Ep.1--日常
非情――人間らしい(思いやりの)感情を持たないこと。つめたいこと。また、心を持たないもの。木石の類。
有情――愛憎のこころのあること。木石などの非情のものに対し、一切の人や動物。
オカルトや数々の神話、虚構、そういった類の、人間が「嘘偽り」もしくは「確定性のないもの」として世の中へと流布する情報は、今、人間が生活している世の中には、それこそ観測しきれないほどの量がある。
天使と悪魔、というものは、その中の一つと言っても差し支えない。創作物ではよく登場するその存在は、しかし実在するとは思われていない。
しかしそれは、確かに存在するのだ。人間に見える場所に存在が確認できない、というだけで。
人間界に人間は住む。それと同じように、天使や悪魔もある世界には住んでいるのだ。彼らはその世界を、それぞれ天界、地獄と呼んでいる。天使が住むのは天界。悪魔が住むのは地獄。
その世界の形態の全ては、人間界とは全く異なるものだ。天界には、人間界に住む生き物の内、生前善い行いをした者が送られ、地獄には、生前悪い行いをしたものが送り込まれる。前者は幸福たる死後を過ごすため、後者は死後も尚罰を受けるために。
天使と悪魔は、それぞれの世界で仕事をしている。
両者の仕事は大まかに分けて二つ。
天使の仕事の一つは、生前善い行いをした死者を、天界へと案内すること。もう一つは、人間が天使へと祈りをささげた場合、創世神と呼ばれる神の気まぐれで適当なそれらの人間の元へと送り込まれ、それを叶え、また必ず一つ、その人間が望む加護をかけること。
悪魔の仕事の一つは、生前悪い行いをした死者を、地獄の閻魔の元へと連れて行くこと。もう一つは、人間から流れ込んでくる大量の雑然とした思念、願望、欲望を聞き分け、そのうちで一番強い願いを聞き入れ叶えること。
それらは仕事であり、義務である。不可能などは無いのだから、天使も悪魔も同等に、どちらも放棄することは出来ない。それに加え、仕事を熟してゆけば、階級が上がってゆく。新人且つ仕事を熟した回数の少ない天使や悪魔は下位天使や下位悪魔と呼ばれている。仕事を幾らかこなし、その功績が良いものであれば、中位、上位とその階級が上がってゆく。また、階級が上がって行けば、やれることも増えていく。自分で祈りを選別したりだとか、その他にも、様々な事。
そんな天使と悪魔は、彼らの特質上、天使は慈愛ある心優しきものであり、悪魔は残酷で人間の欲に引き付けられる冷淡なものであるとされている。彼らは相容れず、天使は地獄には居ることが出来ず、悪魔は天界にはいられない。
だが、天使と悪魔が両者とも存在できる空間がある。この場所は、天界と地獄の狭間にある、両者がどちらも存在できる「歪」のような場所だ。
今日、その歪に、天使と悪魔が一人ずつ居た。その二人は、世の中にある天使と悪魔のそれぞれのイメージとは、少し異なるものだった。
「あぁ、仕事したくな~い!」
美しい純白の羽と、金色に輝く長い髪を揺らし、美しい声をもって、サファイアの宝石のような瞳を持つ、美しい彼女――天使は叫んだ。
ぐぐ、と伸びをし、鬱憤をすべて吐き出すような声は、歪の奥へと消えていく。天井も壁も無いこの空間では、声はただ響き渡り反響することもない。
しかし、声はしっかりと近くで反響する。それは、向かいで彼女の叫びを聞いている存在が居たからだった。
「……お前さ。それ言うの、何回目だよ。」
対照的に、黒い羽を携えた、手入れのされていない髪型、綺麗とは言い難い身なりの男――悪魔はため息交じりにそうぽつりと呟いた。胡乱気な瞳は、会話に対する辟易が簡単に見て取れる。しかし、目前の天使はそのことに気が付いていないのか、平気な顔で会話を続けようとするのだ。
「両手の指で数えきれなくなった時点で、数えるのを辞めたわ?ごめんなさいね。」
なんの悪びれも無く、しかし口先だけで謝る彼女の表情はひどく穏やかで明るい。この会話が楽しくて仕方がない、と言いたげな表情だ。隣で鬱陶しげな顔をしている悪魔と並ぶと、異様な光景と言っても差し支えない。
「23回目、な。お前マジで殺すぞ。」
「あら物騒。」
荒い口調と鋭い眼光で、悪魔は天使を睨みつける。それをものともしないように、天使はまたさらに笑みを深めた。
しかし、その笑顔をす、と収め、彼女は少し挑戦的な瞳を悪魔へと向ける。その表情に、まだ何も告げていないのに悪魔は深々と溜め息を吐いた。
