だと思うんです。でも――その先が分からない。この罪悪感が何に対するものなのかがよく分からないんです」
「ふーん、罪悪感ねぇ……」
秋野さんは腕を組んで、しばらく黙り込んだ。
まるでパズルのピースを組み合わせるように、何かを考え込んでいるようだった。
「でも罪悪感だって何もない所から生えてはこないだろ。心当たりはないのか? 何か後ろめたいことを隠してるとか」
「いや――」
言い切る前に、昔のことを思い出してみる。
うーん。
やっぱり何も思いつかない。
清廉潔白だ。
「――ないですね。むしろ、俺の方がされてるというか……」
どちらかといえば、現在進行形で俺をストーカーしてる鈴美の方にこそ俺に対して何か後ろめたいことを隠したりしてるんじゃないか?
まあ、あいつは罪悪感とかそういうのを感じてなさそうだけど。
「これはただの推測なんですけど、俺が思うにアレが原因じゃないかなーって思うんですよ」
「アレってなんだよ」
「何て言うか、兄妹とか肉親間じゃ恋愛感情を抱かないって言うじゃないですか。それです。ほら、俺と鈴美って生まれた時からの付き合いなんで、脳があいつのことを妹かなんかだと勘違いしていて、その結果、罪悪感が生まれてるのかなーって」
「でも性的な感情は湧くんだろ?」
「さっきも言いましたけど、俺が劣情を抱いたのは鈴美に対してじゃなくて、あくまでその肉体ってだけで、そこに鈴美という人格は含まれてないんですよ。言うなれば本能的なただの反射です」
「うーん、そういうもんなのか?」
「そういうもんなんです」
とまあ、分けの分からない罪悪感に俺が出した答えがこれである。
あいつに恋愛感情を抱くことはなく、その上で代わりに罪悪感を抱くのは、脳が互いを兄妹だと認識しているから。
科学的な正しさとかは全く分からないけど、罪悪感に何の心当たりもない以上、そう思うのがいちばん自然だった。
というか、そう思う他なかった。
「……なるほどな。人間の脳って案外馬鹿だし、そういうこともあり得るかもな」
「まあ、俺が考えた程度のことなんで、正解かどうかは分かりませんけどね」
「結局のところ、お前が鈴美に恋愛感情を抱かない根本的な理由は分からず仕舞いか」
「そういうことになりますね」
秋野さんはやれやれと言わんばかりに首を振った。
揺れる秋野さんを捉える視界の端に、既に通り過ぎて遠くなった河川敷のベンチがチラリと映った。
カップルの姿はいつの間にか消えていた。
「不思議な話だが本当に分からないんだったら仕方ねーか……ま、そのうち何かの拍子に答えが見つかるかもな」
「見つかりますかね?」
「ああ、きっと見つかるさ。もしかしたら、それは案外すぐだったりするかもしれないぜ?」
秋野さんは特徴的なギザ歯を覗かせて、悪そうな笑み(きっと本人にはその自覚はないんだろうけど)を浮かべた。
果たして、俺が鈴美に恋愛感情を抱かない理由も、その第一の原因である罪悪感の正体も、分かるときが来るのだろうか。
俺は少し考えて、それから「そうなったらいいんですけどね」とだけ答えた。
そのとき、ちょうどチャイムが鳴った。
午後5時を告げるチャイムだ。
この地域では、単純な鐘の音の代わりに、なんの歌だったか分からないメロディーが流れる。
確か小学生の頃に習ったような気もするけど、もう覚えてない。
俺にとって、いや、この地域の人間にとってこの歌は、ただ午後5時を告げる歌でしかないのだ。
それから俺たちにしばらくの沈黙が訪れた。
辺りが静まり返る中、風の音だけが耳に残る。
遠くで犬の鳴き声がして、土手の下の方からどこかの家の夕飯の匂いが漂ってきた。
いつの間にか秋野さんは俺の左隣りに移動していて、さっきとは逆方向、川や河川敷がある西側に対して土手の東側を眺めていた。
「こっちの眺めも結構いいな」
ポツリと秋野さんは呟く。
「この景色がですか? こっち側なんて家の屋根くらいしか見えませんけど」
「まあ風景自体が凡俗で地味なのは同意だが、なんつーかボク、こう俯瞰できるような、高所から全体を望むっていうか、そういうの自体が好きなんだよ。良い意味でも、悪い意味でも、昔の自分を思い出す。それにこういうのは、なんか神様の気分になったみてーで気分がいい」
「土手の上から街を見下ろすくらいで大袈裟ですね」
「ははっ、そうかもな。でも、スケール感の差はあれど、見下ろす、いや見下すって点じゃ神とやってることは変わらんだろ」
見下すって。
酷い言い方だなあ。
さすが神社で悪びれもせず不敬な態度を取る人だ、好き勝手言う。
「まあそうだな、ボクたちの視点と神の視点で決定的に違うところがあるとすれば、それは視点の方向だな。ボクたちは基本その限りじゃないが、神は一方的に他を見ている。言うなれば完全な支配だな。そうだ、神の視点ということで一つ――お前”見る”ってなんだと思う?」
「え?」
なんだ急に。
というかなんだその質問。
”見る”ってつまり、目で見るの見るのことだよな。英語で言う、”look”、もしくは”watch”。そういえば”stare”とか”gaze”とかもあったな。細かいニュアンスは違うだろうけど、見るという動作が根幹なのには変わりなかったはずだ。
まあ、そんな英単語の復習まがいなことはさておき、”見る”ことがなんだって突然言われてもなあ……。
見ることは見ることでしかないと思うんだけど。
それ以上に意味なんてあるのか?
