今月末をもって、テニス部は廃部とする!
「沙耶」
白百合学園と書かれた大きな柱に背中を預けて15分ほど待っていると歌穂が現れた。
部活が終了した後、残ってくれと言われた沙耶は何ごとかと少し緊張しながら校門の辺りで待っていた。
既に辺りは暗くなっていて、風も少し冷たくなってきている。
「あ……歌穂ちゃん」
先日から名前で呼び合う仲になったことが嬉しい一方で、沙耶はまだ慣れていなかった。
何がきっかけかは分からなかったのだが、急に歌穂が「沙耶」と名前で呼んできたので、慌てて沙耶も名前呼びを始めたのである。
その名前は口にする度にドキドキして、かつ沙耶の心を躍らせるものだった。
「ゴメンね、また待たせて」
「ううん。そんなに待っていないから」
辺りが暗くて表情がはっきりとは見えないが、歌穂の声はどこか真剣味を帯びているように聞こえる。
沙耶は思わず背筋を伸ばしてしまった。
歌穂は歩き出そうとはしない。
この場で何か話をする気なのだろう。
「あのね、沙耶」
「は、はい。あっ……」
柔らかい感触が手を包み込む。
その手はとても温かい。
沙耶はどちらかといえば手が冷たい方なので余計にその温かみを感じる。
じんわりと伝わってくる歌穂の温かみは徐々に心へと伝わって来た。
「あたし……さ、沙耶のことが」
沙耶はゴクリと唾を飲みこんだ。
突然のことで頭が混乱し手を振りほどいて逃げてしまいそうになるが、雰囲気にのまれて体が全く動かない。
呼吸が正常に出来ているかも分からなかった。
「沙耶のことがっ」
距離が詰まる。
もう手だけではなく体と体が触れ合うほどに。
体の近さが辺りの暗さを上回って、歌穂の顔がはっきりと見えた。
その顔は真剣で恥ずかしそうで泣きそうだった。
ほんのりと上気した表情は同性ながらもドキリとさせるような怪しい魅力がある。
歌穂の右手が背中に回されて左手が沙耶の頬にあてられる。
沙耶は目を閉じて、これから起こることに身を任せた。
ピピピピピピピピピピ――
高い電子音が意識を一気に覚醒させていく。
目の前に広がっているのは夕闇に沈む学校でも歌穂の真剣な顔でもなく、とても見慣れた天井だった。
「ぐへ?」
間抜けな声を出しながら、周りを見渡すとこれまた見慣れた部屋が視界に広がっていた。
カーテンから射し込んでくる日光が部屋の色々なものを明るく照らしている。
さっきから鳴っている目覚まし時計をようやく止めながら、目をこすった。
しっかり寝たにもかかわらず、頭がぼーっとして簡単に起き上がることすらままならない。
「あーあ、またいいところで……」
思わず自分の唇を触ると吐息が漏れた。
未だに心臓がドキドキしているのは沙耶にあのような経験が無かったからか、それとも最近こんな夢ばかり見ているからだろうか。
どちらにしてもこんな夢ばかりを見せられて、毎回お預け状態になってしまうと心がモヤモヤしてしまう。
決まっていつも良い場面で目覚めてしまうのは誰かの意地悪なのか。
どうせ夢なのだから、最後までさせてくれれば良いのにと思う。
そんなことを考えていたらやっと目も冴えてきたのでそろそろ着替えようと布団から出る。
手繰り寄せたためにベッドに転がっている目覚まし時計を元の位置に戻した時、時計の針は7時40分を回っていた。
始業時間は8時30分、だが電車の時間が7時55分だ。
現在の時刻と自分が家を出なければならない時間を頭の中で整理して、次の行動を起こすまでに10秒ほど固まってしまう。
「ぬ、ぬわあああああああああっっ!!?!? ち、ちちち、遅刻だぁあああぁあぁぁぁぁあっ!!」
春の陽気な朝には似つかわしくない絶叫が天谷家に響き渡った。
急いでバジャマから制服に着替えようとするが、なかなか上手くいかない。
ボタンは上手く外れてくれないし、まだ片足が抜けていなかったズボンのせいでその場でバランスを崩し、ベッドに倒れ込んでしまう。
