泣きっ面にたぬき
その空間には、何もなかった。空も地面も草木もなかった。
ただ、周りが淡いパステルカラーに光っていた。それはピンク、黄緑、水色とまるでイルミネーションの様に色が移り変わっていた。
そのだだっ広い空間の中心部で、一人の少女が肩を震わせて泣いていた。
「うっく、ひくっ、ひっく」
嗚咽と言うよりしゃっくりの様な泣き声を漏らす少女は、未だ十才にとどくかどうかも怪しい小さな女の子だった。
目に痛いほど鮮やかな赤を帯びたランドセルを背負い、彼女にとっては少し大きな黄色い帽子を被っていた。帽子からは艶やかな黒髪が出ている。
だが、帽子の下を覗いてみると、そこには涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった少女の泣き顔と、びしょびしょに濡れた袖口。
もう体の水分があらかた放出されたのが見て取れる少女は、未だ泣き続けていた。
「うぇふ、ひゅっく…」
歳の割には静かな泣き声は、彼女の性格を表しているようで、何か寂しさのようなものが感じられた。
このまま永久に響いていそうなその小さな泣き声は、
「ピューピューピュー…」
突然どこからか鳴り始めた口笛によってかき消された。少女は泣くのを止め、俯いていた顔をあげた。涙で濡れた瞳に、優しいパステルカラーが映る。
そして、その口笛が奏でる曲に聞き覚えがあることに気づいて呟いた。
「きらきら星…」
先週音楽の授業で習ったばかりの記憶に新しい曲だった。その彼女の呟きに呼応するように口笛が大きくなった。空間に反響する『きらきら星』に、少女は耳を傾ける。
『きらきらひかる おそらのほしよ まばたきしては みんなをみてる きらきらひかる おそらのほしよ』
余韻を残さずに曲が終わった瞬間、シャボン玉がはじけるようにパンッと何もなかった空間に何かが現れた。
それは…一言で言えば、『たぬき』だった。一言で言えば。
と言うのも、色々とそのたぬきには普通ではないところがあったのだ。
主に不思議なのは、体が淡いピンク色なのと、二足歩行で立っていること。
腹の毛は柔らかそうなクリーム色。そのつぶらな瞳は透明感のある黒で、空間に散らばっているパステルカラーを綺麗に映し出していた。
現実にいるたぬきと言うより、絵本やイラストで描かれる空想の中のたぬきのようだった。
そのたぬきは少女を視界に捕らえると、無言で親指を立てた手を突き出した。
たぬきの奇妙な出で立ちと奇行に唖然とする少女をよそに、たぬきは少女に近づく。その歩みは極めて珍妙だった。まるで水面にひょっこりと顔を出した飛び石の上に飛び乗り移る様に、丸々とした体を弾ませて向かってくる。そして少女の前に来たところで、
ベチャンッ!
そこにぬかるんだ地面でもあるかのように派手に転んだ。それを見た少女は、不信感を募らせていた目を見開くと、
「…アハハハハハハハ!」
大声で笑い出した。笑いつつもたぬきを指さして、かわいいだの、面白いのだのと言っている。
警戒心や涙はどこへやら。お腹を抱えて笑い転げる彼女を、むくりと起き上がったたぬきはキョトンと見つめていた。
「アハハハ、ああ、おかしかった」
ようやく息が整い、笑いが止まった彼女は、満面の笑みで
「ねえねえ、あなただあれ?」
と無邪気に聞いた。するとたぬきはきちんとした日本語で答えた。
「わかんない」
「なんで?」
「それもわかんない。でも、君と話せば分かる気がする」
鈴を転がしたような快い声音で話すたぬきに、少女はすっかり打ち解けたようで、変なのと笑うと、
「いいよ。話してあげる」
「ありがとね」
感謝を述べたたぬきは、どこか無表情だった。
「それで、何が話したいの?」
少女の問いに、たぬきはあごに手をあてて少し考えるような仕草をした後、
「どうして泣いてたの?」
「えっ?」
思ってもみなかった質問に、少女はかすかに狼狽する。だが、やがて渋い顔をすると、
