果実
冷たい雨の降る、暗い夜のことである。一人の下人――否、すでに主人から暇を出されて十日になるからもはや下人とは呼べない一人の男が、木の洞で雨やみを待っていた。洗いざらした紺の襖をかき合わせて、冷えた風に逆立つ産毛を隠すようにして首を縮めた。暗闇の中でじっとしている男は、さらに手に持った聖柄の太刀を引き寄せて胸に抱き込む。男の身を守る唯一の物であり、男がまだ死人でない唯一の証である。
男が辻風や飢饉で衰微した京の都を離れてから四五日も過ぎていることだろうか。男は長年仕えていた主人に暇を出されてしばらくは都のうらぶれた羅生門の下で過ごしていた。盗人さえ寄り付かないと言われていた羅生門の楼にいた死人の髪を引き抜く老婆を見て以来、男は何としてでも生きねばならぬと思った。その時の男は飢餓と病に倒れる人々の中に、いずれ自分も混ざりやがては鴉にその身を啄まれていくことだろうと思っていた。門の下で、その時も偶さか雨やみを待っていた男は盗人になるか飢え死にするかの瀬戸際に立たされていたが、都の並々ならぬ衰微から飢え死にもまた已む無しと思っていた。ところが生きるためだと言いながら浅ましく死人の髪を引き抜いている老婆を見た男は、腹の底からまんじりと湧き上がる怒りを抑えられなかった。老婆の着ていた物を引き剥いだ男は踊るように楼から駆け下り、夜の闇を駆けた。盗人になっても、生きねばならぬ。男はそう思い、飢えと病の都を離れて自然に身を任せることにしたのだ。それが、所謂四五日前のことである。
痩せた山犬の肉を食らい、小さく硬い木の芽を食らった。男はただ生きることに貪欲になった。
外で草木を叩く雨の音が強くなっている。この頃はほとんど一日中冷たい雨が降っている。山犬や野党に遭うことは少なくなるが、弱った男の体には障る。それでも男は生きることを諦めず、目の奥は獣のように光っていた。男はさらに紺の襖をかき寄せた。腰を下ろしている木の肌はひやりと冷たく、既に手足の感覚はない。雨の音に耳を傾けていると、次第に男の意識がぼやけてきた。明け方の霧が朝の光に溶けゆくように意識が散っていく。男は生きることに貪欲であったが、男の体を蝕む疲労と冷えに打ち勝つことは並大抵のことではない。男の意識が緩やかに眠りへ落ちていく。老婆との出会いにより生まれた強い思いも、日を経るごとに薄らいでいるのを男は感じていた。それゆえ男は何としても生きねばならぬと思っていたが、再び引剥ぎをする気にはなれなかった。
鴉の声も聞こえない洞の中で、男はまどろみながら一人の女を思い起こしていた。
男が下人であった頃、その女と出会った。所謂同じ主人に仕える下女であり、仕える者としての身分は同じであったが、荷物持ちをする下人と異なり、下女は家の中のことをしていた。ところで荷物持ちをしていた下人が何故聖柄の立派な拵えの太刀を持っているかと言えば、これもまた盗み得たものだからである。下女は下人よりも一つか二つ歳が上だと聞いた。油が少なく乾燥した筆の毛先のような髪を背中で一つに結っている、額にいくつも面皰のある女だった。目は細く骨が張っていてふくよかとは縁遠い、美しいとは言い難い容貌である。しかし下人より長く仕えていたために家のことを多く知っており、少ない接点の中で下人に教えてくれたものである。
下人の右の頬にある面皰がまだ大きくなかった頃、下人は主人から下女の手伝いを命じられた。荷物を運ぶ力仕事であり、下人にとってはいつもと変わらないことであった。度々見かけていた下女を近くで見るのは初めてであったが、下人は額の面皰ばかりを見ていた。二人が初めて言葉を交わしたのは、雲が重く垂れ込み、昼間から鴉の声が不吉に聞こえている日であった。主人に申しつけられた厨へ向かうと、下女が背を向けて立っていた。小さく丸まった背中を覆っているのは下人同様に洗いざらした黄蘗の小袖である。裾から伸びる細い脹脛がいやに白かった。下人は目の前にある駕籠を両手で抱えながら下女に声をかけた。
「これを運べば良いな」
常より低い声が出たことに驚いた下人であったが、それ以上に驚いたのは下女の方であった。炒り豆のようにぱちりと両肩を跳ねさせて振り返る。脹脛と同じくいやに白い顔で、墨で線を引いたような切れ長の細い目と額の面皰が印象的だった。下女は言葉を失ったように下人をじっと見つめていた。下人もまた、何故か下女のことを黙然と見つめていた。それからしばらくは互いの顔を見つめ合っていた二人であるが、ようよう下女が下人の持っている駕籠を見て口を開いた。
