『やっぱ最後はざまあだな!』『訴えてやる!』映画、ネバーエンディングストーリー
(* ̄∇ ̄)ノ ファンタジーを書きながら、ファンタジーってナンダ? と考えてみて、思い出したこと。
物語のラストで、あまりにもヒドイ終わり方をしていたために迷作として記憶に残る物がある。
私にとって、その中でも不動の1位がスーパーファミコンのゲーム『フロントミッション』である。
あれは無い。再結成すんな。主人公はそのまま夕日の中へと消えていってくれ。なにやってんだ主人公、と、モニターの前で脱力した。
映画の中で、ひどいラストを見せてくれたのが、『ネバーエンディングストーリー』
こちらもその終わりかたに、主人公、オマエ、なにやってんの? と呆然としてしまう。
映画『ネバーエンディングストーリー』は1985年公開。当時の最高技術で作られた映画で映像美は素晴らしいものだ。
異世界ファンタージェンの美しい風景に独自の不思議なクリーチャー。幸運の竜にロックバイターや大きなカタツムリなど、ファンタジーならではの見てワクワクとするものが詰め込まれていた。
個人的に言えば、一人で冒険の旅を続けるアトレーユがカッコイイ。映画の美少年と言えば、アトレーユのことを言う。
そしてこの映画『ネバーエンディングストーリー』は、そのラストのヒドさに原作者が訴えて裁判になった作品だ。
■映画と原作
原作はドイツのミヒャエル・エンデの児童文学。
『Die unendliche Geschichte』
1979年刊。これを『はてしない物語』と翻訳したのが翻訳家、佐藤 真理子。
『はてしない物語』作中のファンタージェンの女王、
『Die Kindliche Kaiserin』
直訳ならすると、『こどもっぽい女帝』というところだろうか。これを『幼ごころの君』と訳すという素敵なネーミングセンスで『はてしない物語』を名訳の一冊とした翻訳家。
後にミヒャエル・エンデはこの翻訳家、佐藤 真理子と結婚する。なんだかドラマチック。
話を戻して映画と原作の違いに。
ざっくりとまとめてしまうと、この『はてしない物語』の前半部分をもとに作られたのが映画の『ネバーエンディングストーリー』
映画をヒットさせるために監督がてこ入れし、大きく原作から改編したところがある。
■改編部分
原作者ミヒャエル・エンデが訴訟する程に怒りを感じた映画のラスト。
このラストを含めて『はてしない物語』の後半部分が大きく変えられたのだが、この後半部分にミヒャエル・エンデが子供たちに伝えたいところがある。
それをまるっとカットして、主人公をいじめたイジメッ子にざまあしたらウケるだろ、となったのが映画版。
ファンタージェンという異世界を、アトレーユと共に冒険する現代のいじめられっ子の主人公バスチアン。
様々な困難に想像の力で虚無からファンタージェンを救い、代わりにアウリンに願う度に現実世界の記憶を失うことに葛藤する。
アトレーユという異世界の友に救われ現実世界へと帰還した主人公バスチアンは、様々な苦難を越えて人間として一回り成長している、ハズ。
それが映画版では、本の中からドラゴンが出てきて、現実世界を飛び回り、ドラゴンの力でイジメッ子をやっつけて、ドラゴンに乗る主人公が笑顔で『ざまあ!』と笑う映画のハッピーエンドは、原作者ミヒャエル・エンデには、とうてい受け入れられない。
このラストシーンをカットすることをミヒャエル・エンデは訴えたが裁判の結果はエンデの敗訴。
ミヒャエル・エンデの名前を映画のオープニングから外すことで和解したという。
■売れる映画の為の改編
エンターテイメントとして見るなら、説教臭いところは全面カットし見映えの良いものにすることで売れる。
映画『ネバーエンディングストーリー』は興業的に成功し、その後、続編も作られた。
しかし、そこにミヒャエル・エンデが子供たちに伝えたいテーマや哲学は消えている。原作後半部分はバッサリカットだ。
児童文学として売れた『はてしない物語』これを『ミヒャエル・エンデの世界的ベストセラーを映像化、ファンタジックSFX超大作』として作られた映画は、小難しいところを大胆にカットすることで、エンタメに特化し興業的に成功を納めたことになる。
良い作品と売れる作品は違う、というのは度々議題に上がるものではある。
娯楽映画に求められたものを重視した監督、ウォルフガング・ペーターゼンが原作を改編。
