Ep.2--変化
天使は、天界を歩いていた。普段は歪に居ることを好み、天界を歩くことなど無い。それでも、今日の彼女は天界に居た。理由など無い。いや、理由をあげるとするならば、今のまま歪に行きたくなかったから、だろうか。いや、そうに違いない。そうでなければ、嫌気がさして止まない、憎しみすら覚えるこんな場所に、天使は身を置くことは無い。いくらその考えが天使らしからぬものだとしても、その美しき女の脳内に渦巻くのは、どす黒い憎悪、嫌悪の情感だった。
片手に握られた一枚の紙に再び目を落とす。書かれた内容は、「話があるから来てほしい」という、場所を指定した簡潔な呼び出し文。呼び出された場所は、天界の端の端。恐らく、果し状か、挑戦状か、その類。告白の呼び出しなんて、そんな可愛いモノじゃないだろうことはわかり切っている。
それでも、天使はその場所に向かっていた。今のままで歪に行きたくない理由はこれだった。これを放置したら、あの歪にまでこの呼び出した存在は来るかもしれない。自分にとっての唯一の心の、体の、落ち着ける場所を、他の純白に汚されたくなかった。
天界の端。それは、自分たちを治める神や上位の天使すら目の届かぬところ。ある種の無法地帯。人間界で言うところのスラム街。天界にも、確かに存在する。スラム街と表すには、その雲の上は余りにも美しく清らかな場所であるが。
「呼び出したクセに、誰も来てないの?」
ふん、と天使は鼻で笑う。
天使の不満げな声は響き渡る。しかし、誰も居ないならそれに越したことは無い。この手紙は只の幼稚な冷やかしであり、自分についてくる天使は誰一人も居なかったことの証明である。
手紙に書かれた要求は「来てほしい」だけだ。「話がしたい」と明確には書かれていなかった。よって、話があっても応じてやる義理は無い。ちゃんと来てやったから早々に帰ろう。そう決めつけて、天使は踵を返そうとする。
しかし、そんな彼女の鼻腔を、奇妙な匂いが刺した。
次いで聞こえてきたのは、パチ、パチ、ジジ、という、何かが爆ぜる音。
慌てて振り向いた、そんな彼女の顔に向かって、何かが飛んでくる。
「ッ……!」
天使の顔に熱がぶつかる。熱、燃え上がるほどの、熱。それは比喩では無く、彼女の顔には炎がぶつけられ、今まさに燃え広がっていた。
顔を、次第に服を燃やされながら、天使はそれをぶつけてきた相手を見る。くすくすと、天使らしい美しい笑みを浮かべた少女たちが、手に握った炎を移した木の棒を携えて佇んでいた。木の棒の上で揺らめく炎と、自分の肌を焼く炎の二つを通して見えたその笑顔は、いかにも歪んで見えたが。
「あら、ふふ。ごめんなさい。」
「手が滑ってしまってね?そう……わかる、でしょう?」
「そんなことよりも、そこ、通りたいから……ね?」
「ごめんなさい」「手が滑って」「そんなこと」
反吐が出る。
何が天使だ。
そんな、何処にぶつけることも出来ない怒りだけが胸の内に沸き上がり、しかしそれは一瞬にして鎮火した。頬を焼く熱さとは裏腹に、頭の奥は酷く冷たかった。
自分が呼び立てておいて、こんな陰湿なことをしに来たくせに、邪魔だからどけと目の前の天使は語る。全てを天使は理解している。
「あらあら、こんな陰湿極まりない所を通られるの?まあ、お似合いですけれど。」
にっこりと、焼かれたままの頬をそのままに冷たく言い放つ。皮膚が爛れ、見るも無残な顔になっていることは分かっている。それでも、天使は美しい。
そんな天使の言葉に、しかし目の前の美しい少女たちは醜く表情を歪めた。そして始まるのは集団暴力。暴力とはいっても、炎を体に殴りつけるようなものだが。
天使や悪魔に共通することであるが、その人間とは一線を画する存在は、人間には天使の身体に傷をつけることはできない。暴力を振られたとて、刃を向けられたとて、それが肌に当たることも、刺さることも無い。だがしかし、感触はある。痛みも、熱も感じることはでき、また故意の暴力行為で無ければ、それに応じた体の変化は起きる。つまり、人間界で起こった火事に身を投じさせれば、人と同じく身が焼かれるのだ。死ぬことこそなく、痛みも少ないが、何はともあれ、人間でも炎を使えば傷をつけられる。
