仕事一筋の忙し領主、愛しい妻からついに愛想を尽かされ…てない!?
相愛で結婚した友人が別居した――
という、友の悲しい知らせを聞いた。
ハロルドは夕暮れに染まる邸の廊下を、憂いの足どりで歩いていた。
(あんなにも仲の良かった二人が、そんなことに)
同時に思う。他人事ではない、自らもまた同じ危険が迫っているのかもしれない。
(シシリー、君も…… 私に愛想を尽かすだろうか)
仕事ばかりで、妻と過ごす時間などほとんどない夫。それがクラストス領主、ハロルドだ。
ハロルドと妻シシリーは読書好きで縁を結び、かつては図書館や観劇に毎日のように通っていたが、そういった娯楽は遠のいて久しい。
民の安全な暮らしを考え、滞りのない流通を心掛け、こまめな視察に資源の管理も行う。領主として果たすべき役目は多くあり、息抜きをする暇もないのが現状だ。
そんなハロルドを、シシリーは文句ひとつ言わずに受け入れている。
『あなたはお忙しいのだもの。お身体を壊さないか心配よ、わたしのことは良いから、どうか健やかに』
そう言って、穏やかな笑顔で夫を送り出す優しい妻。
だが、それに甘え続ければどうなるだろうか。
(シシリーは、私にはもったいないほどの完璧な妻だが―― 内心では文句のひとつ、愚痴のひとつもあるだろう)
寂しい思いを募らせて、それがいつか爆発したらと思うと気が気でない。
一体どうすれば。悶々としていると、ちらちらと侍女たちがこちらを見ていることに気が付いた。
「どうした、何かあったか」
「い、いいえ何も。失礼を致しました」
慌てて二人の侍女が会釈する。彼女らはシシリーに、特に近しく仕えている女性だ。ちょうどいい、少し話を――と思い近づくと、侍女は急にそわそわとしだした。ハロルドは眉をひそめる。
「様子がおかしいな。用があるのなら言いなさい」
「ありません! ね、何も、ねえ!?」
「そそ、そうですよ、ございませんとも! 奥様には何も――」
「ばか! 言っちゃ駄目って……」
「シシリーが?」
聞き捨てならない言葉に、ハロルドはぴくり、と眉を上げた。
「シシリーがどうした」
「い、言えません! お許しを……!」
「命令させないでくれ、心配なんだ。彼女がどうかしたのか。何を隠している?」
「いえ、そのう、ひ、秘密で、ねえ?」
「旦那さまのご様子を、見て伝えてほしい、と……」
――まさか。
ハロルドは立ち尽くした。
友人の事情が脳裏を駆け抜ける。二人が別居した理由、始まりは浮気を疑われたのだそうだ。彼自身に身に覚えはなくとも、一度不安を抱いてしまった奥方を説得することは難しかった。
この別居とはすなわち離婚とイコールだ。醜聞とならないように籍だけは残しているが、奥方の心は既に遠くにあるという。
(私も、疑われているのか)
それで侍女たちに、自分の様子を監視し、伝えるように命じたのか。
雷に打たれたかのような衝撃と危機感だった。
こうしてはいられない。ハロルドは侍女らをその場に残し、足早に妻の自室へと向かった。
一体どうすれば、なんて悠長な考えでは駄目だ。残っている仕事の山のことなど今は考えられない。それよりも、妻を失う恐怖心の方がよほど強い。
(不安にさせていたのだ。きっと、ずっと)
こうなる前に解決しなければならなかったのに。
後悔はいつだって苦い。早足はいつのまにか駆け足に代わっていた。
「待ってくれ、シシリー、誤解だ……!」
●
「私だ、入るぞ!」
申し訳程度のノックの後、音を立てて開いた扉に驚いたシシリーが振り向いた。
栗色の長い髪に淡い金茶の瞳。机に向かっていた彼女は大きな瞳を驚きで更に大きくして、突然の来訪に慌てて立ち上がった。
「ハロルド、どうなさったの? そんなに急いで」
「話がある。大事な話だ、おまえにはすまないと――」
つかつかと早足で歩みよると、シシリーはびくりと身体を震わせ、一歩引いた。肘が机の角にぶつかり、崩れた紙の束がばさばさと絨毯の上に散った。窓からの風にあおられて、丁度一枚、ハロルドの靴先に着地する。
「あっ!」
短く声を上げたシシリーが駆け寄るより早く、ハロルドはそれを拾い上げていた。見間違えるわけもない、妻の筆跡だ。文字列まで愛らしい。その筆致でもって、紙面にはこう書かれていた。
「『勇者ハロルドの冒険』……?」
「だ、駄目ぇ―――っ!!!」
キン、と。
繊細な金属同士がぶつかり合って割れるような、痛烈な悲鳴が部屋中に響き渡った。
「な……!?」