「私ね、死んじゃったみたいなの」
僅かな苦笑を唇に乗せて言った。その答えに、たぬきは詳しく話すよう促すような視線を送る。
その視線を受け止めた少女は、昨日かずっと前か分からないけど、と前置きして話し出した。
「学校から帰る道の横断歩道を渡るとき、横断歩道の向こう側にね、マキちゃん達がいたの」
小学生と言っても、子供の世界は十分怖い。リーダー格のマキちゃんに、コッチにきて一緒に帰ろうと言われたら、一人で帰りたいなどと言えない。
「それでね私、嫌だなって思いながら下見て、信号見ないで飛び出しちゃったの」
視界が真っ暗になる寸前に見えた、怪物の様な大きなトラック。真っ赤に光る信号。マキちゃん達の呆然とした顔。
「気がついたらここにいたから、多分死んじゃったんだよ」
「ふうん」
悲哀の色が見て取れる彼女の顔を横目に、たぬきは生返事を返す。そして、更に質問を投げかける。
「死ぬと、どうして泣くの?」
「えっ、えっと…」
想定外の質問の連発に、少女は口ごもる。そして、ちょっと考えると、
「ママとパパに会えなくなるから…」
「ウソつき」
遮ったたぬきの言葉に、少女はビクリと肩を一瞬震わせた。
「本当はママとパパなんか会いたくないくせに。二人ともいつもケンカばっかりしてるから」
大きく目を見開いた少女は、無表情で淡々と話すたぬきを凝視する。
「なんで…知ってるの?」
「どうしてだろうね、でも、僕は君のことなら何でも知ってる気がする」
意味深なことを言った後、
「さあ正直に答えて。どうして、死ぬと悲しいの?泣くの?」
急かすように再び問いかけてくる。その気迫に若干気圧されながらも、少女は一生懸命考える。
「と、友達に会えなくなるし、ご飯が食べられなくなるし、テレビが見られなくなるし…」
「ウソつき、ウソつき、ウソつき」
しどろもどろになりながら発した言葉は、全てたぬきに切りかえされる。
「友達といるの面倒くさいって思ってて、全部適当に話を合わせてただけじゃん。ママのご飯も、給食も好きじゃなかったじゃん。好きなテレビなんてないじゃん、ママとパパのケンカが見たくなくて、とりあえず見てただけじゃん」
「……」
黙りこくる少女に、たぬきはもう一度語りかける。
「ねえ」
本当は何が悲しくて泣いてたの?
もう、少女は答えられなかった。
その通りだ。何かをするのは、別の何かをしたくないときだった。やりたいと思ってやったわけではなかった。
なら自分は何がしたかったの?何が悲しかったの?何が楽しかったの?
何が…、何が何が何が何が何が何が……。
「…わかんないよ…」
俯いた少女の頬を、涙がゆっくりと滑り落ちていく。
「もう、わかんないよ…」
その涙は、先ほどのように悲哀だけを象ったものではなく、戸惑いや、迷いなど様々な感情に彩られた綺麗な涙だった。透明な液体に、温かいパステルカラーが映る。
その顔を見たたぬきは、ちょっと目を細めると彼女の頭を撫でて、
「ごめん、言い過ぎちゃった」
「うん…」
「僕ね自分のことは分からないけど、君のことはわかるんだ」
「うん…」
「きっと、そんな難しいことじゃないんだ、君が泣いたのは」
「……」
「簡単で、単純な答えなんだよ。君はきっと…」
命を失ったのが悲しかった。
その言葉に、少女の涙で濡れた瞳がたぬきの微笑みを映す。
「そうでしょ?」
「…うん」
少女は素直に頷いた。
そう。そうだ。自分は命がなくなったことが悲しかった。
呼吸をしたり、何かに触れたり、手足を動かしたり…。
そういう普通のことが、自分は結構好きだった。
自分は命を持続させるために生きていた。
心の中を、晴れやかな気持ちが覆っていく感覚に、いつのまにか彼女の涙は止まっていた。そして、こう口にした。
「もう一度生きたいな…」
命を感じたいな。
すると、たぬきが目を細めて、じゃあそうしようと呟くように言った。
「出来るの?」
「元々、君は死んではいないしね。少し目を閉じてごらん。僕が君の意識を病院で寝てる君の体に戻してあげる」