焦っている人間は普段簡単にできることさえ上手くいかないものである。
それが普段から上手く行動できない沙耶ならば当然のことだった。
クローゼットを開けて制服やカッターシャツをぽいぽいとベッドに投げながら、机の上の櫛を手に取って髪をとかす。
どちらかに絞った方が結果的に速いのではないかという考えは、今の沙耶の頭に当然ない。
普段は部屋の鏡なんかを見ながら制服に皺が無いか、リボンが上手く結べているかを念入りに確認するのだがそんな暇はない。
とにかく着替えることだけを全力で行う。
それだけに焦りまくっているのでボタンを掛け違えてしまい普段より時間がかかってしまっていることに沙耶はもちろん気が付かないのである。
「何で目覚ましがぁーっ、裏切りもの~!!」
そんな文句を言おうが、時計の針は残酷にも時間を刻んでいく。
ある程度は電車の中で直そうと最低限の着替えを済ませて鞄を掴むと、どたどたと駆け出していく。
取り敢えず電車に間に合うことが必要なのだ。
部活動でのランニングよりも速く、というよりも全速力で髪を振り乱しながら駅へと向かう。
余裕がある時は晴れ渡った青空を見上げたり、塀の上で欠伸をしている猫に微笑んだりする朝を過ごすのだが、今朝は脇目もふらず一心不乱に走る、走る。
駅員へ定期券を見せホームへの下り階段を滑り落ちるように降りている時、既に発車寸前を告げるベルが鳴っていた。
「ずみまぜぜぜえええんんっ!! 乗りまああぁぁすっ!!」
息も絶え絶えながらなんとか声を出して、飛び込むように車内へと駆け込んだ。
奇声をあげてしまったので若干駅員に引かれていたがそれは気にしない方向。
ギリギリセーフでなんとか間に合った。
「はぁ……はぁ……げほっ」
息が苦しくて咳き込んでしまう。
こんなに辛いならば、明日からは絶対遅刻しないように誓う沙耶。
襟元をパタパタとさせて風を送りながら呼吸を整える。
「あつ……」
車内の温度が異常に高く感じるのは自分が走って来ただろうか。
朝急いでいたためポケットにハンカチが入っていない。
仕方が無いのでカッターの袖で汗を拭う。
そこで初めて沙耶は自分が大変目立ってしまっていることに気が付いた。
「あ」
通勤時間帯特有の混雑した車内は当然だがサラリーマンが多い。
フラッシュバックだなんて大それたことではないのだけれど、大勢の男性の近くにいると嫌でも“あの時”のことを思い出してしまう。
触られてもいないのに、気色の悪い感覚が身体を通り抜ける感覚。
そのまま何処かへ通り抜けてしまえば良いのだけれど、生々しい悪寒は沙耶の内側で渦巻いていた。
走ったことによって赤く染まっている沙耶の頬に一筋の汗が流れる。
しかし、その汗は走ったことによるものではない。
過去の嫌な体験を思い出してしまったが故に流れた冷や汗だった。
「いや……」
誰に発したわけでもない、小さな悲鳴が漏れる。
自分の腕で自分の身体を抱くようにして、なるべく人の集団から離れるように電車のドアにもたれ掛かる。
何だが背骨が抜かれてしまったように足に力が入らない。
一度落ち着いていた呼吸がまた荒くなってしまう。
「もう、何やってるのよ」
「ひうっ!?」
ドアの方を向いていたので、背後から突然腕を掴れたことに気が付かず驚く。
こちらがバランスを崩すのもお構いなく、強く腕を引かれた先にいたのは呆れた顔の歌穂だった。
「沙耶、駆け込み乗車はダメってことを知らないの?」
「あ……ご、ごめん」
「あたしに謝られても困るわよ」
嘆息する歌穂へ反射的に謝ってしまった。
何も考えずに頭を下げるので、満員電車なんだから考えなさいよ、と歌穂は怪訝な顔をする。
それがまた沙耶を慌てさせることになるのだ。
「えと、ごめんね」
「だから、あたしに謝るなっての」
「いたっ」
