後編
早朝。ぼくは一人で机に座り、教室中をなんと無しに眺めていた。おまえらは酸素原子なのかと言いたくなるほどに、誰もが他の誰かと引っ付いて、昨日と似たような話を繰り返している。耳を澄ませば確かに、真田の『首なしバスケットボーラー』の噂がちらほらと聞こえて来た。話題が不足しているからこそあんなのが流行するのだろう。怖い話には適度な不可解と魅力的な暴力があれば良い。
その真田はと言えば机にかじりついて学級新聞の記事を書いていた。あいつは昔から人を驚かせたり喜ばせたりするのが好きなので、ああいうのに向いているのだろう。如何せん文章能力が不足しているのがたまの傷であるが。
「真田さんは、いらっしゃいますか?」
などと、ぼくに声をかけてきた男がいた。振り向くとそいつは一年生の校章を付けていて、モアイ像を連想させる大きな鼻の大男だった。柔和な目をしている所為で身長に合った迫力はない。
「あっち」
それだけいうと、男は物腰柔らかに会釈して「ありがとうございます」などと言った。何を考えているのか分からないのにそれを不気味に感じさせない調子。必要な時以外何も考えない性質なのかもしれない。
「おう、よう木曽川弟」
男が目当ての人物のところへ行く前に、真田がこちらへ向かって歩いて来た。
「木曽川?」
赤いランドセルの彼女なら、さっき鉛筆を持って外へ出たはずだ。壁にお絵かきをしているのか紙にお絵かきをしているのかは知らないが。
「弟。木曽川弟」
真田は木曽川さんの机を親指で指して、それから男を顎で杓った。木曽川君は表情を弛緩させて「始めまして。木曽川洋太です」と自己紹介。
「新聞部の下っ端などさせていただいて、真田さんにはいつもお世話になっています」
「ふうん」
にやにや笑う真田を見るに、この木曽川君は気に入られているらしい。真田は嫌いな人間の傍で笑うような器用さは持っていない。
「で。こっちは御堂。俺の親友」
おどけた風に、真田は言った。ぼくは木曽川君と目を合わせて、頷く。木曽川君も応じた。
「話は聞いています」
と、いうだけで真田がぼくのことをどう話しているのか伺うことはできなかった。とは言え、この木曽川君は初対面のぼくに皮肉を言うような人間には思えないので、悪いことを吹聴されているわけではないのだろう。後輩にまでバカにされたくないというのが本音であるので、それはありがたかった。
「それで。木曽川弟。ネタはどれくらい集まった?」
「クラスの皆に尋ねただけでも、十はありましたよ。それでも、やや浸透しすぎているというか、これから改めてブームを起こす助けになりそうな目新しいのはありませんでしたが。やっぱり、本で拾ったようなとにかく過激なのを乗せるのが手っ取り早いのでは? 紹介するのはあくまでも噂です」
「バーカ。俺が目指してんのは都市伝説なんだよ。裏づけ取れる真実じゃなきゃだめだ」
どうやら新聞部のことで話があって来たということらしい。なので、ぼくが口を挟むのは無礼と言うことになる。そう判断したぼくは、二人から目をそむけ、窓のほうを見る。もしかしたら昨日の男が壁を這っていないだろうかと思ったが、やはりというかこんなに人が多くいたのではそれは望めないようだった。
「それで。人を募ってみようかと思うんだ」
「良いと思います」
「条件はこう。多少尾鰭がついていても構わない、事実を元祖とする学校の怖い話。どっかってーと、シュールよりスプラッタ、怪奇より猟奇な怪談を所望します。俺の人徳なら今日の深夜でも十分だ」
「メールを回せばすぐでしょう。でも七人ですよね。期末テストに向けて部活停止も始まりました。万が一、足りなかった場合はどうします?」
楽しそうに議論するものだ。何を言っているのかほとんど理解できないので、どう楽しいのかは良く分からない。
「そんなのはそん時考えれば良いんだよ。いざとなりゃ企画自体を次に回せば良い話だしな。そんときゃおまえの姉貴のことでも描いてやるよ」
下卑た笑いと、静かな失笑が重なった。まったく関係のないところで人が笑うのはあまり好きでない。綺麗な女の子が自分に向けて笑うようなシチュエーションでもない限り、人の笑顔は不愉快なものなのかもしれない。花子さんは別にぼくに笑っているのではないと言うだろうけれど。
「おい、御堂」
真田がいきなり声をかけた。
「今日の夜中、集まれるか?」
「どうして?」
「怪談を披露しやがれ。学級新聞で怖い話特集するんだよ」
突然何を言い出すのだろう。どう考えても、噂に疎いぼくにそれを求めるのは無理があるじゃないか。ぼくは会談なんて人面犬と口避け女と、後はトイレの花子さんしか知らないぞ。
「嫌か?」
ぼくが答えに窮していると、真田が妙に残念そうな顔をし始める。そりゃあ、ぼくに利益は一切ないし、他にも人が来るだろうことから大分神経を使う。いやに決まっている。ぼくは首を振ろうとして、しかしふと思い出し、そして思いつく。
こりゃあおもしろそうだ。
「いや。いいよ」
真田の表情が、明かりをともしたように暖色を帯びる。黄ばんだ歯をむき出しに、喜びを表現。
「さすが俺の親友」
肩を叩かれた。
「おまえは美術部だったな」
「そうだね」
「うし。分かった」
真田はそう言って、ぼくに向けて笑った。
その笑みは、どうしてかとても不愉快だった。
きいきいきいきい。
何か硬質なものを引っかくような、耳障りな音が鈍く響く。がりがりと、噛り付くような音も加わった。
放課後、ぼくは女子トイレの最奥の個室でゆったりと寛いでいた。鞄のドラえもん最新刊は既に読み終えてしまっていたし、ただ突っ立っているだけで時間がつぶれるような性格はしていなかった。なので、ぼくはひたすらに壁の向こうの音を盗み聞きすることだけに努めている。
ひょっとしたらスパイ同士の秘密の会話なんか聞こえるかもしれないなどと、そんな幼稚な妄想で胸躍らせる。がつんがつんと、何かをぶつけるような物音が加わった。
み。づ。
肉声らしきものが聞こえる。
み。づ。
いくらぼくが暗愚で察しの悪い人間だからといっても、それが『水』という言葉であることは分かった。なので、ぼくは緩慢にレバーを踏みつけ、トイレに水を流す。
ごろごろと水流の音。うだるような暑さの中で、その旋律はとても涼しげで心地良い。
み。づ。
それを。
「赤色と青色と、それから黄色。どれが良い?」
突然、扉の向こうでそんな声が聞こえた。
「黄色が良いな」
ぼくは答えた。青ならもう良い。赤はぼくには合わない。
「そう。残念ね」
個室の扉ががたがたとした音を鳴らす。鍵が閉まっているのに、外から開けようとするからだ。
「何よ」
納得のいかないような、咎めるような声だった。
「ごめん。開けるよ」
個室から出ると、はたしてそこには花子さんがいた。腰に手をあてて、憮然とした顔でこちらを睨んでいる。その足元には掃除用具のホースが延びていて、傍のボウルにはカミソリの刃が大量に光っていた。
「なんだよ。それ」
ぼくが指差すと
「赤なら血まみれ。青は水浸し」
花子さんはつまらなさそうにそう言って
「黄色は肌の色。だから、あたしが現れたの」
「ふうん」
昔読んだ怪談の本にそんなのがあった気がした。けれど、黄色を選んで女の子が出てくるなんて聞いたことがない。
「じゃあ、選択肢に緑があって、それを選んだらどうなるの?」
「考えてないけれど。顔が緑色になるくらい首を絞められて死ぬんじゃない?」
「それはむしろ青色の役どころじゃないのかな?」
「そう? あたしは、死人の顔は緑だと思っているけれど。新一は違うのね」
死んだ人の顔なんて見たことない。ひいじいちゃんが死んだ時だって、わざわざ棺の中を見たいとは思わなかったもの。
「じゃあ。緑は幽霊が出てくるので良いんじゃないかな? それで祟られちゃうんだよ」
「おかしいわよ」
侮蔑するように、そして愉快そうに花子さんは静かに笑った。
「色を聞いてくるのが幽霊で、現れるのも幽霊じゃあ。それじゃあまり芸がなさすぎるわ」
「やれやれ。芸風を考えるのも大変なんだな」
「そうね。新一の稚拙な想像力じゃ、無理でしょ?」
嘲るように花子さん。
「だいたいどうしてそんなの自分で考える必要があるの? 今時その手の怪談ならいくらでも本に載っているじゃない?」
「そうだけれど」
「まさか。何か新しい噂を広めようなんて、考えているの?」
「七不思議のひとつを任されてね」
ぼくはそう言ってから胸を張った。花子さんは首を斜めに折って「任されたって?」
「そうさ。新聞部のクラスメイトに、おもしろい話を一つ用意するように頼まれてね。あいつなら、うまくやるんじゃないかな? 明日にはぼくの話が、学校を代表する七つの怪談の一つとして噂になっているはずさ」
「ふうん!」
無邪気で、そして弾んだ声。花子さんの顔に男色が帯びる。
「おもしろそう!」
「かもね」
くすくすと、ぼくは笑った。
「じゃあ。一つおもしろいの教えたげる」
細長い人差し指をこちらに突き出して
「人には、ヤモリ男って言われているんだけれど」
花子さんは得意げに話し始める。
ある女生徒が主人公ね。この学校の。……もちろん誰でも良いのよ、あなたでも良いわ。でもあなたは、今からあたしが言うようなことを経験してないでしょう。だから、主人公は女生徒よ。分かった?
