プロローグ 死に戻る
木陰に立った男の子が、寂しそうな顔で建物の窓を見上げている。
窓辺に立った少女は胸を押さえてため息をついた。
遊ぼうと約束したのは少女だ。
彼はその約束を守り、あそこに立っている。
父の言いつけを守らなければいけない。
それがあの時の全てだった。
だから、部屋に閉じこもって、彼が帰ってくれるのを待った。
ごめんなさいと口にしながら少女は涙を流した。
ずいぶん時間が経ってから、窓から外を覗くと、男の子は消えていた。
一度目の人生の苦い思い出……
※※※
人生をやり直したいなどと思ったことはない。
ただ一度だけ、思い通りに生きてみたいと願ったことはある。
人生の分かれ道では、その時に最善だと思う道を選んできた。
貴族の令嬢として生まれ、何不自由ない暮らし。
特別贅沢をした覚えはないが、それでも食べるものや着るものに困ることなく生きてきた。
貴族の令嬢たるもの、家長である父親に、結婚後は夫に従って生きるべきである。
そう言われて育ち、常に心に置いて、家のために、父親の言いつけを守ってきた。
しかし結果はどうだろう。
自分を押し殺し、反抗せずに受け入れて生きてきた。
その結果は、塔の上から突き落とされる、という惨たらしいものだった。
落ちていく瞬間、振り返った視界に映ったのは、欄干から伸びた手、裾に薔薇の刺繍が入ったオレンジ色のドレスだった。
誰かに、突き落とされた。
誰が、自分を殺したのか。
何でも欲しがり、全て奪っていった妹か。
ずっと邪魔者にして、嫌っていた継母か。
仲がいいフリをして悪い噂を流していた友人達の誰かか。
味方だと思っていたのに、継母に買収されていた侍女か。
何も分からない。
なぜなら、自分の意思で生きてこなかったからだ。
殺されるほど誰かに恨まれていた。
そんなことなど、知る術もなかった。
常に命令通りに行動して、従順で良い娘でなければいけないと必死だった。
一度だけ願った儚い思いが叶ったのか分からない。
塔の上から落ちて死んだはずなのに、気がついたら、時間が巻き戻っていた。
ミランダは十九歳の結婚前夜、町の時計塔から突き落とされた。
空中に飛び出して落ちていく感覚があり、衝突が恐ろしくて目をつぶったはずだった。
しかし、いつまで経っても痛みがくることはなく、目を開けるとそこは自分のベッドの上だった。
ドクドクと鳴る心臓。
止まらない汗に自分の腕を抱くと、体がずいぶん小さいことに気がついた。
急いでベッドから降りて鏡を見ると、そこには子供の頃の自分の姿が映っていた。
おでこには、大きな引っ掻き傷があり、それは、やっと瘡蓋になったくらいだった。
思い出したのは十歳の頃、妹と喧嘩をして、おでこを爪で引っ掻かれた。
その記憶が確かなら、今は十歳の自分だということになる。
ミランダは死ぬ前に夢でも見ているのかと自分の頬をつねった。
すぐに痛みがやってきて、息を吸い込んで手を離した。
窓の外は真っ暗で、就寝時間なのか、辺りは静まり返っていた。
ひとりうるさく鳴り響く心臓を抱えながら、ミランダはベッドに戻った。
頭は興奮状態だったが、すぐに眠気が襲ってきた。
目を閉じたら夢は終わるだろう。
そう思って眠ったが、朝日を浴びて目を開けると、ミランダは十歳のミランダのまま、新しい一日が始まった。
いや、新しい一日ではない。
ミランダの二度目の人生が始まった。
信じられない状況に戸惑いながらも、ミランダは決意した。
最善の選択だと思い、我慢して生きてきた人生は、殺されるという悲惨な最期だった。
やり直す機会を得たのなら、今度は自分の思う通り生きてみせると。
父親の命令になんて従わない、思いっきり反抗してやると心に誓った。
二度目の人生の扉を開けたミランダ。
新たな選択がどんな結果をもたらすのか。
この先に、どんな出会いがあるのか。
そして、今度は殺されることなく、幸せな人生を送れるのか。
十歳のミランダは、力強く一歩を踏み出した。
※※※