何度も謝る沙耶にしびれを切らしたのか、歌穂は沙耶の額を指で弾いた。
日に焼けていない沙耶の白い額に少し赤くなる。
――――この先、電車が大きく揺れます。
お立ちのお客様はご注意ください、と車内アナウンスが響く。
額をさすっていた沙耶は不意を突かれてバランスを崩し、歌穂へ寄りかかることになった。
「ちょっ、重いって」
「ご、ごめ……」
偶然にも歌穂に抱きかかえられる形となる。
夢で見たように歌穂からは、ふわっと良い香りがした。
そして、夢のように体同士が密着する状態に沙耶の心臓が強く跳ねる。
それはただ単に密着しているからだけではなく、自分の体を支えてもらっている、つまりは自分の危機を助けてもらっているからでもあった。
混雑した電車の中で周りから守られるように抱きかかえられると頬がつい緩んでしまう。
「っていい加減、自分の力で立ちなさいよっ」
「あ、う……ごめん」
とても、とても名残惜しいがいつまでも彼女に頼っているわけにもいかず、吊革につかまった。
それでも歌穂との位置は近いので沙耶のドキドキは止まらないままである。
最近は、あんな夢ばかりを見ていたので余計に意識してしまうのだ。
電車に揺られながら、鼓動を落ち着かせていると歌穂が肘でつついてくる。
「沙耶は痴漢の経験があるんだからもうちょっと警戒した方が良いわよ。男なんて所詮エロいことしか考えてないんだから」
「それもどうかな……極論だと思うけど」
「なに? 痴漢の肩を持つわけ?」
「そ、そんなこと言ってないよ!」
今朝の歌穂はどこか角が立っているように見える。
何か余計なことを言って怒りを買いたくない。
近くに歌穂がいて色々と話せるチャンスなのだが、とりあえず駅に着くまでは何も言わないことにした。
目的の駅に着いて蒸し暑い空間から解放されると、人の波が沙耶たちを運んで行く。
自動改札機に定期券をタッチして立ち止まっても他の人の邪魔にならない場所まで移動する。
「はぁ……電車通学って大変だねぇ」
動物の大群のように歩いて行くサラリーマンやOLを見ながらしみじみと呟く沙耶に、歌穂は彼女の背中を何回か叩いた。
「ホラ、まだ今日は始まってもいないんだから。行くわよ!」
「はーい」
身体的には少し疲れていたが、精神的には歌穂と一緒に登校出来たことで充足していた。
隣に歌穂がいる。
ふと、その手が目に入って思わず握ってしまいそうになった。
それをギリギリのところで踏み止まって自制する。
現実世界の私たちは、まだ名前で呼び合うだけの友人関係で朝から手なんて握ったら気持ち悪がられるかもしれない。
「なに? 人の手なんかジロジロ見て」
「あっ、いや、なんでもないよ!」
「人の顔をジロジロ見る人間は会ったことがあるけど、手をジロジロ見る人間には初めて会ったわ。あたしの手、何かおかしい?」
「全然おかしくないよ!!」
両手を振って誤魔化しながら、何もないことをアピールする。
まさか手を握りたいと考えていたとは言えない。
「は、はやくしないと学校に遅れちゃうよ?」
「沙耶がそれを言うか……」
注目されたことで気になったのか掌の裏表を確認する歌穂を、今度は沙耶が促して学園へと走り出した。
「んーと、何にしようかなー。ここはスポドリ? でも、なんか炭酸飲みたい気分でもあるんだよねー。でも、普通にオレンジジュースでもー」
「あぁ、もう、優柔不断ね!! さっさと選びなさいよっ」
「えー急かさないでよ。悩んでるんだから」
部活が終わったので沙耶は歌穂と一緒に自動販売機コーナーに来ていた。
食堂に隣接しているこの場所は様々なメーカーの自動販売機が並んでいる。
学生にとって優しい、定価より20円引きの価格設定になっているので全生徒にとって、特に放課後遅くまで部活動をしている生徒にとって憩いの場になっていた。
