6.居残り組と鈴鐘の薬師
残ると申し出た使用人八人と、傭兵二人の診断を終えた頃には日は随分と傾いていた。
新月を過ぎて満月に向かうところだとはいえ、まだ月は細い。とてもじゃないが、無理して夜に進めるほど明るくない。
文を持たせた早馬はとうに発っているが、馬車組もそろそろ発つべきだろう。
「若旦那、薬師としてこの女性が残るのは許可出来ない」
旅支度を終え、俺の診断が終わるのを待っていた若旦那とクルヤに告げる。
その女性は嬉しそうな、申し訳なさそうな、そんな複雑な表情を浮かべていた。
「アイリェがどうかしたのですか?」
おっさんに代わり若旦那と共に隊商の指揮にあたっていた男が、俺と女性を交互に見ながら不安そうに聞いてきた。
「心配はいらない。
彼女に妊娠の兆候がみられただけだ。俺は医者じゃないが、うちの村には医者がいなかったから赤子を取り上げたこともあるから間違いない」
辺鄙なところにある村の割には俺たちの村は若い人が多く、少なくてもニ、三年に一度は子供が産まれた。だからこういう女性は何度か診たことがあった。
だから断言できる。
「今回の騒ぎのせいか少し精神的にも体調的にも不安定になってるから、アイニの蜜飴とルルネの秘薬を渡しておくから。
アイニの蜜飴は――」
「やったな、アイリェ。これで俺らも親になれるな!」
念のため薬の注意点を……と思った俺の言葉は、例の男が興奮した調子で遮ってくれた。
女性を抱き上げ嬉しそうにくるくると回り出しそうなその男の面のだらしなさといったら、俺が見てきた中でも一、ニを争う。
「ルイロ、嬉しいのはわかりますが落ち着きなさい。
ニックくん、薬の注意事項をお願いできますか?」
「ん、ああ。どれも一般的なものだから今更かも知れないけど、一応な。
アイニの蜜飴は動悸息切れがと思ったら、舌の上で転がすように舐めてくれ。それほど強いものじゃないけど、最低でも二時間は空けて一日五個ぐらいまで。それでも落ち着かなかったり、身体がだるくて楽じゃないと思ったらルルネの秘薬を水で溶いて飲んで。これは濃縮してあるやつだから、カップの水に五滴くらい。
入れすぎても眠りが深くなる程度で問題はないけど、あまり入れすぎないように。それから取りすぎにも注意して。こっちは一日二回までね」
ルイロという名らしい男は、彼女の夫らしい。若旦那に窘められ俺の言葉を聴いちゃいるが、気がそぞろなのは一目瞭然だ。
世辞でも若いとはいえないふたりだ、もしかしたら子供が出来なくて苦労してきたのかも知れない。
……ふむ。
「あまりはしゃぐな、嬉しいのはわかるけど。
アイリェ、これは俺の村に伝わる呪いの一種。母子ともに健康に、健やかであることを願うものだよ」
アイリェをルイロの腕から出すとそのまだ薄っぺらい腹に手をあてた。そしてじーちゃんがしていたように口の中で小さく言葉を紡ぐ。
ど田舎を通り越して辺境とか、秘境とか、人類の限界地とまで呼ばれる俺たちの村。
そのためか、他の地方とは少々異なる文化が根付いている。俺がいま呪いのために使っている言葉もそのひとつで、共通語とされる言語との共通点はないに等しい。
世界を構成する全てのものにアイリェと腹の子の健康と平穏を願う言葉を呟き終え、最後に腹にあてている手を人差し指と中指を残して握り印を描く。横に三回、縦に一回。うちの村じゃなんてことのない、守りの印。
「だからって無茶はするもんじゃないからね」