うん? あたしが主人公でも駄目よ、あたしだって何も経験していないんだから? ううん、ただの噂じゃないわ。もちろん少しは噂になっているし、今から話すのは噂の方。信憑性がない? ……ああ、そう。そうですか! でも大丈夫! とにかくこれは本当にあった話なんだから。
どうしてかって。そりゃ、あたしってば、実はそのヤモリ男さんと仲良しなのよね。
それじゃ全然怖くない?
そうかしら。今すぐにでも、あたしは公衆電話を使ってヤモリ男を呼び出せる訳じゃない? それであなたを襲わせたりもできるわ。確かここを出てすぐのところにあったはず。あれ? もうないって? 嘘?
……まあ良いわ。とにかく、これは本当にあった、いいえ、今でも頻繁に起こっている話。
ある日の朝、女生徒が登校していると、学校の壁に何か黒く大きいものが張り付いているのが見えた。なんだろうと思って観察していると、黒いものはかさかさと壁を這って移動を始めるの。女の子は口元を被い、悲鳴をあげた。
その悲鳴に反応して、その子のクラスメイトが窓から顔を出して女生徒を呼んだ。女の子は黒いものの存在を訴えるのだけれど、クラスメイトはそんなのはいないと首を振る。いるじゃないちゃんと見ているの、女の子は壁の方を向くのだけれど、そこはいつもの灰色に滲んだ、校舎の壁だったわ。
おかしい、あれは幻覚だったんだろうかって。女の子は思いながら校舎に入った。クラスメイトには謝らなくちゃね。
すると。
ぎひぎひぎひぎひって。
どんな下品な動物でもしないような笑いを浮かべて、紫色の唾液を垂らした四つん這い男が、ヤモリみたいに女の子に突進して来た。
きゃーって。
悲鳴に人が集まって来た。けれど、そこにはうつろな顔で震える女の子がいるだけだった。
どう。けっこうおもしろいんじゃない? ブルっと来たでしょう。
……うん?
男は窓から教室に入ったんじゃないかって?
素早いその男は、人が集まる前にその場から出て行ったんじゃないかって?
そのとおりよ。
つまんないくらい簡単でしょう。
で。その覗き魔のヤモリ男は、あたしの友達なの。どう、今度紹介しようかしら?
「その怪談には。欠陥が二つあるよ」
と、ぼくは指を二本立ててみた。花子さんはそれを見て、上機嫌な調子を崩さないまま、挑発するように「何かしら?」と胸を張った。
「まず。ヤモリ男っていうタイトルの所為で、黒い大きなものが出てきた時点で後の展開が分かってしまうこと」
技巧的な意味で稚拙な点はこれを筆頭に、女生徒に感情移入できるタイミングがまるでないだとか、起承転結の割合がむちゃくちゃだとか、いくらでも上がるのだけれど、それをあえて指摘することはしなかった。花子さんは眉をひそめ、考え込むように顎に指を当てると「……そんなことはないわ」と、それだけ言った。
それ以上反論する気はないようで、ぼくは指を一本だけにして「そして二つ目」
「本当にあった話にしては、壁に張り付く男なんていうのが非科学的だよ。そのあおり文句はいらないじゃない?」
「ああ。その人、ロッククライムの達人なの。大学時代のサークルで特訓したんだって」
さらり、と。
垂直な壁をヤモリ並の速さで移動する男のことを、花子さんはそんなふうに説明してしまった。
まあ。この花子さんが真田の奴よりうまく怪談を説明するようには、ぼくも思っていなかった。下手糞の部類に入るといって良い。そんなことを言ったら顔を真っ赤にするだろうから、ぼくはただ笑って
「そこそこ楽しめたかな」
などと呟いた。
「なら良かった」
話好きな花子さんはそれで満足したようだった。何か言葉を口にできれば、それだけで嬉しいのだろう。
会話が途切れて、なんとなくぼくは花子さんの足元にあるボウルを視界に入れた。無数のカミソリ、そしてホース。赤なら血塗れ、青なら水浸し。人に喜ばれたり、驚かれたりするのが好きなのだろう。おそらく、ぼくの返答次第では本当にこれを個室にぶちまけたのだろう。
「ところで」
沈黙を嫌ったのか、花子さんが口を開く。
「どうして今日はこんな時間に来られたのかしら? 何かの部活に属しているんじゃないの?」
「今日は部活はないよ」
ぼくは当たり前の返答をする。
「テストが近いじゃないか」
「そうだったかしら」
首を傾げる花子さんは、どこかで幽霊部員しているのかもしれない。
「長谷川さんは優等生なんだよね。テストも楽勝だろうに」
「そうね」
つまらなさそうに、花子さんは呟く。
「ぼくは劣等生だからね。勉強しなくちゃいけないから、そろそろ帰るよ」
「……ふうん」
花子さんは小さな声のまま言った。ぼくは鞄を背負い、女子トイレから出て行きしな
「また遊ぼうよ」
そう言って、振り返るかどうか迷って、振り返らなかった。
「よう」
懐中電灯の薄い明かりの中で、足を組んで椅子に座る真田がこちらに手をあげる。
誇りっぽい新聞部室のその狭い空間に六つの机がひしめいていた。机の上には菓子の袋が山の如く積まれている。二千円分くらいはあるのではないかと思われた。
「怪談をするんだろう? ここで」
「そうだけど?」
小型の冷蔵庫から投げて渡された缶コーヒーを、ぼくは無言で投げ返す。次に飛んできたのは世界で一番有名な炭酸飲料。投げとばすようなものではないし、こちらもぼくが苦手とするものだった。
「果汁ジュースでも買ってきましょうか?」
木曽川君が小さく苦笑して、ぼくに言った。どうやらコーヒーと炭酸以外に何も用意していないらしい。テスト前だろうと関係なく学校に止まりこみ記事を書き続ける新聞部員としては、糖分多めの飲み物が気に入りなのだろう。
しかし、飲み物の用意を忘れるとは迂闊である。ぼくは腹の中でせせら笑い、それから謙虚な風に
「コップに水を入れてくれよ」
それだけ言って、でっぷり椅子に腰掛けた。木曽川君は流暢に頷いて、やたら大きなコップを棚の上から引っ張り出し、外に出る。木で出来たその棚には本や雑誌の他に、栄養剤、見たこともないような種類の、おそらくは筆記用具、うずたかく積まれたコピー用紙、原稿用紙……消火器、バケツ、警棒、糸鋸まであった。
ことり、と、ぼくの前に水が置かれる。出て行ってからの時間から推察するに、廊下の水道を使ったのだろう。「すまないね」「いえいえ」
「ぼくが初めてか」
というか。他に誰が来るというのだろう。試験を数日後に控えた夜中の十二時に、受験生が家を抜け出して学校で七不思議をやるなんて、常軌を逸しているとしか言いようがない。
「ああ。他に三人来るぞ」
真田が得意げに言った。
「三人? 七不思議を作るというのだから、真田と木曽川君を合わせても、他に五人は必要じゃないのかい?」
「自分を勘定にいれろ」
真田が肩を竦めて
「しょうがないだろう? 七不思議にするのに耐えられるような、信憑性の高い怪談が五つしか集まらないんだから。語り部以外を呼ぶ訳にもいかん」
「信憑性って、もっともらしさって意味だろう? そんなの、おまえならどうにかこじつけてしまえそうだけれどね」
