第9話:封じられた“死者の手紙
鳴華宮の風は冷たい。
昼なお暗い王宮の裏庭、その奥に、使われなくなった離れがひとつある。縁起の悪さゆえに人が近づかず、老木がうめき声を上げるように軋むたび、誰もが足を止める。
「ここが……“緋紙の間”」
思わず、ひとつ息を呑んだ。木々の陰に隠れていた屋敷の扉が、わたしの気配に反応するように、わずかに軋んだ。
「この部屋で、死者が“手紙”を残すって話……本当だったのかしら」
うそ寒い廊下に足を踏み入れると、わずかに残る香の気配に、過去の気配が蘇る。
──それは「死者が書いた手紙」と呼ばれていた。
呪詛の類ではない。だが、死んだはずの妃が、その死後に“自筆の手紙”を侍女宛てに送り届けた。それが五年前。
以来、この部屋は封鎖され、誰も立ち入らなかった。
死者が手紙を書くという話が、真実だとすれば。
手紙が出されたその経路──“投函”の仕組みを調べれば、何が偽りだったかが見えてくる。
「診療院にいた時、手紙の痕跡を洗ったの。筆跡は本人のもの。墨も五年前に使われていたもの……でも、ひとつだけ矛盾があったのよね」
──紙。
それだけが、五年“新しい”。
ならば、その手紙は「本人の死後、筆跡を真似て書かれた偽書」か。あるいは──「本当に死ぬ前に書いたものを、五年間、投函せずにいた」可能性。
「……どちらも、気持ちの悪い話だわ」
廃屋の隅に、わずかに残った書架。くすんだ布をめくると、その奥から、湿気を吸った束ね紙が現れた。
「やっぱり……“出してない手紙”がある」
宛名は消されていたが、筆致はたしかに彼女のもの。おそらく──誰かに出す予定で、踏みとどまった。つまり、彼女は生きていたうちに手紙を複数、残していたということ。
だが、それがなぜ五年後、突然一通だけ出されたのか。
そしてもうひとつの謎──死者の手紙の内容が、「宮中のある密事」を暗示していたということ。
「これ、出された時期が絶妙なのよね」
──王位継承の前夜。
つまり、王の嫡子が確定する直前。
それは「ある人物が、妃の死をも利用して、政を動かそうとした」ことを意味している。
死者の筆跡が本物ならば、最も重要なのは、それを誰が保管し、誰が出したか。
「紙が“新しい”のなら……筆跡だけを写して、別の誰かが代筆した可能性も高いわ」
わたしは手紙の裏側をそっと撫でた。紙の繊維にはわずかに、蒸し焼きのような臭い。
「……焼印の跡? これは……」
──“封蝋”だ。
紙の綴じ目に、過熱された蝋がついていた痕跡。誰かが意図的にこの手紙を、一度密封し、“開封された”ように偽装した。
つまり、この手紙は──一度も本人の手を離れていなかった可能性。
すなわち、この“死者の手紙”は、彼女自身の生前の手によって封じられ、その後“誰にも出されずにいた”。
では、五年後になって突然出されたのは──誰かが“死者の意思”を都合よく利用したということ。
わたしは一枚の紙を引き抜いた。
──その裏に、油染みがあった。
わたしは指をかざし、紙を透かす。
その染みは、偶然ついたものではない。蝋と合わせて押されたもの。
つまり、そこには──“拇印”があった。
「……これは、“誰が投函したか”を示す唯一の証拠よね」
拇印は、ふくらみのある肉の厚みで押されたもの。しかも、指紋は潰れていない。
その形状と大きさ、角度からして──成人女性。
だとすれば、妃の侍女たちが関与していた可能性は? いいえ、彼女たちは全員、投函の数年前に辞されている。
ならば。
この紙に拇印を押したのは、唯一──**彼女の妹君。現在、玉座の側近として仕える“璃春妃”**しかいない。
「……“姉の死を利用した者”は、妹だったということ?」
何のために?
──王位継承のため。
姉の死を、政敵を貶める材料として。彼女は、姉の筆跡を写し、手紙を封じておいた。
そして機が熟したその時、“死者の声”として、送りつけた。
それが、継承争いに一石を投じ、結果、彼女の支持派が優勢に。
「でも……璃春妃がそのような人だとは思えない」
矛盾がある。
彼女は誠実だ。むしろ、姉の死を悼み、静かに暮らしていた。
では、彼女の指印がなぜ?
「……もしかして、“姉妹の共謀”?」
妃は死の前に、妹に手紙を託した。
「必要なときまで、封じておいて」と。
政治の不正があれば、それを暴くために。
それは“呪い”ではない。“証言”でもない。“予言”だった。
姉が仕掛けた、死してなお働く告発の罠。
そして妹は、それを守った。
──五年越しに。
「……この手紙は、どこにも提出できないわね」
内容は、王政の裏を暴くもの。証拠には足りないが、口火にはなる。
けれどそれを出せば、今の継承者の正統性に疑義が生じ、璃春妃自身も疑われる。
──つまり、真相は真相のまま、“封じておかねばならない”。
静かに紙を巻いた。
わたしはこの“死者の手紙”を、ふたたび布に包み、書架の奥に戻した。
これは、わたしが引き受けたこと。
彼女の想いも、妹の正しさも、きっと誰にも理解されない。
──それでも、陰で守る者がいなければならないのだ。