9、 ただ利用するつもりだったのに
ガシャンっとカップが割れるような音が聞こえた。
「ミランダなど、死んでしまえばいいのに!!」
物騒な言葉が聞こえてきて、廊下を歩いていたミランダは足を止めた。
薄く開いたドアからもう一度、何かが割れる音が聞こえてきた。
おそらく今度はお皿を壁に投げたのだなと思った。
うるさい音が聞こえてくるのは継母の部屋だ。
奥様、お怒りをお鎮めくださいと怯えた声を上げるのは、ミランダの侍女であるエラだ。
「あの子は何をやっているの!? フランシス様はいっこうに婚約を破棄されないじゃない! あれほど誘惑しろと言ったのに、何の進展もないなんて!!」
漏れ聞こえてきた会話に、ミランダは思わずドアの隙間に耳を当てて、うんうんと頷いてしまった。
「あの子はもう十七よ。このままだと適齢期を過ぎてしまうわ」
「パーティーにはアリア様をお連れになりますが、ミランダ様にも会いに来られますし……。決めかねておられるのかと」
「こっちはのんびりやっている暇はないのよ。アリアはどこにいるの?」
「今日は、お友達のご令嬢の家でパーティーが……」
お友達ごっこしている場合じゃないよと継母が叫んだ時、ミランダはそっとドアから離れた。
死んでしまえばいいと言うのは同意しかねるが、進展しない二人の関係については、ミランダも大きく頷くところだった。
十歳に死に戻ったミランダは、順調に歳を重ねて、十九の歳になった。
一度目の人生と違うところは、父親の言うことに徹底的に反抗してきたということだ。
右と言われれば左を向き、左と言われたら右を向いた。
貴族の女性の嗜みだと言われた女学校には行ったが、父親が仲良くしろと言ってきた家の令嬢とは誰一人として話さなかった。
仲良くするのは平民の女生徒ばかりなので、父親は真っ赤になって怒っていた。
部屋に閉じ込めても抜け出してしまうし、家に大人しくいることはなく、ついには外で働き始めたので、それを知った父親は泡を吹いて倒れてしまった。
自分の言うことを少しも聞かず、好きに生きるミランダを見て、父親はついに怒る気力を無くして何も言わなくなった。
父親への反抗は何もかも順調、そろそろ家を出て行けと怒鳴られてもいい頃だと思っているくらいだ。
それなのに、唯一順調でないこと、それがフランシスのことだ。
一度目の人生では、国の騎士団に入ったフランシスは、週末になると遊びに来て、アリアと過ごしていた。
ミランダとは婚約者の義務であるからと少しお茶をする時間はあっても、ほとんど喋ることはなく、そのうち二人で消えてしまった。
だからミランダが目撃した温室での密会も、おそらく初めてではなく、頻繁に行われていたもので、やっとミランダが気づいて、騒ぎを聞いた父親が駆けつけるという流れだった。
フランシスとアリアとの関係を知った父親は、ショックを受けるが、このままだとアリアは傷物になってしまうとフランシスに迫る。
フランシスは、アリアに手を出してしまったことで、責任を取るという形で、婚約者がアリアに変更されるのだ。
二度目の人生でも、フランシスはアリアに惹かれているように見えるし、パーティーに参加する時は、アリアを同伴者としている。
しかし、それ以上二人の関係が進んでいるように見えない。
それどころか、困ったことになっていて、ミランダの頭を悩ませているのだ。
出かける予定があるために、ミランダは鏡の前で支度を始めた。
鏡に映った自分の姿は、記憶にある一度目の人生の自分とは少し違って見える。
大人しくいつも下を向いて、びくびくとしていたあの頃の自分ではない。
今は、背筋をピンと整えて、男性が着るようなズボンとシャツにベストを身に着けている。
長い髪の毛は邪魔になるので、緩く後ろで一本にしてまとめている。
まるで乗馬に行くような格好だが、動きやすくて気に入っている。
化粧もほとんどしない。
