あ゛ー、胃が痛いよぉ……
「ふふふ……はははははっ!!」
「凛、笑ってないでさっさと手を進めてください。気持ち悪いですよ」
「すまん。…………ふふっ、ははは!!」
白百合学園のとある部屋。
普通の教室とは少し違って本棚にファイルや本がずらりと並んでいる部屋。
この部屋に入る資格を有する人間はそう多くない。
ただ、その資格を持っていることについて羨ましがられることは少ないし、入ったところで面倒くさい仕事に追われるだけなのである。
そんな部屋で2人の少女が書類と格闘していた。
この戦いは最終下校が近い時間になっても終わりそうになかった。
「もう、誰のせいで18時まで残って仕事をする羽目になっていると思うんですか」
「だからすまん、ふふふ……」
「次、笑ったら頬を引っ張りまくりますよ」
「そ、それはやめてくれ、止めるから……」
一瞬でシュンと縮こまる凛には何かトラウマでもあるのだろうか。
冷たい視線を送ってくる静香を明らかに恐れている。
生徒会役員である御津凛と灘崎静香は膨大な仕事に追われていた。
それはある役員がある部活を潰そうと無駄に頑張っていたり、廃部がほぼ決定的になれば毎日その部活にちょっかいを出しに行っていたりしたからである。
それが故に、自分の成した仕事に満足して全く集中出来ていない凛とそれを怒りながらも手伝う静香の図式が作られたのだ。
正に、遊び過ぎて宿題を溜めてしまった8月末の小学生と、それを怒りながらも手伝う母親の様で。
凛のどこか子供じみた雰囲気、静香の大人びた空気がそんな景色を連想させる助けとなっていた。
「ほら、この書類がまとまったら、次の全校集会の資料を作るんですよ。ニヤニヤしている場合じゃないですよ」
「あ、うんそうだな。だが、あの赤羽根未来にようやく勝てるんだからな!! こんなに楽しいことがあるか?」
凛は心底楽しそうに笑った。
さっきから手が進んでいないのは彼女の脳内がテニス部のことでいっぱいだからである。
「本当に楽しいなぁ、未来ったらどんな顔するんだろうなー。余裕ぶっていたら本当に自分の部活動が廃部になってさぁー」
「シャーペンを両手に持ってドラマーの真似している場合じゃないですよ、仕事終わるまで椅子に縛り付けますよ」
静香はどこからともなく手頃なロープを取り出すとすっと凛の背後に立った。
「え、本当にやるのか」
「当たり前じゃないですか。ぐーるぐる、ぐーるぐる」
「待てっ、おい、やけに丁寧に巻くのは止めてくれ!」
泣きそうな凛を見て流石に可哀想だと思ったのか、静香はしぶしぶと手を止める。
だが、その手に縄は握られたままですぐにでも再開しようとしているのは目に見えていた。
「しかし、そんなに赤羽根さんのことを恨んでいるのですか?」
「当たり前じゃないか。あんな辱めを受けておいて許せる人間なんて聖人君主じゃあるまいし」
「……確か、凛が赤羽根さんにテニスでボロ負けしてから逆恨みしていて、そこから生徒会に入ってテニス部を潰すのに日々邁進していたんでしたっけ?」
「それだと凛が全面的に悪いみたいじゃないか!」
静香の攻撃的な言い方に凛は思わず叫んだ。
だってそうですし、と静香は唇を尖らせる。
「でも、よっぼどですよね。その恨みを、テニスで未来さんに勝つことで昇華させる正当な道ではなく、生徒会役員になってテニス部を廃部にすることで自己満足を得る邪道を進むだなんて」
「さっきから凛がとても悪く言われている気がするんだが!?」
だってそうですし、と先ほどの巻き戻しを見ているようなセリフと仕草に凛は叫ばざるを得なかった。
「勝負に正しい道も邪道な道も無いだろう? そりゃ反則はダメだが」
「私は、凛のやり方は反則スレスレだと思っていますがね」
「そうかなぁ?」
結局、書類をまとめる手が進んでいない凛に静香は呆れてしまう。
白百合学園の生徒会は部活動のように希望すれば誰でも入れる。
会長職こそ選挙で選ばれるものの、その他大勢になる部分は生徒の自主性と奉仕精神に任されている仕組みである。