入学して間もない沙耶たちでさえ気軽に利用できるのが特徴である。
現在も沙耶たちの他に何人かがそれぞれジュースを片手に談笑していた。
沙耶たちは近くのベンチに並んで腰掛けた。
結局、コーヒー牛乳を選んだ沙耶はストローで茶色の液体を吸い上げながら満足気な気持ちに満たされる。
ペットボトルのスポーツドリンクに口をつける歌穂はその様子を見て少し呆れた顔をした。
「なーんか、幸せそうね」
「そりゃそうだよ。一生懸命やった練習の後に、冷たくて甘いコーヒー牛乳を飲めるなんて世界一幸せと言っても過言じゃないよ」
「そーいうこと言える性格も含めて幸せなんでしょうねー」
わざとらしく間延びしながら言う歌穂。
沙耶はそんな少しバカにした口調にも気が付かず足をパタパタ動かす。
「あ、そう言えばさ」
「何よ」
唐突な沙耶の切り出しに、ペットボトルのキャップを手で弄びながら歌穂は相づちを打った。
「テニス部、大丈夫なのかなー」
「どういう意味?」
「だって、私と歌穂ちゃん。それと部長副部長の4人しかしないんだよ? 霧崎さん曰く、吹奏楽部なんて50人以上入部したって」
「いや、吹奏楽部と比較したらダメでしょ」
白百合と言えば吹奏楽部、と言われるほど凄いことは沙耶も知っていた。
入学の歓迎式で吹奏楽部の演奏を聴いたが、あれは単に年齢と練習を重ねただけでは到達しないであろう領域であると理解出来る完成度だった。
「別に吹奏楽部とテニス部を比較しているわけじゃないけどさー。この前部長が、このままだと廃部って言ってたから気になっちゃって。一応、2人プラスされたわけだけど」
「まぁあの女の言うことは本気にしない方が良いけどね。あー腹立つ」
「もう、あの女って」
歌穂は、先輩でしかも部長である未来のことを“あの女”呼ばわりする。
よっぽど、この前の試合で負けたことが悔しかったのだろうか。
あの後に部室で歌穂と未来が2人きりで話したことは歌穂本人から聞いている。
内容は教えてくれなかったが少なくとも仲直りしたのだと思っていた沙耶の推理は外れていたようだ。
「でも、別に焦ってもなかったし4人いればセーフなのかなー?」
「あたしに聞かれても知らないわよ。気になるなら聞いてみたら? まぁ本当に廃部だとしても正直には話してくれなさそうだけど」
「もっと部長のことを信頼しなよ、きっと悪い人じゃないよ?」
歌穂と未来の関係もなかなか雪解けしないだろうなと感じる。
もっと仲良くなって部内のみんなでどこかへ遊びに行こうと提案したら歌穂は着いて来てくれるか少し不安になる。
沙耶は底に残ったコーヒー牛乳を全て吸い出すために容器が凹むほどストローを強く吸った。
ズズッと濁った音が響く。
「そろそろ時間だから行くわよ。あたしは沙耶みたいにダッシュしたくないから」
「あはは……耳が痛いよ」
時計を見ながら立ち上がる歌穂を見て、飲み終わった紙パックを潰してゴミ箱に投げ入れる。
既にペットボトルを部活用のスポーツバッグに入れて歩き出している歌穂の背中を追った。
掃除が終わった後、隣のクラスの歌穂と合流した沙耶はそのままテニスコートへ向かった。
校舎からは少し離れている目的地までの移動は大変だけれど、それも歌穂と一緒ならば楽しい。
最近、知り合ったばかりの仲なので聞いてみたいことのストックには欠かない。
それでも今日は、今日の話をするのが自然になる出来事があった。
「んで、桜子ったら諦めが悪くて」
「確かに凄く白熱してたね、今日の体育」
歌穂が得意そうに言うと、沙耶は苦笑いをした。
道すがらの話題は3時間目の沙耶と歌穂のクラス合同で行われた体育について。
白百合学園の体育はいつも2クラス合同で行われる。
担当の体育教師は若い女性で、年齢が近いこともあって生徒から人気がある。
しかし、理由は分からないが今日はテンションが異様に低かった。