念を押すように言ってアイリェの顔を見ると、嬉しそうに微笑んでいた。自覚など乏しいだろうが、その顔は慈愛に満ちた母親のそれだった。
*
オムロさん一家に重湯を食べさせ薬湯を飲ませた俺は、荷台から降りてそこで待機していたユーニスに椀を渡し腕を上に伸ばし背中を伸ばす。
ついでに首を捻ると、こきりといい音がした。
「大丈夫、ニック?」
心配そうに俺に問うユーニスに俺は笑みを作ると、背中を少し強く叩いてやる。僅かにたたらを踏むが、それだけ。
あの村でも飛びぬけた運動神経の持ち主だったユーニスには、この俺がふいをついて思い切り叩いたところで、所詮その程度。
「お前なぁ、俺は自分で何も出来ない幼子じゃなけりゃ、耄碌した年寄りでもないんだぞ。
この程度のこと、大丈夫に決まってるだろ。
ハッシュのオヤジさんの時は、じーちゃんとふたりで付きっ切りで何日も看病したんだ」
「……うん、わかってる。
だけどさ、ここにはニックひとりでクゼじーちゃんはいないんだ。だから心配なんだ、ニックが無理をしないか」
純粋に俺を心配するユーニスの言葉に、思わずじんときた。持つべきものは、友達だよな。やっぱり。
「ありがとう、ユーニス。でも俺は大丈夫だよ。
俺たちもみんなのところに行って、夕食をとろう」
手を伸ばし、さすがに繋ぐつもりはないから肩に回し、火を焚いて夕食を作ってる人たちのところへと促す。
火に近付くと、俺らに気付いた居残り組のひとりが椀にスープをよそって渡してくれた。
「それで、具合はどうなんです?」
興味半分不安半分といった調子の質問に、隠しても意味がないと話すことを決める。
下手に隠して不安を煽っても意味がないし。
「大人たちは大丈夫そうだね。問題は子どもたちで、発症がはやかったせいもあるんだろうけど、体力も落ちてるから出来るだけ早く手を打たないとかな。
でも直ぐにどうこうってことはないし、医師団が来れば元気になるよ」
「それはよかったです」
ほっとしたように息をついて、柔らかな笑みを浮かべた。
ただ病人を心配しただけといったその様子に疑問を覚えた俺に、別の居残り組のひとりが口を開いた。
ルーリェは村の家族の反対を押し切って出稼ぎに来てるんですよ、と。
「しかもですね、奉公しながら薬草の知識を得たらその間に貯めたお金で今度はムロウゼで薬師になるための勉強をしようっていうんですよ。
頭がさがるってもんです」
「それは凄いね」
その居残り組の男――サンガの言葉に、ユーニスはルーリェに賞賛の声をかけた。
まだ二十歳にも満たない女性が居残りを一番に希望したこともあって、彼女のことは俺も凄いと記憶していた。だが実際にはもっと凄かったらしい。
それにルーリェは慌てた様子で手を振る。
「凄くなんてないんです。ニックさんがどんな薬を処方するのか興味があったっていうのもあるんですし。
それに、鈴鐘の薬師さまのなされたことに比べればこの程度のこと、凄くもなんともないですから」
こんなところでその名前を聞くことになると思わなかったが、尊敬の念を持ってその名を呼んだルーリェは火の赤照り返しではなく自らの頬を赤く染めて顔を俯かせた。
「鈴鐘の薬師さまのように誰かの役に立てたならと、薬師を志しているだけです。
鈴鐘の薬師さまは、村にかけられた精霊の怒りを収めてくれただけでなく、私の命を救ってくれて、両親の汚名まで雪いでくれた凄い方なんです」
「ルーリェはその薬師さまに心酔してるんですよ。小柄な女性らしいということしかわからないってのに」
「お顔がわからなくても素晴らしい方に違いないのよ!
