001 プロローグ
わいは犬や。
飼い主は40代の夫婦と子ども2人の4人家族や。
郊外のこじんまりした一戸建てに住んどる。
まあそれなりに不満もあるけど、上見たらキリないしな。
何事も諦めが肝心や。
もちろん名前はある。
あるけど言いとうない。
恥ずかしい名前やねん。
そやかて、小説の主人公が名無しっちゅうのも具合悪いさかいな。
言いとうないけどゆうわ。
笑いなや。
ええか?
わいの名前はな…。
き、き、金太郎っちゅうねん。
ゆうとくけど、わいフレンチブルドッグやで。
おフランスやで。
フランスやったら、オリヴィエとかアントワーヌとか格好ええ名前ぎょうさんあるやろ。
なんで金太郎やねん。
あほか。
なんでムッシュのわいが、まさかり担いだり熊に股がったりせんならんねん。
わいにこの小っ恥ずかしい名前を付けよったんは…。
「行って来まーす」
あいつや。
いま出掛けて行きよった高校2年生の長女や。
あの小娘が「この犬、なんか金太郎っぽくない?」とかゆうて適当に決めよってん。
なんぞわいに恨みでもあんのか。
あいつのせいで、わいは名前呼ばれるたんびに恥かかんならんにゃ。
ちなみに長女の名前はさくらゆうねん。
ぷっ。
なにがさくらや。
笑わすな。
スマトラオオコンニャクみたいな顔しくさってからに。
思い出したらムカムカしてきた。
がるう。
でもわいは犬や。
飼われとる身ぃや。
辛抱するしかあらへん。
子は親を選べんちゅうけど、犬も飼い主を選べへんしな。
ペットっちゅうのはふざけた名前付けられても文句ひとつゆえへんし、自由は利かへんし、いろんなこと諦めんならん。
そのぶんストレスも多い。
かとゆうて、わいはペットっちゅう身分が特別悪いもんやとも思うてない。
毎日餌貰えるし、散歩にも連れて行って貰えるんやからな。
餌ゆうても安もんのドッグフードやけどな。
まあ、貰えるだけましや。
世の中には餌貰えへん犬もおるし、棄てられる犬かておるんやしな。
ほんま、気の毒なこっちゃで。
わいら犬みたいなもん、放っぽり出されたら終いやもん。
猫は野良になってもそれなりにやって行けるやろうけど、わいら犬はそうも行かへんしな。
その辺でゴミでも漁っとったら、保健所の職員にとっ掴まんのがオチや。
掴まったら最後、よっぽど運がない限りCO2でお陀仏やがな。
ちーん、や。
そら、わいみたいに特別可愛らしいわんちゃんは別やで。
顔もええし、ぽっちゃりしてるし、毛ぇはブチなしのまっ白やし。
万が一、保健所へ収容されたかて里親希望者がわんさか現れよるわ。
入札でもせんことには保健所の業務が滞りよるで。
でも世の中には平凡な犬もおる。
年食うてんのもおったら、病気のんもおる。
そいつらは可哀想やがな。
わいら犬っちゅう生きもんは飼われるか死ぬか2つに1つやねん。
情けない気ぃもするけど、これがわいら犬の宿命や。
受け入れるしかあらへん。
わいらの祖先がこの生き方を選びはったんやからな。
「じゃあ、行って来る」
いま出て行ったんがうちの旦那や。
サラリーマンやねん。
毎朝、引っ張られるようにして出掛けて行きよるわ。
「会社行きたない」て、顔に書いたあるもん。
陰気な顔にな。
わいが人間やったら、サラリーマンみたいなもん絶対せえへんで。
なんでわざわざ窮屈な思いせんならん生き方選ぶんや。
あんなもん、ほとんどペットみたいなもんやんないか。
ほんまよう似とると思うわ。
似とるとこ挙げてったらキリあらへんで。
例えばそやな、サラリーマンは毎月月給が貰えるけど会社の言うこと聞かんならんやろ?
