005 イサム 2019年 春
長女のさくらがマセとんのに対して、弟のイサムはまあ、おぼこい。
ええようにゆうたらな。
はっきりゆうてしもたら、ただの気ぃ小さいあかんたれや。
勉強もスポーツもパッとせんし、彼女みたいなもんおるはずもない。
名前負けもええとこやで。
いっこも勇ましいとこなんかあらへん。
この春からいっちょ前に中学校へ行っとんねんけど、あんなんでちゃんと学校生活やって行けてんにゃろか?
同級生に上履き隠されたり、いじめっこに弁当食われたり、女の子から嘘もんのラブレターで校舎の裏へおびき出されて落とし穴に落とされたりしとると、わいは思う。
でもな、こいつわざとどんくさいフリしとんねんで。
通ってる中学校のサッカー部では補欠やねんけど、ほんまはプロサッカー選手やねん。
それも、あのFCバロセロナ所属のな。
イサムはまだ中1でプロ契約が出来る年齢に達してへんさかい、普段は世を忍ぶために冴えへん中学生を演じとるんやと思うわ。
そやけど、正体がバレてまうのんも時間の問題やろなあ。
こないだ、ついに試合に出てまいよったしな。
わい、イサムのデビュー戦をすぐねきで観とってん。
そのおかげで、わいはどエラい目ぇに遭うたんや。
まあ、聞いてえな。
先週の水曜日の昼下がりのこっちゃ。
わいがリビングで横になっとったら、2階からイサムが下りて来よってな。
ソファに腰掛けるなり、独り言つぶやき始めよってん。
イサム「2018-2019年リーガ・エスパニョーラの最終節、バルセロナとエイバルの一戦をお送りしております。試合は2-2の同点のまま後半35分を迎えました。バルセロナはすでに連覇を決めておりますので、こうなると我々の期待はやはり…」
イサム「そうですね。やっぱりイサム選手が見たいですね」
イサム「否が応にも期待が高まりますね」
イサム「まったくです」
イサム「おや?イサム選手がアップを始めましたよ」
イサム「おお」
イサム「監督と何やら言葉を交わしています」
イサムはソファからおもむろに立ち上がって、壁のほう向いて頷いたりしながらストレッチを始めよった。
どうやら、わいには見えへん監督から指示を受けとるようや。
外国語なんかちっとも出来へんくせに。
しかしまあ、ようも起用に一人二役出来るもんやで。
どっちかゆうたらサッカー部より演劇部のほうが向いとるかも知れんな。
イサム「これはどうやら出そうな雰囲気ですね」
イサム「ええ。イサム選手、いい表情をしていますよ」
イサム「さあ、今、審判員の持つ交代ボードにイサム選手の背番号が表示されました」
イサム「おお。ついにこの時が来ましたね〜」
イサム「今、イサム選手がセルジ・ロベルトに代わってピッチに入ります」
イサム「夢のようですね」
イサム「今、日本サッカー史に新たな1ページが書き加えられようとしています。イサム選手がカンプ・ノウのピッチにその第一歩を踏み出しました。テレビをご覧の皆さん、聞こえますか?カンプ・ノウの大観衆がイサム選手の名前を呼んでいます」
イサム「イサム~、イサム~。お~お~お~♪」
イサムは、わいには見えへんチームメイトとなんか喋っとる。
うんうんゆうて頷いとるけど、果たして何を了解しとんのやら。
イサム「さて手元の時計は後半38分を差しております」
イサム「まだ時間はありますよ。なにかひとつ魅せて欲しいですね」
イサム「さて、試合が再開しました。バルセロナが自陣から前線へ大きく展開します。ボールはメッシの元へ」
イサム「チャンスですね」
イサム「巧みなフェイントで相手ディフェンダーを翻弄し、メッシが中央へボールを運びます」
イサム「実に鮮やかですね」
イサム「メッシがボールをキープしたまま、シュートレンジに入りました」
イサム「この距離なら狙ってくるでしょう」
イサム「さあメッシがシュートフォームに入った…と思いきや、グラウンダーのパスを選択しました」
イサム「おお」
イサム「ゴール前にはイサム選手がいます」
イサム「イサム選手、いい動き出しですよ」
イサム「イサム選手がボールを受けました」
イサム「イサム、打て!」
イサム「イサム選手。決定的なチャンスです!」
イサム「イサム!打てぇ~!!」
なんや、わいにもスタジアムが見えて来たで。
イサムがスローモーションでシュートフォームに入りよった。
イサム「どっくん、どっくん…」
イサム「イサム選手がその右足を振り抜いたぁ!」
と、その時…。
「ただいま~」
おばんが帰って来よった。
がっちゃ〜ん。
イサムが放ったシュートはゴールネットやなしに、テーブルの上の花瓶を直撃しよった。
砕けた破片があたりに飛び散って、こぼれた水がカーペットをびしょびしょにしもたんと同時に、幻のカンプ・ノウは跡形ものう消え失せてしもた。
イサムは一瞬うろたえたもんのすぐに我に帰って、クッションのボールを鷲掴みにして階段を一目散に駆け上がって行きよった。
たたたたたたたたた。