精霊の怒りを収めた手腕といい、そのために体調を崩した人に施した薬の見事なこと。調剤のために特別な機材なんて必要なくて、薬の処方を歌詩にした歌を歌う声はまさに鈴の音のようで、調合のために翻る手に嵌められた腕輪がぶつかりあって鐘のような音を鳴らすの。
街の薬師が機材をつかって慎重にと作る薬を、いとも簡単に作ってしまうのよ」
初めはぽつりぽつりと呟くようだったその話は、サンガの茶々が入ったとたん強くなった語気と共に勢いを増した。
例によって許可を求めるようにこちらを見たユーニスに気付いたが、俺は横に首を振ってそれを拒否した。
これ以上厄介事に巻き込まれるつもりはない。
「どんな精霊の怒りだったのか、聞かせてもらってもいい?」
僅かに肩を落としたユーニスは、俺の顔色を伺いながらそう切り出した。長い話になるぞと笑いながら言うサンガに、ルーリェは頬を膨らませて文句を言う。
ルーリェの村の事は既に終わったこと。だからそのくらいならと、俺はそのやりとりを黙って眺めていた。
ユーニスはおじさんから旅の話を聞くのが好きで、中でもおじさんが解決した事件の話を聞くのが大好きだった。
その話の中にはよくその名前が出てきていたし、たまに来る行商の人からも聞くことはあった。
「えっと、原因はとてもお恥ずかしいことなんですが……」
ルーリェはそう断り、それからぽつりぽつりと話しはじめた。
*
ルーリェの村は、山間の小さな村だそうだ。
とりわけて豊かではないものの、村沿いに流れる側の水は澄んでいてその源泉となっている泉の湧き水は名水と呼ばれるもの。山には実を付ける木々がたくさんあり、そのため獣も多いが人間を襲うこともない。そのため山間の村としては裕福――そんな村だったそうだ。
その泉で異変が起こったのが全ての始まり。最初は気のせいかと首を傾げるようなものだったのが、徐々にそれは酷くなり、終いには濁り汚れたものとまでなった。獣の死体でも沈んでの異変かと泉を浚うこともしたが改善されることはなく、泉の異変はルーリェの父母の怠慢という結果に落ち着いた。
自然の異変をなぜ人が負わねばならないのかと疑問に思ったが、その答えは直ぐ返ってきた。ルーリェの家は代々その泉を守ってきた――泉守の一族だった。それだけでなく、異変を覚えた数日前、祭の準備のため泉守が祈りを捧げていたからという。
ルーリェの父母は、泉のほとりに祭壇を設けると泉に祈りを捧げた。
祟りもうすな、怒りもうすな。と。
世界の全てには精霊がいるという信仰が一般的なこの世界では、泉におわすとされる精霊に祈りを捧げるのは理にかなったこと。
三日三晩祈りは続いた。しかし結果は得られず、異常は悪化する一方だった。
そしてその頃には臭気は離れたところまで届くようになり、その臭いが原因で調子を崩し寝込む者まで出る始末だった。
村長の娘が初めに倒れ、次いでその娘の友人も倒れた。そして村人の殆どが体調を崩していった。特に村長は娘が少し離れた町の町長の息子と婚礼を控えていただけに、怒りを露わにしたそうだ。
こうなったら贄をささげ、精霊の怒りを納めるしかない。村中が泉の異変で倒れた以上、声高に唱えた村長の論が通ったのは仕方のないことだったのだろう。
昔から、精霊は人の魂を好むといわれている。
それも何も穢れを知らない無垢な子どもの魂を。
それは正しくも間違いでもないんだが、それを信じている村は以外と多く、少なくともルーリェの村はその時までそれを信じていた。
贄をささげる準備は進み、贄となったのはルーリェだった。次の泉守となる姉を贄とするわけにはいかず、男児よりは女児がいいだろうという結論から決まった。
泣いて謝る父母と姉に、幼いがために何が起こっているのか理解出来ない弟と共に抱き締められたのを今でもはっきりと覚えているという。
当日。泉のほとりに動ける村人は全員集まっていた。その前で最後の望みとばかりに懇願にも似た祈りを捧げはしたが改善はみられず、白の服を纏ったルーリェが泉の前に立った。
自分が贄となることで泉が元に戻り、両親が責められないのなら命を捧げるのも悪くない。幼いながらにルーリェは思ったそうだが、濁り汚れた泉に踏み込むのに勇気は必要だった。何より両親や姉弟と離れ離れになるのが辛かったそうだ。
それでも決意を胸に足を泉に下ろしたとき、それは聞こえた。
