第6話:診療院に訪れた客人と、裂かれた図譜
風が冷たくなり始めた昼下がり。辺境診療院の薬棚を整理していたリィは、外の騒がしさに眉をひそめた。
戸口から飛び込んできたのは、泥にまみれた少年だった。おおよそ十五、六と見えるが、衣服は草木に裂かれ、額には血が滲んでいる。だが、表情には奇妙なほどの落ち着きがあった。
「どこから来たの?」
応接間に通したあと、彼の脈をとりつつ、リィは問いかける。
「森を越えて、谷の向こう。……あそこには診療院がないって聞いたから」
少年は答えた。名をツァイというらしい。言葉は拙いが、発音から察するに、異国の出である可能性が高い。
「なぜここへ?」
「探し物があって。お医者さまに、訊きたいことがある」
「わたしが医者よ」
そう言うと、少年は僅かに目を丸くした。
「……女の人なのか。あの図のこと、知ってる?」
ツァイが差し出したのは、破れた紙片だった。
それは、先日行方不明になった古図譜の一部――そう、医学舎から失われた解剖図の断片だった。
「これを、どこで……?」
「父が……遺した。死ぬ前に、燃やされたものの中から、ぼくが拾った。元は、一冊の巻物だったと思う。なぜか、いくつかだけ残っていた」
リィの背筋が、粟立つ。
あの巻物は、医師である父が、禁書として封印していた解剖図譜――通称《風解の図》。
人体の《死》と《腫れ》の関係を、呪術的な図像を用いて解析したものだ。あまりに異端であったため、学術の場では破棄されたと聞いていた。
「どうしてこれが、あなたの父のもとに?」
問いを返すと、少年は小さく唇を噛み、「父は、昔、都で働いていたらしい」と漏らした。
「医師だったの?」
「違う。解体師……って、言ってた。人を……壊す方だ」
リィは、ひやりと息をのんだ。
かつて、都で隠密に動いていた《破医》たち――病の治療ではなく、病の構造を知るために人体を裂いた裏の技術者たち。
その存在を、リィは父の残した記録でしか知らなかった。
少年の父がその一人だったとしたら、《風解の図》がなぜ彼の手元にあったのかは説明がつく。
だが、それは同時に、都で何かが始まっている予兆でもあった。
診療院の奥に保管されていた医学舎の記録を、リィは開いた。
確かに、あの解剖図譜の欠損は、十年ほど前、ある『解体事故』の直後に起きている。
患者は女官だった。身元は不明。だが、不審な腫れと呼吸困難で死亡し、体内に《菫花》という毒草の種子が発見されたという。
その症例の記録が、なぜか紙片ごと切り取られていた。
「ツァイくん、ひとつ訊くわ。あなたの母親は?」
少年の顔色が変わった。
「……いない。俺が五のとき、父に殺された」
リィは、あえて顔色を変えずに言った。
「それは、きっと違う。おそらく、あなたの母はあの時の――解体された女官よ」
「なっ……」
「そして、お父様は、それを悔いて《図》を封じた。あなたに手渡さなかったのは、巻き込まぬため」
そのとき、玄関の戸が勢いよく叩かれた。
都の役人が数人、土を蹴立てて乗り込んできた。
「辺境の診療院に、盗まれた禁図が隠されていると報告がありましてな!」
兵士の手が、リィの肩に伸びた。
しかしリィは、冷静に言い返す。
「それが“禁図”であるなら、あなた方こそ――本来、それを処分しているべきだったはずでしょう?」
役人が動きを止めた。
「そして、都の《薬政院》が保管していた記録には、《風解の図》を葬ったと記されている。……この紙片がここにあるということは、あなたたちの内に、図を手放していない者がいる」
その場の空気が、氷のように張り詰める。
「調査を申し込むわ。あなた方の本庁へ。――診療院長、リィの名で」
役人たちは動揺を隠しきれず、踵を返して去った。
残された少年は、震えながら言った。
「どうして……おれを庇ってくれるんだ」
リィは静かに答える。
「それが、医者の仕事だからよ。生きた《因果》を、切らずに繋ぐのも、医術の一つ」
午後の光が、風に揺れる薬草棚を照らしていた。