生贄姫は、魔王を愛している。
「では、行ってまいります」
「ああ。頼んだ、姫よ」
父王は、最後まで名前を呼びすらしなかった。リーレンは溜息をついて目の前の黒い森を見つめ、それから一歩、森に踏み込む。
深い森の、奥の奥。そこには、魔族の暮らす国がある。幼い頃からよく耳にした、リーレンの国では有名な子守唄だ。
森の中の国には魔族を束ねる魔王がいる。かつては争っていた人間と魔族は、先々代の王の時代に和解を結んだ。おかげで今の世は平和で、誰も魔族の姿などは知らない。
恐ろしく、残忍で、醜い姿をした魔族。この世に存在してはいけない生物だ。
リーレンが昔読んだ本にそう書いてあった。
魔族なんて忌み嫌われるものを本で調べたのは、リーレンの趣味ではない。和解を結んだ際の条件によるものだ。
──和解後最初に生まれた姫を、嫁として寄越せ。
意味不明な魔王の提案を、仕方なく人間側が受け入れて和解を結んだそうだ。
先々代の王には、和解後に生まれた女児はなかった。また、先代の王には偶然にも娘がなかった。つまり、リーレンがその「最初に生まれた女児」になってしまったのである。
リーレンは、生まれた時から「生贄になる予定の姫」だった。だから姫らしい教育はほとんど受けてこなかったし、「情が移るとつらい」などと言って両親はほとんど寄り付かなかった。
そして今日が、約束の日。
リーレンは十六歳となり、成人の仲間入りを果たした。誕生日の祝いも何もなく、真っ直ぐに魔の森へ送り届けられた。
これからリーレンは、見ず知らずの魔王の嫁になるのである。「もう何十年も経っているのだから、魔王も死んだのではないか」と意見したこともあったが、「魔族は寿命が長いから」と相手にしてもらえなかった。
──生贄になるとわかっているのに、娘を産むなんて馬鹿だ。
占い師が予言で女が生まれると言った時点で、どうにかすれば良かったのだ。女児が生まれなければ、生贄にする意味もない。わざわざ魔王のご機嫌取りのためだけにリーレンは生み育てられたのだ。生贄のために生まれ、生贄として育てられた。リーレンの命に、それ以上の価値はない。
怒りのままに踏みしめた落ち葉の下で、ばきばきと小枝が折れていく。
誰も通らない、魔の森の中。奥へ進めば進むほど、目の前が暗く霞んでゆく。
魔族なんていないのかもしれない。
あまりにも生き物の気配がしないので、リーレンはそう思った。黒い霞のようなものが、どんどん色濃くなるばかり。この森に何かあるのは間違いないが、それだけだ。
このまま飢え死にするのなら、ますます人間は馬鹿だ。リーレンは、心の中で吐き捨てた。
ばき、と力任せに枝を踏み割る。
「……人間?」
自分のものではない高い声がして、リーレンは止まった。
「何?」
「え、ほ、本物?」
声は上からするようだった。見上げると、枝の上に黒い影があった。黒い影──ではない。それは、人の形をしていた。黒い髪、黒い肌、黒い手足、黒い衣服。その中に輝く、真っ赤な瞳。
「わあーっ、かわいい!」
口を開けると、中は真っ赤であった。風を切る音がしたかと思うと、その人間? は目の前に降り立った。
「初めて見た! かわいい、色白いし、髪も金色で……目の色も綺麗!」
ぐるぐる、と周りを回って観察してくるのは、女のような感じだ。
「……あなた、魔族?」
常識外れな外見から考えて間違いなくそうなのだけれど、何となく自信がなくてリーレンは聞いた。
恐ろしく、残忍で、醜い姿をした魔族。──そう、書物には書いてあった。姿は人間離れしているとは言え、残忍性は感じられなかった。
「そうよ。あなたは人間よね? 人間が、こんなところでどうしたの?」
覗き込んでくる瞳が、きらっと赤く輝く。
「魔王様の嫁になるために、やって来ました」
「魔王様の嫁? 魔王様? ……あーっ!」
大きな声に、びり、と空気が震える。