だから、単にイベントを考えて実行するのが好きな生徒もいれば、内申点を上げるために活動をする現金な者もいる。
正直に言うと静香は後者で、自主性はあっても奉仕精神の欠片もない人間なのだが普段からの敬語口調とそれなりの成績のお陰で周りからは真面目で優等生だと思われていた。
そんな静香が凛と仲良くなったのは自分とは全く違うモチベーションで生徒会活動に参加する凛の考えに興味を持ったからである。
自分の在籍していたテニス部を廃部にするために生徒会活動をする――静香には発想も出来ないであろう理由だった。
そもそも部活動の廃部にまで生徒会が口出しできる立場ではないのだが、凛は最初から諦めることは無かった。
まず、部活動が活動停止になった過去の事例を調べ上げて、どんな事由ならばそうなるのかを徹底的に洗い出し、自分の手で誘導できるような物は無いかと考えた。
幸い、テニス部は凛が在籍していた頃から部員数が少なかったし、現在の部員は2人だけだった。
あとは新入生が4月に入部しなければ活動停止に出来ると凛は確信していた。
新入生が間違ってもテニス部に入部しないように、絶妙なラインで未来の悪い噂(実体験)を流布して回った。
それが功を奏したのか、今年テニス部に入ったのは2人。
本来、部活動のラインとしては2年連続で部員が5人以下だと活動停止だったので凛の悲願は達成されたも同然だった。
「別に大声でテニス部を誹謗中傷したわけではないし、流した噂も実体験だし」
「うーん、まぁそれはそうですけど」
納得のいかない表情を見せる静香に凛も同じような納得のいかない表情を見せた。
「なんだ、静香は不満なのか?」
「いいえ、不満とか不満ではないとかそんな問題ではありません。ただ……」
「ただ?」
凛の純粋な疑問の目に静香はその先を言うべきか言わないべきか少し悩んだ。
「いえ、何でもありません。仕事を続けましょう」
「おいおい、そこまで言って止めるのか」
「はい、止めます。仕事は止めませんが」
再び凛は納得出来ない表情を見せる。
それでも、もう静香が仕事に集中してしまったため、それ以上問いを続けることは無かった。
書類を読みながら静香は考える。
多分、これで良かったのだと。
凛がテニス部を廃部にすると宣言した締め切りの日。
テニス部の新入生たちはテニスコートでも部室でもなく、生徒会室向かっていた。
制服のままの2人はとても緊張した面持ちで、廊下を歩く。
こういったことに慣れていない2人は酷く緊張しながら歩いていた。
「あー、沙耶。取り敢えずロボットみたいな手と足の出し方は止めなさい」
「歌穂ちゃんも手と同じ方の足が出てるよ? 緊張し過ぎだよ」
「緊張なんてしてないし!」
「どうかなぁ」
その声は緊張で余裕がなかった。
いつものような間延びした声では無くなっている。
「もう、大体なんで入部したての1年生にこんなことをさせるのよっ、あの女は!!」
歌穂は怒りにまかせて、思い切り床を踏みつけながら歩く。
ダン、ダンと大きな足音が廊下に響いた。
しかし、足が痛かったのかすぐに止める。
「その愚痴、何回目か分からないね……でもその場の勢いで首を縦に振っちゃった歌穂ちゃんも悪いよぅ」
「なんですって!?」
歌穂はキッと睨みつけたが、沙耶は手足を不自然に振りながら歩くことに必死でそれを見ていなかった。
テニス部存亡の危機に対する未来の作戦を聞いたのが昨日のこと。
歌穂と沙耶が交渉役として前線に立たなくてはならない作戦で反発した2人だったが、未来に上手く言いくるめられて結局今回の“主役”として生徒会室へと赴くことになったのだ。
冷静に考えれば入部して間もない2人が部の危機に大きく関わるような役を任されるのはおかしい話なのだが、歌穂と沙耶がやらなければこの作戦は成り立たないと未来に断言されしぶしぶ従ったのである。
「ここね、生徒会室は」
「ついに着いちゃったね……」
「ここまで来たらもう腹をくくるしかないでしょ? いい、深呼吸して、これから言うべきことを確認して」
「すー、はー。御津せん、んぐぅっ!?」
「実際に言わんでよろしい」