目の前の醜い天使たちは、それを知っている。だからこそ、肌を燃やすのだ。こうすれば、この怪我は同族の暴力によるものではなく、人間界で火事に巻き込まれただけだと、そう言い訳が出来るのだから。
肌を燃やされ続ける。顔の殆どは火に塗れ、服は殆どが炭になり、煤となり。腕も胸も足も、爛れて落ちそうになっている。しかし天使は笑っていた。不気味な程に、笑みを浮かべ続けていた。自分に愚かなことをする馬鹿たちを嗤う笑みを。
「……気持ち悪い。」
遂に、いじめを行使していた醜い天使の一人が口を開いた。それを皮切りとしたように、天使たちは口々に汚らしい言葉を吐きかけ始める。やれ醜いだの、やれ悍ましいだの、やれ穢れているだの。聴き飽きた言葉を、天使はしかしすべて聞いていた。相変わらずの微笑みを浮かべながら。
やがて、反応が無く飽きたのか、天使たちはその無惨な姿となった天使から離れてゆく。誰の気配もなくなったころ、ようやく天使は立ち上がった。体に響く痛みに鞭を打って。
「……天使、って。何かしらね。」
嘲る様な声音で、天使は呟く。
燃え尽きた服と、体を天使は眺める。
「はあ、服を変えなくっちゃ。神様に貰った要らない服が余っているはずだもの。あとは、手当てをしなくっちゃ。」
誰に聞かせるでもないのに、いつも通りに美しい声で彼女は話し始める。いっそスキップすらしそうなくらい、軽やかな足取りで、再び歩き始めた。
これで、何の後腐れも無く歪に行くことが出来る。天使の内には、その喜びしかなかったのだ。
自身の住処に戻り、クローゼットの扉を開き下部に目を向ける。適当に重ねられた、大量の未開封の包み。その一つを、乱暴な手つきで開く。そこから現れたのは、新品の今着ている服と同じ服。それを引っ張り出そうとしたところで、思い出したように天使は包帯を手に取った。
鼻歌を歌いながら、自身の身体に手当てを施していく。脳内に浮かび上がるのは、歪で過ごせる落ち着いた時間だ。ふと、いつも歪に居る悪魔のことを天使は思い起こす。今でも、彼はそこに居るのだろうか、と。
あの悪魔は、同族に友人と呼べるものが居ないこの天使にとっては、唯一の友人といっても差し支えは無い。本来は交わり合う必要もない、何なら交わることすら悪と罵られそうなその交友関係を天使は楽しみにしていた。真面目過ぎることが玉に瑕であることを除いて。
「よし!これでオーケーね。」
手当の済んだ自分の身体を見て、天使は明るい声でにっこりと笑う。純真無垢な笑みは、顔に巻きつけられた包帯によって阻まれた。
襤褸切れになった服から、新しいものに着替える。その途中。ふと、祈りが聞こえた。何も知らなそうな、純真無垢な少女の「お父さんの病気を助けてほしい」という震えた声が。創世神が、天使に仕事を回すべく、選別された祈りをそのまま天使へと送ってきたらしい。天使の仕事は、このようにして始まる。光栄であるはずのその祈りの言葉に、天使は表情を消した。
「あぁ、本当に、もう。」
その言葉を、――天使は、無視した。それが、どれほどの禁忌だとしても。創世神に見限られる可能性がある行動だったとしても。寧ろそれこそがこの天使にとっては喜びなのかもしれなかったから。
そして、直ぐに向かった歪にて、視界に映った友人の背に向けて叫び声をあげた。
「あぁ、本当に仕事したくなぁい!」
天使の耳を刺す叫び声に、悪魔は変わらずの大きなため息を吐いた。天使の方に目を向けることも無く、頬杖を突いたまま、悪魔は言葉を返す。
「お前、来るたびに同じ事しか言えねえのか?」
「何よ五月蠅いわね。良いじゃないの。」
悪魔は、鬱陶しいという雰囲気を隠しもせずに、いつも通りの毒舌を天使にぶつける。
そうして、いつも通りの会話を云十数度目に始めようとする。勿論溜め息を会話のはじめとして。
「ったく、今日でそれ言うのなん、か、い……」
しかし、その言葉は続かなかった。
ようやく顔をあげ、天使の姿を目にした悪魔の唇は、言葉の続きを紡ぐことが出来なかったのだ。悪魔の淀んだ瞳に映った天使の姿は、見るも醜く、ボロボロと称するのが適しているような姿だったからだ。
その悪魔の様子に、天使は酷く不思議そうな視線を向けた。自身の状況を既に忘れてしまったかのように。
「何よ?突然黙っちゃって。」
きょとん、という効果音が似合いそうな程に無垢な表情は、その出で立ちとは異常と迄に見える程不相応だった。
