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決戦当日!!

「はぁ、この1週間結構練習して来たけど勝てるのかな」


 歌穂は夕暮れでオレンジに染まっている空を見上げながらふとそう呟いた。

 川原にあるテニスコートから見る夕日は、川に反射してキラキラと光っている。

 この川原には歌穂が昔から利用しているテニスコートがあって、見慣れたこの風景が彼女は好きだった。

 練習後のほどよい疲れを自動販売機で購入した冷たいスポーツドリンクがリフレッシュしてくれる。


「どうだろうねぇー」

「どうだろうねぇー、じゃないわよ。明日は絶対に勝つんだからねっ」

「うーん」


 歌穂にはどうも沙耶が呑気に見えてしまう。

 最初の頃は、何を呑気な事を――と怒っていたのだが、もうすっかり沙耶のマイペースに慣れてしまっている歌穂である。

 この1週間は打倒赤羽根未来だけを考えて歌穂は生活してきた。

 自由な時間は全て沙耶との練習に費やし、帰宅してからもSNSを使って作戦会議を行いテニス技術の向上に捧げた。

 また、それだけではなく敵城視察という名目で白百合学園のテニスコートに潜入したこともある。

 潜入といっても歌穂たちは白百合学園の生徒なのだから隠れる必要もないのだが、全ては未来たちに見つからないため。

 そこから彼女たちのプレイのクセやあわよくば弱点なんかを見付けられれば良いと思っていたのだ。

 妙に勘の良い未来によって隠れていたことがバレってそれは空振りに終わったのだが。

 とにかく、動機はどうであれ人生の中で一番テニスに情熱を傾けたかもしれないと歌穂が感じている。

 それでも未来たちに追いついたとは思っていない。

 最初は沙耶のせいにしていたが、自分の方もテニスに関してかなりのブランクがあり思い描いていた動きとは程遠かった。

 頭の中ではあと2歩先に踏み込んでいるはずなのに、足が追いつかない。

 もっと良いコースにサーブを打ち込めるはずなのにどうしても甘くなってしまう。


「でも、赤羽根先輩も芹沢先輩もつよそーだし」

「それでも勝つの! あの女に目に物を言わせてやるわっ!!」

「あはは、早見さんの目的がもう分からなくなってるね」

「ふん、勝てばいいのよ、勝てば」


 そう、勝てば何もかも自分の思い通りになる。

 テニスじゃなくても他に運動部は沢山ある。

 特別、テニスにこだわらなくても良いじゃないかと歌穂は自分を納得させた。


「そうだ、早見さん」

「なに?」

「えと……早見さんは、明日の勝負に負けたらテニス辞めるの?」


 どこか悲しげな言い方をする沙耶を見て、歌穂はドキッとさせられた気がした。

 脳内で考えたことが声に出てしまっていないかビクビクする。


「……どうしてそんなこと聞くのよ」

「だって、そう言うことになるのかなーって」


 果たして目の前にいる少女は自分の何を探りたいのかと歌穂はついつい勘繰ってしまう。

 この1週間2人で過ごした時間が多かったので沙耶のことをなんとなく悪い人ではないと感じた歌穂だったが、警戒するに越したことは無い。

 今まで簡単に人を信じてしまって失敗したことは多々あるのだから。

 もうあんなことは繰り返したくない。

 思わず拳を力いっぱい握ってしまう。

 だから、そのほんわかキャラとは似合わない少し神妙な面持ちの沙耶に歌穂は軽い話をするように自嘲気味に笑って見せた。