「ただ単に目で物を捉えることじゃないんですか?」
「ちっちっち。それがそんなに単純な話じゃねーんだよな。人間の”見る”って行為は、ただの光学的な現象をはるかに超えてるんだよ。”見る”ことや視覚には、目の機能としてただ外部を認識する以上の作用がある。知ってるか? 人類はこれまでに、”見る”ということの魔力について色々と考えてきたんだぜ。文化の歴史そのものが、実は視覚の歴史とも言えるほどにな。というわけで、”見る”ことについて一つ、無学なお前に話してやるよ」
すげー上から目線。
というかしれっと煽られた気がするな。
まあそれはいいとして……えっと、文化の歴史が視覚の歴史だって?
そりゃどういうことだ。
文化と視覚に何の関係がある?
”見る”ことに、”見る”以外の何があるっていうんだ。
瞳に入った光を電気信号に変換して世界を認識する、それが見るということなんじゃないのか。
魔力。
確か秋野さんはそう言ったっけな。もしかしてスピリチュアル的な話だろうか。まあ、今さら秋野さんの口からそういう神秘めいた話が出ても何も驚きはしないけど。
むしろ退魔師にはぴったりの系統の話題だ。
「お前、パノプティコンって知ってるか?」
「ぱのぷてぃこん? えーっと……オストラキスモスで使うやつでしたっけ」
「……それは陶片だろ。古代ギリシアのアテネで行われた追放制度、陶片追放で使われてた陶片な。まあ、語末は似てるが……というか、よくそんなの知ってんな。理系だろ、お前?」
「いや、まあ、偶然」
いつぞや垂れ流していた動画で、二人(匹? それとも体?)の饅頭が解説していた気がする。
ゆっくりしていってね。
「話を戻して、パノプティコンってのはな、ざっくり言うと18世紀に考案されたある種の刑務所、監獄のことだ」
「監獄……なんかそう聞くと、パノプティコンって名前も圧がある感じがしますね。それで、それが視覚となんか関係あるんですか?」
「もちろん大アリだ。パノプティコンってのはな、ちょっと変わった監獄でな、円形の監獄なんだ。円周に沿って独房が配置されてその中に囚人がいる。そしてここが肝で、円の中心には、そこから全ての独房を目視で監視できる監視塔があるんだ。従来の雑居房に代わり、この構造を取ることによって全ての囚人を監視できる監獄がこの一望監視施設というわけなんだが――このシステムには少し面白い効果があってな、何だと思う?」
何だと思うって、急にそんなこと訊かれてもな。
パノプティコンのシステムに生まれる効果……。
聞いた感じ、従来の監獄と違うところはその構造なわけで、つまり監獄を円形にしたことで何が起きるのかって話だろ……円形にしたからって何かが起こるのか?