「何よ、って……お前、それ、どうしたんだよ。」
「それ?」
天使は、悪魔の言及することに対して口を開かない。本当に、このたった数分、歪に訪れるだけの時間で忘れてしまったのか。
否、そうではない。天使はただ、この空間に嫌な物を持ち込みたくないだけだ。この時間を純粋に楽しむために、悪しきことを、その記憶すら持ち込むのを拒んだのだ。例えそれがどれだけ異質に映ったとしても、その願望をかなえたいと願い、彼女は「何も知らない、わからないふり」を続ける。
しかし、悪魔にしてはこれまた異質な程に優しい彼は、そんな天使の状態を放っておくことなどできなかった。目の前で傷付いた姿でいる大切な友人をそのままにして、普段通りに会話をするなど、出来なかった。これはきっと、理解されない考えでも何でもないだろう。ただ、目の前の美しき少女には理解されるものでは無かっただけで。
「その、姿。」
端的な、疑問を乗せた声音。
しかしそれだけで、現状への問いを投げるには十分すぎた。
「あーこれ?別に何でもないわよ。そんなことよりね、この間人間界に行ったときに見かけたんだけど、ほら、今は雪が降っているじゃない?だからかしら、道端に雪うさぎがあったのよ。」
悪魔からの話をさらりと流し、終わらせ、くだらない日常会話で上塗りをしようとする。興味もない人間界の話題を、とても楽しそうに天使は語ろうとする。
その様子に、悪魔は目を細める。笑むためではなく、奇妙をその表情に乗せるために。天使は、悪魔の方に顔は向けているが、その表情を見ることもせずにぺらぺらと語り続けている。やれ雪でうさぎを作ろうと考えた人間は素晴らしい、とか、それはそれとしてすぐに溶けて無くなってしまうものを作るなんて人間は愚か者だ、とか。
その一方的な言葉たちを沈黙し聴いていた悪魔は、彼らしく、重たい溜め息でその話を終わらせた。
「何でもない、でそんなミイラみたいになってたまるかよ。」
不服そうな声音は、しかと天使の耳に届く。そのまま、明るかった天使はその表情を暗がりに落とした。笑顔を治め、一瞬飲む表情を浮かべ――しかし、直ぐに呆れたような、諦めたような笑顔を浮かべる。
その表情の変化を眺めていた悪魔は、次に出てくる言葉を待つ。
「ミイラ、って酷いわね。生きてるわよ?」
やはりどこかズレた答えを返す天使に、再び長く溜息を吐く。次に紡ぐ言葉を考えるように。
「そういうことを聞いてるんじゃねえよ。ただの形容で、それになった、何て言ってねえだろうが。」
苛立ちを含めたような、しかし冷静な声音で天使を悪魔は追求する。
その言葉に、申し訳なさそうな表情を浮かべるでも、逆上するでもなく、笑顔をそのままに天使は肩をすくめる。まるで、「まだそんなくだらない話を続けるのか」とでも告げるように。
「何があった。……その怪我は何だ。」
悪魔は、その天使の様子に気が付き、それでいてその表情を見ないことにした。ここで天使を気遣えば、このらしからぬ天使の状態の原因を、本来天使と交わることのない悪魔である自分が知ることは出来なくなるとわかっていたから。
その甲斐あってか、冷たく、強い言葉は、ようやく天使の口を割らせるに至った。
「火傷。」
それは酷く短い答えで、かつ、見ればわかると追及したくなる答えであったが。だが、答えは答えだ。
「火傷?」
確認を取るように、それが嘘ではないと確かめるために聞き直す。
「そう。ヤケド。」
まるでなんてことない、とでも言う様な声音で、軽やかに天使は言葉を返す。
悪魔は思考を巡らせる。何故そんなことになったのか。何故その状態をそのままに、此処に訪れたのか。
直ぐに頭に浮かんだのは、最悪で最低な邪推で、それを頭を振って投げ捨てた。
「あぁ……火の海にでも突っ込んだか。火事か何かに遭っている奴に呼ばれたか?」
とても合理的で、一般的な予想。
「ぶっぶー。違うわ?」
外れだ、と彼女は、まるでクイズでも楽しむかのようにそう告げる。
それが違うなら、もう邪推が正しいとしか考えられないじゃないか、とつい口をついて叫び出しそうになる。だが悪魔は、そんなことが、自分たちのような悪しき存在ではなく、美しく可憐な美しき存在の中で巻き起こってしまったことを認めたくなくて、現実逃避を続けた。
それが何の意味も持たないことを、一番知っているのに。
