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第34話 魔王補正

 ブレイドの身体はうつ伏せに倒れたまま、動かない。だが、胸がわずかに上下しているのが見えた。

 サヤは息を呑み、彼のもとへ駆け寄る。


「ブレイド!」


 地に膝をつき、彼の身体をそっと仰向けにする。腹部は赤く染まっているが、意識ははっきりしていた。彼の目にはまだ力が宿っており、痛みに顔を歪めながらも、しっかりとサヤを見つめ返してくる。


「……無事――ではないが、生きてはいる」

「喋らないの! 今は傷を……」


 サヤの視線が横腹へと移る。裂けた衣服の隙間から、深い傷口があらわになり、そこから血が溢れ出している。幸い臓器までは達していないようだったが、このままでは出血で命にかかわるのは間違いなかった。

 唇を噛みしめながら、サヤは自分の無力を痛感する。

 ネガフィールドに守られたハンター達は、基本的に重傷を負わない前提で戦うため、本格的な治療道具を持ち歩く習慣がない。せいぜい非常用の簡易キットがある程度で、今のブレイドの傷を塞ぐにはあまりにも足りなかった。


「ブレイド、回復魔法は!? あなたの世界なら、そういうのもあるんでしょ!?」


 希望にすがるような声で問いかけるサヤに、ブレイドは苦い顔で首を振る。


「……あるにはある。だが、この傷は無理だ。魔王の攻撃による傷は……俺の回復魔法では癒せない」

「――はあっ!? 何それ!? 便利なのか不便なのか、本当に訳わからないわね、あなたの世界の魔法ってやつは!」


 苛立ちと焦りの混ざった声で叫びながらも、サヤは冷静だった。たまたま近くに落ちていたブレイドの外套を手早く拾い、傷口に巻きつけて止血を試みる。

 今、魔王に襲われたら終わりだ――そう思いながらも目を配ると、魔王は一歩も動かず、まるで余興を眺めるような目で二人を離れたところから見下ろしていた。


「とりあえず、応急処置はしたけど――」


 できる限りの止血を終えたサヤは顔を上げる。

 血は止まりきっていない。このままでは危険だった。すぐにでも医療施設に連れて行って適切な治療を行う必要がある。

 だが、そのためにはダンジョンから脱出しなければならない。しかし、魔王が黙って見逃すとは思えなかった。

 つまり――まず魔王を倒すしか、ブレイドを救う手段はない。


「――私が魔王を倒す。この命を懸けてでも絶対に!」


 強い決意と共に立ち上がろうとするサヤ。だが、その腕をブレイドの手が掴んだ。弱々しくも、確かな意志を込めた指先だった。


「……ダメだ」

「私じゃ無理だっていうの!? そんなの、やってみなくちゃ――」

「その力は、お前の魂を削る。長く戦えば……お前自身が壊れる」

「――――!」


 サヤは一瞬、言葉を失った。

 バトルテクターの仕組みも、リミッター解除の危険性も知らないはずのブレイドが、核心を突いていた。


「……でも、ほかに方法なんて――」

「今は一旦撤退だ。態勢を立て直す」

「……それができたら、誰も苦労しないわよ!」

「大丈夫だ。魔法で脱出する」


 その一言で、サヤの思考が切り替わる。

 そうだった――ミノタウロス戦の後、彼が使ったあの魔法、あれによって二人は一瞬にして地上に戻っていた。

 魔法のない世界に生きてきたサヤは、そのことがすっかり頭から抜けていた。


「――そういう手があるなら、もっと早く言いなさいよ」


 文句をこぼしつつも、サヤはそっとブレイドの手を握る。あのときと同じように、二人で脱出するために。

 ブレイドは一つうなずき、力ある言葉を紡いだ。


迷宮脱出(ラグ・ヴェルカ)


 眩い光が二人を包み込む。それはただの閃光ではなかった。世界の理そのものが書き換えられるかのような輝きだった。まるで万華鏡の中に放り込まれたかのように、視界が鮮やかに渦巻き、見たこともない不思議な色彩が乱舞する。

