逆説的 詩
J.S.Bach - French Suites
を 聴きながら
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>『クラリネットは過去の印象に過ぎない。
過去の、自分だけの印象にしか過ぎない』
というご指摘はすごくえぐっているように思います。
つまり、ぼくは、このクラリネットという詩で、何も表現しなかったのです。
でも、それを過去ととらえる方がいらっしゃったことに少し驚きました。何故ならその方の思考の針は時計は先へ動き続けているように思えるからです。
どのような方でも先は存在します。いくら止まっていると言い張っても歳はとりますし、身体は細胞を新しくし続けます。それは息を止めるまでずっと。
でも、それは身体のしくみに過ぎないと言えば、言い方がひどいでしょうか?そこに知能は要らないのです。
ここに何も表現しなかったクラリネットの在り方を見て、何かを思考された方がいらっしゃったのなら、その方は、その表現をしない表現になにを刺激されたのでしょう?私は思います。刺激されたのはその方の知能と好奇心ではないかって。
表現されたもの表現され続けるもの、その主体となる者に知能があろうがあるまいが、そこに形が存在し、それが動き続け、それが他者の好奇心を刺激し続けるのであれば、それが他者の知能を刺激し続けるのであれば、その作品は、そこに知能を見る者にとって、不要なものではないのです。
これは逆説的な表現であるといえるとぼくは思います。ぼくは時折、こういった遊びをしてみたくなります。
たとえば、他に意味を持つ固有名詞を全く関係のない文脈にぶちこむとか、
今回のように表現のない表現に表現をみれるのかを個人的に見たくなって弄るとか、
つまりは、逆説的な遊びです、入り口と出口は違っていても、過程が似通る場合があると思えるような遊び。
それは、トンネルを通り抜けるときの好奇心を刺激するそれに似ているような気もします。
ぼくは、遊びたい。その遊びは
きっと、表現でなくとも表現であり続ける
そういったもののような気もします。
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有難う御座います。お言葉嬉しいです。
ぼくは、常日頃から、自分自身は、本当に出来が悪いと思っています。頭も悪いですし、性格もおかしいと思っていますし、あらゆる部分でぼくは自身に対して、何故もっと能力がないのか、と失望し続けています。
この作品をぼくが書いた経緯は、そのぼくの根源の部分にあります。ぼくは、能力の低い自分自身を貶す一方でそのような自身を慰めたいとも思えているのだと思います。それは、ぼくの暗い願いであり、暗い喜びでもあるように思います。つまりはぼくは、自身を貶しながらもそれでもよいよと言ってあげたいのだと思います。
このようなぼくの湿った根源の不安に寄り添ってくださろうとする、鋭い感性、感受性を持たれる知的な視点にぼくは、脱帽せざるをえません。こんな表現のない表現に対して、その根底に隠された気持ちを読み取ろうとされるその深いさんの感受性が
ぼくは、ぼくの作品よりもずっとずっと美しいように思えます。真摯で美しいお言葉を有難う御座います。
凄くうれしかったけれど……気持ちを開陳することがひどく気恥ずかしくてすぐに出来ませんでした。
申し訳ありません。有難う御座います。失礼致します。
PS.ぼくもすごくむずがゆい、です。有難う御座います。