表情に覇気がなく、何か嫌なことがあって塞ぎこんでいる人間でなければ、あのようなことにはならない負のオーラをまとっていた。
その為、授業内容が前回通りの集団行動ではなく何故だかドッジボールになった。
本来、その日の教師のテンションで授業内容が変わるのはおかしいのだが、退屈な集団行動よりはドッジボールがマシだと考える生徒が多数だったので特に抗議もなく授業は進行する。
高校生にもなってドッジボールもやる気は出ないところだが、昼井門桜子と早見歌穂にとっては大変盛り上がる競技だった。
お互いに勝負がしたい2人はクラス対抗になる流れをぶった切って、近くの人間と2人組になってグーとパーを決め、出した手によってチーム分けをする方式を提案した。
ある程度の年齢になると目立ち過ぎる人間は疎まれてしまうものだが、他のクラスメイトは何だか仕切っているなぁと思いつつ火花を散らしている桜子と歌穂の様子がどう見ても面白いので乗ることにしたのである。
もちろん、沙耶もその1人だった。
桜子と歌穂は当然別のチームになり、それぞれのコートへ40人近くがうじゃうじゃと入って試合が始まったのだった。
「それにしても沙耶ったら当たるの早すぎじゃない?」
「仕方無いよぅ。あんなに人数がいたら避けれないって」
「そうかな?」
「最後の1人まで残ったスポーツ万能さんは例外だけど」
ドッジボールは数が多ければ有利なわけではない。
沢山いればいるほど、逃げ場所が無くなってしまうのである。
沙耶は昔からドッジボールは避ける派だったので、大人数のコートでは上手く逃げられず開始1分で外野へ出ることになった。
ボールを持った桜子に見事な狙い撃ちをされ、背中と足への1人ダブルヒットを決められての離脱である。
だが、沙耶のような人間は珍しくなく逃げ場の無いコートでは誰かが投げる度に誰かが外野へと出ることになった。
1度に2人へボールが当たるダブルヒットも珍しくなく急激に数が減っていく。
10分ほどその状態が続けば、コート内にいるのは開始時の4分の1である10人ほどになった。
ここまでくれば外野の人員が豊富になり、3方向からボールが飛んでくるので、より素早い動きが要求されるようになる。
それでも安定して回避するのが歌穂であり桜子である。
決してボールから目を離すことなく、タイミングを見極めて外野のボール回しをカットする。
両チームのエースは当たり前のように最後まで残り、そこから本当の戦いが始まるのだった。
「まさか、1対1になってから20分も使うなんて思わなかったよ」
「あたしとしては1投で決めるつもりだったけど、そう上手くはいかなかったわ」
それでも、歌穂の声が弾んでいるのは勝者の余裕からだろうか。
結果的にドッジボールは歌穂側のチームが勝利したのである。
1対1になってから、試合はそれまでの投球とは2段階ギアが上がった桜子の1投から始まった。
それを体全体で受け止めた歌穂は投球を焦ることなく、バスケでやるようにその場でボールを何回かバウンドさせ、2段階ギアが上がった投球をする。
それまで機能していた外野にお互い頼ることなく、あいつを仕留めるのは私状態の2人は1球1球全力を出して相手の胸へと投げ込んだ。
まるで避けたら負けのルールでもあるかのように、少し狙いを外して足を狙いに行く手段も使わず、ど真ん中のストレート縛りの勝負を展開していく。
それを見ていた外野のクラスメイトはゲームの参加者ではなく、単なる観客と化していた。
「いけっ、桜子!! 二中の意地を見せたれー!!」
「早見さん、頑張れーっ! 絶対、負けないでよ!!」
「どっちもいけー!!」
「昼井門さんに100えーん!!」
「私は、早見さんに100円!」
「うーん、どっちに賭けようか。身長的には桜子有利……?」
そんな声があがっていたことを沙耶は覚えている。