歌穂に口を塞がれると、沙耶はよく分からない呻き声を出した。
「とにかくアドリブ禁止。いらないことは言わないこと。良いわね?」
「は、はーい」
全く分かっているんだか、と歌穂は呆れ半分に言った。
沙耶もリラックスしようと頑張っているのだが、なかなかそれは簡単ではないらしい
普通の教室とは違うタイプの木製ドアをノックする。
どうぞ、という声が中から聞こえてきた。
最後にもう一度深呼吸をして、歌穂はノブを握る。
「失礼します」
歌穂が一言告げて入室する。
凛はこちらに背を向け、外を見ていた。
お待ちしていました、と静香が頭を下げる。
「来たか。あれから部員は集まったのか?」
余裕の笑みで振り返った凛は勝ち誇っていた。
毎日のように凛はテニス部を訪れていたので、新入部員が来ていないことは分かっているはずだった。
だから、わざわざこんなことを聞くのは一種の勝利宣言なのだろう。
「いいえ、現時点では集まっていないです」
「そうか、それは残念だったな」
ちっとも残念そうではない声のトーンと笑顔で凛は言う。
「さぁ、今日で廃部になる哀れな部長はどこにいる? まさか、2人だけで来たわけでもないだろう?」
言葉はともかく、キョロキョロと嬉しそうに辺りを見回す凛の様子は本当に子どもの雰囲気を出していた。
沙耶の母性本能がくすぐられ、つい頬が緩んでしまいそうになる。
「いや、赤羽根部長も芹沢先輩もここにはいません。今日、この部屋に来たのはあたしと沙耶だけです」
歌穂の口調はとても冷静だった。
先程までの緊張していた様子が嘘のようだ。
「御津先輩、今日はお願いがあって来ました」
何歩か前に出て歌穂は凛の目を見据える。
それで何となく察したのか凛は笑みを消した。
「廃部の撤回なら出来ないぞ? もう、決まったことだからな」
そしてまた笑う。
それは勝者の余裕が携わっている悪い笑みだった。
「違いますから安心してください」
そう返答し、歌穂は刀でも構えるかのようにラケットを持ったポーズをし、その先を凛へと向けた。
実際に持ってはいなかったが、沙耶には本当にラケットを持っているように見えた。
「御津先輩、勝負です」
「は?」
凛が首をかしげても歌穂の眼差しは真剣だった。
「何を言っている? そんなことに何の意味がある?」
「いいえ、意味なんてありません。ただ、あたしが御津先輩とテニスがしたいだけです」
この会話は成立しているのだろうか。
そんなことを沙耶は思った。
「例えば、の話だが。この御津凛がお前らとテニスをしたからといって廃部を撤回したり、また凛がテニス部に入部したりすることはないぞ?」
一瞬ドキッとした沙耶だがなんとか顔へ出そうになることを我慢した。
それを察したのか、注意を逸らす為にすぐに歌穂が言葉を次ぐ。
「だからそんなことは狙ってないですって。テニスをしたいからする。それで良いじゃないですか」
微妙なレベルの営業スマイルを浮かべながら歌穂は誤魔化す。
生徒会室には微妙な空気が流れた。
「何だか腑に落ちないが……まぁ良いのか……?」
「良いんじゃないでしょうか」
そこに意外な援護射撃が入った。
凛と2人のやり取りを静観していた静香だった。
「静香?」
「良いじゃないですか、今日は金曜日。仕事も私たちの分は全て終わらせましたし。明日は土曜日ですしテニスやりましょう、テニス」
「テニスって静香は経験がないだろう?」
「余裕ですよ、少なくとも凛にはストレートで行けるかと」
「なにおうっ!?」
簡単に挑発に乗ってしまう凛。
これには沙耶と歌穂も苦笑いで、どうも御津凛は色々な方面の人に煽られるのだろうと考えてしまう。
それは怒るとツインテールが面白いように揺れて反応してくれるのが理由かもしれないし、子どものように感情を表現する姿が可愛らしいという原因かもしれなかった。
「細かいことは良いんです、さぁ行きましょう」
全く納得のいってない表情の凛の背中を、3人で押して凛をテニスコートへと連れていく。
第一段階突破。
新入生2人はそんなことを考えていた。
まだ続きます