表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/24

第6話:診療院に訪れた客人と、裂かれた図譜

 風が冷たくなり始めた昼下がり。辺境診療院の薬棚を整理していたリィは、外の騒がしさに眉をひそめた。


 戸口から飛び込んできたのは、泥にまみれた少年だった。おおよそ十五、六と見えるが、衣服は草木に裂かれ、額には血が滲んでいる。だが、表情には奇妙なほどの落ち着きがあった。


「どこから来たの?」


 応接間に通したあと、彼の脈をとりつつ、リィは問いかける。


「森を越えて、谷の向こう。……あそこには診療院がないって聞いたから」


 少年は答えた。名をツァイというらしい。言葉は拙いが、発音から察するに、異国の出である可能性が高い。


「なぜここへ?」


「探し物があって。お医者さまに、訊きたいことがある」


「わたしが医者よ」


 そう言うと、少年は僅かに目を丸くした。


「……女の人なのか。あの図のこと、知ってる?」


 ツァイが差し出したのは、破れた紙片だった。


 それは、先日行方不明になった古図譜の一部――そう、医学舎から失われた解剖図の断片だった。


「これを、どこで……?」


「父が……遺した。死ぬ前に、燃やされたものの中から、ぼくが拾った。元は、一冊の巻物だったと思う。なぜか、いくつかだけ残っていた」


 リィの背筋が、粟立つ。


 あの巻物は、医師である父が、禁書として封印していた解剖図譜――通称《風解の図》。


 人体の《死》と《腫れ》の関係を、呪術的な図像を用いて解析したものだ。あまりに異端であったため、学術の場では破棄されたと聞いていた。


「どうしてこれが、あなたの父のもとに?」


 問いを返すと、少年は小さく唇を噛み、「父は、昔、都で働いていたらしい」と漏らした。


「医師だったの?」


「違う。解体師……って、言ってた。人を……壊す方だ」


 リィは、ひやりと息をのんだ。


 かつて、都で隠密に動いていた《破医》たち――病の治療ではなく、病の構造を知るために人体を裂いた裏の技術者たち。


 その存在を、リィは父の残した記録でしか知らなかった。


 少年の父がその一人だったとしたら、《風解の図》がなぜ彼の手元にあったのかは説明がつく。


 だが、それは同時に、都で何かが始まっている予兆でもあった。


 診療院の奥に保管されていた医学舎の記録を、リィは開いた。


 確かに、あの解剖図譜の欠損は、十年ほど前、ある『解体事故』の直後に起きている。


 患者は女官だった。身元は不明。だが、不審な腫れと呼吸困難で死亡し、体内に《菫花きんか》という毒草の種子が発見されたという。


 その症例の記録が、なぜか紙片ごと切り取られていた。


「ツァイくん、ひとつ訊くわ。あなたの母親は?」


 少年の顔色が変わった。


「……いない。俺が五のとき、父に殺された」


 リィは、あえて顔色を変えずに言った。


「それは、きっと違う。おそらく、あなたの母はあの時の――解体された女官よ」


「なっ……」


「そして、お父様は、それを悔いて《図》を封じた。あなたに手渡さなかったのは、巻き込まぬため」


 そのとき、玄関の戸が勢いよく叩かれた。


 都の役人が数人、土を蹴立てて乗り込んできた。


「辺境の診療院に、盗まれた禁図が隠されていると報告がありましてな!」


 兵士の手が、リィの肩に伸びた。


 しかしリィは、冷静に言い返す。


「それが“禁図”であるなら、あなた方こそ――本来、それを処分しているべきだったはずでしょう?」


 役人が動きを止めた。


「そして、都の《薬政院》が保管していた記録には、《風解の図》を葬ったと記されている。……この紙片がここにあるということは、あなたたちの内に、図を手放していない者がいる」


 その場の空気が、氷のように張り詰める。


「調査を申し込むわ。あなた方の本庁へ。――診療院長、リィの名で」


 役人たちは動揺を隠しきれず、踵を返して去った。


 残された少年は、震えながら言った。


「どうして……おれを庇ってくれるんだ」


 リィは静かに答える。


「それが、医者の仕事だからよ。生きた《因果》を、切らずに繋ぐのも、医術の一つ」


 午後の光が、風に揺れる薬草棚を照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