今度はハロルドが目を丸くする番だった。シシリーは顔を真っ赤にして叫んでいる。彼女のこんなにも大きな声を聞くのは初めてだった。呆然としている間にシシリーの小さな手が紙を奪い取ろうとするものだから、とっさに持ち上げてしまった。今見たものが見間違いでないか確かめたかったのだ。
「やだやだやだ見ないで!お願いだから!!」
シシリーは涙を目に貯め、必死で手を伸ばす。ハロルドの胸までしかない身長では届くわけもない。
「お、落ち着け。どうしたんだ、君がそんなに慌てるなんて」
「かえ、返して! 見ないで、読まないで!」
「いや、すまないが既に少し見えてしまって」
「やだあああああ!!!」
絶叫、だった。
とうとう床に突っ伏すという、淑女にあるまじき姿勢になってしまった。
おろおろとハロルドは背中をさする。大声もだが、こんなに取り乱した姿は初めてでそれこそどうしたらいいか分からない。宥めながらちらと手の中の紙を見ると、やはり見間違いなく、『勇者ハロルドの冒険』と書かれており、さらにその先には物語らしい文章が、細かな文字で長く長く続いていた。
「ひょっとして、このハロルドというのは私……か?」
小さな声で尋ねると、うずくまったシシリーはそのままこくん、と頷いた。
「……おはなしを」
「うん?」
「お話を、書いていました、その、お茶会のお友達との間で……」
幼い子どものように丸くなってしまった妻が言うには、読書好きの友人との間で、物語の自作が流行しているらしい。
本や観劇を趣味としていたシシリーはもともと興味があったため、恥ずかしながらも筆をとってみたなら英雄譚として大盛況、続きを急かされてしまうほど人気になり、今日も執筆に明け暮れていたのだという。
「皆さん、素晴らしいお話を書かれるんだもの。わたしも負けていられないって思って……
わたしにとって一番素敵な人はあなただから、それならモデルにって」
「ひょっとして、侍女たちに私を覗わせていたのも関係しているか?」
「それもご存じなの!? やだ、もう……!」
ちっともシシリーは顔を上げてくれない。ハロルドがそっと手を肩と頬の間にねじ込むと、彼女は耳まで赤くして、やっとハロルドと目を合わせた。潤んだ瞳が愛らしかった。
「だって、お忙しいでしょう? だから皆に、最近のあなたがどうしているか見てきてほしくて。様子を聞いて、それでお話を書こうと思っていたの……
ご、ごめんなさい。勝手にモデルにして。不愉快よね、すぐにやめるから――」
言って、のろのろと散らばった紙をかき集めるシシリーである。
ハロルドはもう、胸が様々な感情で破裂寸前だった。安堵、愛しさ、申し訳なさ、やっぱり愛しさ。全てが爆発する前に、その細い手首をそっと掴む。
「怒るわけがない。私こそ、すまなかった」
そのまま強く抱きしめてしまいたい。
だけれど、そんなことをすればますます妻は混乱するだろう。鋼の自制心で耐えた。
(浮気を疑われているかもしれない、だなんて)
なんて愚かな勘違いをしていたのだろう。
シシリーは変わらずハロルドを愛し、一人の時間を自らの趣味で埋め、楽しく健やかに過ごしていた。ハロルドの邪魔にならないようにと気まで使っていた。
さらに何と愛しい真似をしたものか、夫をモデルに物語を書いている。素敵な人物像として採用してくれてさえいたのだ。これが感動せずにいられようか。
「不愉快なんてとんでもない。私でよければ、モデルにでも何でも使ってくれ」
そう囁くと、シシリーはほっと表情を緩めた。よかった、と呟いて、集めた物語の束を胸に抱きしめる。
彼女が書いた、主人公としてのハロルドの物語――
そう思うと、湧きおこる興味と情愛を、ハロルドは押さえることが出来なかった。
「シシリー。もし嫌でなければ、私にも読ませてもらえないだろうか」
「え!? でも……」
まだ赤い顔のまま、シシリーは首を振る。乱れてしまった髪が肩に頬にほつれて絡むのを、ハロルドは指先で、そっと耳にかけてやった。
「難しいだろうか。是非拝読したい」
「は、恥ずかしいわ、あなたに見せるつもりで書いていないもの」
「友人には読ませるのだろう? 君が私をどう書き上げてくれているのか、とても知りたい」
「……じゃあ、ちょっとだけ。ちょっとだけよ?」
おずおず紙束を差し出すシシリーは、照れ半分、戸惑い半分、そして勘違いでなければ、僅かに喜びを抱いているように見えた。
そんな彼女がいじらしくてならない。感謝を告げてから、ハロルドは妻の物語に目を通した――
『ズバーン! バゴーン!
