第32話 仇討ち
「……こんなの……嘘だよね……?」
サヤは、目の前で起きていることを、どうしても現実だと認めることができなかった。
彼はそこに立っていたはずだ。無傷で、勝利の余韻を背に静かに微笑んでいたはずだ。
なのに。
彼は――貫かれている。
サヤが咄嗟に駆け出そうとした、その瞬間。
黒い剣が、ずるりと鈍い音を立ててブレイドの胸から引き抜かれた。
血しぶきとともに、重い沈黙がその場を覆う。
闇の剣を引き抜いた影が、明確な輪郭を形作っていく。
広間を満たす淡い光に照らされながら、姿をあらわにした「それ」は――
身の丈は二メートルを超え、力強さとしなやかさを併せ持つ体躯は、ただ立っているだけで場の空気を一変させる。
髪は深紅。血のように濃く、見る者の感情をざわつかせるような赤だった。肩のあたりまで滑らかに流れ落ち、静かに揺れている。
その瞳は金。研ぎ澄まされた刃のように輝き、感情の一切を拒むような冷たさを湛えていた。ただ「見下ろす」ために存在するような目。覗き込んだ者の魂を焼き払うような、圧倒的な威圧感を宿している。
顔立ちは、整っていた。恐ろしく――それこそ神像のように。高い頬骨、通った鼻梁、薄く引かれた唇、そしてどこか人の温度を持たない肌。その灰のように白い肌は、温度のない美しさを際立たせていた。
その「美」は、人の目を引くためのものではない。崇拝されるためのものだ。
神にも、悪魔にも似ていた。だが、いずれでもない。明らかに、もっと深い闇から現れた「何か」。
そして、サヤの目の前で、ブレイドの胸を貫いた「剣」が変わる。
黒い刃だったはずのものが、ひそやかにうねり、人の腕の形へと戻っていった。
「……腕だったの……?」
震える声が口をつく。
その異形は何も答えない。
ただ、手にかけた男の亡骸を、ゴミでも投げ捨てるかのように片手で持ち上げ――無造作にぶんと放り捨てた。
「ブレイドッ!!」
悲鳴が、絶叫となって広間に響き渡った。
投げ出されて床に転がったブレイドの身体は、微動だにしない。
胸の傷口は、信じられないほど深く、見ているだけで、サヤの心が裂けそうだった。
「嘘……でしょ……? なんで……なんでよ……っ!」
膝が震える。歯が鳴る。
手がハンマーを握ったまま、かすかに痙攣する。
サヤは立っていることすら苦しかった。
ブレイドは、いつも平然としていた。
どれだけ常識外れな行動をしても、まったく動じず、むしろ堂々としていた。
自分が苦労して振り回されていると思っていたのに――気づけば、最後は彼が必ず何とかしてくれる。そんな「安心」と「信頼」が、いつの間にか心の中に根付いていた。
そんな彼が――
「目の前で……殺されて……!」
怒りが、悲しみが、悔しさが、胸の内側から噴き上がり、焼き尽くすように渦巻いていく。
涙が、感情の奔流とともに頬を伝う。
「許さない……!」
サヤは顔を上げた。
目の前に立つ「それ」――正体不明の異形を、まっすぐに睨みつける。
「あんたが……ブレイドを殺した!」
怒りが、ハンマーに霊子を集中させる。
光のハンマーから、収まりきらぬほどの光が溢れ出した。
「絶対に許さない……! 絶対に――!」
今この場で、何ができるかはわからない。
だけど、立ち尽くすだけなんてできなかった。
「ブレイドの仇は……この私が、討つ!」
瞳に、武器に、強い意志を映して叫び、サヤは地を蹴った。
ブレイドの仇。それだけが今の彼女の思考を支配していた。恐怖も理性も、すべて感情の波に飲まれている。
リミッター70パーセント解除状態のまま放たれるサヤの突進は、音を裂き、風を引く。
異形の目前へと至るまで、わずか一瞬。
霊子ハンマーが唸りを上げ、閃光のように振り下ろされる。
しかし――
異形の姿が消えた。否――ほんのわずかに、身をずらしただけだった。
「な――っ」
空を切ったハンマーが床を砕く。しかしサヤには、体勢を立て直す隙すら与えられなかった。
ドンッ!
腹部に炸裂する衝撃。瞬間、視界が跳ねる。
見えない速度で繰り出された蹴りが、サヤの腹を貫くように打ち据えていた。
「ぐ、あっ……!」
激しい衝撃に吹き飛ばされ、背中が硬い石床を叩く。
ネガフィールドがなければ即死だった。
サヤは咳き込みながらも、必死に立ち上がる。
(ただの蹴りで、これって……)
一筋の冷や汗が頬を伝った。
身体は無傷でも、心が削られる。
格が違う。あまりにも、次元が違う。
(こいつ……フェンリルなんかより、はるかに上!)
だが、それでも足を止めない。
立ち止まれば、心が折れる。だから、動く。動き続けるしかない。
「やあああああっ!!」
サヤは吠えるように叫び、再び踏み込んだ。
振り抜くハンマーに合わせて、フェイント、急停止、側転、回転――連撃は洗練され、狂いのない機械のような精度をもって敵を襲う。
だが、「それ」はまるで揺るがない。
片手だけを動かし、わずかな手のひら、指の角度、肘の動きだけで、サヤのすべての攻撃を受け流していく。まるで風をいなすような無駄のなさ。
その金色の瞳には、焦りも怒りも、好奇心すらない。あるのは、ただ「無関心」。
(勝てない……このままじゃ……!)
思考が絶望の声を上げそうになる。
そのとき、「それ」の右腕が、黒く、鋭く変貌する。
闇の剣――ブレイドの命を奪った刃が、今、サヤに向かって突き出された。
「くっ……!」
刹那の反応で、身を沈める。髪をかすめた刃が、ネガフィールドに火花を散らす。
立ち止まれば、終わる。
だが、このままでは、届かない。
(――だったら、賭けるしかない)
サヤは大きく跳び退いた。そして、左手を胸元に添える。ホルダーからスマホを引き抜き、指先が素早く画面をなぞる。警告文が次々に表示されていく。
――リミッター制限の100パーセント解除。
それは安全性ゼロの禁じられたモード。
霊子の出力は限界を超え、装着者の生命活動に深刻な影響を及ぼす可能性さえある。
だが、今ここで使わなければ、絶対に届かない。そして、今ここで使わなければ、死ぬまで――いや、死んでも後悔する。
「だったら、私の全部を使って――ブレイドの仇を、討つ!!」
指が迷いなく画面をタップし、胸元のホルダーにスマホを戻した。