「でも別に構わないわよ?殺してくれても、そうしたらアタシ――」
「却下だ。」
「こほん。アタシ、転生、できるもの。」
強い口調をもろともせずに、彼女は一つ咳払いをして言葉を続ける。
転生。それは、天使や悪魔に与えられた権限、権利でもある。それを行使するのは簡単で、彼らが命を落とせばそれだけでよい。だが、それを望む天使や悪魔は殆どいない。だって、人間などという弱く、生きるためには不都合しか被りえない存在に転生するよりも、天使や悪魔でいられるこの生活の方が気楽だと皆知っているからだ。
それでも彼女はそれを望む。理解できない、と小さく呟いた悪魔は、既に何度目かの溜め息の後、頬杖を突いて大きな黒い羽を揺らす。
「何度目だ。学べ。……お前の望みに、俺が是と答えたことがあったか?」
「23回目なんでしょ?」
少しずれた返答に、悪魔は深々と溜め息を吐く。幸せが逃げるわよ、と、いかにも幸福そうな笑みを浮かべた彼女に、冷たい視線を悪魔は投げかける。
「うるせえな。」
悪魔の瞳には、常に鬱陶し気な視線がある。それと同時に、消し去ることのできない疑念が。
天使も悪魔も、共に、この生を辞めようと自らする者はいない。だというのに、この可憐な存在は、何度も何度もその生を投げ捨てたいと叫ぶ。それがどうしても、悪魔にとっては不思議なのだ。喉が渇いたわね、と呟きながら、何処とも知れぬ虚空からティーカップを二つ取り出した彼女は、あなたも飲んで頂戴、良いわよね。と傲慢にもとれる物言いで告げる。
目の前に置かれるカップには目もくれず、立ち上がった天使の動向を悪魔は眺める。見下ろす彼女の瞳は、確かに美しいと言える物であり、天使のその造形と重ねてみれば似合うもののはずなのに、彼女の言動が、彼女の天使らしさというものを失くしている。
「……どうして、そんなに自身の仕事に嫌忌を示す?」
会話というには奇妙な間を開け、会話というには相応しくない返事をもって、悪魔はようやく口を開く。
「何度も話してるでしょ?特に、あなたには。」
それを気にも留めずに、肩を竦めて堂々と彼女は言い放ってみせた。まだ聞きたいの?と笑う彼女に、悪魔は舌を打つ。睨みつける瞳の冷淡さは消えない。それどころか更に冷ややかになる。それを知ってか知らずか、天使の笑みは少しだけ怒りや恨みを孕んだものになる。
「だって嫌でしょう?相手は知りもしない、関係も何もない人間。なのに、なんでただ祈られた、ってだけで、アタシが助言だの、加護だのをあげなくちゃいけないの?」
「それが天使の仕事だからだ。」
「天使なんていない、ってそれでいいじゃないの。それに、祈るなら神さまに祈りなさいっての。」
天使の表情はころころと変わる。感情も。だというのに、そこから溢れる言葉の数々の温度は変わらない。全て異様に冷たいのだ。
「誰~?恋のキューピット、なんて言葉作った人間。殺してやるんだから。」
先程物騒だと咎めた筈の言葉遣い、口調をなぞらえて、天使は怒りの表情を露わにする。怒りのまま、投げつけたティーカップからは何も零れず、ただカップが床にぶつかり割れる音だけが響いた。
壊れた陶器の破片は塵の様になって消える。
割れたカップに堕とされた視線を悪魔はゆったりと持ち上げ再度天使を見上げる。
「もう死んでるだろ。」
言い放たれた言葉に、天使はキッと睨み返す。知っているわよ、と叫び、彼女は乱雑に腰を下ろした。
がしがし、と頭を掻く、らしからぬ動作に悪魔は溜め息を吐く。けれど、悪魔はこの会話を辞めようとはしない。彼女は確かに天使らしくないが、彼も大概、悪魔らしくは無いのだ。
「……あなたは、違うの?」
ふ、と天使は悪魔の瞳を見やり呟く。碧く美しい瞳と、暗く濁った瞳は、普段であれば交錯しない。それでもこの二人は、どれだけ少なくとも23回以上は、こうして視線を、存在を交わらせているのだ。
彼女の問いに、悪魔は不思議そうに顔を一瞬傾ける。しかし、すぐにその真意を理解したのか、そろそろ両手の指では数えきれなくなるのではないだろうか、という回数目の溜め息を吐き出した。
自分とお前は違うのかという問いかけ。この場合で彼女が訴えたいのは、自分と同じような考えになったことが無いのか、ということだろう。そんな推察は、この天使の考えをよく知る悪魔にとっては容易だった。
「は?……何が。」