簡単に眉と口紅だけ軽く塗って、つばの丸い小ぶりな帽子を頭に載せた。
今の自分は歩く広告塔だ。
父のような保守的な貴族からは白い目で見られているが、一部の女性達から、ミランダの格好は注目されている。
キツいコルセットに、重いドレス。
よく動いて働くには、とてもではないが着ていられなかった。
女性が動きやすく快適に過ごせる服を作りたいという、ミランダの願いを後押ししてくれたのはウェインだ。
ウェインとの関係は、出会ってから今まで、一度として悪くなったことはない。
共に学びたくさん遊んで成長した。
悲しい時も、嬉しい時も、一緒にいてくれたのはウェインだった。
これは一度目の時と同じだが、ウェインは努力して父親の仕事から独立した。
ミランダのような、新しい仕事を始めたいという人を支援して、起業や運営を手伝う仕事をしている。
ただの貴族のお嬢様で、商売は素人同然だったミランダだったが、今はウェインと共同で事業を行うまでになっていた。
一度目の人生とはもう違う。
死の運命からは逃れられたのだと、ミランダは鏡に映る自分に向かってそう呟いた。
「お嬢様、お客様です」
ドアの外からノックの音と、エラの声が聞こえてきて、ミランダは鞄を手に取った。
こちらですと言われて庭園の方へ向かうと、そこには思っていたのと違う人物が立っていた。
「フランシス様!」
「……ミランダ、今日もまたそのような格好を……」
仕事の途中なのか、騎士服を着たフランシスは、ミランダの姿を見て顔を顰めた。
成長したフランシスは、背が伸びて逞しい体つきになった。美しい銀髪と男らしく整った顔は、令嬢達から国宝級だと噂されているが、まさにその通りだと思う。
しかし、もう一度目の人生で懲りているミランダは、ちっとも惹かれなかった。
「小言を仰りにいらしたのですか? 社交界で頭がおかしい女だと噂されている私のことなど、見限ってくださってもいいのですよ」
「ミランダ……私はそのようなことは……」
「もう、何度も婚約は破棄して欲しいとお伝えしております。私には荷が重いのです。実子ではなくともアリアは当家の子です。フランシス様もアリアに好意があるのなら、妹を選んでください」
「た……確かに、私はアリアの美しさに惹かれている……。だが、一緒にいて、心が躍るのはミランダ、君なんだ。君と一緒なら人生が豊かになる。そう思うと、心を決めることができない」
どっちつかずのフランシスに、ミランダは呆れてため息をついた。
かつて自分には見向きもしなかったくせに、今回は言いたいことを言っているから興味を持ったのかもしれない。それでも、顔はアリアが好みだから、決められないということだろう。
馬鹿馬鹿しくて、やっぱりため息しか出てこなかった。
大きな体を丸めて、もじもじしていたフランシスは、背中に隠していた手を前に出した。
その手には一輪の薔薇が握られていた。
「ミランダに似合うと思って……」
薔薇の花を見たミランダは、突き落とされた時に見たドレスの刺繍を思い出して、背筋が凍るように冷えてしまった。
薔薇の花は苦手だ。
見ると、悲惨な自分の最期を思い出してしまう。
「……ごめんなさい。受け取れません。薔薇は……嫌いなのです」
「ミランダ……それは、悪かった……私は……」
「ミランダ!」
フランシスの後ろから、耳に馴染んだ声が聞こえてきて、ミランダは顔を上げた。
艶のある黒髪と、可愛らしい目元が見えたら、思わず手を振ってしまった。
「ごめんね、外で待っていたけど、なかなか来なかったから。ここまで迎えに来ちゃったよ」
「いいのよ、ウェイン。約束していたのにごめんなさい」
体格のいいフランシスの後ろからスルッと姿を現したのは、ウェインだった。
初めて会った時から九年、十八歳になったウェインは、相変わらず女の子と見間違うくらい可愛かった。
背だけはミランダより頭一つ分小さかったのに、抜かされてしまったが、同じようにズボンを履いているとミランダの方が、髪が長いのに男の子に間違われるくらいだ。