「そうね、白百合に来た時点で半ばテニスのことは諦めていたし」

「え……でも」

「なに?」


 少し語気を強くして牽制する。

 沙耶は何も考えていないように見えて、強く出られると弱い人間なのだと歌穂は分析していた。

 そうでなければ3日連続の痴漢被害に遭って黙っているわけがない。


「えと、その早見さんって私の2つ後の駅で降りているんでしょ? なら城西学院とか近いのかなと」

「あー」


 共感するようなフリをして、無駄に感情を表へ出さないように努める。

 疲れているとどうも頭が働かないので、妙な事を口走ってしまいそうだ。


「でも、白百合への憧れも捨てられなくってさ」

「あーわかるー!!」


 歌穂が一般的な視点で話を合わせると、沙耶はそう言って目を輝かせた。

 警戒し過ぎだったかな、と歌穂は肩の力を少し抜く。


「凄いよねー白百合。敷地が広くて、設備も充実してて、それに制服も可愛いし」

「確かにそうよね。ここらの私立高校だと1番人気」

「それにね、通っている人もすごい人ばかりで。同じクラスの霧崎さんって人がねー」


 テンション高めの沙耶に若干気圧されつつも歌穂は話を合わせ続けた。

 どうやらその霧崎というクラスメイトはかなり凄いらしい。

 美人で頭が良くておまけにフルートも上手い。

 そんな小説の主人公のような人間が白百合にはいるそうだ。

 そういえば桜子も、何でも出来る友人がいるとかなんとか言っていた気がする。


「まーそりゃ頭良い人多いわよ。テストも難しいらしいし」

「そーだよねー、私なんかよく合格したなーって思う」


 呑気そうに語る沙耶を見ながら、歌穂は話を元に戻す。

 これ以上話すとボロが出てしまいそうだ。


「とにかく、明日は頑張るわよ!」

「うん!」

「じゃあ今日も帰ったらメッセージ送るから。今日は明日のこともあるから早めに済ますけどね」

「りょーかい!!」


 最近では日課のようになっている2人の間での反省会。

 これも今夜で最後になると思うと、清々するようで少し名残惜しい。

 最初は沙耶に対して悪態を吐きまくっていた歌穂だが、思い返すとこの1週間はとても充実していた。

 それは好きなテニスに全力で取り組めたからでもあるが、何の気兼ねもなく友人と交流が出来たからなのかもしれない。

 そんな柄にもない自己分析をしながら沙耶と一緒に駅へと向かうのであった。





「良く来たわね、逃げなかっただけ褒めてあげるわ」

「ふんっ、誰が逃げるですって?」


 いよいよ決戦当日。

 白百合学園のテニスコートでは早速、歌穂が部長である赤羽根未来と火花を散らしていた。

 それを呆れたように見ている芹沢菫と、喧嘩は良くないよぉと慌てている沙耶も一緒である。

 大事な試合の日ということで天気も空気を読んだのか空は雲一つない快晴だった。

 だから授業が終わった4月の16時過ぎにもかかわらず陽射しが強い。


「試合はこの前も言ったけど3セットマッチね。審判はいないけれどズルなんてしないでしょ?」

「あったりまえよっ!!」


 歌穂が自信満々に返す。

 もちろん歌穂はズルをする気など更々無かった。

 そして、目の前にいる性悪女が、いくら人を騙すことに快楽を感じてしまうような女だからといってもテニスに関して誤魔化しを働くことはないだろうと見学の際の未来の姿を見て歌穂は感じ取っていた。