それでも、彼はそれにはすぐに答えない。答えないどころか、その質問の意すら汲めていないような素振りを見せる。
「だって、あなたからは聞いたことがないもの。仕事が嫌い、だとか、そういうアレ。思ったりしないの?」
純粋な疑問を携える瞳だった。
自分と相手は異なるのかという問いは、きっと自分と同じ存在を見つけたいからこそするものなのだ。目前の天使が、そこまで考えているかなどはわからない。けれど、少なくとも彼女の周りに、彼女と同じ考えを持つ同類が居るハズが無いだろう。もしいるのであれば、彼女は此処に居ない。それを、悪魔は知ってすらいた。
今現状、というもの全てが、彼女の心を、彼女の境遇を表しているのだ。
だからこそ、悪魔は悩む。ここで頷けば、彼女にとっての有象無象と同じだと。けれど、それと同時に、その有象無象となって何の問題がある、と心がざわめく。
そうして生み出された数秒の沈黙を、しかし悪魔は破ることを決意した。
「……あぁ、仕事、な。……俺達みたいなのにしか縋れねえ奴しか居ねえんだから、見捨てよう、とは思えないな。」
「ふうん。」
興味がなさそうな、いや、正しく興味が無いのであろう生返事。
自分とこの悪魔は違うものだ、と理解するためだけに問いかけた質問なのだから、その内容には興味など無かったのだろう。だが、例え興味がないとしても、と、天使の冷たい瞳から少し逸らし、ふ、と口先だけの笑みを交えて悪魔は言葉を続ける。
「ま、タダじゃ働かねえけど。」
"タダでは働かない"。この言葉に、偽りはない。
悪魔の仕事は、願いを聞き、そのもとへ行くこと。それだけであれば、ただの慈善事業であり、天使とやっていることは何ら変わりない。むしろ、神からの令が下るまで待たねばならぬ天使と比べると、むしろ良き存在の様にすら思える。
しかし、それでも悪魔は畏怖されるべき存在だった。
その理由が、代償と呼ばれるものだ。悪魔にとっては報酬であるが。
悪魔は人間の願いを聞き届ける。人間の願いを叶える。その代わりに、その人間の最も大切にしているものか、もしくはその人間が無意識的にでも依存しているものか……即ち、その人間にとって必要であったものを奪い、悪魔として生きる糧、業績、又は食糧――そういった、自分に必要な物へと昇華させるのだ。
だから、悪魔はタダでは働かない。差し出せるものが何もない人間には、手を差し伸べないのだ。
であれば、差し出せるものが何もない人間に、手を差し伸べるのは。……目前の天使を見やる。きっと、この天使はそんなことを考えたことなど無いのだろう。悪魔の告げた言葉に、そのまま怒りだか呆れだか、はたまた羨望だかの視線を投げ、ぴっ、と立ち上がり指をさす。
「それ!あなたたちは、仕事をすれば報酬がもらえるじゃない!」
少し会話としてつながりのない言葉は、しかしその意図は明確に取れる。
人間の言葉には、モチベーション、というものがある。自分にはそれが無いが、それは悪魔とのその性質の差だと言いたいのだ。
「……お前だって貰ってんだろ?神の野郎にさ。」
だが、こう語るが、天使にも何の報酬が無いわけではない。むしろ、天使の方が好待遇といえるかもしれない。
天使がその仕事を完遂すれば、創世神が直々に報酬をその天使へと渡す。その報酬は、天使が望むものだ。それは、階級であったり、天界で暮らすにあたる衣食住の全て。神が理解する、その時天使が望むものを、神は天使に報酬として渡すのだ。
「うぅ、そうだけど!でも、なんか違うのよ!上から貰うと!」
「上、とか言うなよ。俺に頼ってくるリーマンじゃあるまいし。」
それでも、彼女はそれを不服とする。
何故なら、彼女が最も望むものを、神は与えない。彼女が望むものは、この天使である生からの脱却だった。もしくは、仕事をせずに暮らしていける生活か。
別に悪魔になったとて、願いを叶えた報酬でそれが叶うわけではない。しかし、彼女が天使ではなく悪魔であれば、それだけで彼女は救われる。
彼女にとっての全ての報酬は、彼女を満足させることが無い。
「はぁ~、悪魔になりたい~。」
天使は平気でそれを口にする。その言葉を聞いた悪魔は、そっと彼女に見えぬようにこぶしを握り締めた。怒りと呆れを込めた声で、しかしそれを大きく発現させぬように、冷静を装って彼は口を開く。
「……やめておけ。」
「え~?なんでよ。」