「それって先代魔王様の話じゃない? 聞いたことがあるわ、先代魔王様は人間があまりに可愛いから、どうしても嫁にしたくて、人間にそれを頼み込んだって」
「頼み込んだ? 和解の条件だったのでは」
「和解の条件? そもそも人間達が攻め込んで来なければ、私達は何もしないもの。誤解じゃない?」
誤解、と。
リーレンが長年苦しんできたものを誤解だと流され、胸の奥から脱力感が溢れてくる。
何のためにこんな思いをしてきたのか。何のための覚悟だったのか。──本当に、人間は馬鹿だ。
「魔王様のところに案内しないと」
「あなた、行けるの?」
魔族の女は軽やかなステップでターンし、リーレンを向いてぱちりとウィンクした。
「もちろんよ。あたしは魔の森と人間世界の間に張り込んで、出て行こうとする魔獣を押し留める、王家直属の騎士だから!」
こんな人が。
こんな人がと思ってから、自然に「人」と考えた自分にリーレンは驚いた。
王家直属の騎士達は、皆寡黙で、武に秀でた筋骨隆々の男ばかりだった。リーレンは幼い頃に何度も脱走しては、騎士に首根っこを引っ掴まれて王城に戻された。生贄を逃すまいと必死だったのだ。
だから騎士なんてものは大嫌いなのだが、この魔族の騎士にはあまり嫌な感情を抱かない。
「もう少し速く歩ける?」
「いえ……靴も、婚礼用のものなので」
「ほんと! 踵が高くて、華奢で可愛い! ちょっと急ぐから、あたしに捕まってね〜」
言うが早いか、魔族の女はリーレンの腕を取った。
びゅん、と左右の景色がいきなり流れた。気付けばリーレンは、女に抱えられて宙を飛んでいた。
厳密に言うと飛んでいたのではなく、枝から枝に凄まじいスピードで飛び移っていたのだが、人間であるリーレンには感知できなかった。
「着いたわ」
止まったのは、石造の大きな城の前だった。ここへ来て漸く、リーレンは周りにも家々が広がっていくことに気付いた。城の周りに広がる城下町。森の奥深くに魔族の国があるというのは、本当だった。
速度の落差に茫然としているリーレンを抱えたまま、女は城の中に入っていく。
「何だ、それは!」
「人間よ。可愛いわよね!」
「ああ、可愛い。綺麗だ」
門番、馬番、騎士、メイドなど、城で働く人々が順繰りに顔を覗き込み、微笑んで入れ替わる。
魔族は皆、黒い肌と赤い目を持っていた。けれど目の奥に宿る光には、害意は感じられない。
「人間が来たと聞いたぞ。なぜ私に先に報告しない!」
「あ、魔王様。すみません、あんまり可愛くって」
「可愛い、だと?」
このやりとりの最中にやっと、リーレンの足は床を踏んだ(今まで、女の強靭な腕でずっと抱えられていた)。
顔を上げると、目の前には背の高い青年がいた。肌こそ黒くて目も赤いが、既に魔族を何人も見てきたリーレンには、彼が非常に整った顔立ちをしているとわかった。
その赤い瞳が、とろりと甘い光を宿す。
「何と美しい……」
魔王は片膝をつき、リーレンの手を優しく取った。白い指先に、黒い唇をそっと寄せる。
「斯様な美しい存在を目にできただけでも、生涯の喜びだ。美しい少女よ。元来た場所までお返ししよう」
「この子、魔王様の嫁になりに来たそうですよ」
「なにっ!」
ぱっと顔を上げてリーレンを見た魔王の、その顔は喜色に満ちていた。
リーレンが一切の事情を説明すると、魔王は先代魔王の申し出に頭を抱え、「しかしお陰で美しい娘が私の嫁に」と悶え、「あまりにもかわいそうだ」とまた悶えていた。
「私は大丈夫です。魔王様に嫁ぐために、ここへ来たので」
リーレンが言うと、魔王は喜んで言葉にならない声をあげ、リーレンを強く抱きしめた。
「リーレン、愛している」
「……私もです」
妻になるなら、そう言わねばならない。リーレンが返事をすると、魔王は「無理をしなくて良い」と切ない笑顔を浮かべた。