単なる応援だけではなく、2人を対象とした賭け事まで始まり体育館は異様な熱気に包まれていた。
それは、体育など興味なく早々にボールに当たって外野に出て、他のチームにも関わらずコートの中心線を挟み、まるで天の川を隔てている織姫と彦星のようにイチャイチャしていた霧崎棗と星瀬川瑠衣もその決着を思わず見守ってしまうほどの盛り上がりだった。
歌穂がボールをキャッチすれば歓声があがり、桜子がボールを身体で受け止める度に驚きの声があがる。
しかし、そんな熱戦は長く続かずお互いに肩を大きく動かして息をしていた。
授業の終了時間も迫り、そろそろ決着の時間だと悟った2人はもう1段ギアを上げ、本当の全力で投げ続けた。
その激闘の結果、歌穂の投げたボールが桜子の手をスルリと零れるように落ちて決着が着いた。
時間にして約20分。
お互いにその場へ倒れ込んだ2人は盛大な拍手を貰って、そして満足げに笑っていた。
「でも、あそこまで全力でやらなくても良いんじゃない? ただの体育なのに」
「そうだけどね。でも桜子はどんなに小さな勝負でも勝ったらウザいから」
鼻歌を唄いだしてしまいそうに元気な歌穂。
それに苦笑いをしながらも、お互いに話し込んでいると長い距離もあっという間に終わってしまった。
テニスコートに着いた2人を待っていたのはテニス部長の赤羽根未来でも、副部長の芹沢菫でもなく、眼鏡をかけた見慣れない女性と、
「あれって中学生?」
「んー、なんでだろ。迷子かな?」
どう見ても同級生には見えない背丈の少女が何かの紙を見ながら話し込んでいた。
しかし、2人は小声で話していたつもりだったのだが、その“中学生”は“中学生”というワードに鋭く反応した。
「中学生!? 中学生だとっ!!」
「あー。聞こえてたみたいだよ、歌穂ちゃん」
「そうね。あたし何故だか知らないけれど、すごくこれから面倒なことが起こりそうな気がするわ」
フェンスの外にいた歌穂と沙耶に嚙みつかんとするように走り寄って来た。
「今、中学生といったのは誰だ!!」
「あ、えーと。誰でしょうね……」
「凛は中学生などではない。凛は2年生だぞ!」
「中学?」
「高校!!!!」
顔を真っ赤にして怒り狂っているちびっこを見ながら沙耶と歌穂は困惑していた。
同級生と比べても決して背の高くない2人と並んでも、頭1つほど高さが違うその少女はどう考えても先輩とは考えられない。
確かに背丈だけが人を判断する材料ではない。
だが、凛と名乗ったその少女は透明なピンクのキューブが付いたヘアゴムだったり、どう見ても子どもが欲しいおもちゃを買ってもらえない時に騒いでいるような怒り方だったりが、身長以上に子どもっぽさを演出している。
もっと大人っぽい人間――例えば、赤羽根未来や芹沢菫のような大人びたスタイルの人間の横に立てば良くて妹、下手すれば娘に見られるのではないかと思ってしまうほどである。
「ぬ、お前は早見歌穂だな! 今日の体育は良いものを見させてもらった。ドッジボール1つであそこまで熱くなれるとはこちらも思わなかったぞ」
「は、はぁ……」
「え、えと、凛……さん。テニス部に何の用で? もしかして入部希望……ですか?」
自分より明らかに背の低い人間に呼び捨てタメ口で呼ばれる違和感を軽く超える驚きが歌穂の中にあったようで言葉が出ていない。
一方、その様子を見ていた沙耶は小声ながらも勇気を出して質問をした。
「お、そうだったの。凛が来たのは他でもない」
そう言いながら、凛は腰に巻いた小さな鞄からごそごそと何かを取り出した。
それはA4サイズの紙で、印刷された字が細かく並んでいる。
詳しく読もうと近寄る2人に凛はビクッと体を震わせ慌てて用紙を隠すと、高らかにこう宣言した。
「今月末をもって、テニス部は廃部とする!」
小さな体の割に周辺によく響いたその宣言は沙耶を驚かせるのに充分な台詞だった。