「なら、そうだ。温泉の温度が異常なほど熱かった。」
馬鹿みたいな答え。一たす一に田んぼの田、と答えるようなあほらしい考え。しかしそれでも良いと思った。そんなことだったのか、と笑えるような答えが真実であれば良いと。
しかし、現実とは無常だった。そのことも、悪魔は良く知っていたはずなのに。
「ぶっぶー。ってかそんなわけないでしょ。アタシ、無類の温泉好きなんですけど。」
温泉が好きでも熱さに耐えれるかとは別だろうが、といつもの軽口が零れる。しかしからからと笑う天使のその表情には、笑い声には、いつもの彼女らしからぬ影があった。
その全てから、悪魔はどうしても察せざるを得なかった。だが、嫌なプライドがそれを認めたくないとみっともなく叫んでいたのだ。
「……じゃあ、なんなんだ。」
苦しげに洩らした悪魔の声に帰ってきた言葉は、どこまでも彼女らしい、軽いものだった。
「燃やされた。」
刹那、悪魔の息が詰まる。
「……は?」
喉の奥から絞り出したかのような低い声が響く。意味が分からないと、その意味を理解したくないと、そう告げるように。
そんな悪魔の様子を、慈悲か慈愛か、まるで天使はそれらしい眼差しで見つめる。自分に助けを求めてくる、哀れでちっぽけな存在を見つめる時のように。悪魔の感情をすべて理解しているかのように。そんなことが、有り得るはずはないのだが。
その証拠と言わんばかりに、天使の言葉は現実的だった。
「燃やされた、の。二回言わないと理解できないわけじゃないでしょ?あなたは、加護を理解できない馬鹿な人間じゃないんだし。」
他の誰かを貶しながら、目の前の哀れな存在を持ち上げる。その言い方は相変わらず天使らしくはない。だがこの美しい女らしい物言いに、悪魔は頭を抱える。
嫌な予感が当たったと、唸るしかなかった。
だが、それでも悪魔は、天使に何が起こったのかを確かめ続けることを選んだ。少し前ならば関係ないと断じて選んだ可能性すらある現実逃避の道を、この時、悪魔は選ばなかった。
「……誰に。」
火事に突っ込んだわけではないのなら、「燃やされた」と表現するのなら、その相手は分かり切っている。
その悪魔の考えをも分かっているのだろう。何を言っているのかと嘲笑するように苦笑した天使は口を開いた。
「誰に、って。わかるでしょ?人間界に降りてこうなったわけじゃない。アタシはあなた以外の悪魔と会ったことはない。」
暗に言い放つ。「これは同胞の所業である」と。
何故、と尋ねようとして、悪魔はその口を閉じた。そんなこと、もう聴かずともわかってしまったからだ。というよりも、彼女が同胞の天使に忌み嫌われていることを悪魔は知っていた。
あれはいつだったか、この歪にこの天使以外の天使が訪れたことがある。というより、ここにこの二人だけしかいない、という時間が多くあるだけで、この場所はもとより誰でも訪れることが出来る。証拠に、悪魔の同胞たちが来たこともある。その時はえらく騒がしかった。天使にその話をすると、「会ってみたかった」と自分が仕事中であったことを恨んでいたことだって悪魔の記憶に新しい。
それと同じように、他の天使がここに訪れることがあった。その天使から聞いたことがあるのだ。此処にいつも訪れ自分と話をする天使の話を。
天使も悪魔も、同胞たちは大概その見目は似通っているが、話を聞けば、それがこの天使の話をしていることは明確だった。だって、仕事を忌み嫌う天使など、きっと彼女以外には居ないのだから。
その天使たちの口から零れ出た、今悪魔の目の前に居る美しい少女への評価は酷いものだった。「天使の面汚し」「忌み物」「穢れた偽物」。そんな、心無い言葉たち。それを聞いていた。いわゆる、陰口と呼ばれるもの。憎らしいという感情を隠すことも無く、醜く顔を歪めた天使たちの言葉。
その時は聞き流していて、正直今の今まで悪魔は記憶の片隅に追いやっていた。天使も大概、変わらないなと思っただけで。言葉は自由だ。こんな場所では、口に戸を立てる必要もない。だからこそ、それは只の陰口に留まり、何かが起こるはずはないだろうと。
それでも、目の前に居る天使は、起こるはずがないと断じたことが起きたのだと、語っている。
「……神の、野郎は?」