――いや、待て。秋野さんは、パノプティコンの肝は円の中心の位置する監視塔って言ってたはずだ。ということは、問題なのは独房の構造というよりも、その監視塔にあるんじゃないのか。
全ての独房を監視できる監視塔――常に囚人を縛り付ける見張りの目……。
ということは――
「囚人たちの規律がより良くなったとか、ですかね」
「ほう、何故そう考えた?」
「監視塔があるってことは、パノプティコンの囚人たちは常に見張られてるって意識を持つことになると思うんです。下手なことをしたらすぐにバレるんじゃないか――そういう意識が囚人たちの規律を向上させるんじゃないかなーって」
「素晴らしい考察だ。もう、ほぼ正解と言っていい」
秋野さんは満足そうに腕を組んで頷いた。
どうやら褒められてるっぽい。
ちょっと嬉しい。
「お前の言う通り、パノプティコンの最大の特徴は囚人たちの規律を自然と作り出すところにある。少し補足をすると、実はこの監視塔はな、内部からは独房全てを見渡せる一方で、外部からは監視塔の中身は見えねーって仕組みになってんだ。そうするとどうなるかっていうと、監視塔から一方的に見られる状態を作ることで、塔の中に人がいようがいまいが、監視されてるっつー意識を囚人たちに植え付けられるのさ。その常に”見られてるかもしれない”って意識ゆえ、囚人たちの服従が生み出されるってわけだ。さて、このことは”見る”と言う行為、そして”視覚”の持つ力を明らかにしているわけだが――」
そういえば、そうだった。
元々”見る”ことについての話だったはずだ。
今さらながらよく考えてみれば、確かにパノプティコンの話には、監視とか見られる意識とか、明らかに”視覚”に関する事柄が多かった。
それも何というか、重苦しいものが。
「”見る”ことが持つ力の一つ、それは”支配”だ」
「支配……」
”見る”という普通の単語から連想することなんてなかった、物騒で仰々しい三文字、もしくは二文字。
さっきまでの俺ならきっと、馬鹿げた話ですね、といった風に一笑に付したはずだ。
でも円形監獄の話を聞いた今、何となく、その意味が理解できるような気がしなくもない。
「パノプティコンの囚人は監視塔から”見られる”ことによって自ら規律を正す。それは逆に言えば、監視塔から囚人を”見る”ことによって彼らの行動を”支配”することができるということになる。まあ、つまり、”視覚”は一方的に片方から他方に向けられることで、”見る者”に対象を支配し操作する絶対的な権力を与えるものに変貌するのさ」
「なるほど……」
”見る”こと=支配。
俄かには信じ難い話だけど、言われてみれば思い当たる節がある。
例えば、先生が教室を見渡すとき。
例えば、街中で防犯カメラを意識したとき。
例えば、舞台の上で演者が観客の視線を浴びているとき。
例えば――他者の奇異の視線に曝されるとき。
”見られる”ことで生じる緊張感、監視されることによって生まれる規律、注目を集めることで形作られる振る舞い――確かに、それは”見る者”が”見られる者”を無言のうちに支配しているとも言える。
うん。
そう考えればこの話にも納得がいく。
というかよく考えれば結構当たり前の話かもしれない。
ただそれは無意識に起こることで、きっと現代人は気づいていないだけなのだ。
誰も支配しようと思って他者を見ないし、見られてるからって支配されてるとは思わない。
でも確かにそこには不思議な力が働いているのはきっと間違いないだろう。
「ただ、この話には続きがある」
俺が脳内でこれまでの話の整理をちょうど終えたタイミングだった。
「近世の人間は、これまで例に挙げたパノプティコンのように、”見る”ことによって認識の対象である外部世界を一方的に”支配”できると考えた。しかしある時、ふと気が付くんだ」
秋野さんはそう言うと、ガバっとこっちを向いて、一直線に、視線と視線がぶつかって火花が散ってしまいそうな鋭さで、俺の目を直視した。
「お前は今、ボクに見られてると思ったな? でも逆もまた真なんだよ。お前もボクを見ている。つまり、分かるか?」
「……自分が見るってことは、相手も自分を見ることができる……」
「その通り。外部を”見る”ということは即ち、外部から自分も”見られる”ことを意味する。パノプティコンの監視塔のように、そうならねーための仕掛けでもなきゃ、”見る”って行為は簡単に逆転するんだよ。他を一方的に見る主体は、同時に外部に曝される存在であり、外部からの一方的な視線によって支配される”対象”にも転じやすいんだ。ニーチェの言葉を知ってるか?」
「あー、もしかして、深淵がどうたらってやつですか?」
「”深淵を覗く時、深淵もまたお前を覗いているのだ”だな。この箴言が本当に意味するのは別のことだが、これには視覚のその双方向性が前提にある。まあ要するにだ、見る主体は外部を見る支配者から、見られる被支配者へと簡単に逆転するってこった」
常に一方的に見ること。