悪魔の様子に、天使は気が付かない。濁った瞳は、感情を映さないからだろうか。天使は、再びの純粋な疑問を携えた瞳を向ける。何も知らない、無垢な瞳だ。羽の潔白さと同じように。
「なんで、ってお前な。……大概、悪魔に頼る奴もそれこそ、んなこと知るかよっていう奴ばかりだ。」
ここまで、自分が叶えて来た望みを思い返し、深く、長い溜息を吐き出す。
「恨みを持って、誰々を殺せって言う奴。もう生きたくないから殺してくれって言う奴。……殺し方の指定付きで、だ。こっちの仕事だって面倒極まりない。……それに。」
続けかけた言葉は、悪魔自身でも驚愕するほどに小さいものだった。その上、その言葉は続かなかった。言い淀んだとか、踏みとどまった、とか、恐らくそう言った理由で、続きの言葉は悪魔の口から出てこなかった。
それに、の後に続けようとした言葉は、殺すなんていいものじゃない、という言葉だった。しかしそれは、自分がその仕事に辟易していると言い表すものである。そう、悪魔は考えたのだ。別に、辟易していると告げたところで何ら問題はない。むしろ、この天使がそれに気が付くかどうかも怪しい。だけど、彼はそれをこの天使に告げることを、拒んだのだ。
天使は、続けようとした小さな声には気が付かなかった。それに被せるように、彼女の声は悪魔の頭に振ってくる。
「でも殺していいんでしょ?」
その声は、今までのどの言葉よりも冷ややかなものだった。
「……は?」
珍しく、悪魔の口から頓狂な声が零れる。濁った瞳を丸くし、冷ややかな、氷のような輝きになった天使の瞳を悪魔は見上げた。
殺していいのだろう、という問いかけ、確認は、天使から出てくる言葉としては異質極まりないものだった。その質問の意図は読める。がしかし、それでも聞き返すしかできなかった。
「天使に祈る奴にもいるわよ。「私をそちらへ連れて行ってくださいませんか」、なんていうバカ。」
呆れの籠った口調、声音で、淡々と彼女は告げる。美しい声は、やはり温度が無い。
先程までころころと変わっていた感情も表情も何もかも、嘘偽りだったのかと思えるほど。
「でも、天使は絶対に殺してはいけない。何があってもアタシたちは「そのようなことを言ってはなりません」とか言わなきゃいけないのよ?」
まるで咎めるように、悪魔にそっと詰め寄る。
天使は人を殺してはいけない。それは、天使に決められた取り決めだった。天使に祈る人間の中にも、自分の命を絶ちたいと願う人間は多くいる。何も差し出せるものが無いから、祈るしかない、そんな人間は、少なくない。
しかし、その願い自体を、天使は叶えることが出来ない。別の方法をもって、その人間を生かし続けることを天使は望まれている。恐らくそのワケは、どんな理由があれ人を殺すことは罪だからだ。神の使いである天使が、罪を犯すことは許されない。だから天使は、人を殺せない。
悪魔も、そのことは知っている。だからこそ、この会話を続けたくなかった。
「やめよう。この話は。」
「何よ。」
これは、自分にとっても、この天使にとっても良くない会話だ。
「……お前。」
自分が何を言っているのか理解しているのか、と咎めようとした。
しかし、その言葉は続かなかった。
「あぁ、もうまた仕事よ!」
この歪に来て、直ぐに聞いた嘆きと同じ声のトーンで、彼女はまた叫ぶ。嫌になっちゃう、と心からの嫌忌を露わにして、子供の様に駄々を捏ねる。
しかし、それとは対照的に、悪魔の表情は少しだけ穏やかだった。彼女との会話を辞めたいわけではない。ただ、今この場所で続けることは望ましくないことだとも思っていた。だからこそ、少しだけ安心したのだ。
「……そうか。行ってらっしゃい。」
これは、この二人にとっていつも通りの別れの言葉だった。天使と悪魔らしからぬ、人間が相手を送り出す言葉。それでも、この二人はこの言葉を持って別れるのだ。別に、何方からが決めた、とかではない。ただ、いつもこの歪に何方も帰ってくるのだから、送り出す言葉をもって別れることが相応しいのではないか、と思えたのだ。
その温かい言葉を受け取り、天使は不満げな顔を悪魔へと向けた。
「嫌だ、って言ってるんだから、引き留めてくれたって良いのに。」
肩を竦め、それでも天使は伸びをする。嫌でも、仕事は仕事なのだ。放棄することは出来ないことを、悪魔は知っている。さっさと行け、と言葉に出しながら、その羽に、一口も口をつけなかったカップに入った紅茶を投げつける。