階段を駈け上がる足の速いこと。
あない機敏に動けるんやったら、中学校のサッカー部のレギュラーぐらい取れそうなもんやけどな。
「イサム~。いないの?」
イサムは2階やで。
ついさっきまでここへおったけどな。
買い物袋を下げたおばんがリビングに入って来よった。
「あああ!」
そら、びっくりするわな。
これな、イサムがやりよってん。
なんか独りごと言いながらな、クッションのボールをな…。
おばんは、割れた花瓶と水浸しのカーペットを眺めて、それからわいを一瞥しよった。
鬼の形相や。
眉間の皺がグランドキャニオンみたいになっとる。
「金太郎ぉぉぉ。あんた、またやったのね!?」
わいちゃう、イサムや。
イサムがやったんや。
「今夜はごはん抜きよ」
んな、あほな。
「ケージに入れといてってあれほど言ったのに。イサム、イサム~」
おばんに呼ばれて、イサムが2階から下りて来よった。
「母さん、おかえり」
「イサム、ちょっとこれ見てよ」
「うわあ。なんだこれ」
おい。
「なんだこれ、じゃないわよ。花瓶が割れる音に気付かなかったの?」
「ごめん、ヘッドホンしてたんだ」
「ちゃんとケージに入れといてって言ったでしょ」
「ちゃんと入れたんだけど…扉が閉まってなかったのかな。ひょっとすると金太郎が自分で開けたのかも」
おいおい。
「今度から目を離す時は必ずケージに入れて、扉がちゃんと閉まっているか確認してよね」
「ごめん。気を付けるよ」
「突っ立てないで、片付けるの手伝ってよ」
「まったく世話のやける犬だなあ」
おーい、おいっ。
わいはケージに閉じ込められた。
くっそー。
腹立つわ〜
なんちゅう腹黒いガキや。
腹に据えかねるで。
腹の虫が収まらん。
わいは腹を固めた。
わいの腹は決まった。
イサム。
腹括って待っとれよ。
わいは復讐を誓った。
木曜日。
今日はおばんが子供部屋を掃除しよる日ぃや。
火曜と木曜はパートに出えへんさかい、家の用事しよんねん。
わいはテレビのワイドショーに夢中になっとるおばんの目ぇを盗んで、2階へ上がった。
上がってすぐの6畳間がイサムの部屋や。
とんとん。
邪魔すんで〜
相変わらずきったないなあ。
散らかし放題や。
わいは、床の上に脱ぎっぱなしにしてある衣類で踏み台をこさえて、ベッドの上によじ登った。
よっこらしょ。
ひひ。
思い知れ、イサム。
お前が悪いねんど。
しゃー。
ぶるぶる。
わいは身震いした。
そろそろおばんが掃除しに上がって来よるな。
わいは、階段をそろーっと下りてケージへ戻った。
あー腰痛た。
夕方になって、イサムが学校から帰って来よった。
「ただいま〜」
「おかえり。部活は?」
「今日は身体がだるいから休んだんだ」
「そうなの」
「ちょっと横になってるから、晩ごはんまで起こさないでね」
「イサム」
「なに?」
「お母さんに隠してることがあるでしょ?」
「なんのこと?」
「なんのことって、お母さんに言わせるの?」
「なにを?」
「とぼけちゃって。裏庭に干してあるから自分で取り込むのよ」
「なにを取り込むの?」
「なにをって、お布団よ」
「ああ、干してくれたんだ」
「そりゃ、干さなきゃダメでしょ」
「ダメって、なんで?」
「認めたくない気持ちは分かるわよ。でもね、イサム…」
「なんの話ししてんの?」
「お母さん、インターネットでいろいろと調べたんだけど、ずっと続くようならお医者さんに相談してもいいし…」
「お医者さん?」
「薬物療法もあるんだって。あと、膀胱のトレーニングなんかもあるみたいよ。恥ずかしいのは分かるけど、だからと言ってお布団をそのままにしてちゃ不衛生でしょう。今度から正直に言うのよ。分かった?」
「ちょっと待ってよ。さっきから一体なんの話ししてんの?薬物療法だとか、膀胱のトレーニングだとか…」
「だ・か・ら、おねしょの話しよ」
「おねしょ?」
「したでしょ?」
「してないよ!」
「したじゃない」
「してないって!!」
「往生際が悪いわよ」
「なんかの間違いだって」
「お母さんは、イサムがおねしょしたことを責めてるんじゃないのよ」
「違うよ。母さん、聞いてってば」
「はぁ…どうしても認めたくないのね。わかったわかった。じゃあ無かったことにしよう。お母さんはイサムのおねしょを見なかった。それでいい?」
「いや、だからさあ…」
「お母さんはなんにも見てません」
「違うんだってば」
「お母さんは見てませんよ~」
「うわ~ん」
イサムのあほ、終いに泣き出しよった。
泣け泣け。
おのれの罪をわいに被せた罰や。
ひっひっひ。
あーおもろ。
腹がよじれそうや。
昨晩は餌貰えへんかったさかい腹の虫が泣いたでぇ。
腹抱えて笑うて、ようやくわいの腹も癒えた。
のさばる悪を何とする。
天の裁きは待ってはおれぬ。
ほんま、そんなもん待っとられんで。
わいが布団に描いた絵は、晩春の日差しに晒らされてすっかり乾きよった。
鮮明になった絵の輪郭は、心なしか天秤の形に似とった。