それは確かにあり得ない。だって、自分から見えるということは、相手からも見えるということなんだから。
”見る”ことは確かに支配することかもしれない。だけど、自分の側だけが”支配”するという構図は成立しない。
つまり――
「”見る”ことは”支配”すること。でも、それと同時に”見られる”こと、つまり”支配される”ということでもある、ってことですか」
「そうだ。その認識で間違いねぇ。まあ、最後にまとめるとすれば、”見る”ということは外部を”支配”することであり、それと同時に”見られ”、”支配される”ことでもある。”見る”=”見られる”と”支配=被支配”の逆転性、そして両義性を持つ道具、それが人間の視覚っつーわけだ」
秋野さんの言葉が終わると、一瞬の静寂が流れた。
俺は彼女の言葉を咀嚼しながら、ふと街の方を見やった。
遠くの方に人が見える。
彼らはきっと何かを見ている。
もしかしたら、遠くに見える俺たちの影を認めているのかもしれない。
「見る」ことが「支配」することであり、同時に支配されることでもある――。
「見る」ことイコール「見られる」こと、つまり「支配される」ことっていう点についてはまだしも、単純に「見る」ことが「支配」するということすら考えたこともなかった。
いや、違うな。
きっと現代人ゆえに、考えられなかったんだと思う。
他人の目。
自意識過剰。
既にそういう言葉があるように、視覚と支配の関係性は特異なものなんかじゃなく、現代人にとってはむしろ普遍的で当たり前に受け入れていることなんじゃないだろうか。
無意識の内に。
俺たちは他者を支配し、同時に支配されることを当たり前のものとしている。他者の目に曝されても、支配なんて大層な言葉は使わず、居心地が悪いとか、恥ずかしいとか、そんな言葉で片付けるのだ。
だからそんな「見る」ことの魔力に気付けないんだろう。
そこにあるのにないような。
そういう物なのかもしれない。
「ただし」
秋野さんは言う。
「この世界で唯一、神だけは違う。神はボクたちを見下ろしてるが、ボクたちが見上げたところでそこにあるのは大空だけだ。ボクたちからは神を見ることはできない」
「ああ、だから」
――そういえば最初に言ってましたね。神の視点は完全なる支配の視点、人とは違うって。
偶像崇拝。
それが宗教史の中で論争を巻き起こすのはそういった理由もあるんだろうか。
間接的にも人が神を見ないように。
「異変も――」
秋野さんは続ける。
「実は異変も似たようなところがある」
「え? もしかして異変って俺たちから見れない存在なんですか?」
「んなわけねーだろ。もしそうなら、今こうして異変探しをしてる意味が分かんねーだろうが。異変は見える。最終的に誰にでも見えるようになる。ただ、その本意は見えない。神と同じ、少なくともボクには見えない。さらに言えば、異変は人を一方的に支配する。人が気づかないうちにな。基本、異変ってのはそういうもんだ。さて――」
そう言って秋野さんは唐突に歩みを止めた。否、止めるしかなかった。
なぜなら俺たちは土手の終着点へたどり着いていたからだ。
いや、終着点って言葉には語弊があるな。ただ、橋で土手が一度分断されてるってだけで、別に向こう側にも土手は続いてるわけだし。
「キリもいいし、今日はここで終わるか」
「向こう側は行かなくていいんですか?」
「んー、まあ別にいいだろ。ここまで何もなかったんだからどうせこの先もでねぇよ」
それでいいのかよ。
一応これって仕事の一環なんだよな。そんなてきとうがまかり通るもんなのか、社会人の仕事って。
というか、そもそもの話、退魔師って社会人の括りに入るんだろうか。
退魔師なんて一般社会と隔絶されてるようなもんだろうし。
「あ、そうだ。お前んとこの学校の正面通る道をずっと下ってくとファミレスあるだろ?」
「ありますね」
「明日はそこで待ち合せな」
「なんでわざわざそんなとこで」
「理由は明日教えるから、とりあえず明日はそこに来い」
「はあ、分かりました」
いい加減、神社で待つのも飽きたんだろうか。
拝殿で寝てたり、灯篭に乗ってたり、鳥居に鎮座してたり、いつも暇そうだったしな。
「というわけで、ほら、さっさとボクを送迎しろー」
「はいはい」
俺が自転車を跨ぐと、秋野さんも躊躇せずに荷台に乗った。
「では出発前に本日のワンポイントアドバイス」
「なんですかそれ」
”本日の”って。
今まで一度もなかったぞ、ワンポイントアドバイスなんて。
「見ることは見られること。そして支配することは支配されること。ということで自分の見る世界を一度疑ってみよう。自分が支配していると思っているものに、実は自分が支配されてるかも!? それではまた明日~。バ~イバ~イ」
「誰に向かって言ってるんですかそれ、っていうかその教育番組みたいな喋り方やめてくださいよ。似合わなさ過ぎて気持ち悪……って、あ、ちょっと! 勝手に地面蹴らないでくださいよ! バ、バランスが……あ――」