「俺は作家じゃねー」
真田は肩を竦める。そして、やはり得意げに
「報道人だ」
どう違うんだ。
どっちも文官だろう。
「学生にとって、噂話というものは何より大切です。それがなければ学校に来る楽しみが無いと言ったところで過言ではないでしょう。多くの情報を有していることが、生徒内における中心人物最大の条件というのが、我々の思想です」
木曽川君が言って笑い
「自分で情報を生み出してしまうのは怪物です。強いでなく、厄介かそうでないかの問題だ。噂を曲解するのが上手いストーリーテラーなんてのは、それはもう犯罪者みたいなもんですよ」
「それを真実だと思う百人がそれを百回繰り返し口にすると、嘘でも真実にされるものだって、どこかの誰かが言ったがな。俺は、あの言葉が一番嫌いだ。百人が百回嘘を繰り返す間に、もっと別の真実が割り込むのが道理。一流の記者ってのは、どんなにしょぼいことでも信憑性が高ければ記事になることを理解する奴のことだ」
格好付けた風に、真田がそう語った。それは木曽川君だけに言ったのではなく、部室にいる全ての人間に向けられたものだった。
「作家は報道人の食い物だね。そういう意味では」
どういう意味なのか、何を言っているのか。ぼくの理解力では到底追いつかないことだったけれど、ぼくはただ首肯する。そうするのが良いことくらい判断ができた。
部室にノックの音が響いた。
「やあやあこんばんは。百物語の会場はこっちで良かったか」
返事をする前に弾くように扉を開けてしまったのは、優等生のはずの佐藤君だった。何を間違って、真面目で知られた学級委員が深夜の学校に来てしまったのだろう。
「今晩は佐藤を呼んでくれてありがとう。怪談なら百二通りほど用意したから心配しないでくれたまえ、ほらこの本」
小学生に読まれるような、大きな活字の本を突き出す佐藤君。タイトルからしてテーマは怪談だ。
「蝋燭はどこかなぁ」
「百物語、違う」
その背後から、暗がりの中で幽霊の言葉のように聞こえる軋んだ声の主は、木曽川さんだった。自分自身を紹介することもせず佐藤君の後ろで突っ立っている。
「っ! まぁ……まさか。お姉さんですか?」
この世で一番あってはならないことを目撃したような声色。木曽川君がその場で仰け反った。
「……ありえない」
「何言ってんだよ、木曽川弟」
茶化すように、真田が木曽川に言った。部室に姉弟が揃うことを計らった真田としては、おもしろい限りの反応だろう。
「良く来たなぁ。佐藤に木曽川。ネタはちゃんと用意したか?」
「ああこの本に載っている百の怪談に、自分達で集めた二つだ。この二つは本当にあったことだという曰く付で、調査まで既に済んでいると保障付」
「そりゃ頼もしい」
会話を交わしながら、二人を椅子に座らせる真田。木曽川君がぎこちない手付きで、二人の前に缶ジュースを並べた。紫と朱色の炭酸飲料。一口飲んで、佐藤が「スウィート!」と叫ぶ。
「何とも持て成しが充実しているじゃないか。試験勉強も小説の執筆も放り出してまで来た甲斐があったというものだ」
へらへらとした態度は己を誇示するもののように思われた。何かに不安な人間にありがちな振る舞いである。はっきり言って挙動不審だ。
「それで? メンバーはこれで全員かい? 百物語の会場にしては狭いと思ったのだが。一人が担当する怪談の数が二十三十というのも、欠陥だと思うぜ」
「七不思議だっつの」
「うん? そうなのか」
佐藤君は心底不可解そうに首を傾げた。
「夜中に人を集めるのは、ふつうは百物語だろう? 七不思議は話し合うまでもなく浸透する噂じゃなかったか?」
本気で勘違いをしていたらしい。真田は困った風に後ろ頭をかき回し、それから
「だからさ。その噂を纏める為に呼んだんだ」
「なるほど。そういうことか」
佐藤君ははにかんで、そして手を合わせる。
「それならとっておきの噂を披露しようじゃないか。木曽川さんも乗り気だよ」
言って、木曽川さんの頭に手をやった。木曽川さんはと言えば、眠たそうに机に詰まれた菓子の山を見詰めるばかりで、話を聞いているのかも分からない様子だった。赤いランドセルはそこらに投げ出して、手には一本だけ鉛筆を持っている。
「そこの彼は、確か木曽川さんの弟で、新聞部員だったかな」
「はい。洋太です」
物腰やわららかに、木曽川君はそう自己紹介をする。
「ふむ」
それを受けて、佐藤君は
「あまり似ていない」
そんなことを言うのだった。
「こんばんは。ここで良かったかしら?」
おそらく、ここで良いに決まっていると思いながらだろう、そう言って宮崎さんが部室に入って来た。「やあやあ」佐藤君が隣の椅子を引いてやる。
「わたしって実はこういうの好きなのよね。家を抜け出して来ちゃった、バレたら一時間は説教食らうわね」
と、良く分からないことを言って、流れるような動きでそこに腰掛ける。最後に木曽川君がぼくの隣に座って、それで席が全て埋まった。
「うしっ」
真田が両手を合わせる。
「これで全員揃ったことになるな」
懐中電灯を部室の時計に合わせ、時間を確認する真田。十一時四十四分、時間には几帳面な連中しか呼ばれていないらしい。だが真田はそれを確認する為に時計を見たのではないようである。
「十二時になったら始めよう。まずは俺から」
「……そして。体育用具室の籠の中には、上級生の頭部がきちんと片付けられていたんだそうだ」
真田が得意の『首なしバスケットボーラー』を語り終える。佐藤君のオーバーアクションにも木曽川さんの無反応にも負けず、雰囲気を作ってしまったのは流石というところだろう。
「……随分とエグい怪談ね」
疲れたように宮崎さんが言う。
「シュールよりスプラッタ、怪奇より猟奇ってのはこういうことだろう。いやぁ怖い話だった」
言って、両手で肩を抱いて体を揺すってみせる佐藤君。
「それが本当にあったというなら、眉唾物だ」
「言ったろう? 後から尾鰭がつくのはしょうがないって。もともと殺人鬼が体育館に現れて、籠の中に切断した頭を放り込んだだけの事件だったんだ。それをおもしろがってこんな怪談に仕立てやがった愉快な野郎がいてさ」
真田が下品に笑った。一息入れようというのだろう、スナック菓子の袋を開けて、みなの手が届くよう机の真ん中に広げる。
「まあ話の出自までは良い。そんなのはウチで調べられるからさ」
「そんなの載せちゃって良いのか?」
佐藤君が心配そうに言った。
「興醒めじゃないか。怖い話に、そこまで怖くない真相を乗せてしまうなんて」
「必要なのは、説得力さ」
真田が両手を開いた。
「小学生の頃から、夏と言えば怪談の噂ばっかりで、耳の肥えた上に想像力も失っている残酷な子供を怖がらせようなんて、そんなこと考えちゃいない。少し前なら人間一人がミンチになる工程を文章にするだけで怖がってくれたもんだが、今はスプラッタよりサスペンスだ。さんざ出し惜しみした挙句、ある程度信用のおけそうな大本を明かしてやる、まああんま斬新な手法でもねぇな」