 そして、光が収束した時――二人はダンジョン最下層のボス部屋にいたままだった。


「ちょっと、ブレイド!? 地上に戻ってないわよ!?」

「…………!? なぜだ!?」


 いつもは飄々としているブレイドの顔に、明らかな動揺が浮かぶ。

 まさかの失敗。彼自身にとっても想定外の事態だった。

 サヤの胸に不安が広がる。

 その時だった――


「無駄だ」


 二人に手を出さず、傍観していた魔王が口を開いた。その声は低く、静かでありながら、逃れられぬ呪詛のように響いた。


「魔王補正により――魔王からは逃げられぬ」


 その一言が、広間の空気を一層凍りつかせる。


「ちょっと、何なのよ!? 魔王補正とか、勇者補正とか、さっきからどういう理屈なのよ!? 魔王からは逃げられないって、ブレイドは知らなかったの!?」

「……魔王から逃げたことなど、なかったからな」


 ブレイドがかつて魔王と戦ったときは、逃げる必要などなかったのだろう。彼がこの状況を予想できなかったのは、ある意味仕方のないことだった。


「……なるほどね。私達が脱出しようとしているのに、魔王が何もしなかったのは、逃げられないってわかってたからなのね」


 サヤの苦々しいつぶやきに、魔王は大仰に頷いた。


「その通りだ。愚かな人間が、存在しない希望にすがって足掻く姿は滑稽。その光景を眺め、最後に絶望へと沈む様を見るのが、魔王として何よりの愉悦というものだ」

「……魔王ってやつの性格が終わってることだけは、よくわかったわ」


 吐き捨てるように言いながらも、サヤの眼にはまだ闘志の光が宿っている。

 それに気づいた魔王が、歪んだ笑みを浮かべた。


「ふふ……いいぞ、その目。まだ希望を捨てていないその目が、絶望一色に染まるのが、今から愉しみだ」

「私の中の最低男ランキング、ゴンドウがぶっちぎりの一位だったけど、今、あんたがトップに躍り出たわ」

「気丈に振る舞っているその姿も悪くない。――だが、勇者ブレイドには、この状況を覆すだけの手は、もう残されておらぬぞ。無力な勇者を抱え、娘一人で何ができる?」


 魔王の言葉は明確な嘲りだった。彼にとってサヤなど取るに足らない存在。その態度が隠すことなく滲み出ている。


「くっ……舐められたものね。言っておくけど、私はまだ、あんたと戦ってすらいないんだからね。――私があんたを倒せば、それで済むってことでしょ」


 サヤはブレイドの手をそっと放し、静かに立ち上がった。


(……勇者でもない私には、ミノタウロスやフェンリルを一撃で倒すほどの圧倒的な力はない。でも、異世界の魔王に、この世界の科学が通じないって決まったわけじゃない。霊子武器なら魔王にもダメージを与えられるかもしれない。そう、魔王にとって未知の力なら――)


 その思考の先で、サヤはある手段に思い至る。


(――そうだ! 私にはまだアレがあったんだ。……試してみる価値は十分にあるわね)


 彼女は心を決め、静かに魔王へ視線を向けた。


「……魔王からは逃げられないって言ったわよね?」

「ああ、それは魔王補正による絶対の摂理だ。この魔王が眠っている時ならともかく、覚醒状態では、どんな者であれその定めからは逃れられぬ」

「それって、あんた達の世界の話よね? ――果たして、この世界の科学にまで通用するのかしら?」

「……どういう意味だ?」


 問い返すその口調に、焦りや警戒の色はない。力なき者の戯言――そう断じているのが明らかだった。

 だが、それでいい。サヤの狙い通りだった。

 彼女は落ち着いた動作で腰のポーチに手を伸ばし、小さな銀色の円筒形のアイテムを取り出す。


「……この世界の攻撃アイテムか? いいだろう。この魔王にどこまで通用するか、試してみるがいい」


 魔王の態度は、依然として余裕そのものだった。相手が勇者ならばまだ脅威にも感じるだろうが、魔王にとってサヤは勇者どころか、戦士でも魔導士でもない。魔王の知識の中にハンターがない以上、彼にとってサヤは村人Aと変わらない。力なき者に対して寛大なのは、魔王の特性の一つでもあった。

 だが、その油断こそが、サヤにとっては好機だった。

 彼女は手にしたアイテムのスイッチを入れると、倒れたブレイドに覆いかぶさり、身体を密着させる。


「……最後の抱擁か?」


 魔王が嘲笑を浮かべる。

 しかし、サヤは装置が輝き始めたのを確認し、魔王に向かってぺろりと舌を出し、からかうようにあかんべえをしてみせた。


「緊急脱出装置よ。――あんたの世界には、存在しないでしょうけどね」


 淡い光がサヤとブレイドを包み込む。

 魔力も神の力も全く感じないその現象に、魔王はなおも余裕の態度を崩さず、傍観を決め込んでいた。

 だが、次の瞬間――二人の姿は、何の痕跡も残さずその場から消え去った。


「ば、ばかなっ!? 魔王からは逃げられないはずだぞ!?」


 それは、この空間に現れて以来、初めて魔王が見せた明確な狼狽だった。


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