森で大暴れしている巨大な熊を、勇者ハロルドはその拳で一刀両断! ズズン…… と倒れたその獣に、彼は慈悲深いまなざしを向けて語りかけた。
「峰打ちだ、命までは取らない。さあ森へお帰り」』
『決壊した貯水池の水が怒涛の勢いで町を襲う!
もう駄目だと誰もが絶望したその時、人々の前に盾となった勇者ハロルド。ハァ! 裂ぱくの気合と共に拳を突き出すと、水は壁にぶつかったかのように天へ打ち上げられ、まるで雨のように降り注いだ。
「やあ、これで畑の水やりが楽になったかな?」』
『「大変だ!崖から子どもが落ちてしまう!」
「私に任せなさい! トゥッ!」
地を蹴った勇者ハロルドは、ハヤブサのごとく飛翔した。子どもをさっと抱きかかえ、声援を送る人々に応えるかのように大きく手を振りながら旋回すると、両親の元へと降り立った。子どもが言う。「ぼくもハロルドさまみたいになりたい!」勇者ハロルドはにっこりと笑い、頭を優しく撫でた。
「なれるとも。母上と父上の言うことを聞いて、良い子でいればね」』
『勇者ハロルド、ばんざい。
勇者ハロルドに栄光あれ――!』
「……………おう」
としか、言えなかった。
「ど、どうかしら? あなたのなさったお仕事のお話、皆から聞いて、書いてみたのだけれど」
「ああ、うん。そうだな、確かに先月、獣の騒動があったな……」
ハロルドは目元に手を当てて思い出していた。
育ち過ぎた猪が領内の森で暴れており、このままだと危険だということで討伐に出たのだ。これがまた頭のいい猪で大層手を焼かされたのだが、無事捕獲。問題は解決している。
だが決して、拳で一撃とかではない。
領内の男手をかき集めての泥だらけの作戦であった。まったく格好よくはない。その前に拳で一刀両断はできないし、峰打ちもできない。そもそも猪であって巨大熊ではない。
貯水池が決壊しかけた時も皆で土嚢を積んで壁にしたのだし、子どもが落ちかけた事件、これは確かに助けたのはハロルドだった。ただし崖ではなく馬小屋の屋根からで、受け止めた時に馬に髪を食べられかけた。
代々、領民との距離が近いクラストス家ならではのエピソードだ。
それを妻が解釈すると、どうやらこういうことになるらしい。
「やっぱり、お嫌だったかしら……」
言葉を失ったハロルドに、シシリーはしゅん、と肩を落とした。
「あなたはとっても頼りになる領主さまだし、きっとこんな、しろうとの物語よりももっと素敵でスマートにお仕事をしているのよね。分かっているわ、稚拙な文章でごめんなさい」
(しまった、黙り込むのは失敗だった)
ハロルドは自らの行動を悔やむ。彼女は今、モデル本人に物語を見せるという羞恥心と心配に耐えているのだ。少しくらい――いや少しではないけれどもかなりであるけれども――愉快痛快なとんちき爽やか勇者に仕立てあげられていたとして、それが何だ。
笑顔を取り戻すことが最優先だ。たとえこれがお茶会で公開され、多くの淑女を楽しませていたとしても、シシリーを咎めることなど何ひとつない。
ハロルドは頬を引き締め、薄く微笑んで首を振った。
「いや、そうじゃない。とても良く出来ている。きっと茶会でも拍手喝采だろう」
「そう? 本当にそう思う?」
「ああ、思うとも。だが……」
空を飛ぶのはちょっとやりすぎだからやめて欲しい。――ではなくて。
「……私は君に謝罪したい。こうして物語を書くようになったのも、仕事ばかりで一人にしてしまったから、だろう?」
そう、もとはと言えば、全て自分が蒔いた種だった。