自嘲めいた言い方でそう纏めて、しゃくしゃくとスナック菓子を頬張る。気持ちの悪い話をしておいて良くそんなうまそうに食えるものだと思った。佐藤君などさっきから水ばかりである。
「それで。次は誰かしら?」
怪談好きを自称した宮崎さんが、そう周囲を催促した。自分が離しても良いか、と許可を求めているように思える。
「じゃあ。おれに話させてください」
木曽川君がそう名乗り出た。
「お客様には、もう少しゆっくりしていただきましょう」
そもそも話を聞かせてもらう側であるところの新聞部が、どうして自分の話を用意しているのだろう。それもまた、持て成しだとでも言うのだろうか。
言うのだろうな。
「お願いするよ。君なら、そんなに乱暴な話にはならなさそうだからね。グロテスクなのはこりごりだ」
佐藤君がちらりと真田を一瞥し、それから言った。結構効いていたらしい。いちいち「なんと言うことだろう!」だの「ひえぇ。恐ろしい」だの芝居染みた反応していたのは、無理におどけていただけらしい。或いは、今の台詞さえもおふざけの範疇なのだろうか。
「はは。確かに、おれは真田さんほどエグいのは話しませんよ」
声を落として
「ただまぁ、油断は禁物です。感情移入して聞いてください」
まことにつまらないことですが、この話には幽霊も、妖怪も、殺人鬼も出てきません。いえいえ、これはもちろん怪談ですから、不可解な要素はもちろんありますよ。
それというのは、美術準備室の怪です。ええ。美術室ではなく、美術準備室です。……ここには美術部の皆さんが三人もいらっしゃる。御堂さん、宮崎さん、それからお姉さん。お姉さん、いつも美術準備室に篭って何か絵を描いていますよね。あそこで描いたものだけは、決して人に見せたがらない。何を描いているのか、幼いころからお姉さんの絵画を覗いていたおれには、とても気になりますよ。でも、もちろん誰もその正体を知らない。
あの美術準備室は、今も昔も、誰にも見られず、邪魔されず、学校で絵の描ける唯一の空間なのです。
いつの時代も、恥ずかしがり屋の誰かしらがあの準備室を愛用しているのですね。お姉さんにしても、こんな風でいてシャイなところがあるのですよ。ねぇ。
ところでお姉さん。あの美術室の扉の内側に、写真が一枚、掛けられているのを覚えていますか? ……そう、あの大きな、海の写真です。綺麗ですよね。先輩方が修学旅行で見た、沖縄の海があんな感じですか? おれも楽しみにしています。
ところで。あの絵を剥がして見たことって、ありますか?
……ない。そりゃそうだ。いくらおねえさんでも、自分の作業場に落書きしようとは思わない。……あはは、落書きなんて言ってごめんなさい。でもお姉さん、鉛筆を持ち歩くのなら、落書き帳くらい一緒に持ち歩いてくださいな。
今回の怪談のテーマは、その写真の裏側です。
機会があったら、覗いて見てください。それがこの怪談の根拠ということになりますか。
そこにはね。何者かの爪痕が、何重にも、何重にも、走っているのです。引っ掻いた跡というより、掘った跡というべきでしょうか。まるでそう、扉に穴を開けようとしたみたいな。
不思議ですよね。
それで調べてみたんです。
話を窺ったのが、この学校の卒業生の男性。皆さんも良く知っている方ですよ。特にお姉さんなんか、いつもお世話になりっぱなしで。その縁で話が聞けたんですがね。
その人は美術部で、彼が活動していたその時も、美術室に篭って絵を描く生徒がいたんだそうです。綺麗な長い髪の、女の子でした。
彼はその人に憧れていたんだそうです。彼はどちらかというと臆病で、それからぶっきらぼうで、異性と話をするなんて、その頃考えられなかったと言っておられます。女性の方は、優しく繊細で、同時に爆薬のような激しさを持った芸術家でもあったのだと。
絵を描かせれば、誰も彼女に適いませんでした。コンクールに出せば必ず入選。才能があったのです。
だからこそ、あんな事件が起こってしまったのかもしれない。
夏休みが明けた九月一日。ひさしぶりに美術室に訪れた彼は、愕然としました。美術室の机という机が、教室の隅に追いやられているのですよ。これはいったい、何が起こったのだろうかと。
決して生真面目ではなかった彼はその机を元通り片付けようとはせず、人が来るのを待ったんだそうです。あまり時間はかかりませんでしたね。そして、誰にも心当たりがない。何の為にそんなことをしたのかも分からない。机を元に戻して、二学期最初の活動をしました。
でも、彼が好きなその子は、その日現われなかった。いいや。体の弱い子でしたから、その日は別に誰も訝しくは思わなかったのですが。
その翌日。
彼が美術室を訪れると、部屋の真ん中に、憧れのあの子が大の字で横たわっていました。
白い肌をしていた子なんです。
でも、その子が白いのは向き出しの骨だけでした。食い散らかしたチキンの骨にこびりつくみたいに、辛うじて残っていたものは、だいたい黒ずんだ赤や茶色や緑でしたもの。緑は死体そのものの色ではありませんか? そのあたりの彼の記憶は、どうも曖昧らしいですね。
とにかく。赤色を基調に、とてもカラフルだったそうですよ。白骨化の途中の死体というのは。
長い髪がなかったら、その子だとは誰も思わなかったでしょうね。
警察が死体を引き取りました。検視の結果、死因は餓死なんだそうです。美術室中を調べてまわった結果、準備室が汚れていたことで、そこで飢えたのだということが分かりました。
机が押し寄せられて、中から出られなくなったんです。
夏休みだから人も来ませんし。
一番見ていられなかったのが、扉に施された爪痕ですよ。掘って、掘って、掘り進んで、扉をぶち破って外に出ようとした、そんな傷跡。警察によると、指の骨の先が、かなり擦れていたらしいですよ。どの爪も、根本まで使って、それでも諦めないで、でも途中で力尽きて。
可哀想に。
誰も人が来ない場所で飢えて死ぬというのは、とんでもない絶望だったんでしょうね。
それを考えると、やりきれませんよね。
「どうして死体が美術室の真ん中で見付かったのか。何者か、事情を知る者が、彼女がどうしても出たかった美術準備室から救い出してあげたのかもしれない。じゃあ、それは誰なんでしょう?」
そこまで言って、木曽川君は大きく息を吐いてから
「終わりです」
そう言った。
「おお。何と哀れな話なのだろう」
佐藤君が両手を大きく振るい、目を瞑って叫んだ。
「まったくスウィートじゃない」
「割とむごい話ね。苦しみが長い分、首なしバスケットボーラーよりも可哀想」
宮崎さんが言う。木曽川君は小さく笑って
「でも。悪戯な暴力性はないでしょう」
「そうだけれどさ」
今の怪談には、欠点が二つある。
一つは、被害者の両親は、娘が夏休み中帰ってこないことに何も感じなかったのかという問題。
もう一つは、どうして被害者は、携帯電話で助けを呼ばなかったのかという問題。