鈴を転がしたようなそんな歌声と、重厚な鐘を打ち鳴らしたような低い音。
呆然としてる間にその主は、泉の上を歩いて、ルーリェの前まで現れた。そして告げた。「幼い子、貴女が贄となる必要はないわ」と。
足先まで隠れるような長い黒の外套を着、被った帽子で顔も何も分からなかったそうだ。わかったのは小柄で、若い女性の声らしいことだけ。
女性はルーリェの隣を通り過ぎると、村人たちの前にいるひとりの男に手を伸ばした。その胸倉を掴み、自分に顔を向けさせて女性は言う。
「貴方の愚かな娘を連れてきなさいな。
精霊は約束を違う者を嫌うの、そして違えた者の血族をも怨むのよ。貴方の愚かな娘は最もしてはならないことをしたわ。約束を違えただけではなく、この泉をも汚した」
女性はそこで一度言葉を切ると、状況が理解出来ていない村人たちに鋭い声で指示を出した。男の――村長の娘と、その友人の娘を連れてくるようにと。
連れて来られた娘たちは、美しいと持て囃された容姿も若さも欠片も有してはいなかった。やつれ、生気なく支えられる姿は、目を背けたくなるものだった。
女性は取り出した小瓶の中身を村長の娘に飲ませると、顔を自分に向けさせた。
「この状況は貴女が作り出したもの。泉の精霊との約束を違え、この泉を汚した。
それについて何か弁明はあって?」
厳粛に告げられた言葉に娘はゆっくりとであったが口を開いた。
「た……かが、精霊と……の、約束を破った程度……で、な……にを、弁明す……る、必要があ……って?」
途切れ途切れではあったが、はっきりとした口調で告げられた言葉に村人たちからどよめきが起こった。
「精霊……は、人に傅くもの、なの……でしょう? お父さまが、そ……う、言っていた……わ。
わたくしを美しいと、愛を捧げてくれるか……ら、それを、受けたまで。婚姻が決まったわたくしに、約束と違うと言うから、泉を汚した……まで。
それの、何が悪い……の?」
村長の娘のそれは、悪びれた調子もなく本当に何が悪いのかわかっていないような口ぶりだった。
ルーリェにはその言葉が信じられなかった。
この村の人は、子どもの頃から泉との――泉の精霊との付き合いを学んできた。その泉の加護があったからこの村は寂れることなく成り立っているのだと、それは村人全員の共通の思いだと思っていたから。
いや、ごく一部を除けばそうだったのだろう。村長を村の男衆が取り囲んでいるのが見えたという話だから。
それを制止したのは件の女性。今は精霊を鎮めることが先と、手近な木から葉を数枚とると泉に放り込んだ。
そしてルーリェの父母がしていたように、声をあげた。ただしその内容は「祟りもうすな、怒りもうすな」ではなく、「我の声を聞き届けよ」というものだったというが。
精霊は女性の声に応え、現れた。女性とも男性ともとれない中性的な姿をとると聞かされていた精霊の姿は、立派な体格の男性だったという。
その精霊の姿にどよめきが生まれたが、女性は手を精霊に伸ばすと抱きとめた。そして数語言葉を交わしたあと、精霊は中性的な姿と変化し――現れた時と同じように泉の中に消えていった。
幻想的な光景だったという。村の人たちは呆けたように言葉もなくその様をただ眺めていただけという。
だから女性が振り返り、治療をと言い出した時誰も反応が出来なかったという。
場所を村へと移した後は、今度は女性が薬を作る様にやはり皆で呆け、村長と村長の娘にと滾々と湧き出る水のように精霊とはと説く様に呆ける破目になったという。
とにかく、その女性は見事に両親の汚名を雪ぎ、自分の命と村を救ってみせた。
幼いルーリェにとっても小柄な女性がみせたその技は、神官がもたらすという癒しの術のように素晴らしいものだった。
伏せった人のいる家を訪れると一角に布を広げ、煮袋から薬瓶を取り出し並べると腕に金属の輪を嵌め歌いだした。世辞でも上手とはいえない歌ではあったものの、優しい戦慄と歌詞は聞き入ってしまうもので、腕につけた輪が奏でる音は柔らかいものだった。そして歌が終わるたびに、女性の前には薬が出来上がっていた。
薬を飲ませると力なく伏せっていた人の呼吸は規則正しい穏やかなものに変っていた。
名乗らずに立ち去った女性が「鈴鐘の薬師」と呼ばれる女性であることを知ったのは、サヴァから医師団が着いた――運命の機転となった日の翌日のことだった。