それからと言うもの、リーレンは至れりつくせりの生活を味わった。魔族とほとんど同じ食事をするとわかってからは、毎日毎日、城で食べたものより美味しい食事が出た。服こそ黒いものだったが、布をたっぷり豪奢に使った素晴らしいドレスを毎日着せられた。
「本当に重くないんですか?」
「全く。魔族の体が強いのは、君を膝に乗せるためだったのだろうな」
リーレンの定位置は、王としての職務をこなす魔王の膝の上。魔王はリーレンを常に抱き抱えながら、書類の整理や陳情への対応をしていた。
その働きぶりは、人間の王とも全く遜色がなく。魔族の国も、人間のそれとあまり代わりがなかった。
何より、背後から抱きしめる魔王の温もりは、リーレンを心からほっとさせた。
魔族達との暮らしは、何も憂うものがなく、幸せだった。
ある日、優しい手つきでリーレンの髪をすいていた魔王が、はたと手を止めた。
「どうされましたか?」
リーレンが問うと、彼は髪を一束、リーレンにも見せる。
黄金の髪の中に一筋、黒い糸のような髪が含まれている。
黒い髪は、魔族の証。
「この森が黒いのは、瘴気が濃いからだ。私達魔族は元は人間だったが、瘴気の中で暮らすうちにこのような姿になったと言う。リーレン、君もだ。このままでは、私たちと同じ姿になってしまう」
──だから君は、やはり人間の町に戻った方が良いのではないか。
魔王からの提案はあまりにも衝撃的で、リーレンは我が耳を疑った。
戻りたいはずがなかった。魔族達と共に暮らすうち、リーレンには彼らへの情が生まれていた。魔族の方が、人間よりも遥かに情に厚い。生贄にするためにリーレンを育て、存在を粗雑に扱ってきた人間より、魔族達の方がよほど話が通じた。
何より魔王のことを、リーレンはもう心から慕っていた。無償の愛をリーレンに注ぎ、いつでも優しく守ってくれる。親に愛されなかったリーレンにとって、魔王の愛は心から欲していた、幸せな愛だった。
戻るわけがありません、と言いかけたそのとき。
王の居室の扉が、勢いよく開いた。
人間側から、武装した兵が攻め込んできている──というのだ。
訳もわからず、魔王と護衛の騎士は武装を固め、戦の支度を始めた。それは、王城に初めて流れるぴりついた空気だった。
「君も行くか」
と言った魔王の問いの意味は、わかっていた。人間達が攻め込んできたとすれば、リーレンは人間と接点が持てる。帰るなら今しかない、という訳だ。
「行きます」
リーレンが答えると、魔王は悲しげに顔を歪めた。
二人の会話はそれだけで、行軍は慌ただしく行われた。元々魔族は、人間よりも強靭な肉体を備えている。あっという間に、森の端まで辿り着くのだ。
リーレンは、人間達の元に戻る気などさらさらなかった。むしろ、身勝手に「和解のため」とリーレンを生贄にしたくせに、身勝手にその和解を破ってきた人間に腹を立てていた。
攻め入ってきているのは、父王の兵の筈だ。事情を知り、一言言ってやりたいという怒りの気持ちだった。
敵意のある人間の前に姿を現すことは、恐ろしくはなかった。何があっても、魔族の皆は自分を守ってくれると信じられたからだ。
「何用ですか」
魔の森の内と外で対面した人間の軍勢と、魔族の軍勢。その間に、魔族の女騎士と共に姿を現したリーレンを見て、人間の騎士は色めきたった。
「姫様!」
一歩踏み出てきたのは、顔に何となく見覚えのある騎士だった。
「姫様に、隣国オスダールから婚姻の申し込みが来ております。請けねば、私たちの国に攻め込んで来るというのです。奴らは、姫様が既に魔の森に入ったことをなぜか知っていて──国のために、来てくださらないか。醜い魔族よりも人間との婚姻を望むだろうと、国王からのお達しです」
「は?」
呆れてものも言えないリーレンに、今度は魔族の方から声が飛んできた。
「君の意思に任せると、話をつけてある。戻りたいのならいいんだよ、リーレン」
その甘く優しい声こそ、愛しい魔王のものだった。
「姫様、どうぞお戻りください。刑期が終わったと思って」
刑期、だと?