「でも。どうしてその女の子、ケータイ使って人を呼ばなかったのよ」
宮崎さんがそういうと、木曽川君は困ったように笑って
「当時は、携帯電話がまだ出回ってなかったか。それとも今みたいに、見付かればすぐ没収だったのかもしれませんよ」
「妙に厳しいもんな、うち」
うんざりしたように、真田が言った。
「次の話は誰がしてくれますか? おれの話の後なら、しやすいでしょうに」
木曽川君の言葉に、ぼくは宮崎さんを覗いた。それに気付いたのか、宮崎さんは「わたしはやめとく」手を振った。
「今の話と似ているのよ、ほんの少しだけ」
「それじゃあ。次は佐藤に任せてくれよ」
と、言う佐藤君に皆の視線が集まる。
「よし。じゃあ頼む。何、あくまでもこれは取材なんだから、そんなに上手くなくたって良いさ」
真田は軽い口調で言った。
「あくまでも、問題はネタだ」
「ああ。大丈夫、まかせてくれ。でもその前に」
佐藤君は色っぽくウィンクをして
「御堂君。ちょっと付いて来てくれたまえ」
それを聞いて、ぼくは首をかしげた。「どうして?」
「トイレだ」
堂々という佐藤君だった。
「いやぁ。とても助かるよ」
トイレの個室から出て、へらへらと佐藤君は言った。
「話の中に霊的なものがなかったと言ってもさ。あの雰囲気はいただけない。一人で暗い廊下を歩く気分には、どうしてもなれない。ましてトイレは、学校の妖怪にとっては聖地のような場所だ」
丁寧に手を洗っている間も、何かを誤魔化すように喋り続ける佐藤君だった。
実際に、彼が霊的なものを怖がるような情弱には、ぼくには思えないのだけれど。
などと言いながら、恐れる様子もなく暗がりの階段を降りる。堂々とした足取りは、誰かが付いて来てくれていれば安心だと考えているからなのだろうか。
「ところで。君は知っているかい? このトイレの壁の面積一メートルほどにわたって、真っ赤な何かがこびりついていた事件を?」
佐藤君は、突然そんなことを切り出した。
「ついさっき、教室で真田に聞かされたよ。血だと思った女生徒が喚いて騒いで、ちょっとした騒ぎだったらしいね」
「君は何食わぬ顔で座っていたね。ある意味で、肝が据わっているんだろう」
ただ鈍いだけである。何せ、それがいつの出来事なのかも、ぼくは覚えちゃいないのだ。真田は信じられないような目でぼくを見ていた。
「それで。その現場がここなんだよ」
「ふうん。そうなんだ」
ぼくが言うと、佐藤君は
「君はそれだけなのかい? もう少し、怖がるなどしてくれても、良いじゃないか」
「血だとは限らないだろう?」
首を横にする。
「木曽川さんあたりが、赤いペンキで絵を描きかけていたのを、その女の子が間違えたんだろう。だいたい、怪談じゃないんだ。トイレで猟奇殺人が起こったりしないよ。もし起こったとしても、血が付着するのは床じゃないか」
「へぇ。現実的だね」
感心するように、佐藤君はうんうんと頷いた。
「真田君の友達なんだから、もっと突飛な発想の持ち主だと思っていたよ」
「突飛な発想?」
「ああ。赤い色をした新種の微生物が、大規模な組織を壁に作っていたんだろう、とかね」
実に突飛な発想だった。
ばかばかしいとも言える。冗談で口にしたのだろう。
トイレから出て、二階の廊下を進む。田舎の街明かりは知れている。月明かりだけの暗がりの廊下に、佐藤君は「気が付いたら一人増えて良そうじゃないか」という感想を持った。
脇の階段に辿り着く。三階へ登る途中、ぼくは言った。
「ねぇ。佐藤君」
「何かな。君から話しかけてもらって、佐藤はとても嬉しい」
「この階段。夜の十二時から二時までの間だけ、十二段になるんだ」
「何だって?」
佐藤君は弾かれたように振り返り、そして段数を数えるように二階へ降りて来た「九、十、十一……じゅ、十二段じゃないか!」両手を後ろに回し、大げさにのけぞった。
「大丈夫。十二段になるというだけで、特別な害はないんだ。……でも。次に階段を上る時、昼間だというのに十二段だったりしたら、注意した方が良い。階段の幽霊が君を気に入ってしまっている」
「スウィート! ……じゃない! それはまったく甘くない! 人に愛されるのは最高の喜びだが、霊的な何かは佐藤にかまわないでくれ!」
もともとこの階段は十二段である。
「それにしても佐藤君。どうして、わざわざ二階のトイレを使ったんだい? トイレなら三階にもあるだろうに」
何気なく、ぼくは訊いた。佐藤君はその場で振り向いて、少しだけ凄むように
「三階のトイレにはね。妖怪が住んでいるんだ」
なんてことを言った。
「昼間なら、まだしも気にしないんだがね。こんな時間に、わざわざ曰くつきに近付く必要もあるまい」
彼がそんなことを言った時だった。
二階の廊下の奥から、体を震わせるような冷たさを持ったピアノが聞こえて来る。この真夜中、明かりのない暗がりから、まるで風が吹くように。
それは浮力を失った風船が沼の上を漂っているような音楽である。
端的に言って、下手糞であった。
「珍しいね。こんな時間に」
そういうぼくの隣、佐藤君は突然に頭を抱えて、それから
「なんてこった!」
叫んだ。
「御堂君、部室に帰ろう!」
「どうして?」
首を傾げるぼくを無理に引っ張ろうとしながら、佐藤君は階段を駆け上がる。禁断の十二階段を簡単に踏み越えて行った。
「ちょっと見てくるよ」
佐藤君の腕から抜け出したぼくは、上の階の彼にそう伝えた。
「おい、やめないか!」
廊下を進み、音楽室の扉を開けた。
開けられなかった。
しかしピアノの旋律はそれで鳴り止んだ。扉の隙間から中を窺う。誰もいない、演奏者に恵まれないピアノは相変わらず部屋の隅で灰を被っているだけだ。
「おいおい。何の騒ぎだよ」
行動の早い真田が、佐藤君が喚いていたのを聞いたのだろう。こちらに近付いて来る。
「幽霊の演奏だ!」
佐藤君が叫んだ。
「佐藤が話そうとしていた怪談がまさにこれなんだよ! 音楽室の怪! ああ、何と言うことだろう!」
真田が鼻を鳴らして、それから愉快そうに両手を開き
「そりゃおもしろそうだ」
にっ、と微笑んだ。
「部室で話してくれ」
いやぁ。まさか自分が体験するとは思わなかったよ。まったく、佐藤はびっくりだ。
『音楽室のピアノ』なんて、どの怪談の本にも載っているようなネタだけれど。それはどんな学校でも起こりうる現象、出現しうる怪異だからこそなんだろうね。
それで、佐藤が本以外でこの物語を体験したのは、つい先日のことだ。これがあったからこそ、佐藤は今ここに来ている。
先日ってのがいつかって?
いつだったかな? ほら、香川っていう男が入院する前日だ。あのお調子者だよ。神埼君と良くつるんでいた子さ。……入院してくれて嬉しかった? 二度と出てこなければ良い? 御堂君、それはあんまりじゃないのかい?
君にちょっかいをかけることについては、学級委員として病室の彼をちゃんと叱りに行ってくるさ。
それで。この話の主人公は、彼ということになるのかな?