「あと、約束覚えているわね? 私たちが勝ったら天谷さんと早見さんにテニス部へ入ってもらう」

「ふん、それくらい覚えていますよ。あたしたちが勝ったらテニス部になんて入らないって条件も含めてね!」

「そう、それならいいのよ」


 未来はそれを聞いてニヤリと笑った。


「今なら許してあげても良いのよ、早見さん? 今なら土下座で許してあげる。あ、天谷さんはしなくても大丈夫だからね」

「なーんか、余裕かましてますが本当は負けるのが怖いんじゃないですか、赤羽根センパイ?」

「そうねー。試合後、あなたに泣かれるのが怖いかなー」

「誰が泣くもんですか!」

「別に泣いてもいいんだけどねぇ」

「ムカつく顔するわねっ!!」

「どう? 私きれい?」

「最高にムカつきますッッ!!!」


 そんな試合前の挑発合戦は、菫が2人の間に割って入るまで続いた。

 菫曰く、体力と時間がもったいないとのこと。

 それでも未だに嚙みつく歌穂と、闘牛士のように余裕でかわす未来の口喧嘩は続いたが、最終的に沙耶が歌穂の腕を引っ張って行くと流石に試合が始まることになった。

 ジャンケンの結果、サーブ権は歌穂からだった。

 レシーブ側の未来を睨みながらボールを何回かバウンドさせる。

 思えばお遊びの試合とはいえ、実戦でのサーブは久しぶりである。

 少しの不安と、それ以上のドキドキ感があった。


「行くわよ――――ふんっ!」


 軽く真上に投げたテニスボールが高い位置でラケットに弾かれる。

 打ち下ろされたボールは思った通りの場所へ吸い込まれていった。


「あらあら、早見さんのサーブはこんなものかしらっ!」


 しかしサーブの到達点が予想されていたのか、軽いステップで回り込んだ未来に軽々とレシーブされてしまう。

 ある程度は予想していたが、その所作があまりにも軽々としていて余計なことを考えていまい、反応が遅れた。

 とても自分がカバーしきれない場所へのリターン。


「え、えいっ」


 これは沙耶に任せるしかない。

 しかし、危なっかしげに返されたボールはとても甘いコースと高さに落ち着き。


「甘いっ!!」


 何とかしなければとレシーブの体勢を整える前に、菫の放った強い打球がコートへと突き刺さった。

 気が付いた時には後ろの金網にまでボールが転がっていた。


「くっ」

「は、早見さん、ごめん……」

「謝っている暇があったら、集中する!」

「う、うん!!」


 やはり1週間の付け焼刃では駄目だと歌穂は感じた。

 ダブルスでは自分がカバー出来る範囲は限られている。

 焦ってはダメだ、自分こそ集中しなければと思うが、考えれば考えるほど泥沼に嵌まっていく気がした。


「くそっ!!」


 さっきの2割増しの力を込めてサーブを打ち込む。

 しかし未来の時と同じく菫にも簡単にレシーブされてしまった。


「はぁ……はぁ……はぁっ!」


 ブランク、経験や年齢の差――色々な言い訳が頭の中に浮かんできたが、それが糧になるわけもなく、ポイントを取られ続ける。

 結局自分のサービスゲームを1ポイントも取れずに終えてしまった。

 テニスで動き回ったからではなく、焦ってしまったが故の汗が額に滲む。

 たった1ゲームのことで大きく体力を消耗してしまった。


「あら、もうお終いかしら?」

「誰がッ……そんなこと……っ」


 その反論の言葉に先ほどまでの力が籠っていないことは、言った本人である歌穂自身がよく分かっていることだった。

 たった1ゲームで歌穂は分かってしまった。


――今の自分では、この試合に勝てない。


 その絶望的な考えは、未来のサーブになってからますますその色を濃くしていく。

 沙耶はおろか歌穂でさえ試合になるようなリターンが出来ない。

 そして、それは菫が相手でも同じで。

 歌穂たちはたった10分ほどで1セット目を取られてしまったのである。


「は、はは……」


 悲しいとか悔しいとかを通り越して笑えてくる。

 休憩の為に水分補給をしながら、そう思った。

 これまでテニスをしてきて、ここまで圧倒的な大差を見せつけられた試合は無かった。

 もちろん歌穂は公式戦で無敗を誇っているテニスの申し子というわけではない。

 ここまで何回も負けてきたし、そこに点差がついたこともある。


「――さん」


 しかし、今回の負けは異次元だった。

歌穂にとって未知の領域であり、踏み込んだことのないほどの“負け”の経験だった。


「――さんっ」


 自分のサーブが簡単に返されるのは自分を否定されるようで。

 相手のサーブを上手く返せないのはとても歯がゆくて。

 こんなことを考えていると、もう何がなんだか分からなくなってしまう自分がいた。


「早見さんっ!!」

「うわっ、びっくりしたっ、そんなデカい声出さなくてもいいじゃない!」

「だって……早見さん何回呼んでも気が付いてくれないから……。ねぇ、早見さん?」

「え……」


 しかし、歌穂の前にはこの敗北の状況に全く似つかわしくない満面の笑みでいっぱいの沙耶がいた。

 この1週間で一番の笑顔かもしれないと歌穂は酷く混乱していた。


「やっぱり、凄いね! 赤羽根先輩も芹沢先輩も!! あんなサーブ同じ女の人が打ってるとは思えないし、レシーブも凄く綺麗だし速いし」

「……天谷さん?」

「私も練習したらあんな感じになれるのかな!?」

「あの……なんで、そんなテンション高いの……?」

「ん? だって、凄いもの見たら感動するでしょ? それが大好きなテニスなら尚更だよ!!」

「で、でも……圧倒的に負けてるし……」

「こんなの中学時代に比べたら善戦してる方だよぉ。そこは早見さんのおかげかな?」

「そ、そう……」


 中学時代の沙耶の連敗の歴史については触れないでおくとして、この状況でここまで明るくなれる彼女が歌穂はある意味羨ましかった。

 自らの絶望的な状況を嘆くのではなく、相手の力量を素直に褒めることが出来る。

 それは変にプライドが高い歌穂には出来ないことだった。


「残念だけど、この試合は勝てないかもしれない。んーん、絶対負けると思う。もちろん悔しい思いもあるよ。だって早見さんとこの1週間努力して来たんだもん。でもね、私それ以上にワクワクしてるかな。白百合学園ってやっぱり凄いよっ」