だが、天使はある種、創世神の使いであり、神に守られていると言っても過言ではない。だからこそ、有り得ないと思ったのだ。そんな愚かなことが、天界で起こるなどと。そんな一種の祈りを言葉に乗せ、悪魔は吐き出した。
「アタシ達は天使よ?創生神様の目の届かないところが何処かくらい熟知してるわ。」
とても単純で、しかし圧倒的な正答だった。
神は確かに全能だが、それですべてをカバーできないからこそ天使という存在が居る。本当に何でもできるのであれば、自身の使いなど作るわけがない。だからこそ、神でも目の届かないところがあるのだ。
天使は、そんな神の目の届かないところを覆い隠すために生まれた存在なのだから、誰よりもその場所を知っている、というのは余りにも当然の結果だった。
口を噤むしかなくなってしまった聡明な悪魔に、呆れの表情を天使は幾度目か向ける。聴いたところで何にもならなかっただろう、と、いっそ咎めるように。
「……アタシ、やっぱ……悪魔になりたい。」
ぴくり、と悪魔の表情が固まる。俯き考えていた悪魔はばっと顔をあげる。
「お前――」
「もうあなたの怒号は嫌。」
抑えきれぬ怒りのままに声を荒げようとした悪魔の言葉を、淡々と天使は遮る。子供のような我儘の言葉は、悪魔の頭を冷やすのには効いたらしい。
立ち上がりかけた体を椅子に戻し、悪魔は相変わらず溜息を吐いた。何かを考えるように、長く長く。
「天使は、悪魔にはなれない。」
それは明確かつ、絶対に変えることのできないこの世の理だった。確かめるように言葉にする。
「知っているに決まってるでしょ。」
互いの常識を、知らないわけがないだろうと、半ば馬鹿にしたような笑みを天使は浮かべる。
「お前……自分が何を言っているか、何をしようとしているか――」
「わかってる、に、決まってるでしょ?」
遮って、また確かめるように言葉を交わす。これは会話ではない。確認のし合いだ。
自信ありげな天使の表情を、悪魔は直視できなくなり、目線を逸らしてまた溜め息を吐く。理解できない、と言外に乗せて。
ただ、そんなニュアンスなど天使は気が付かない。今日は、互いに何かが違ったのだ。だからこそ、他人の些細な違いなど、気付くはずもない。
「どうして、真っ当に生きる……を選ばないんだよ。」
言いながら、悪魔は自分の口から零れ出た「真っ当」を嘲笑った。悪魔である自分は、そんなモノとは無縁であるはずなのに。自然と口から零れ出てきたのは、そんな、誰かを思いやるような実直な言葉だった。
そんな風に笑った悪魔に気が付いているのかいないのか。天使もまた嘲るように口角をあげる。
「真っ当に生きてどうするの?」
何が生まれるの?
どうなるの?
矢継ぎ早に、天使は疑問を投げる。その答えを、持っているはずがない相手に。
幼い子供のような問いかけに、鬱屈とした大人のような悪魔はまた溜め息を吐いた。
「見返してやろう、とか思わないのかよ。」
馬鹿にされているのなら。そんな仕打ちを受けたのなら。いっそマトモに仕事をしてやれば見返すこともできるだろうと。同胞の間の才能に、差はないはずなのだから。
そんな説得が悪魔の脳内に浮かんで、しかし言葉にはならなかった。それは、別に大それた意味はなく、タダ説得をすることに慣れていなかったのと、こんな風に親身に説得するのは、一度答えを聞いてからでも構わないと、そう思ってしまったから。
「見返す、って。今更?」
苦笑しながら、天使は諦めたような声音を響かせる。
今更。そうかもしれない。確かに、ここまでの長い期間これだけの不信を、嫌悪をその身に詰め込まれてきたのだ。白い肌を焼かれるほど。
「俺たちに時間なんて概念はない。今更も何も無いだろ?」
しかし、此処までの期間が長かったとしても、これから先、それ以上の時間を得る可能性だってある。むしろ、可能性どころか、これまでよりも自分たちは長く生きるだろう。老衰することも、往々にして傷付き、死ぬことも無いのだから。
暫しの沈黙が流れる。言葉を咀嚼しているのか、無限の時間の中にあるたった数刻を長引かせたいのか。互いに言葉を待つ時間は、天使の冷たい声で破られた。
「……何で、止めるの?」
それは今まで問うことはなかった、とてもシンプルな疑問だった。
天使は何度も、これまで「なんで」と悪魔に問うてきた。その全ては、何故自分が悪魔になりたいという言葉を拒むのか、何故その言葉を放ったぐらいで怒るのか。そんな、瞬間的な疑問だった。