ある日、家の机で勉強をしていると、携帯電話の着信音が聞こえた。とうぜん、佐藤はペンを放り投げてそれを取ったね。佐藤は佐藤を愛してくれる人なら誰でも大歓迎さ。今じゃ幽霊だけは勘弁して欲しいところだけれどね。電話だって本当に嬉しい。
で。それが香川からの電話だったのさ。
……佐藤、俺は今、深夜の学校にいる。
時計を見れば、確かに深夜という時間帯だった。佐藤は頷いて、用件を尋ねた。
……この音を聞けよ。
なんて、香川は言った。しかし、佐藤の耳には何も聴こえなかったんだな。
……本当かよ。この気持ち悪いピアノの音が、聴こえないっていうのかよ。
話を窺えば、彼は校舎の近くのコンビニに来ていて、そこでピアノの音を聴いたらしい。深夜の演奏を不思議に思った彼は学校の敷地内に侵入、佐藤に電話をくれたって訳だ。
でも、おかしいだろう? ……そう。そうなんだよ。
さっきの、御堂君と佐藤が聴いたあのピアノ。あれは二階で行なわれた演奏にもかかわらず、三階の真田君達に聴こえなかった。それが、校舎の外の、近くのコンビニにいた香川君には聴こえたって言うんだよ。
佐藤はね、その時まで、霊的なものは何にも怖くなかった。信じていなかった。
だから、佐藤は香川君が悪戯をしているか、もしくは幻聴に戸惑っているのかと、そう思った。
けれど香川君はこんな悪戯をする男じゃない。
だから幻聴に違いない。佐藤は香川君にそれを伝えた。けれど香川君は意に介さない。自分は正常だ、っていうんだ。声色だっていつもどおりだった。
もっと音楽室に近付いて見ろ、と佐藤は指示をさせてもらったよ。最後に残った可能性、香川君が人並み外れて聴力に優れているということを、佐藤は信じたくなったんだ。香川君は佐藤の言うとおりにしてくれた。
問題の校舎に、香川君は侵入した。
鍵が開いているのかと今更気付いて質問した佐藤に、香川君はそんなこと気にならなかったと応答したよ。
校舎の中。ピアノの音は聴こえない。
音楽室のある二階の廊下。ピアノの音は聴こえない。
香川君の曰く、その音は最早うるさすぎるくらいの音量なのだそうだった。佐藤はここへ来てやっと、事態が尋常ではないことを悟ったね。
……もう帰った方が良い。
佐藤はそう、熱心に勧めた。
……どうして? ここまで来たんだぜ。
音楽室の扉を開ける音は、えらくはっきり聞こえてきたね。
そして。
香川君は、何も言わなくなった。
……どうしたんだ? 返事しろ!
なんて、何度も呼びかけた。佐藤は十分くらいは呼びかけるのを続けたな。愚鈍な話だ。もっと早くに行動に出るべきだったのに。
暢気に着替えなんかをしてから、佐藤は家を飛び出した。足が千切れるほど自転車をこぎにこいで、問題の校舎の前で停めた。
そこで、足が凍ったように動かなくなったんだよ。
どんなに気力を振り絞っても、校舎に一メートル以上近づけない。
佐藤は振り返って、宿直室の扉を叩いた。宿直の先生に事情を説明し、校舎に着いてきてもらったんだ。そうすることで、入り口の前までは来られたね。
でも。出入り口には鍵が閉まっていたんだ。
先生は酷く怒ったね。
寝ぼけていたのか、を一番多くいわれた。もっともな言い分だよ。佐藤の話は荒唐無稽で、入り口に鍵が閉まっていることで完全に破綻もしている。
……夢を見たんだ。
……帰って寝ろ。
とてもそうする気にはなれなかった。だから、佐藤は窓を割って中に入ろうとした。
先生は佐藤をぶん殴った。
それで。ようやく佐藤は、家に帰ることを選んだんだ。
臆病者だと罵ってくれ。
佐藤がちゃんと香川を助けられなかった所為で、翌日、香川は音楽室のピアノ前、椅子に座って気絶して発見されたんだから。
彼の入院は佐藤の責任だ。
「それって、本当の話?」
「そうなんだ!」
いぶかしむ宮崎さんに、佐藤君は両手を晒した。
「しかし、この話を香川君にしたところで、彼は何も覚えていないというんだよ。よって真相は闇の中。佐藤は夜になるとこの出来事を思い出して震えている。霊的なものだとしか、思えないんだ」
この物語の一番の問題点は、何と言っても、香川の奴がどうして自分の仲間でなく佐藤君に電話をしたのかという点だろう。
このことから、佐藤君が香川をそそのかし、二人で怪談を演出したという想像ができるけれど、香川が入院する羽目になったことから、それは違うだろうか。
ひょっとすると、佐藤君は何も嘘をついていないのかもしれない。
「そもそもさ。ピアノの音って携帯電話で拾えるのかよ?」
真田が首をかしげ、そんなことを言った。すると木曽川君は
「それはあまり重要ではないでしょう」
静かにそう言った。
「携帯電話がピアノの音を拾えなかったのだとしても、それは音楽室のピアノが鳴っていた可能性を現実的なものにするだけです。鍵のかかった校舎に、どうして香川先輩が入って来られたのか、どうしてピアノは鳴っていたのか、香川先輩が気絶した理由は。何の手かがりにもならない」
「香川。あたまおかしい」
木曽川さんがぼそりと言った。
「それか。仲間の誰かに、おもちゃにされた」
椅子にしなだれかかって時計ばかりを虚ろに見る彼女は、ぞんがい、現実主義者なのかもしれなかった。
「お姉さん。どちらの場合でも、後から発覚すべきことですよ。それらは」
弟がそのように指摘する。
「香川先輩が重度の混乱状態にあったのだとすれば、医師がそれを証明しているでしょう。そして、仲間は自分のドッキリが成功したことを人に誇るはずです」
「いしゃは、どうすればうるさい患者を早くおいだせるか、それだけ考える」
鉛筆を机に叩きつける。二十秒もしない内に、大きな穴に落ちた蛇と、それに短い手を伸ばす人間が懐中電灯の元に現れる。
「騙した人は、ぜんぶなかったことにする」
その穴に、まだらの猫を蹴り飛ばす人間が書き足された。
「すぐに。これは、こうなる」
木曽川さんは、そこで穴を埋めてしまった。
「めでたし。めでたし」
「全部嘘っぱちでしょう!」
宮崎さんが言って、机を叩いた。
「良いわよ。確かめてきてあげる。その香川君に会って、今の話をするわ」
「……何も分からないと、佐藤は思うぜ」
佐藤君は吐き出すように言った。
「彼は全て忘れてる」
「いやぁ。実に興味深い話だ」
言って、真田は手を叩いた。
「その件については、また今度調べて見ることにしよう。佐藤、ありがとう、話してくれて。勇気が要ったんだろう?」
佐藤君は息を吐いて
「スウィート」
呟く。
「話せば楽になったさ。実に助かる」
ここで、ぼくはこの話の欠点をもう一つ思いついていた。
香川君の入院は一月も前のことだ。
どうして今まで、そんな不可解な現象が、噂にならない?
訳も分からず気絶してしまった香川が、その不安を仲間に訴えるのがふつうだろう?
「それじゃあ。次の話を頼む」
このままでは話が終わらないと見てか、真田がそう促がした。
そうしなければ、至極身近な異常現象に対する恐怖から、まともに怪談ができなくなってしまう。
「分かった」
と、そんな真田の考えを悟ったのだろう。
「わたしが話すわ」
宮崎さんが挙手をした。
わたしって、今は美術部員だけれど、二年生の時までは陸上部に入っていたの。三年生になったら、今度は勉強する体力を温存しながらできる部活をやろうと思ってね、美術部に変えたんだ。
練習で帰るのが遅くなったりしないし、すっぽかしても何も言われないじゃないの。絵を描くのは好きだし、ちょうど良いと思った。美術部は毎日楽しいよ。ねぇ御堂君。
でも、陸上部だって嫌いな訳じゃなかった。大会にもたくさん出て、何事かを成している気分になれたものだわ。とっても充実しているの。
けれど。如何せん、練習はつらい。
年功序列も激しくって、下級生は休む暇もない。顧問の先生があまり意見しないのもあって、上級生の命令に誰も逆らえない。ちょっとした思い付きで、訳の分からないノルマを課されたものだったわ。そういうのが、不人気の秘訣なんでしょう。
一年生の退部届けが一番多く飛び交うところだと、そう言われている。
でもね。一年生は、辞めるときが一番しんどいんだ。
水も飲めずに、先輩の気が済むまで運動場を走らされるんだ。何時間にも及んで、休みなく。ただのリンチよ。どうして辞めていく人にそんなことをさせるのかは分からない。ただのつまらない恒例よ。これはこれで、幽霊と同じくらいに怖い話ね。
あそこにいると、少しずつ頭がおかしくなるんじゃないかしら?