「あ、待って」
少女はたぬきを止める。
「ねえ、どうして私の事を全部知っているのに、泣く理由を聞いたりしたの?」
その問いに、たぬきは少し困ったような顔をする。
「なんでかな、僕も分からないや。けど…きっと、君に自分の感情に気づいてもらいたかったんじゃないかな?」
「感情…」
その答えに少女は少しの間考え込んでいたが、やがて顔を上げると、
「ねえ、私、分かっちゃった」
「何が?」
「ここのこと。ここは、『私の心の中』なんだよ」
そう、パステルカラーの服が大好きな自分、この間、近所の川の飛び石で遊んだこと、きらきら星を習ったこと…。すべて、自分の中の大切な思い出だった。
「じゃあ、僕はなあに?」
自分を短い指で指して首を傾げるたぬきに、少女は言う。
「あなたはきっと、『感情』。だから、私に自分の感情に気づかせるために、あなたが出てきてくれたんじゃないかな」
「…ふうん、ぴったりだね」
たぬきは少し眉を下げて続ける。
「僕は感情の上に感情を上乗せして、自分も他人も騙すペテン師…。昔から人を化かしてばっかりのたぬきにはお似合いかもしれないね」
ペテン師という言葉の意味は分からなかったが、たぬきの言いたいことは大体分かった。
「じゃあ目を閉じて。君を送るから」
「…ねえ」
「何?」
「私は…感情好きだよ」
だってとっても綺麗だから…。
たぬきは小さく笑ってありがとうと言った…と思う。目を閉じた彼女に、『う』の字は聞こえなかった。
沢山のお店が建ち並ぶデパートの一角。母親の後ろを、クリーム色やピンク色、エメラルドグリーンなど、色とりどりに飾られたショーウィンドーを見まわしながら、高校の制服に身を包んだ少女が歩いていた。
その足が、ある一つの雑貨屋の前で止まる。店頭にある棚に置かれた物を、少女は凝視する。
それは、淡いピンク色をしたたぬきのぬいぐるみだった。大きさはバスケットボールくらい。丸々とした体に、突き出たおへそ。黒々としたプラスチック製の目には、ショーウィンドーの鮮やかなカラーが映っている。少し間が抜けていそうなその姿は、とても可愛らしかった。
少女はそのぬいぐるみを優しく持ち上げ、そっと胸に抱いてみる。体温などあるわけがないのに、そのたぬきは不思議と暖かみが感じられた。
「ちょっと、サキ。何してるの?」
立ち止まった少女に気づかず、先に行ってしまった母親が戻ってくる。
「もう、心配したでしょう?まったく、小学生の時みたいに事故に遭ったりしたら、ママ、もう身が持たないわよ」
「…ねえ、ママ」
少女は、母親のため息が聞こえていなかったのか、自分の腕の中にすっぽりと収まったたぬきのぬいぐるみを母親に見せた。
「これ、知ってる?」
「え?あら、かわいいわね。知ってるって?」
「なんか…見覚えある気がしたんだけど…」
「そうねえ…。あ、そう言えば、三才くらいの頃に、あなたがこんな絵を描いてたわね」
「え、そうなの?」
「ええ」
母親が、昔を懐かしむように遠くに目をはせて微笑む。
「ほら、寝る前にママが即興の作り話してあげてたでしょう?その中で、たぬきが森の仲間に、人間が攻めてくることを話しても、たぬきはウソつきだからって、信じてもらえなかったって話があったでしょう?あの話を聞いた後に、サキったらわんわん泣いて、『自分は絶対にたぬきさんの話をちゃんと聞いてあげる』って言ってねえ、その後にこんな絵を描いてたわ……」
たぬきさん、あなたはペテン師だから、私の話し相手に選ばれたんじゃなかったよ。
再び歩き出した母親の後を追いながら、少女は棚に戻したたぬきのぬいぐるみに、心の中で語りかける。
私はもう大丈夫。だから、今度は別のたぬき好きさんを、励ましてあげてね…。
「サキー!早くー!もう、パパとの約束の時間、過ぎちゃってるわよう!」
「今行くってー」
走り出した彼女の背中を映したたぬきの目は、ほんの少し潤んで見えた。
おしまい