だからこそ、ずっと燻り続けていた疑問は、突然のものとして悪魔の耳に響いた。問われた悪魔が、え、と小さく声を漏らすほどに。
「放っといてくれたら良いじゃない。」
切なげな響きを伴った言葉は、天使にしては弱々しいものだった。怒られた子供が、涙ぐみながらやけっぱちになって言葉を発するときのように。
「だって、アタシは天使で、あなたは悪魔でしょ?」
自分達は本来交わるはずのない存在だった。だからこそ、自分の決定に、自分の意思に、何故介入してくるのかという、突き放すような言葉。それを天使は、如何にも寂しげな顔で呟く。
そのギャップに、悪魔は目を丸くした。次いで、顔を歪めた。あらゆる感情を綯い交ぜにし、処理しきれなかった時のように。じくり、と頭が痛むような心地さえ、悪魔は感じた。痛みなど、こうして悪魔として生きてきてから、とんと味わわなくなったというのに。絞りだすように、なんなんだよ、と意味のない言葉を悪魔は漏らす。気味が悪いほどに、気持ちが悪くなるほどに、胸の中がぐるぐると渦巻くような心地を悪魔は感じていた。
それとは対照的に、天使の心は穏やかだった。穏やか過ぎた。無風で、波も経たない。何の音もしない。この歪のように。だが時間は共有している。長い長い沈黙が、互いに続いていた。
「……なんで、止めるのよ。」
改めて、確かめるように天使は悪魔に向かって声をかけた。
「……だって。」
悪魔は、選ぶように言葉を吐き出し始めた。
「俺は悪魔で。……お前は、天使だろう。」
紡ぎ出された言葉は、数秒前に天使が呟いたその言葉だった。その言葉にはまた、切ない響きが伴っていたし、その言葉に、今度は天使が目を丸くした。
「だから、俺たちは、互いの世界に足を踏み入れてはいけないんだ。」
だから、この歪が、人目を忍ぶように存在するのだろう。
掠れた悪魔の声が、それを音として天使の耳へと届かせた。そうね、と肯定する言葉が歪に響き渡る。
「でも……そんなの、誰が決めたのよ。」
いつかの時に、恋のキューピットへの言及をした時と、言葉の調子は変わらない。しかし、纏う雰囲気だけが、普段と比べて異常と呼べるほどに違った。
「誰がなんか知るか。……これが、理だ。」
理。どう頑張ったって抗えない、規則や法律なんかよりも強固な枷。
地球が地軸を中心に回っているように。重力というものが存在するように。人間がのパーツが決まっているように。天使や悪魔である彼等が確かに生きていて、それが相容れないものであるように。
「そんなものに、どうして従わなくちゃいけないの。」
天使の言い分はただの我儘だ。どうして、なんて理由を述べることすら馬鹿らしい。「そうであるしかない」のだから、「そうするしかない」。そんな曖昧な答えが、最も正解に近いものなのだ。
そんな、どうしようもないことへの疑問は、一度口火を切れば止まらない。
「従う理由が、何処にあるのよ。どうして決めたのよ。」
悪魔は答えない。答えられない。なぜなら、それは疑問にもなるわけがないものなのだから。
何故生命というものは生きているのか。それへの答えを、明確に出せるものなどきっといない。それでも、その疑問を口にしたのは、きっと天使が初めてではない。
そうでなければ、哲学など生まれるはずもない。
「なーんで、天使になっちゃったのかしらね、アタシ。」
自分の生存否定ではない。ただの疑問。誰も答えられるはずがない。だが悪魔は口を開いた。
「……知らねえよ。」
悪魔は沈黙に耐えかねただけだ。しかし、返事があれば、会話になる。それが答えにしろそうでないにしろ、疑問への返答は、確かにここに二人いることの証明だ。
それを理解しているからこそ、天使の言葉は滑り落ちた。
「なんで、あなたが悪魔なのかしらね。」
は、と息を漏らすように悪魔は顔をあげた。
天使の吐く言葉たちはまるで、自分たちが逆であれば幸福だったであろうと言わんばかり。それに納得しかけた悪魔は、自分の言葉に蓋をするように、慌てた声音を響かせる。
「何、言ってるんだか。」
乾いた笑いでも零そうとして、喉に何かが張り付いたように声は出なかった。
「あなたは、悪魔でいることが嫌、とか……思ったこと無いの?」
「前話しただろ。」
「あれは、仕事が嫌か、そうじゃないかの話でしょ?」