そして児童文学として伝えたいテーマを蔑ろにされたミヒャエル・エンデの怒り。
どちらも良い物を作ろうとしているのは同じだが、その目的が違っていた。
■良いものと売れるものの違い
良いものと売れるものは必ずしも一致しない。日本でよく売れる食事が良いものとした場合、赤地に黄色の看板のお店のハンバーガーが日本で最も優れた料理となる。だからと言って究極の日本料理がハンバーガーだ、という意見に賛成する人は少ないだろう。
『ネバーエンディングストーリー』は、観客に映像美でファンタージェンという幻想世界にワクワクさせ、ラストはイジメッ子にざまあする爽快感に特化して観客を楽しませようとした。
『はてしない物語』は入り口こそ不思議な世界に迷い込むストーリーだが、一人の少年の葛藤と成長、親友との友情と対立から、主人公バスチアンが成長する物語。
どちらも目指した良い物語の目的が違っている。娯楽として良いもの、と、教養としても良いもの、の違いがある。
■ざまあでスッキリ
娯楽映画として『ネバーエンディングストーリー』は興行的に成功を納めた。
難しいことを考えず、ラストは借り物の力でやり返す。原作を知る人からは、
『バスチアンは、のび太以下か……』
という声も出た代物ではあるが、特徴的なメロディに合わせた主題歌とともに当時のヒット作である。
また、ここには対象の違いというものもある。
■ファンタジーの効能
ファンタジーには二つの効能があるのではなかろうか。
ひとつは娯楽として、異なる世界を覗くようにひととき現実を離れて楽しむというもの。ストレスの多い社会の憂さ晴らし、分かりやすい勧善懲悪などに爽快感を感じるもの。いわゆるエンターテイメントとしてのもの。
もうひとつは寓話的に考え方や生き方を違う視点で見つめ直すもの。
■ファンタジーにできること
『いまファンタジーにできること』
著者:アーシュラ・K.ル=グウィン
出版社:河出書房新社
『ゲド戦記』の作者による評論『いまファンタジーにできること』にファンタジーについて書かれている。これはファンタジーを描く人は一度読むことをおすすめしたい書籍。
ファンタジーとは、善悪の違いを教えるだけでなく、むしろ真偽の見え方を伝える物語。また美醜の基準や善悪の境を映し出す。
人は過ちを犯し、その過ちを正そうと行動する。しかし善を求めた行動がまた不幸になる人を産み出す。だからと言って善を求める人は絶えず現れて、その行動に人は称賛や嫌悪を感じる。
リアルを描けば現実の社会は袋小路に行き詰まり、ディストピアとなってしまう。広大なる自然とそこに生きる人たちを見つめるファンタジーは、動物が喋り、重力を無視して人が空を飛ぶ。しかしその中で人の行動を色濃く映し出す。フィクションに映し出されるものも、人の意思や思考の結果の行為である。
名作と呼ばれるファンタジーとは、この二つの要素、エンターテイメントと寓話を含んでいる。
故に優れたファンタジーは読み終えたときに生きる活力を得られる。
■指輪物語
この本の中で映画版の『指輪物語』が酷評されている。
映像美とエンタメの為に戦闘シーンばかりとなり、単純な善悪二原論に堕してしまっていると。ただの勧善懲悪では指輪物語のテーマから外れていくと。
■まとめ
娯楽のエンタメの為にテーマの部分をザックリカットすることで、テンポが良くなる。娯楽作品としては重要な要素になる。
ただ、契約書の不備から子供たちに伝えたいことをバッサリ消されてしまったミヒャエル・エンデの怒りはどれほどのものだったのだろうか。
物語はこの世に数多くある。受け手はその中から自分に合うものを選ぶ。ストレスフリーでスカッとするものも良い。しかし流行りだからと似たようなものばかりとなると、バリエーションが少なくなる。それはマニアにとって不満となる。
小説家になろう、のランキングに対する不満が度々エッセイに上がるのもこれではないだろうか。
時を置いて『ネバーエンディングストーリー』の中で何が記憶に残っているかというと。
幼ごころの君の美しさ。
アトレーユがカッコ良かったこと。
そしてラストのバスチアンの笑顔に残念な気分になったこと、である。
逆に言えば、バスチアンのざまあ、と、『フロントミッション』の、キャニオンクロウの再結成だ! は、この残念感があったからこそ記憶に残っているともいえる。
これはこれで人の記憶に残る迷作だ。