だがその中身が溢れ、羽が汚れることは無かった。ぶつかる直前で、全てが塵となって消えていく。これはそういうもので、此処はそういう場所なのだ。
カップとまるで全く同じ物のように、天使の身体も塵となって消える。それは消滅でもなんでもなく、ただの移動であるとお互いに知っている。もう一度、当然のように出会えると。
一人になった悪魔は、そっと、果ての無い天井を見上げた。この歪は広い。だからこそ、たった一人でいれば、その口から洩れる言葉は虚空へと溶け消える。だがそれが良いのだと言わんばかりに、悪魔は口を開いた。
「……天使が悪魔になる、なんて。……そんな馬鹿な話あるかよ。」
ため息交じりに、悪魔は呟く。天使と悪魔。交わるはずのないその存在が、況してや同一のものになり得るなんてありえない。それでも、彼の胸の中にたまった、澱のような不安は消え去ることは無かった。
「そんな禁忌、あってたまるか。」
人の世にも、定められた法律があるように。彼らの世にも、定められた掟や、暗黙の了解、禁じられた魔術、なんてものは当然のように存在する。
天使が悪魔になることは不可能で、間違いない。それは、この世に定められた掟だった。けれど、暗黙の了解を打ち破って、近い存在になることが出来ることもまた、事実だった。
全ての悪魔や天使が、このことを知っているわけではない。だが、この悪魔は偶然にも知っていた。それが可能であることを。同時に、その手法を知る者は皆口を揃えて言うことも知っていた。悪魔も天使も同様に堕ちるのであり、それは禁忌だ、と。
「……お前は危険だ。」
彼の呼ぶ存在は、もうここには居ない。だからこそ、こんなことを言う必要はない。どうしたって無意味で、無駄な時間だった。
それでも、そう言わなければ、自分の中に生まれた考えすら薄れてしまう気がしたのだ。あの天使は危険だと。
「でも、お前をどうにかするのは、俺じゃない。俺の役割じゃない。」
俺にはできない。その言葉だけが、呼吸に乗せて、掠れた。
思想を変えるのは難しい。それは、人間と関わってきたからこそよくわかる。天使も悪魔も、人間と大差ない。存在が交わらないというだけで。
天使を見ていることしかできないのがどうにも歯痒い、と、悪魔は拳を握り締めた。
「……でも、もうお前は。」
悪魔の淀んだ瞳が、光を拒んで揺れた。
彼の身体が、淀んで黒ずみ始める。悪魔を呼ぶ思念を、選び取ったらしい。
溜め息を吐き、悪魔の身体もまた、塵のように消えていった。
「あ~、疲れた!」
誰も居なくなった歪に、天使は一人戻ってくる。
体を伸ばし、欠伸を噛み殺し、それでもなお意味のない言葉を叫びながら、天使はあたりをぐるりと見渡し、不思議そうに首を傾げる。
「あれ、アイツ居ない。」
声が虚空に消え、何にも反響しなかったという違和感よりも先に、視界に悪魔が映らないことに、天使は疑問を浮かべた。
「アイツも仕事か。」
誰に聞かせるでもない言葉を虚空に投げ、どっかりと歪に放置された椅子に座る。その動作は、美しい天使とは似ても似つかぬものだったが、彼女がそれを気にするわけがなかった。
たった一人で、彼女はくすんだ空を見上げる。その表情には、微笑みが浮かんでいた。何もない場所で、何も起きていないというのに、それでも彼女は笑っていた。それは、此処が彼女にとって何よりも居心地のいい場所であり、必ず来てくれる誰かが居るという確信があるからだった。
安心、安寧。
天使という存在にとって、それが得られるべき、得られるはずの場所ではないところで、彼女は誰よりも朗らかな笑みを湛えているのだ。
そっと、音も立てずに歪が歪む。淀んだ暗闇から、悪魔が現れた。それを見逃さず視界にとらえた彼女は、見えた姿に叫び声を刺した。
「遅い!」
天使の声に驚くわけでもなく、悪魔は緩慢とした動きでそっと天使の方へ振り返った。だがその表情には、いつもの冷たくも穏やかなモノではなく、冷ややかで苛立ったモノが浮かんでいた。
いつもの溜め息ではなく、冷ややかに舌を打ち、悪魔は天使に視線を向ける。
「俺も呼ばれたんだ。仕方が無いだろうが。」
だが、そんな変化に彼女は気が付かない。むしろ自分の方が怒っている、という素振りを見せつけるように、彼の目の前に仁王立ちになる。
「それにしても遅いわよ!悪魔の力は時間かからないでしょう?」
天使の知る悪魔の力の知識。悪魔は、呼ばれたその時にはすでに代償は決まっている。悪魔が行う願いを叶える方法も、シンプル故に直ぐに出来るものなのだ。