リーレンは頭がびりびりとした苛立ちでいっぱいになった。
きっと、刑期という言葉は彼らが内々に使っていた言葉なのだろう。昔からの約束で魔族に嫁ぐ、可哀想で忌まわしい娘、リーレン。
人間達と暮らすより、魔族達と暮らす方がずっと良かった。大体、人間のあの顔は何だ。真っ白くて、ぼんやりしていて。魔族を見慣れたリーレンには、異様に見える。醜いのは人間の方じゃないか。
魔王と幸せに暮らしていたリーレンを、またも脅かすのか。苛立ちの次は、怒りだった。オスダールは、武に秀でた強国。娘を魔族に嫁がせたなど恥でしかないからと、どうせ父王は内密にしていたのだ。そこを突かれ、無理な婚姻を要求されたのだろう。
リーレンを嫁として差し出せなければ、国は攻め込まれる。だから帰ってこいという訳だ。
──結局私は、便利な生贄のままなのね。
人間は、自分達のことしか考えていない。リーレンの答えは、決まっていた。
「リーレン。悩む必要はない。私は、お前が幸せならばそれで良いのだ」
リーレンの怒りによる沈黙を、別の意味として受け取ったらしい魔王の、優しい言葉。愛するからこそ自由を与える、魔王の情の深さ。人間よりもよほど、魔族の方が思いやりがある。
リーレンは顔を上げ、今度こそはっきりと宣言した。
「お断りします」
「なっ……さては魔族め、姫様を洗脳したな? やれ! 姫様を奪還するのだ!」
合図によって兵士達は剣を掲げ、攻め込んでくる。さすがのリーレンも、押し寄せる兵の圧に怯んだ。その体が、ひゅっと持ち上がり──抱きすくめられた。
「リーレン。私を選んでくれるのか」
「当たり前です。私はずっと、あなたの腕の中にいたいのです」
ぎゅう、と。息が詰まるほどに抱きすくめられるリーレンの背後で、ガシャッという金属音がした。
「?」
「リーレンは見なくて良い。そうとわかれば、このような者達、さっさと追い返そう。──皆の者! 殺してはならぬぞ、気を失わせ、戦力を削ぐのだ!」
魔族の有する肉体は、人間のそれより強靭だ。本気を出した魔族の前には人間の騎士も太刀打ちできず、気を失った兵達の体があちこちに倒れ伏した。
彼らが戦意を喪失したのを確認してから、魔族達は魔の森に帰る。リーレンは、魔王の腕の中にいた。
「本当に良いのか?」
魔王の赤い瞳が、不安げにリーレンの目を覗き込んでくる。
「良いのです」
答えると、抱きしめる腕の圧が強まる。
このやりとりは、もう十度目にもなる。自分の存在を喜んでくれる魔王の反応が、リーレンには幸せだった。
はらり、と乱れた自分の髪を、リーレンは整える。黄金の髪には二筋、黒い糸のような筋が入っていた。
濃い瘴気に晒されると、体が魔を帯びていく。それは、リーレンも例外ではなく。
「私が魔族の体になっても、魔王様は愛してくださるのでしょうか」
ぽつり、とリーレンが呟くと、魔王の歩みが止まった。違和感を覚えて彼の顔を見る。その顔は、悲痛に歪んでいた。
「当たり前じゃないか。私は君を愛しているんだよ、リーレン」
はらり、と舞い落ちる薄黒の花弁がリーレンの髪に落ちる。
ふわっと吹く風の中に、花の甘い香りが漂う。
黒い唇と、薄桃色の唇が合わさり。リーレンは、花開くように笑った。
「私もです、魔王様」
黒く深い魔の森にも、花開く季節が訪れていた。
拙作「『命知らず』の騎士様は、鼻の利く『魔女』を放さない」の遥か未来のお話です。宜しければ、そちらもどうぞ。