陸上競技を、スポーツを、体を動かすことを、弱者を苦しめる手段として強要する。そういう空間。まぁ、年功序列はあれど、下手な部員への風当たりは小さかったし、先輩に媚びていれば人並みには暮らせたから、本当に陸上が好きな人なら、文句も言わずに続けられるんでしょうね。文句を言っても、恒例のリンチが怖くてやめられない人もいるんだけれど。
救われるのは、雨が降った日は練習がないということね。自分から志願して入った部活動で、そんなのはおかしいんだけれど、雲行きが怪しい朝は期待してしまうものよ。しんどいものはしんどい、疲れるものは疲れる。部活に関係のない用事は、雨の日にしておくに限る。もしもこのまま降り始めたら、買い物にでも行こうかしら。そんな気分ね。
案の定、その日は雨が降った。
嬉しかったわ。本当に安らかな一日だった。
翌日。さあ気持ちを入れ替えて今日は練習を頑張ろうと思っていた。一晩中ふり続けた雨は運動場を湿らせていたけれど、放課後には乾くでしょう。
何て。窓から運動場を見詰めていたら、ね。
一箇所、不自然な乾きを見つけたのよ。
他の土はみんな灰色染みているのに、そこだけ光そのものみたいに輝いていた。二メートル四方くらいかしら? 気になってそこまで行ってみると、本当、魔法でもかけたみたいに一箇所だけカラカラなのよ。
いったいこれは、どうしたの?
放課後。そのことをわたしは先輩に話したわ。するとね。
それは自分も、前から気付いていたことなんだ。
一種の怪奇現象だよ。
ほとんど誰も知らないのだけれど、あの場所だけは、雨に濡れてもすぐに乾いてしまう。本当に、不自然なほどに乾きが早い。
まるで、何者かが水を吸い上げているみたいに。
そのフレーズで、わたしはある逸話を思い出したわ。
そう。本当かどうかも分からない、ただの噂。
大部届けを顧問に出してから、それから失踪したある生徒のこと。
頭の回転が速くて、スポーツに対する情熱があって、正義感の強い女の子だった。でも辛抱は強くなかったのか、それとも先輩に嫌気がさしたのか、その両方か、部活をやめることにしたんだって。顧問はその退部届けを受理してから、彼女の退部を部長に伝えた。その日、彼は部活に出向かなかった。勝手に練習してろ、ってね。
次の日、その女の子がいなくなったことで、学校中の騒ぎになった。
部員の話では、彼女はお別れの一つも言いに来なかったんだそうよ。そうしておけば、走らされるだけで済むはずなのに。そうしなければ、本当に何をされるか分からないのに。
それで。
その子は未だに行方不明なの。
っていう。そんな逸話と、運動場の乾きに因果関係を持たせることにしたのよ。
つまり。
自分たちのリンチで下級生を殺してしまった部員が、発覚を恐れて運動場に死体を埋めた。水が飲めずからからで死んだその子は、未だに渇き続けいて、雨が降るたびに、周囲の水を吸っている。
おもしろいでしょう?
これを都市伝説にしてちょうだいよ。
「分かった、まかせておけ」
真田だ。頼りがいを感じさせる声である。
「しかし宮崎さん。それは本当の話なのかな? 運動場のどこで、そんな不自然なことが起こっていると?」
佐藤君が首を傾げつつ言った。
「本当よ」
宮崎さんは会釈して、木曽川さんから鉛筆を取り上げた。獣のような動きでそれを取り返そうとする木曽川さんの肩を、佐藤君が叩く。手綱を引かれたように、木曽川さんは途端におとなしくなった。
真田の許しを得て、宮崎さんは机の上に運動場の図を描く。美術部員だけあってなかなか上手かった。そして、黒い丸を隅っこの方に一つ付け足して
「問題の場所はここ。これも、新聞に載せてくれると良いわ」
「そうしよう」
真田は満足そうに頷いた。
「日当たりと、運動場の地形の問題」
と、木曽川さんが口を開く。
「どういうことだ?」
佐藤君が首を傾げながら、ややわざとらしい声色で言った。木曽川さんが宮崎さんから鉛筆をひったくったあたりで
「校舎の裏山のことを言っているんでしょう。時間帯によっては、運動場の面積のほとんどがあれの影になりますからね。問題のその地点だけが、太陽が昇り始めた時点で日光を受けることができます」
その弟が、淡々とした口調で木曽川さんの考えを説明した。宮崎さんの恨めしそうな視線が木曽川君に向けられる。木曽川君は「いや。すいません」と曖昧に会釈する。
多分、木曽川君は宮崎さんの視線を姉から引き受けたのだろう。ただでさえぎこちない二人だ。これ以上気まずいことになったら非常に厄介である。
「ふうん。……それで、地形と言うのは?」
佐藤君が木曽川さんにそう尋ねた。
真田が苦笑し、木曽川君は顔をしかめた。
「ここだけ土が薄い。底が浅い。水はだいたい、他に流れる」
ランドセルを机において、鉛筆を片付けていく。もう二度と奪われたくないという意思表示かもしれない。
「でも。それだけで、目に見えるほどすぐに土が乾くのは、確かに不自然」
「だよね!」
宮崎さんが、ランドセルを施錠しようとしていた木曽川さんの手を握る。木曽川さんは表情を変えず、宮崎さんの手をそのまま軽く捻って
「っ! 痛ぁ!」
机に向けて引っ張った。肘と肩が不自然な方に曲がり、宮崎さんが悲鳴をあげる。
「姉の体や所有物に触れるのは、よしてください。……危険ですから」
苦笑しながら、木曽川君がそう言った。宮崎さんが情けない目で頷いた。
「さて。宮崎に提供していただき、木曽川姉弟に色々と指摘いただいたこの怪談だが。なかなか良い出来だと思うぜ。きちんと説明が付こうが、実際に運動場に乾きの早い部分があるというのは、かなりおもしろい」
真田が満足そうにそういって頷く。
だが、この怪談には、他に問題点が一つあった。それは真田も気付いているだろう。
宮崎さんがそれに気付き、過去の失踪事件と結びつけたのは、彼女が一年生の頃。
どうして今になって、その話を真田にするのか。
どうして、今まで誰にも話さなかったのか。
まあ。なんとでも説明はつくのだろうけれど。
「それで。次は誰が話をしてくれるんだ?」
残っているのは、ぼくと、それと木曽川さんの二人である。ぼくは木曽川さんの方を一瞥すると、彼女はじっと、人形みたいな目でこちらを覗き続けていて
「先に頼むよ」
そう言ったのはなんとなくだった。
「……あなた。怪談なんてできるの?」
宮崎さんが首をかしげる。それは嫌味でもなんでもない、天然の発言であり、彼女にしてみれば失敗以外の何でもないだろう。
木曽川さんは小さく頷いた。宮崎さんは、木曽川君の方を見る。彼は感心したような顔をしていた。
「それじゃあ頼むよ。君の話が、佐藤はすごく楽しみだ」
佐藤君にそう促され、木曽川さんは口を開いた。
「分かった」
腹に氷が張り付いてくるような、真冬の夜。男は鉄道の近くを歩いていた。
早く家に帰りたい。暖房の効いた部屋で炬燵に入っていれば体は温まる。そうしたら、ビールでも飲もう。でも今は、とにかく寒い、寒い。体中の血管が凝縮してしまいそう。
家は駅の近くにある。ほとんど人もこない田舎。体をさすりながら、歩く、歩く。温かいおうちまで、暖房のある我が家まで。
からんからん、と。
からんからんと、踏み切りの音。男は、虫でもいたら捻り潰したいと思った。ここを渡らないと家に帰れないから。いらいら。落ち着かない視線は周囲に怒気を振りまく。近くにあるものの、ことごとくを恨み、つらむ。
その時、男は見つけたんだ。
線路に寝転ぶ、若い女性の姿。
会社の帰りに、たくさん飲まされて、それで寝てしまったのか。そんな格好の、若い女。
男は無視した。
このまま放っといても、汽車が来る前に起きるだろう。