「……天谷さん」


 歌穂は目の前ではにかむ少女を見て思い出していた。

 沙耶と同じように、一週間前未来と菫のテニスを見てワクワクしていたことを。





「というわけで、セットカウント2-0で私たちの勝ちね。お疲れさま」

「…………はい」

「お疲れ様でしたっ」

 

 試合後、対照的なテンションの歌穂と沙耶がテニス部長たちに挨拶をしていた。

 時間にしておよそ25分の短い試合だった。


「約束通り、天谷さんと早見さんにはテニス部に入部してもらうわね。月曜日までにこの書類を書いて来てくれるかしら?」

「…………分かりました」

「こちらこそ、お世話になります!」

「うむ、天谷さんは良い返事ね」


 未来が“天谷さんは”を殊更強調するものだから、結んだ歌穂の髪の毛がピクリと揺れた。

 歌穂のテンションが低いのは試合に負けたせいでもあるが、主たる理由は別にあった。

 それは――


「横にいる後輩は、先輩、それも部長と副部長に対してそんな態度なのかな?」


 それは大見得切って試合をしたにもかかわらず、大敗した歌穂を未来が弄らない訳がないからであり。


「ゴメンねー。大人気なくストレートで勝っちゃってさー。ちょっと本気になりすぎちゃったわねー」

「くっ」

「おい未来」

「まー、後輩の手前、もし手加減しちゃって調子に乗らせちゃったら天狗になるかもしれないじゃない? それだと、本人の為にならないっていうかー」

「…………くぅっ」

「後輩いびりもそれくらいにしておけ」

「はーい」


 菫がブレーキになって部長のことを止めなければ、本当に泣き出してしまいそうなほどの集中攻撃を浴びせかけられるのが確定しているからであった。

 満面の笑みを浮かべる未来に、菫は嘆息し沙耶は苦笑いをしている。


「えーっと? 早見歌穂さん??」

「…………くぅッ!!」


 何とか顔を上げて「これからお願いします」というワンフレーズを捻り出したことに、歌穂は自画自賛せざるを得なかった。

 いつか2-0いや1ポイントも取らせずに赤羽根未来を倒してやると、血が出そうなほど唇を噛み締めながら誓う歌穂なのであった。





「あー、疲れた―。後輩の前だから少し張り切っちゃたかなー。でも、まあ仕方ないわよねー、せっかくの新入部員候補だし。ウチの高校は体育でテニス無いし。こんなところでしか実力を披露できないのが悲しい所よね……………………ねぇ、そう思うでしょ? いい加減入ったらどうかしら、早見さん」