すらりと伸びた手足、小さな頭、可愛らしい顔立ちには大人の色気も出てきて、どこへ行っても注目の的だ。
それでいて、商売の才覚があり、巧みな話術で次々と商談を決めてしまうという仕事のデキる男なので、神から与えられ過ぎではないかと羨ましくも思ってしまう。
「ああ、オリバーノース侯爵家のご令息ではないですか。フランシス様、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
「……ミランダ、君はまだこの平民の男と付き合いがあるのか? ただの使用人だろう」
「使用人ではありません、彼は私の事業のパートナーです。一緒に仕事をしておりますので、もちろん毎日顔を合わせています」
ウェインのことは、フランシスも知っていた。
ミランダの学友として、邸に出入りしている男。
平民であるが商工会との繋がりを保つために、面倒を見ているとか、そんな説明を受けていたはずだ。
何度か顔を合わせているが、フランシスは全く興味がない様子で、視線すら合わせたことがなかった。
「女が事業などと……、お遊びもいい加減にしたらどうだ?」
「それは失礼ですわ。順調に利益を上げています。気に障るのでしたら、早くアリアの方をお選びになったらいかがですか? 惹かれていらっしゃるのでしょう?」
「ぐっ……」
言葉を詰まらせたフランシスは、苦い顔をしてまた来ると言って踵を返して帰って行った。
小さくなっていくフランシスの後ろ姿を見たミランダは、ふぅと息を吐いた。
出かける前にどっと疲れてしまった。
「大変だよね、貴族って。特に女性側は、嫌だなと思っても、簡単に別れましょうができないなんて」
「そういうものだと思って生きてきたけれど、慣れてしまうのも悲しいわね」
「どっちつかずの男なんて、さっさと捨ててさ。俺と結婚すればいいのに」
ウェインがいつもの明るい調子でポンと背中を叩いてきたので、慰めようとしてくれているのだとミランダは思った。
「ウェインには色々と助けてもらっているし、そこまで迷惑をかけられないわ。父に反抗するのは好きだけど、ウェインはもう、私の家族みたいなものだもの」
「家族ね……そうか、嬉しいよ」
ミランダが笑いかけると、ウェインもニコッと笑ってミランダの頭を撫でてくれた。
九年間、お互いの成長を見てきた仲だ。
弟と言ってもいいかもしれない。
ウェインに頭を撫でられたら、心臓がトクトクと音を立てて鳴ってしまった。
弟と思い込もうとしている、というのが正しい。
一緒に過ごすうちに、いつもミランダを助けて力になってくれるウェインに、淡い恋心を抱いていた。
だが、婚約者のいる身であるし、破棄されたとしても、様々な噂が飛び交い、お騒がせで面倒な女になってしまうはずだ。
親切心から一緒にいてくれたとしても、商売をしているウェインには、迷惑をかけてしまう。
いつか離れないといけないと分かっていても、ウェインの優しさに甘えてしまい、ここまでズルズルと頼ってしまう関係が続いていた。
「今日は工房を回る予定だよね。新しい布の試作品も届いているから、店に戻ったらチェックしよう」
「いつもありがとう、ウェイン。他の仕事の方は大丈夫なの? 私のお店の方にかかりきりになっていない?」
「大丈夫、ミランダはもう家族みたいなものなんだろう。家族が頑張っているなら、どこまでも応援したいんだよ」
「……ありがとう。でも、ほどほどにね。私のことなんて何番も後回しにしていいんだから」
そう言うと、ウェインは分かったと頷いて、馬車を待たせているから行こうと言ってミランダの手を取った。
また、甘えてしまった。
どこかで線を引かなくてはいけないと思うのに、優しいウェインに頼ってばかり。
まだもう少し、弟という言い訳を使って、側にいたい。
ミランダはそう、思っていた。