さもなくば、轢かれて死んでしまえ。
からんからん。
それ以外に、何もなかった。
からんからん。
男はいよいよ心配になって
線路に足を運び、女を脚で蹴った。
「おい」
返事がなかった。
「起きろって」
返事がなかった。まるでコンクリートの塊でも相手にしているようで、それは死体とも認められないような、冷たい何か。
体温を確かめてみよう。
そう思った時。
がらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがらがら。
がたがた。
突風と一緒に、汽車が走ってくる音を、男は聴いた。
ぐおん。ぐおん。
吹き飛ばされるように、男はその場を飛びのいた。氷の槍で貫かれたように、全身を鳥肌が覆う。
汽車が通り過ぎている音よりも、早鐘のように鳴る心臓の音の方が、男には大きく感じられた。
驚いた
まさか自分が、轢かれそうになるなんて、思わなかったから。
男は胸を撫で下ろして、それから一つ首を振る。
そして、ようやく思い出した時には。
足にまとわり付く、氷のような冷たさの。
男は絶叫した。暴れるようにそれを振り払い、汽車よりも速く、その場から走って逃げた。線路に沿って、街の外に出ても逃げた。逃げて、逃げ疲れて、走るのをやめて、息を切らして地面を仰ぎ見る。
何だったんだ。あれは。
そう思った瞬間には、その冷たさはまたしても、脚にしがみ付き。
縋るように、
恐れるように、
嘲るように、男を見上げていた。
追いかけっこは、何度でも。
車輪に体を切断されて上半身だけになった女は、両手を使って、汽車よりも速い男を追いかけ続けて、村を跨いで、街を跨いで、男を学校まで追い詰めて。
二人は組み合うように、校舎の前で力尽きた。
その時の道が、ちょうどあたしの通学路。
「お姉さん。また、人をなめた話を作りますね」
木曽川君が呆れたように言った。平気な顔をしているのは、彼一人だけである。宮崎さんは戦慄の為か呆然と口を空けているし、真田は引き攣った笑みを浮かべている。
「実に、伏線が巧みな話ではないか。誰に訊いたんだい? 誰に?」
佐藤君が体を震わせながら、わざとらしくそう言った。すると木曽川さんは考えた風もなく「お母さん」とそれだけ答える。
「嘘おっしゃい。お母さんは二年前過労で死にました」
「ちっちゃい頃、聞いた」
「ちっちゃい頃はここに住んでいませんでした。……お姉さんの所為でしょう、こんな田舎に来る羽目になったのは!」
何やら不機嫌な調子の木曽川君に、真田が「まあまあまあまあ」といい加減な口調で茶々を入れる。世話になっている先輩になだめられ、木曽川君は我に帰ったという風に肩を竦めた。
「それより。佐藤、今の話に伏線も何もあったか?」
真田が首を傾げる。すると佐藤君は少し嬉しそうに
「女性を冷たい冷たいと描写しただろう? あれは、あまりの気温に女性の体温が下がってしまった様子を表している」
「それはそうだが」
「それから。序盤に『血管が凝縮しそうな寒さ』ともある。これはどういうことだと思う?」
真田は一度首を傾げて、それからにまり、笑った。
「あまりの寒さに、血管が詰まったと? それが、上半身だけで動き回れる理由という訳だ」
「そうとも」
佐藤君は満足そうに何度も頷いた。
「ふつう人間は、血を撒き散らしながら汽車の如きスピードで移動するなんてできないからな。それを可能にした理由が要る」
「でも」
宮崎さんが口を挟む。
「人間に汽車を上回る速さを出すなんて、そういう描写がある時点で、科学的とはとても言えないんじゃない?」
「それは、火事場の馬鹿力と言う奴だ」
おかしそうに、佐藤君はそう言った。
自分の怪談についてあれこれ話す周囲の人間を、木曽川さん意にも介していない。ただ、少しだけ満足そうに、机に顎を乗せて、ほとんど手をつけられていない菓子の山を、ぼうと見詰めていただけだった。
彼女は何の為にここに来たのだろう。
どうして、今の話をしたのだろう。
今の話に欠陥があるとしたら、それはおそらく語り部そのものなのだろう。
「じゃあ。最後に御堂。おまえの番だ」
真田がぼくを向いてそう言った。
「最後?」
「……おっといけね」
視線が真田に集中する。真田は気まずそうに笑って、それから
「七不思議の最後は欠番って決まっているんだ。……しかし、これは六つ目の話の後で演出するべきことなんだけどな」
「やってしまいましたね。先輩」
木曽川君が残念そうに、おかしそうにそう笑った。
「まあ。しょうがない。とにかく、御堂。最後に相応しい怪談を頼むぜ」
「まかせてよ」
ぼくはとりあえずそう言って、即席の怪談を、即席で語り始める。
即席ばかりのお話だけれど、タイトルだけは決まっている。
「ぼくが話すのは。トイレの花子さんという怪談だ」
皆の失笑が溢れた。
それはもういいよ、と言った具合に。
ええーと。これから話すのは、そう。トイレの花子さん。花子さんは以前この学校の生徒で屋上から自殺したとかそんな設定の話だよ。
そんなにがっかりしたような顔をするなよ。有名な怪談は、有名になれるだけの魅力を備えているものさ。
何度も聞いていると、おもしろくなくなる?
それはもっともかもしれないね。
でも花子さんには色々とレパートリーがあるじゃないか。親友に裏切られて自殺する花子さん、トイレに血の雨を降らせる花子さん、便座から手を出す花子さん、他の生徒と話す花子さん。色々、色々だ。
それでもね、今回の話の核となるのは、どの学校にも花子さんは実在しているということだ。
……もちろん本当だよ。
花子さんは自分のことを花子さんだと思っていないかもだけれど。
もちろん。花子さんは男の子にだっているよ。
その場合は太郎君っていうのかな。
花子さんはね。いつも、教室の隅っこでみんなを見ている。
そして、みんなのことを、花子さんは大好きだ。
同時に、花子さんはみんなのことを殺してやりたいとも考えている。
とうの花子さんは、みんなのことをどうでも良いとおもいたがっているみたいだけれどね。
花子さんは、ある意味で、学校の妖怪の中にいて、女王様のような存在だと言えるだろうね。
だって、学校で色々なことを噂しあう少年少女達が、実際に怪談を経験することなんて、有り得ないんだから。会談の中にしか妖怪は存在しないし、会談の中では絶対に出現しない。
まさに花子さんだ。
そしてその中で、唯一花子さんに対抗しうる怪談が、七不思議の七つ目なんだ。
七不思議の七つ目は、会談の中で生まれ、怪談の中にあり、そして、誰かに影響を与えることができる。
学校の怪談達は、七つ目の存在をもってして、初めてそれぞれの効力を発揮する。
その中で、唯一花子さんはアンタッチャブルな妖怪だ。
あまりに機知な怪異だから、誰もがその現実性を信じていない。彼女がいる限り、怪談の七つ目は、怪談の七つ目と言う名称しか与えられないんだ。
花子さんは、教室の隅にいて、屋上にいて、運動場にいて、体育館にいて、通学路にいて、美術室にいて、音楽室にいて、トイレにいて、まるで、そこにいないかのように、扱われてしまう。花子さん自身は、何もアクションできないから。
彼女は実に不遇だよ。
噂の中で、人の心の中で、自ら何も感じることもできず、しっかりと確かにいき続けている、裸の王様さ。
これから話すのは、何人もいる花子さんの、ほんの一人のお話だ。
誰でも良い。
この話を、彼女の存在を信じてやってくれ。
そうすれば、花子さんはいなくなるだろう。そして、噂の中を巣食う魑魅魍魎は、怪談の七つ目に率いられ、自らの存在を発揮できる。
そして、学校は花子さんの思ったとおりの姿になるだろう。