それを知っているからこそ、彼女は遅いと怒る。いつも、彼女の方が先に居なくなっていたとしても、悪魔の方が先にここに戻ってきているのだ。
「色々あったんだよ。」
「色々って何よ。」
鬱陶しげな言い訳と、それを追求する彼女の言葉。
溜め息を吐き、頭を掻いた彼はいつも以上にぶっきらぼうに言葉を投げる。
「別にお前に教える義理もねえだろうが、聞くなって言ってんのがわかんねえのか?」
冷たく鋭い言葉と視線に、天使はようやく異変に気が付く。彼がいつもと何かがおかしいという事実に。けれど、それが何か、彼女には詳しくわからない。だからこそ、無垢な彼女は恐れを知らず尋ねるのだ。
「……何。なんで、そんなフキゲンなワケ?」
悪魔は、そっと天使の瞳を盗み見る。困惑と、珍しくも浮かんだ少しの恐怖が見て取れた。それに申し訳なさが心の中に浮かんだとしても、悪魔の心の内に溜まったどす黒い情念が掻き消えることは無い。
長く、細い溜息を吐く。
「別に。」
「別にじゃないでしょ。」
天使の言う通りだ。何もなかったわけじゃない。
けれど、彼にも譲れないものがある。これは、あの話をした直後の彼女に伝えるには、毒だ。
悪魔はそっと、脳裏に仕事をした時の風景を思い起こす。
人間界は、夜だった。
欠けた月が、空へと浮かんでいた。
「薄暗き欲を孕んだ人間よ。人に非ざる心にて、人道から外れようとせん愚者よ。此度のお前の行為は、痴鈍を極めた行為であると知るが良い――しかし此の悪魔はその呪いを招致とし、しかと聞き賜った。」
暗い、路地裏に悪魔は呼ばれた。
「……俺を呼んだのは、お前だな。」
「あ……悪魔、お前、まさか……悪魔?本物の、悪魔!」
目の前に立っていたのは、ボロボロの服を着た男。きっと、もう色々奪われてきたのだろう、なんてことは聴かずともわかることだった。いやむしろ、既に全てを聞いてきたからこそ、わかることだった、とも言えるかもしれない。
「俺、俺の願いを叶えてくれ!あいつを、あのクソ野郎を……!」
恨み。殺意。自分からすべてを奪った男の全てを奪ってやりたいという欲望。どす黒い感情が胸中に溜まるのを自覚する。自然と細めた目を、目の前の人間は「怜悧」と見る。
己を呼んだ人間。名前は村崎信雄。この現代においては稀代の画家である筈の男だ。しかしその絵を、技術を奪われ、あろうことかあらぬ噂を流され、インターネットは火の海と化している。その全てをしでかしたのは、村崎の後を継ぐはずだった弟子である。
一番の信頼を置いていたはずの存在にすべてを奪われ、心身ともに疲弊し、そうして胸中に渦巻いたどす黒い感情は、神ではなく悪魔への祈り――呪いへと、至ったのだろう。
「五月蠅い。」
縋りつくように咽ぶ男を一蹴する。それでも、村崎の口は塞がらなかった。言葉は奔流のように止まらない。とっくのとうに慣れたことだが、それでも喧しいものは喧しい。
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。
憎き敵を。愚かな弟子を。最低な化け物を。同じ人間であるくせに、別種と罵倒するような言葉を以て、誰かの死を望む。こうなれば、何を言っても届かない。そのことをも、悪魔は知っていた。
何度目かの溜め息。しかしいつもの呆れとは違う、重たく行き場のない感情を吐き出すためのそれを吐き、悪魔は村崎の姿を見る。
「代償は高くつくぞ。悪魔などと言う、俗物に縋ったのはお前だ。」
――あぁ、何故悪魔という存在は、人間界に知れ渡っているのだろう。あの時の天使の言葉が反芻する。恋のキューピッドなどと言う言葉を作ったのは誰なのだという嘆き。あの時あの瞬間は、その言葉の意図は理解しているつもりで、しかし理解していなかったのかもしれない。あぁこういう意味かと、鬱々とした心地で、また悪魔は溜め息を吐いた。
悪魔の言葉を、村崎は聞いていない。大抵はいつものことだ。こうして我を忘れ悪魔を呼ぶ人間は、大抵自分のことしか考えていない。その先の未来のことや、自分の周囲のことなど目もくれない。だからこそ、そういった心根の暗い人間は悪魔に縋る。だがもとよりそれで構わない。呼び出された悪魔は、その願いを聞き届け、代償を奪うまでは還れない。