わいかておんなじや。
毎日、餌貰えるけど飼い主の言うこと聞かんならん。
サラリーマンは「朝8時に会社へ来い」ゆわれたら、朝8時に行かんならん。
前の晩に飲み過ぎてエラかっても行かんならん。
わいかて「ケージへ入れ」ゆわれたら、ケージへ入らんならん。
もっと外で遊んでたかっても入らんならん。
サラリーマンは基本給が30万やったら、頑張っても手ぇ抜いても月給は30万や。
わいかて一日じゅう家族の機嫌取ったっても日がな一日寝っ転がとっても、餌は朝と晩の2回や。
サラリーマンは30万しか貰うてないのに40万ぶんの仕事したら損する。
わいかて餌2回しか貰うてないのに餌3回ぶんの愛想したら損する。
そうかゆうて、あんまり見込みに沿えなんだら具合悪うなるとこも一緒や。
サラリーマンは30万の月給が20万に減らされんように少なくとも30万ぶんの仕事はせんならんし、わいは2回の餌が1回に減らされんように餌2回ぶんの愛想はせんならん。
あんまりサボっとったら放っぽり出されるとこも一緒や。
そやけどサラリーマンはまだええわ。
割に合わんなあ思うたら、暇貰うて別の飼い主んとこへ行ったらええねんからな。
「イサム〜。なにグズグズしてんの?学校に遅れちゃうわよ」
「分かってるよ。行って来まーす」
「ちょっと待って。あんた、体操服持ったの?」
「…あ、忘れてた」
「もう。しっかりしてよぉ」
「ごめん。じゃあ、行って来まーす」
「…あ、イサム!お弁当、お弁当」
「あぶね、忘れてた。ありがと」
「あんたって子はまったく…。もう忘れ物ない?」
「うん。ハンカチも持ったし、水筒も…あ、そうだ」
「なに?」
「宿題」
「宿題?どこに置いてあるの?机の上?」
「ううん、やるの忘れた」
「あんたねぇ…。早く学校に行って誰かに写させて貰いなさいよ」
「うん、そうする」
「賢い子に頼むのよ」
「分かった。行って来まーす」
「はい、行ってらっしゃい。急ぐのよ。気を付けてね。急いで気を付けるんじゃなくて、気を付けながら急ぐのよ。分かってんの?…はぁ。ほんとにどうしようもない子ね。誰に似たのかしら。前の晩に準備しておきなさいってあれほど口酸っぱく言ってるのに…。あ、体操服忘れてる」
またやっとんな。
毎朝、2人でおんなじ漫才やりよんねん。
忘れもんが絵の具セットになったりリコーダーになったりするだけで、掛け合い自体は毎日一緒や。
そろそろ新しいのん考えてくれへんかなあ。
わい、もうこのネタ飽きたわ。
ちなみにボケを担当しとったんがさくらの弟のイサムで、ツッコミを担当しとったんが母親や。
ふわぁぁぁ、眠う。
春は寝ても寝ても寝足りんな。
その気になったらなんぼでも寝れるわ。
わいなんか一日の半分以上、寝て過ごしてんで。
そのせいか月日があっちゅう間に過ぎて行きよるわ。
歳食うて時間の経つのも早よなって来たしな。
気ぃ付いたらもう2歳や。
なんやかんやいろいろあったようで、なんもなかったような2年間。
記憶に残る想い出もなんやふにゃーっとしとって、半なまのドッグフードみたいや。
半なまのドッグフードな。
あれはうまい。
ずず。
思い出したらよだれ出て来た。
前にお隣のコーノさん家に預けられた時に貰うたことあんねん。
家族旅行でうちのもんが留守しよった時に、ふた晩ほど世話になったんや。
めしはうまいし、トイプードルのララちゃんとも一緒におれるし、楽しかったなあ。
正直、あいつらずーっと旅行へ行っとったらええのにって思うたわ。
うちのおばんはいっつもカリカリのドッグフードしかくれへん。
そやけどまあ、他所は他所、うちはうちや。
この家の経済的な事情も汲んでやらんとな。
わいは辛抱して食べる。
何事も諦めが肝心や。