「っ!? し、失礼します」


 なかなか踏切りがつかなくて入り口付近で躊躇っていたところを急に話しかけられ、驚きながらも短く挨拶を挟んで歌穂はテニス部の部室に入った。

 既に日は暮れていて、部室は電気が点いている。

 小さな羽虫が何匹か電灯に集っていた。


「天谷さんは一緒じゃないの?」

「はい、先に帰りました。あの、芹沢先輩は……?」

「帰ったわ、ここにいるのは私だけよ」

「そうですか……」


 それっきり、歌穂は視線を下の方に向けて押し黙っていた。

 なかなか気持ちの整理がつかない。

 けれども、未来がそれを察して助け船を出してくれるような優しい先輩ではないことは既に知っている。

 自分で何か話し始めなければ状況は動かない。


「あの」

「んー、何?」


 未来は黒猫の絵が付いたマグカップで何かを飲みながらこちらをジッと見つめている。

 間抜けな返事とは裏腹にその瞳は全てを見透かしているようで、歌穂は若干の恐怖を抱いてしまった。


「あの…………」


 歌穂にとって未来に言いたいこと、言わなければならないことはいくらでもあった。

 今まで先輩相手ということを忘れて調子に乗っていたことへの謝罪。

 これからテニス部の一員としてよろしくお願いします、を伝える為の挨拶。

 今日の試合で自分には何が足りなかったのかも聞いてみたかった。


「赤羽根……部長……」


 しかし、それらはプライド高くて少し天邪鬼な歌穂にとって簡単に口をついて出ないことである。

 だから――


「次は絶対に負けませんからねっ!!」

「へー」


 だから、一番伝えなくてもいいことを口走ってしまった。

 これには思わず未来も少し呆れ顔だった。


「な、なんですか、その顔は!」

「別にー。だって、わざわざ部活が終わった後に1対1で話すことだから何か重要な事だと思うじゃない? 例えば、今まで生意気な態度を取ってごめんなさいだとか、これからテニス部でお世話になりますとか、私はどうすれば赤羽根部長のようにテニスが強くなれるでしょうかーとか――」

「うるさああああああああああああい!!!」


 散々未来に煽られた歌穂は入部する前から暴力事件を起こしてしまいそうなほどヒートアップしてしまうのだった。



「まぁまぁコーヒーでも飲んで落ち着いて聞いてよ、かぼちゃん」

「何ですかその呼び方は……」

「む……何かかぼちゃみたいね。かぼちゃって呼んでもいいかしら」

「帰っても良いですか? あと、その呼び方止めてください」


 未来とのやり取りに疲れた歌穂は既にやる気を削がれていて、言い返す元気も無かった。

 渡されたホットコーヒーを飲みながら、歌穂は意味の分からないあだ名に辟易する。

 普段教室で使うものより少し大きい机を挟んで向かい合う歌穂と未来の間には微妙な空気が漂っていた。


「それで何ですか。わざわざコーヒーを出したってことは込み入った話なんでしょう?」

「まぁ大したことは無いんだけどね。私も挨拶しておこうと思って」


 そう言いながら未来は持っていたマグカップを置いて、少しだけ身を乗り出した。

 自然と2人の距離は近くなって歌穂は少しだけ緊張を感じてしまう。

 それにしても、挨拶ならば沙耶も一緒にいた方が良いのではないか。

 頭に浮かんだ疑問を口にしようとした時だった。


「ようこそ、白百合学園テニス部へ。歓迎するわ。元城西学院テニス部のエースさん?」


 そんな疑問などどこか遠くに吹き飛んでしまうような言葉が未来の口から出て来た。


「は?」

「よく来てくれたわね、白百合学園に」

「な、なんでそれを……」


 歌穂は驚き半分、慄き半分で呆然としていた。

 そんな歌穂に対して、更に未来は付け加える。


「スポーツ特待生だものね。他の部の友達から随分羨ましがられたわよ」

「そんなことまで……!?」

「当たり前じゃない、この情報は運動部の部長なら知っていて当たり前のことよ?」

「あたしって、そんなに有名人…………」

「まぁね。でも、みんな何で白百合学園に来たんだろうって不思議がってた。城西学院はテニスも盛んで中高一貫校なのに、どうしてテニスが決して盛んではない白百合学園に入学したんだろうって」