追い打ちをかけるように天使は悪魔に詰め寄りながら言葉を続ける。
「悪魔そのものに嫌気がさしたことが無いのか、って聞いてるのよ。」
その問いかけは、ずっと悪魔が目を逸らし続けてきたものだった。
天使への羨望は無い。それは確かだ。目の前の天使と同じように、別のものへと堕ちる欲があるわけではない。しかし、悪魔であることに喜びがある、とも言い難かった。悪魔らしく仕事を熟すことはできる。この悪魔はその仕事ぶりを優秀だと表せる程に。
もしも、悪魔であることに嫌気がさしたことが無いのであれば、そもそもこんな場所には居ないのだ。彼の本来の居場所である地獄から抜け出して。本人すら気付かぬ「何か」から逃げ出したくて、悪魔はこの歪にいる。
もしも、悪魔であることに何の疑問も持っていないのなら、「殺すなんていいことではない」なんて思考が、浮かび上がろうはずも無いのだ。此処で天使と会話なんてせずに、頭の中を埋め尽くす欲望に耳を傾け、もっと積極的に仕事をしに行っている事だろう。
だが、悪魔はそれを言葉にすることはないと思っていた。それは目の前の天使の為であり、自分の為でもあった。何よりも大きな我儘であった。
そんな悪魔だったのだから、出せる答えは一つだった。
「……無い。」
嘘だった。自分でもわかっている嘘を、しかしいつも感情の読めぬくらい声をしていたのが功を奏したのか、天使は気が付くことはなかった。
「そんなに優しい癖に?」
だが、嘘だと気が付かなくても決めつけることはできる。
天使が紡いだ次の言葉は、悪魔のその言葉を嘘だと言いたいような言葉だった。
「無いっつってんだろ。」
悪魔の表情が優しく歪んだ。まじまじとそれを眺めていた天使は、そこでようやく彼の言葉に嘘があることに気が付いた。
微苦笑を浮かべながら、天使は、うそ、と小さく言葉を呟いた。
「じゃあなんで、そんな苦虫を嚙み潰した、みたいな顔してるの?」
優しい声音は、嘲笑うようだった。そう聴こえただけかもしれない。だが、その言葉を確かに嘲りだと受け取った悪魔は、恥じるように表情を腕の中に隠した。
その動作が、嘘であることに拍車をかけていることにも気が付かずに。
「あなたって……わかりやすいのね。」
くす、と笑った天使は顔を覆い隠した腕を掴んだ。引きはがすように動かしたわけでもなく、だが悪魔の胡乱な瞳は腕から解放される。闇のように淀んだそれが、宝石のような青に吸い込まれた。
「ねぇ、堕ちちゃわない?」
そんな悪魔のささやきが、美しい天使の口から零れ落ちた。
「断る。」
「即答ね。」
未だ、理性の糸は繋がっていたらしい。片隅に残った冷静が、天使の腕を払いのけさせる。それだけは出来ないと、警鐘が脳裏で鳴り響いていた。
「どうして?」
子供っぽい問いかけをしてくる天使をきっと睨む。
「禁忌だ。」
だからお前も止めてるんだ、と口から零れそうになって、だが言葉にはならなかった。今日はこんなことばかりだと、悪魔は胸中で独り言ちる。それを言ったところで、結局自分など他人なのだから関係ないだろう、と切り返されたら沈黙するしかないことがわかっていた。
それに、此処で頷いたら、天使も自分と共に堕としてしまうことになる。道連れにするように、この美しい存在を。ただのエゴだと理解しているが、それは嫌だった。
それを見透かしているのかいないのか、天使は未だ悪戯っぽく笑っている。
「本当にそれだけ?違うでしょ。」
決めつけの言葉。だがそれは事実だった。
しかし、天使の為だ、と話すことはできなかった。
「……仲間を、裏切ることになる。」
ぴたり、と天使の動きと表情が止まる。
敢えて、この言葉を、理由を選んだ。そうすれば、天使には理解されないものとして居座れるから。この言葉に、彼女は嘘だとも真実とも言及できないと。この天使のことを悪魔はよく理解していた。
「そういうところなのに。……あなたが悪魔らしくないの。」
また天使は、呆れたように苦笑する。間髪入れずに、うるさい、と言葉を返せば、これまた間髪入れずに、うるさくない、静かよ、と、いつもの調子の会話が一瞬挟まる。どこかズレたような、まるでコントか何かでもしているような会話。
深々とした溜め息が、悪魔の唇から流れ落ちた。
「仲間って……そんなに、大事なの?」
そんなわけないだろう、と断じるような疑問を、天使は口にする。