悪魔の吐いた言葉は、質問ではなく確認だ。本来は不要なものである。しかし、それでもこの悪魔は、悪魔らしからぬ存在だったからこそ、言葉を告げる。例え無意味なものだとしても。人間には……この世に生きる存在には、何か大切な物事を決める時、覚悟が必要であることを知っているから。自身が、そうであったように。
「見届けるがいい。聞き届けるがいい。お前の弟子が、その命を落とす瞬間を。これがお前の臨んだ結果であると。」
暗い路地裏に、男が走ってくる。
「先生!」
明るい声は、彼の弟子のものだ。誘導して、呼び立てた。元より、この男は村崎を探し走り回っていた。故に、此処に呼びつけるのは容易だった。
「ようやく見つけ――」
焦ったような安堵したような、一言で言い表すのならば死に物狂いの表情は、首ごと地面へと転がった。言葉を言いきることも無く、伝えたいことを伝える暇もなく。
そのたった数秒を、村崎は目に焼き付けた。その表情からは、溢れんばかりの笑みが浮かんでいる。彼が言いかけた言葉など気にも留めずに。
人間の本性というものは、危機にあった時に現れるものだという。それは例えば、誰かに裏切られ全てを奪われ、何もかもを奪われた時。それは例えば、誰かの策略によって、己のせいで大切な誰かの人生が壊滅せんとしている時。
毛色は違うが、どちらも正しく危機である。
「――ハハ、ハハハ、ハハハハハハハハハハ!」
狂ったように笑う人間。その姿は、どんな悪魔よりも悪魔らしい。
結局同族なのだ。悪魔に縋るような存在は悪魔に近しい。自らと同じような心根の人間しか頼れない。
「あぁ、もう、もう十分だ……!ありがとう、悪魔!さあ、何でも持って行ってくれ……!お前に渡せるものは、もうこの命しかないがな……ハハ、ハハハハ……」
諸手を広げ、狂気に満ちた男は悪魔を見やる。その淀んだ瞳を、まるで神でも崇めるような畏敬の念をもって見つめている。
悪魔は溜め息を零す。彼の癖であるこの行動は、しかしそうすることでしか、自身の中にある、また薄暗い感情を追い出すことが出来ないのだ。結局同族であるのだから。
「……愚か者が。」
悪魔は手を振り上げる。そうして、路地裏に転がった物は、村崎の両腕だった。
「ハ?」
一瞬、何が起こったかわからない、といった様子で村崎は悪魔を見上げる。
その表情が、笑顔から、次第に憎しみに溢れたものへと変わっていった。そして、それは苦痛に歪む表情に変わる。何かを言おうとした口は、痛みへの絶叫へと変わった。その絶叫を聞きながら、悪魔は自分の腹が満たされていくのを感じる。自分の命が、より長くつ繋がれていくような生命力を。それは甘美だ。異様な程に。
仕事は終わりだ。
もうこれ以上此処に居る必要はない、そうして、彼は歪へと戻ろうと男に背を向ける。
「ふざけッ、ふざ、けるなァァア!!悪魔ッ、悪魔ァ!!」
しかし、腕も何もない癖に、男は体当たりするがごとく、未だに縋りついて来ようとする。放置したとて変わらない。
ただ今日は、確かにいつもとは違った。いつもならば、いよいよもって命以外に大切なものなの存在しない人間ばかりなのだ。……つまり。代償として命以外のものを奪ったのは、悪魔にとってもこれが初めてのことだったのだ。
この男には技術がある。奪われた、と思っていたのかもしれないが、それは奪われたでは無く受け継がれたと呼称されるべきものだった。この男の技術自体がなくなったわけではなく、故にこの男は稀代の画家であったのだろうに。だからこそ、村崎という男にとっては、その技術こそが最も大切なものだったのだ。
悪魔は、願いを叶える代償にその人間の最も大切なもの、依存先を――命か、それと同等のものをを奪う。今回もそれに、彼は倣っただけのことだった。例え初の試みだったとしても。
「ここまでするなら、殺せッ、殺せよ!」
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、――殺してくれ。
再び流れ込んでくるその言葉たちは、しかしもう聞き慣れたものだ。意にも介さず、悪魔は冷たい瞳で男を見やる。
「俺は言ったはずだ。代償は高くつく、と。知れ。人間。お前がした行動は、愚鈍を極めたそれであると。」
例え自分がそうされたとて、同じく誰かの想いを踏みにじるようなことをすれば、自分も結局同類だ。人間は、それをわかっていない。わかっていないからこそ、馬鹿な行動に出る。
天使が与えるものは、加護と教え。であれば、悪魔が与えるものは、罰と教訓だ。