「駕籠を、運んでくれるか」
「そうだ。どこへ運ぶのだ」
「倉へ――ああ、いえ……いえ、倉へ」
下女の細い目が何度か瞬きを繰り返した。下人はその言いように苛立ちを覚えた。右の頬に痒みを覚えてむずむずと駕籠を抱え直す。
「おい、倉か、倉でないのか、どうなのだ。どちらか」
畳みかける下人の言葉に、下女は俯く。下人に駕籠の中身はわからなかったが、厨にある物であるからには食べ物であろうと思われた。しかし香を焚きしめた着物のように甘く芳しい香りがする。否、香というよりは、熟れ過ぎた果実が放つ甘ったるい香りのようだ。鴉の声が聞こえる。駕籠の蓋を開けでもすれば、忽ち群がり啄むのであろう。右頬が痒い。下人は駕籠を抱え直した。
「倉へ……」
「応」
蚊の鳴くように小さく細い声を聞き取った下人は一言返事をすると、下女に背を向けて厨を出た。駕籠の中で重い音が転がる。この頃はあまり都の衰微も甚だしくなく、辻風が流行り始めた頃ではあったが、下人が暇を出される心配をしなくとも済む程度であった。主人の荷物持ちで通りを歩く時、道端に横たわる人々を見た。しかし下人には関わりのないことであったし、自ら関わらぬように主人に戒められてもいた。それから長く都に凶が続くとは、その時の下人は毛ほども思わなかったのである。
下人が倉に着くと、主人が立っていた。倉の戸は開け放たれており、中は薄暗く暗澹としている。下人は言われるままに駕籠を倉の中へ置くと、右の頬を何度か強く掻いた。少し前から下人の頬にできた面皰は既に何度か潰されて瘡蓋を作っている。瘡蓋に爪を立てながら下人は主人の差し出す果物を受け取った。熟れて軟らかくなった柿は、駕籠から取り出されてますます芳しい。鴉に盗られぬよう懐に仕舞い込む。紺の襖が少し膨らみ、肌に触れる柿の実がひやりと冷たい。下人は主人に頭を下げると、倉を離れた。もう駕籠を持っていないのに下人からは甘い香りが放たれている。香りにつられた鴉が数羽、下人の頭の上を飛んでいる。騒がしいほどに鳴き立てる鴉の声にいやなものを感じた下人は足を速めて厨へ向かった。
厨には下女の後ろ姿がある。何をするでもなく立ち尽くしている下女の白い脹脛が下人の目につく。黒い毛束、黄蘗の小袖、白い脹脛を見ていると、下人の胸の内に何かまんじりとした言いようのない感情が湧き上がってきた。襖の中で転がる柿の香りが甘く鼻をかすめる。外で鴉が鳴いている。下人は右の頬に痒みを覚えて爪を立てて掻いた。
「おい」
下女を呼ばうと、外から低く鈍い音が聞こえた。下女が振り返ると下人も振り返った。厨の外の地面に黒い染みができる。再び地鳴りするような音が聞こえたかと思うと、途端に大きな雨が降り注いできた。地面が見る間に黒く染まっていき、外の景色が白く煙り始める。下人の懐から甘く立っていた香りは雨の匂いに打ち消されている。頬の面皰を掻きながら下人は再び厨を振り返った。下女が下人を驚いたように見つめている。下人は紺の襖から熟れた柿を取り出して下女に向かって差し出した。冷えた空気が下人の頸を撫でて身震いをする。
「やる」
下人はただ、下女に向かって腕を差し出した。叩きつける雨の音の中に、腹から響くような雷の音も聞こえる。下女は黙って下人と、下人の手に握られた柿を見ている。下人は、下女の目を逃れるように顔を伏せた。右の頬の面皰が疼く。差し出した手から重さが消えると、下人は裾を翻した。雨の中に飛び込むと、面皰など気にならなくなった。
それから一月ほどして、下女は死んだ。辻風だった。
男は無理に瞼をこじ開けた。いくらか眠っていたようである。吐く息の白さが目に映る。雨は未だ止まぬようであったが、それでも幾分かは落ち着いたようである。
死んではならぬと、今一度、男の内に強い思いがふつふつと湧いてきた。引剥ぎをしてでも生きねばならぬ。男は聖柄の太刀を両腕にしっかりと抱き、木の洞を出た。外に広がる闇に、男の足は躊躇いを覚える。そこへ、幽かだが、甘く腐った果実のような匂いがかすめた。男が歩き出す。しとどに濡れる右頬に面皰はない。男の姿は、黒洞々たる山中に消えていった。
男の行方は、誰も知らない。