「俺にとっては大事なんだよ。」
「アタシにとっては大事じゃない。」
相手の返事を待って、自分の言説を強めるような物言い。
喧嘩や言い合いではないというのに、別の意見をぶつけ合えば、自然と互いの交わった視線に火花が散ったような錯覚に陥る。
いつの間にか笑顔を取り戻していた天使は、わかるでしょ、と笑みを深めながら言い放った。
「……だから、堕ちることに心残りは無い、って?」
「ふふん、そうよ。」
何故だか、天使は自慢げに笑う。
その表情を見届け、深い溜息の後に、小さく幼稚な罵倒の言葉を投げかける。だがその言葉は、いつか言い合った時のように返事が返ってこなかったどころか、天使の耳に届きすらしなかった。
天使は既に別のことに思考を巡らせているらしかった。そして、その思考はゴールに行き着いたのか、天使は改めて悪魔へと声をかける。
「あなたって、アタシでも呼び出せるの?」
突然の問い。だが、悪魔は、その問いかけの意味が、わからないわけではなかった。
何度も話に上がる、「悪魔になる」……否、悪魔に近しいものに成る、という話。それが出来るのは、悪魔であった。人間と同じように、呼びかけに答えることで、悪魔という存在は、天使という存在を、自らと近しいモノへと堕とすことが出来る。これは、逆も然り。望み、悪魔や天使に叶えて貰う。相容れない筈の、相反する存在に願う。だからこそ、堕ちると皆口を揃え言うのだ。
「……さあな。」
悪魔は答えをはぐらかした。出来る、と言ってしまえばこの天使はすぐにでもそれを行使してしまうような気がして。この天使の知識はどうやら断片的らしかった。それに気が付いた悪魔は、隠すことを選んだのだ。
「出来ない、とは言わないのね?」
天使は、そんな言葉を救い取って、都合がいいように解釈する。もう一度、さあなと悪魔はぶっきらぼうに告げた。
そんな答えに、しかし満足したように、彼女は柏手を打ちそう、と笑みを浮かべる。その笑顔に、悪魔が訝し気な視線を向ける。
「嘘でも出来ないって言えばいいのに。」
天使の笑顔は、悪魔が少しでも余地を与えてくれた優しさへの喜びだった。それが痛いほどにわかって、向けていた視線を悪魔はそっと逸らす。限りなく自然な動きを意識して。
その動作に、余計におかしくなったのか、くすくすと笑みを浮かべていただけの彼女は、終に声をあげて笑い始める。
「あなた、ほんとに悪魔?」
「お前本当に天使かよ。」
売り言葉に買い言葉。同じような言葉を返す。結局、似た者同士なのかもしれない。お互いに、お互いの性質に近づいている。ならば、二人が似通うのはこれもまた当然の理だったのかもしれない。
楽し気な調子になった天使は、悪魔の顔を覗き込むように腰を屈め、その瞳を直視しようとする。
「ね。教えて?呼び出し方。」
「知らずにあんなこと言ったのかよ。」
悪魔の瞳も、いつものように怜悧な鋭いものに戻る。
深々と溜め息を吐きながら、呆れたような、半ば諦めたような視線を悪魔は天使に向けた。
「お、何?教えてくれるの?」
「ンなわけ。」
ないだろ、と言外に告げる。悪魔の諦めた様子だけ見、また彼女は自分に都合よく解釈したのだろう。
「自分で調べろ。」
「めんどくさいじゃない!」
「なら呼び出したいとか言うな。」
欲求と、それに見合わぬ彼女の言動は、どうしようもなく天使らしからぬものだが、彼女らしくはある。
溜め息と苦笑を交えて冷たく言い放てば、ぶー、冷たい、と駄々をこねるように悪魔の肩を掴み少しだけ揺らす。
その後、直ぐに手を止め、何かを考えるように声を漏らす。
「……調べようとしてるか、お前。」
ぱちり、と咎めるような悪魔の視線とかち合い、ひゅー、と出来ていない口笛を吹く。それはただ、そのまま言葉としてのせているような。誤魔化すことなど鐚一文出来ていないくせに、そうしたいことがありありとわかる動作だった。
呆れを乗せて、はあ、と、溜め息というよりかは、それを呆れていると理解させるように言葉として天使に投げかける。
「ねえ、そんなに嫌なの?」
軽やかに天使は尋ねる。
その言葉に、悪魔は返事を返さなかった。
「嫌だ」と、言ってしまえばいいのにと。脳内は囁いて来ているのに。
「……ま。いいわ。」
その言葉は、何か決意めいていたような、それでいて寂しそうな声音だった。