「呪うなら、己を呪え。そうすれば、また来てやらんことも無い。」
だが……同類だと、人間は愚かだと、そう詰っても。結局、こんな人間は、こんな悪魔にしか頼れない。縋る先は、結局のところ一つしかない。そのことも、悪魔は知っている。
この言葉は救いではなく、次の地獄への切符でしかない。悪魔に課せられた仕事は、救いなどで無いのだから。
咽いでいた男は、次第に静かになった。気絶したのか、それとも悪魔の言葉を聴いたのか。真偽のほどは不明だが、それでも男は静かになった。
もう、この場にこれ以上の長居は無用だ。悪魔はそう断じ、その場からそっと消え去った。
思い起こした数分前を、しかし言葉にするワケでもなく。結局、いつも通りに溜め息に込めるしかできなかった。
「悪魔の仕事を、そう簡単に天使に教えるわけねえだろ。」
「ハァ~~?何それ、今更でしょ。」
天使の言い分は尤もだった。
今更。互いの仕事が何をしているか、など知る術はいくらにもある。天使も悪魔も、相容れない存在だが、それ故に互いのことを知る必要がある。天使と悪魔には、ある種の不可侵条約があるのだから。であれば何故こんな歪があるのか、と問われるべきだが。それもやはり、神の気まぐれというやつなのかもしれない。
だが今更だと知っていても、口を噤む理由があった。
「というかねぇ、アタシ、悪魔になりたいって言ったでしょ?だから、あなたから聞ける話なら何だって聞きたいって――」
「だから話したくないんだよ!」
歪を殴る。何もない筈のそこは、確かにこぶしを受け止め壁となり、強く殴りつけられた音が響き渡った。
叫ぶような彼の声は、やはり目の前の天使に当たってしか反響せず、虚しさが残るように、言葉の端々は消えていく。
流石にぎょっとした表情を浮かべた天使は、それでもこわごわと口を開く。
「な、何なの……?急に大声上げて。」
恐れるような小さな声にハッとする。途端に、頭の奥底が冷えていくような気配がした。
それでも燻ぶり続ける熱が、悪魔の話など、この清廉潔白な女にはできないと叫ぶ。いや、むしろ話してしまえば嫌気がさしてくれるだろうか。いやいや、それでむしろ、「それでもかまわない、むしろそちらの方がストレートで楽でいい」などと言われたらどうするつもりだ?悪魔だというのに、よく人間が語るような脳内の天使と悪魔が喧嘩する。
悪魔が辿り着いたのは、結局すべての思考は自分のエゴであり、この天使にぶつけて良い事ではない、という明確な事実だけだった。
「……お前は、悪魔になんかなれないんだから、夢見せても仕方がねぇって思っただけだ。」
落ち着きを取り戻し、しかし天使の方には目を向けずに、口先だけでそう呟く。しかしその淀む瞳を見据えるように、天使は悪魔を覗き込む。
その美しい宝石は、雄弁に疑念を語っていた。
「ホントに?」
その言葉の真意にあるのは、きっと「嘘吐け」という確証を持った詰問だ。疑念や確認では無く。天使は無意識にそれを差し向け、悪魔は意識的にその詰問から逃れる。
「……本当だ。」
絞りだした声は、しかし震えもせず、小さくもならず。いつも通りの、はっきりとした暗いものだった。
しばしの沈黙が流れる。考え込むようなそぶりを見せた天使は、突然ばっと屈めていた腰を上げ、そう!と朗らかに笑って手を叩いた。まるで、この空気はこれで終わりだと終止符を打つように。
「でも、夢くらい見せてくれたって良いじゃないのよー。」
拗ねるように口先をとがらせて、天使は悪魔の顔を見据える。ようやく顔をあげた悪魔は、その表情を見据えて頬杖を突く。
「駄目だ。」
「えー?ケチ」
「ケチじゃねえ。」
まるで子供のような言い争い。くだらないと溜め息を吐く間もなく、天使は矢継ぎ早に文句を言い放つ。
「バーカ!」
「馬鹿でもねえ。」
天使の表情は朗らかで、先程までの空気はどこ吹く風と、会話を続けている。
やはりこのままでいいと、悪魔はそう胸中で願う。そんな平和な願いは、やはり悪魔らしからぬものであるが。
「この悪魔!」
「悪魔……だよ。」
言葉の応酬の習慣に、そのまま口を滑らせそうになり、すんでのところで押しとどめる。奇妙な語尾になったのを聞き逃さなかった天使が、吹き出し豪快に笑い始めた。
引っ張られるように、悪魔もそっと笑む。次第に互いに声を漏らし、ただの雑談の、人間同士の友人のように、相容れぬはずの二人は笑い合った。