シシリーが孤独を物語で埋めたのも、ハロルドが顧みなかったからだ。優しい彼女は受け入れてくれたが、危機が去ったとは言い難い。いつ、寂しさがこじれて友人のような破局を迎えるか分からない。
やはり身を改めなければならないのだ。当然だ。
ハロルドはぐっと気を引き締め、そして、やんわりとシシリーの肩を抱き寄せた。
「今後は改めると誓う。許してくれ、シシリー」
「そんな…… いいのよ。お仕事を頑張るあなたはとっても素敵だもの。最高の領主さまよ」
「いいや、領主である前に最高の夫であると思われたいんだ。……今日はこれから朝まで、共に過ごそう」
「あ、でも――」
甘やかな抱擁と口づけ、そして夜の約束。
約束されるはずの蜜月をしかし、シシリーの言葉が遮った。
「わたし、今日は『勇者ハロルド激闘編! 魔人グランゾーイの卑劣な罠』を書き上げなくては」
「何て?」
聞き返さずにはいられなかった。
シシリーは至極真面目な顔で、魔人グランゾーイです、と言った。
聞き間違いであってほしかった。
「勇者ハロルドを度重なる悪辣な方法で追い詰めた魔人グランゾーイと、ついに決着をつける時が来たのです!」
「待ってくれ。グランゾーイとは。ひょっとしてそれはゾーイのことか。君の兄上か」
「ええ。お兄様がぜひとも自分も登場させて欲しいと。敵役で」
「あいつも読んでいるのか!?」
シシリーの兄ゾーイとは旧知の仲であり、共にクラストス領を守る一員である。が、何かと調子のよい男で妹とは似ても似つかない。愛嬌があって良いのだが、よく厄介な仕事をハロルドに持ち込んでくる。
「何でも、ハロルドを忙しくしている原因は自分だから、すなわちそれこそ諸悪の根源だろう、とか何とか」
「分かっているなら仕事を増やすな! ああもう……!」
正直、いますぐここにゾーイを呼びつけて、石でも抱かせて説教したい気分だった。
きょとん、としているシシリーにはいまいち理解できないらしく、小首をかしげてハロルドを見上げている。その視線の可愛さといったらない。例えようがない。それこそ文才でもあれば詩的に表現できただろうに、読む専門のハロルドにはただただ可愛い愛しいとしか表現できないのだった。
ぐっと込み上げる愛情の波を飲み込み、ハロルドは妻の両肩に手をのせる。ぐっと掴んで、いいか、と、噛んで含める気持ちで言う。
「魔人グランゾーイは明日にしよう」
頼むから、普通に夫婦として過ごさせて欲しい。
懇願するも、ますますシシリーは困り顔になってしまった。申し訳なさそうに、しかし断固とした様子で紙の束を掲げ持つ。
「でも、すごくいい所なの。グランゾーイは狡猾にも、城の人々が眠っている間に国宝である聖なる剣エクスソードを――」
「それはあいつが昔、うちが貯蔵していた聖剣と同じ銘のワインを盗んだからだな!? ――分かった、ゾーイの悪行なら私がいくらでも教えてやるから! な!?」
「本当!? 嬉しい、またお話の元が増えるわ! 少しお待ちになってね、今紙とペンを……」
と、シシリーは満面の眩しい笑顔でもって、いそいそと支度をはじめてしまった。
絨毯に膝をついたまま、ハロルドは天を仰ぐ。
(どうやら、夫婦の時間は過ごせそうにないな……)
それもこれも、やっぱり自分のせいなのだ。報いなのだ。
だが――
この罪、疲労感。
半分くらいは魔人グランゾーイのせいである。
たまった仕事を押し付ける相手が決まったところで、ハロルドは諦めと安堵の苦笑いを浮かべたのだった。
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