「そ…………それは……」

「あ、ストップ。言いたくないなら言わなくても良いわよ」


 言葉に詰まった歌穂を、未来はいつものように追求することは無かった。

 代わりに、飲み物の量が減った歌穂のマグカップにコーヒーを注ぐ。


「なーんか面倒臭そうで長そうな話が始まりそうだしね。最後まで聞いてたら最終下校の時間になっちゃう」

「…………」


 本当は聞きたいのだろうと歌穂は思った。

 それなのに、敢えて聞かないということは本当のことを知っているのではないかと勘繰ってしまった。


「あ、でもこれだけは聞いておきたいわね。左手の怪我は大丈夫なのかしら?」

「っ!?」

「あ、別に誰かに聞いたとかじゃないわよ。ただ、今日の試合中に違和感があっただけ。私も左手首を怪我したことはあるしね」

「そうですか……、はい。大丈夫です」

「そう……別にこれからの活動に支障が無ければ良いのよ。早めに完治しなさい」

「はい…………あの」

「分かってるわ、このことは内緒ね。菫はもう知ってるけど、あの子は他人のプライバシーを人に行って回るような人間じゃないから安心して」

「……そのことに関しては、部長の方が心配ですけどね」


 驚かされてばかりでは駄目だと思った歌穂が憎まれ口を叩くと、それくらい言えれば安心ねと未来は優しく笑った。

 辺りは日が傾いていて、時計を見ればそろそろ最終下校の時刻も近くなっている。

 あれから未来は歌穂がいるのも気にせず数学のプリントを取り出して解き始めた。

 それに対して歌穂は何かを始めるわけでもなく、だからといって帰るわけでもなくただマグカップのコーヒーに写った自分の顔を見つめていた。

 壁掛け時計の針の音だけが聞こえる室内で、時間だけが過ぎていく。


「これから言う事は、単なる独り言なんですけど」


 不意に歌穂が発した言葉は、狭い部室の中でやけに大きく響いた。

 それに対する未来の返答はない。

 それでも構わず、歌穂は話を続けた。

 自分で言った通りこれは独り言なのである。


「どうしても城西の連中に勝たなきゃいけないんです。だから、だから――あたしを強くしてください、部長」


 だから、さっきまで言えなかったことが詰まることなく言えた。

 例え、その相手が目の前にいても関係無かった。

 歌穂は未来の返答を期待していた訳ではなかった。

 だから、予想通り何も答えが返ってこなかったことには何も感じない

 流し台にマグカップを置いて、コーヒーありがとうございましたという言葉を添えると部屋を出た。





 外は既に暗くなっていて、校舎の電気もほとんど消えている。

 テニスコートからの移動がどうにかならないかなと考えつつ、手に持ったスマホで帰りの電車の時間を調べる。

 最終下校ギリギリまで学校にいたのはこれが初めてだから電車の時間が分からない。

 歩きながらスマホを操作することは通行人にぶつかってしまうので危ないことだが、すでに学園内に誰もいないのだからそもそも関係ない。


「あれ?」


 画面にあるメッセージアプリに新着の表示がしてある。

 開いてみるとそれは沙耶からのものだった。

 メッセージはいくつか届いていたが、大体が『校門のところで待ってます』といったものだった。


「待ってなくても良いって言ったのに……」


 メッセージが届いた時間から既に帰っている可能性が高かったが、少し早歩きをして校門を目指す。

 校門では沙耶が待っていた。


「あ、早見さん」

「……先に帰れって行ったでしょ?」

「いや、私はこの後も暇だし」


 ゆっくりと言う沙耶に歌穂は呆れる。

 もし、すれ違いになっていたらどうしていたのだろう。

 まさかずっと待っているつもりだったのかと考えて、沙耶ならあり得ると歌穂は思った。


「このあと、お茶しない?」

「何でよ」

「えーと…………何かの記念だよ」

「記念、ねぇ」


 名付けるならば敗北記念だろうかと皮肉めいたことを考えながら実際には言わなかった。


「まーいいけど」


 代わりに了承の一言。


「ホントっ!?」

「テンションが2段階くらい上がったわね」


 歌穂はそのテンションに合わせる元気は残っていない。

 今日は色んなことがあり過ぎた。


「だって、断られるかと」

「こんな時間まで待たせておいて断れないでしょ、普通」


 もっともらしい理由を付けて、それを悟られないように少し早歩きをする。

 コーヒーを2杯も飲んだことを後悔した。

 一生懸命並んで歩こうとする沙耶を、歌穂は本当に面白い子だなと思う。

 その反応に沙耶は少しだけ拗ねて頬を膨らませた。

 だからそのご機嫌取りに歌穂は少し仕掛けてみる。


「ねぇ沙耶?」

「えっ!?」

「何?」

「いや、あの……いま……」

「どうでも良いわよ、そんなこと。ちょっと真面目な話」

「あ、う、うん!」


 気まぐれで呼び方を変えてみると、沙耶が異常に反応して来たので逆に恥ずかしくなってしまった。

 だから、真面目な話などないのにそう言って誤魔化す。


「これからもよろしく」

「あっ、あー? うん、よろし……く?」

「それでよし、行くわよ」

「ま、待ってよ…………えと、歌穂ちゃん!」


 その名前に意味もなく濁点がついていないことに変な安心感を覚えて、歌穂は更に歩くスピードを速めた。


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